芋男爵が隠したモノ

海軍グルメの一つ、コロッケの話になるかも知れません(笑)
「海軍コロッケ」は大湊要港部で誕生した(ということにしておきましょう)のですが、そこにはグローバルな恋物語が有ったりして。

まず、クソみたいな文章をお読みください(笑)

電脳大本営的にコロッケの話って言ったら、海軍レシピでも調べとけば良さそうでありますが、それだけじゃあ味わいってモノが無い。

いま、商売で作ってるコロッケはどうなってるのかなあ?なんて探していると、とんでもない文章にぶつかったのであります。

あるコロッケメーカーさんのサイトなんですが、この会社のコロッケの味がどうとかじゃなくて、この文章であります。

お断りしておきますが、電脳大本営では一字一句触ってませんよ。改行も句読点の付け足しも削除もしてません。
引用したまんま、メーカーさんのホームページに掲載されてます。

たったこれだけの文章で3回も「クロケット→コロッケ説」を、それも「そのルーツと言われています」という同じフレーズで紹介してるんです。

明治30年代の軍艦内部の食事風景

明治30年代の軍艦内部の食事風景

たぶん、ホームページの記事用にwebライターとかに発注したんでしょうね。で、そいつがWikiか何かで「コロッケ」を検索して、その内容をリライトしたんでしょう。

webライターだけが悪いんじゃなくて、添削もしないでホームページに掲載する奴もかなり悪い。まあ、読んでください。サイトのうちの「コロッケの起源」という文章です。

ルーツは、フランス料理の前菜の一つである「クロケット」であるといわれています。
じゃがいもは安土桃山時代にオランダ人により長崎に伝えられたといわれています。
ただ日本人の好みは、甘みのあるさつまいもに人気があり、あまり普及はしなかったようです。

明治維新になり、様々な西洋料理の情報が入ってくるようになりました。

フランス料理の主に前菜として登場するクロケットが、そのルーツといわれています。 (ただヨーロッパ各地には、コロッケといえるものがたくさんあり、スペインのクロケタスやポルトガルの干しだらのコロッケ、日本並みに庶民の味としてコロッケが普及しているオランダ、ライスコロッケが有名なイタリアなど、そのどれもが起源にはなっているのでしょう)

一説として、フランス料理のクロケット(ホワイトソースがベース、いわゆるクリームコロッケ)を、日本人の好み合うじゃがいものコロッケに作り変えたのがそのルーツ、とも言われています。

見出しで「クソみたいな文章」って書きましたけど、ホントでしょ(笑)
あまりに気の毒なんで、このコロッケメーカーさんは公表しません。

さて、海軍グルメとしてコロッケが注目されるようになったのは、青森県むつ市が町おこしとして
「大湊がコロッケのふるさとじゃあ」
とか言い出してからのようです。

クソ引用した文章のごとく、大湊要港部で誰かさんが「クロケット(ベシャメルソースの、いわゆるクリームコロッケ)」の代わりに「ポテトコロッケ」を考え出したのかどうかは判りません。

判りませんが、むつ市が大湊の特産として「海軍コロッケ」を推してくれるのは、電脳大本営としては大歓迎です。

なにせ、大湊は鎮守府こそなかったけれど、ロシア→ソ連と対峙し続けた北の基地であります。
その割にはあまり話題に上がらない。
おそらく、平時の任務が北洋の「漁業権益保護」とか、あまりカッコ良い話にならぬモノであった(実際には生物資源保護の要素の方が大きく、今になってみれば世界的にも誇るべき活動でした)からでしょう。
電脳大本営的に言わせてもらえば、これこそ海軍の基本任務なんだけど。

だから、たとえキッカケがコロッケであっても「大湊の海軍」が注目をあつめるのは、とても良い事なのであります。

で、私としてはコロッケが大湊発である、と何とかこじつけてあげたいのですが。

舞鶴肉ジャガ

舞鶴肉ジャガ

肉ジャガみたいに「本家争い」することなく、すんなりと「大湊海軍コロッケ」として認知して差し上げたいのですが、そんなに美味いことは行かないみたいです(´;ω;`)。
その代わり、男爵が恋をした話になってしまうわけでありますね。

