帝国海軍スポーツ物語

予科練カッター訓練

ラグビーワールドカップ日本大会では、南アフリカが三回目の優勝を飾り、我がブレイブ・チェリー・ブロッサムズはティア1(歴史的強豪国)2ヶ国を破るという、史上初の快挙を成し遂げました。

電脳大本営は、黙っていたんだぞ

さてさて、こんなふうにラグビー・ファンが増えてくださったのも、糞メディアがこぞって「ラグビー凄い!」「ラグビー感動的」「ラグビー紳士的」「ラグビー友好的」とかと報道してくれたおかげでしょう。

「たまには糞が役に立つこともあるなあ」と思ってる所でありますが、実はラグビーは糞メディアにとって、それほど素晴らしいスポーツではありません。

3/4世紀ほど前のことでありますが、糞メディアどもが毛嫌いしている、ある軍事組織がラグビーを偏愛していたのであります。

海軍機関学校

海軍機関学校

私は薄汚い人間でありますので、こういったことが、ワールドカップ前に糞メディアに知られると、ラグビー人気が盛り上がらないんじゃねえか?と心配いたしまして、今日まで記事にするのを待っていたのであります。

ココまでラグビーが盛り上がれば、もう大丈夫でありましょう。

ラグビーだけじゃなくて、ほかのスポーツの軍隊での様子もついでに紹介申し上げましょう。

戦時中、スポーツは本当に排斥されたのか

私どものガキンチョであったころ、
「戦争中は甲子園(あの頃は中学野球か)も大学野球もプロ野球も中止を命令された」
「選手も軍隊に行かされてみんな戦死した」
みたいな与太話が歴史の授業で横行しておりました。

出来ることなら、半世紀ほど過去にタイムトラベルして
「命令が出されたことを証明する史料を見せてくれ」
とか
「そもそも、大学生は徴兵猶予だったけど、それが無くなっただけ。当時は大学生になるためには学力・経済力が今以上に必要だったけど、大学生のみ『兵隊に行かなくて良い』というのは差別ではないのか?」
などと聞いてみたいモノであります。

タイムトラベルは無理ですが、同じような与太は現在でもパヨが堂々と主張しているようであります。たとえば…

2008 年に公開された映画「ラストゲーム・最後の早慶戦(神山征二郎監督)」

映画ラストゲームポスター

映画「ラストゲーム」ポスター

昭和18年に開催された「出陣学徒壮行早慶戦」が開催されるまでを中心とした名作とされてますね。
藤田まことの遺作でもあるんで、まあ名作のままで良いのですが、軍は、一方的にスポーツを弾圧する存在としか描かれていません。

「英霊たちの応援歌」って映画もありました。コッチは調べてみたら昭和54(1979)年公開でした。

「ラストゲーム」とは違って最後の早慶戦を戦った学生たちの、その後の軍隊生活が中心になってましたね。

訓練中にキャッチボールとかしてましたけど。

いずれも
「選手たち、もっと野球がしたかっただろうに。戦争が悪い」
という論理の倒錯したお涙ちょうだい映画でありました。

論理がひっくり返りまくっておりますので、一つだけ申し上げておきましょう。
野球ができなくなったのは、戦争のせいではなくて、
「戦争に負けそうになったから」
でありますよ。歴史を見れば明らかです。

映画英霊たちの応援歌ポスター

映画「英霊たちの応援歌」ポスター

 

さらに、その戦争をするための組織「軍隊」では、敗戦直前までスポーツをやっておったのであります。

「赤熱ノ日ハ照リ照リテ空ニ在リ。下界ノ全テハ暑サニ喘ギ、道ハ溶ケ、草木ハ葉ヲ垂レ、気息奄々タリ。今ヤ酷熱ノ季ハ至レリ」

上記は2014年3月20日付の「京都大學文學部研究紀要」所収の「讃苦会五十周年記念事業実行委員会『橿原・昭和二十年:海軍経理学校予科生徒の記録』」からひきました。
以下、本記事は当該「紀要」から大きなヒントを頂いています。

昭和20年の酷暑のころ、と言っても経理学校予科生徒は敗戦などは微塵も考えていなかったようですぞ。この後の文章は

「・・・ 午前ノ自選作業ハ、一班二班対抗ノ野球ヲヤル。一班振ハズ。」

自習時間に野球やってるやん。

海軍兵学校では

昭和20(1945)年3月、第5番目の「兵学校」として「海軍兵学校針尾分校」が作られました。

こんな時期に新しい兵学校かよ、と思ってしまいますが、教官兼監事を務めた高岡健吉氏(海兵56期)によれば

「当時は勤労動員で中学三年の半ばから授業を中断し軍需工場へ召集された。勉強は殆んど不可能。併し本校生徒の教程内容を低下させるわけにいかない。その対策として中学三年修了生徒から約四二〇〇名を選抜し、海軍生徒として採用し、予科教育をやろう」

という、将来を見据えた教育機関でありました。

それですから、生徒になった服部洋氏(海兵78期)は、母校の熱田中学校(愛知県)で昭和18(1943)年以降は球技ができなくなったのに、針尾分校では
「野球・バレーボール・テニスの用具が豊富に揃えられており、積極的に活用するよう奨励された」
と驚いた記憶を書き残しておられます。

兵学校針尾分校の碑

兵学校針尾分校の碑

針尾分校には武道館とともに、バレーボール、テニス、バスケットボールのコートが設置されていたそうです。

針尾分校はもともと佐世保にほど近い針尾島にあった「針尾海兵団」を一部改造して開校したモノですから、武道館はあったのだろうと推察されますが、コートは学生自身が整地して作ったものだそうです。

針尾分校は7月に防府に移転しますが、その後も連日の空襲にもかかわらず、教官の指揮でコートづくりが進められています。

針尾分校の教官にはオリンピック水泳の金メダリストの鶴田義行と遊佐正憲が配置されており、生徒達は「あっ鶴田だ」とか、「遊佐も教官か」とか言いながら水泳にも励んだようです。

生徒たちは昼食が終わるやいなや、野球の用具を確保するために部屋を飛び出して練習したそうです。
野球・バレーボール・バスケットボールは分隊対抗で試合がおこなわれたのですが、
「バレーボールはアタックなどもなしで、とに角相手へ返してさえやれば、いずれ相手がミスをして当方に点が入る」
というレベルだったとか。

8月7日には野球の試合がおこなわれ、翌日にはB24の爆撃で生徒館が燃え、針尾分校はそのまま敗戦の日を迎えるのであります。

戦地でも

敗戦直前に