大湊海軍コロッケの「条件」

「下北地域グルメ 大湊海軍コロッケ」というサイトでは、「海軍コロッケの定義」を定めています。これによれば海軍コロッケは

一.揚げ油にヘット(牛脂)を使用する
一.新鮮な下北の食材を具材にする

というたった2つの条件を満たせば良いらしいのです。
揚げ油は牛脂さえ配合してあれば何でも良いらしく、市内の海軍コロッケ提供店には30%から100%まで、いろいろあるんだそう。

具材の方も、旧海軍によるレシピ集である「海軍割烹術参考書」と「海軍四等主計兵厨業教科書」に「フィッシュ」「ビーフ」「エッグ」「ポテート」「ミンチ」と5種類ものコロッケレシピが掲載されているんですから、いろいろあるんです。

川田龍吉男爵

川田龍吉男爵

サイトの「食べられるお店」によれば、チーズ&ニンニク入り、東通村産黒毛和牛100%使用、ホタテ入り、練乳入り、鶏肉使用、カレー味、いか&ホタテなどなど。

ただ、コロッケの肝心かなめのベースは「男爵イモ」に限られていまして、同じジャガイモでも「メークイン」とか「インカのめざめ」とか「インカのひとみ」なんてぇのは使わないようであります(これは特に「下北地域グルメ 大湊海軍コロッケ」さんが定義しているワケではないようですが)。

この男爵イモを日本で栽培し始めたのが、川田龍吉という男爵でありまして、この人は横浜船渠会社(三菱重工横浜造船所)・函館船渠会社(函館どっく)の社長を歴任しています。

工業にも農業にもかかわりのある人ですが、「フネ」を通じて海軍ともかかわりがあるって事です。ちょっと苦しいか(笑)

ともかく、この男爵は安政3(1856)年のお生まれ(生まれた時に男爵だったわけではありません)。
土佐藩士の川田小一郎さんと妻・美津さんのご長男として、現在の高知市旭元町でのご誕生です。
お父ちゃんの小一郎さんは後に日本銀行総裁になり、男爵の爵位を授けられます。明治維新でうまい事立ち回ったんだな(岩崎弥太郎・弥之助を助けて三菱繁栄の基礎を築く、ってのがホントのところ)。

川田龍吉さんはこういう恵まれた家庭環境でしたので、明治7年に慶応義塾に入塾するのですが、わずか5ケ月で自主退学。

明治10年、21歳のときイギリス留学を思いつき、グラスゴー近郊のレンフリューの造船所で、船舶機械技術を学ぶことになりました。
さらに明治11年から翌春まで、グラスゴー大学技芸科でも学んでいます。
グラスゴー大学って言ったら、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)が留学した大学なんだけど、船舶工学もちゃんとしてたんだな(笑)

龍吉さんは28歳のときに帰国して、三菱製鉄所(横浜ドックの前身)の機械士になりました。その後機関士に昇進。
日本郵船の製図掛、33歳で機関監督助役を経て横浜ドック株式会社の専務取締役となりました。

男爵芋

男爵芋

龍吉さんの父ちゃんは明治22年に第3代の日銀総裁となり、明治28年には男爵の位を授かります。
しかしその翌年に亡くなってしまい、龍吉クンが爵位を世襲したのでありました。

ホンマにイギリスで勉強してたのか?

男爵サマとなった龍吉さんは明治30年、横浜船渠(ドック)の初代社長に就任するのでありますが、翌年には軽井沢に別荘を建設し、33年には約200ha(ヘクタール=605000坪くらい)もの農場経営に乗り出します。
イギリスから2頭の種馬を輸入し、高原野菜の栽培も計画しています。
軽井沢で男爵イモを作ったか?というとそうでは無かったようで。

このころ、北海道の函館船渠(函館ドックの前身)という会社が、日露戦争後に業績不振に陥っていました。
川田龍吉男爵はこの函館船渠の経営立て直しをすることになり、北海道に渡ります。
男爵、経営の才を見せつけて、明治40年の函館の大火や暴風雨、不況などにもかかわらず、見事経営を軌道に乗せました。

米軍偵察写真の大湊港

米軍偵察写真の大湊港

一説には「株主探しや技師や職工の採用に強力な人脈を用い」などと揶揄気味に言われますが、少なくとも造船部門の経営手腕はシッカリしたモノであった事、間違いありません。

ただ、男爵は着任した年の秋には函館近郊の七飯町で農場約9haを購入し、経営に着手しています。
男爵、なんで農場経営にそんなにこだわるんでしょうか?

川田龍吉さんはもうとっくの昔にお亡くなりになっていますから、直接聞いてみることは出来ません。あちこちに記述されるところから推察しますに、次のような事情があるようなんです。

実は川田龍吉クン、イギリスに留学した際に、確かに造船学を勉強はしているのですが、ちょっと勉学とは程遠いこともしてたようで。
それが恋のお勉強で、どうやらイギリス娘に手を出したようなんです(一発やったかどうか?までは不明ですが)。

どういった経緯があったかわからないのですが、川田さんはジェニーさんと言うイギリス人女性と知り合ったようなんですね。
勉強のかたわら、川田さんは畑を眺める、という信じられんようなデートにジェニー嬢を誘い、一緒にじゃがいもを食って楽しんだのでした。

米軍写真大艇3機

米軍写真に大艇が3機写ってます

日本人なら、イギリスの田園風景眺めるのも良いかもしれんが、現地の田舎娘(たぶん)捕まえて、畑見てイモ喰ってたんじゃあデートになるまい、と思うんですが。
川田さんは、よほど魅力的なボンだったのでしょう。

こんなデートでも二人の交際は順調に進んで、結婚も約束しちゃったんですね。しかし、帰国した川田さんを待っていたのは父親の大反対。

で川田君はあっさりと(じゃないかも知れんけど)ジェニーちゃんとの結婚を諦めて、同郷の楠瀬春猪ちゃんと結婚しちゃうんであります。

やがて縁あって、函館船渠の立て直しのために北海道にやってきた川田男爵は、「風景がイギリスにそっくりじゃん」とか思い、ジェニーのことを思い出しちゃったんです。

ジェニーの味?と一緒に、イモの味も思い出しちゃうのがまあ、川田男爵の偉い所で、イギリスで喰ったイモを函館でも育ててみたいと思い立ちます。
様々な種いもを輸入して栽培をするんですから、コレはもう偉人の領域と言っても良いのかも知れません。

ジャガイモにもいろいろありまして

ジェニーの思い出のために芋を育てようと考えた川田男爵。

ただジャガイモは、慶長3(1598)年にオランダ人が長崎に持ち込んだのが最初と言われるように、入っていたことは入っていたのですが、気候が適さないためか、「観葉植物」に近い扱いでした。

そこで川田男爵はカネに糸目をつけず、イングランドのサットン商会などにジャガイモの種子を注文いたします。明治40年のことでありました。
明治41年の早春、七飯の男爵農場に到着したジャガイモの種。
その中に北アメリカ産の「フラワー・ボール」とか「アイリッシュ・カブラー」と言われる品種のジャガイモがあったのでございます。

大湊警備府司令部地下作戦室

大湊警備府司令部の地下作戦室入口

このジャガイモの品種は、アメリカに住んでいらっしゃったアイルランド系の靴の修理職人(アイリッシュ・カブラー)さんが、たまたま発見したモノでした。
明治9(1876)年ころ、早生種で皮色が紅の「アーリー・ローズ」と言う品種を栽培していたアイリッシュ・カブラーさんが、畑の中に皮色の白い枝変わりを見つけたんだそうです。

発見場所は、マサチューセッツ州マーブルヘッドと、ニュージャージー州ランバートンの2説あるそうで、どこまで信じて良い物やら?ではあります。

この品種は20世紀初頭のイングランドでは「ユーリカ(Eureka)」なんて名前でも呼ばれていたそうであります。
「ユーリカ」なら、かのアルキメデスさんが風呂からスッポンポンで飛び出されたときに、お叫びになられたお言葉の英語読みでしょう(たぶん…)。
ギリシャ語で「見つけた・分かった・解けた」という意味だそうであります。

アメリカ某州在住の靴の修理職人さんも、紅の薯のなかに白い芋を見つけた時に「ユーリカ!」と言ったんでしょうか?

たぶん違うと思います。川田男爵が輸入したいくつもの品種の中で、ユーリカだかアイリッシュ・カブラーだか判らん此奴が特に注目を集めた形跡はありません。

形跡がない、どころか男爵ったら、農場で働いていた女性(成田惣次郎さんの母ちゃん)にこの芋を分けてあげたんですね。
で、息子の成田惣次郎さんが自分の畑でこの芋を作ってみると、作柄が良くて、喰っても美味い!ってんで七飯近郊にしだいに広まっていったんです。

敗戦直後の大警地下電話交換所

敗戦直後の大警地下電話交換所

 

川田男爵が別荘にお見えになる、って時は、村人たちは沿道に座って迎えたそうです。まるでお殿様のお国帰りじゃん。

お殿様と違ってお金のある男爵は、村人に小銭を与えて出迎えを労ったという事(上磯町歴史散歩)ですから、農場で働いてた老女に
「息子の畑で育てたらどうか」
とか言って種芋をあげる、なんてことは十分にありそうです。
*成田惣次郎さんはジャガイモ栽培で男爵の同志であった、という説もあり、その方が真実に近いかも知れませんが、それはあまり面白くありません(笑)*

爵位が品種名に

成田惣次郎さんが育てている「ユーリカ」か「アイリッシュ・カブラー」か、どっちかの名前(同じものですが)の芋はいつも収量が多かったので、ご近所さんや親戚の評判を呼びました。
惣次郎さんも喜んで近在の農民に種芋を分けてあげましたので、だんだん作付け面積が増えていきました。

「男爵さん」と呼んでカネを貰っていた川田農場から頂いたこの芋は誰言うともなく「男爵芋」と言われるようになりました。

正式に「男爵」と芋名が決ったのは、「道庁奨励品種」に選ばれた昭和3(1928)年のことですが、そのずっと前から「男爵」と言われていたんです。

もちろん、海峡を越えて向こう側の青森は大湊で、海軍の誰かが
「男爵をふかして潰してミンチ混ぜてコロモ付けて揚げたら美味いじゃん」(または「ホワイトソース作らんでも、クロケットみたいなのが出来るやん」)
と思いついたのも、正式に芋名が決まる前であったことでしょう。

川田男爵の蒸気自動車

川田男爵の蒸気自動車

実際には川田男爵が輸入する前に、「ユーリカ」という品種のジャガイモは日本に入っていたようです。
この「ユーリカ」種の芋は明治39年の「北海道物産共進会」に出品されていたのですが、道内には広まらなかったみたいです。

川田男爵自身も異名同種とはお気づきにならず、昭和9年に「ユーリカ」「ラセット・バーバンク」「シックス・ウィーク」「グリーン・マウンテン」などと言った芋をお植えになった記録が残っているそうです。

川田男爵は新しいモン好きだったらしく、明治34年にアメリカの「ロコモービル社」の蒸気自動車を購入して、日本人として初めてのオーナードライバーになったと言います。

自動車だけじゃなくて、最新式のトラクターなどの農機具を多数輸入、牛舎やサイロも建設するなど、農業の機械化を試みています。

北海道がよほどお気に入りだったように思えるのですが、ご本人が「北海道永住」を決意なさるのは戦後の昭和22年。
奥さんと子供さんを亡くしてからのことだったようです。翌年にはトラピスト修道院で洗礼を受け、洗礼名ヨゼフとして昭和26年に生涯を終えられたのでした。

男爵の洗礼の様子

男爵の洗礼の様子

 

男爵は今、トラピスト修道院に眠っておられます。

と、コレで終わっては電脳大本営らしくないでしょ(笑)

川田龍吉男爵が亡くなり、それまで誰にも触らせなかった金庫が残りました。
金持ち男爵の遺した金庫ですから、たぶん皆さんご期待だったと思うのですが、金庫に大切に保管されていたのは一束の金髪でありました。

川田龍吉宛てのラブレター

川田龍吉宛てのラブレター

金髪と一緒に、90通にも及ぶラブレターも残されていたのです。もちろん大英帝国の女性から東洋の島帝国の男爵宛てです。

やるやん、川田男爵。
今日の夜は恋の味がする?コロッケでも作ってもらうとするかな。

 

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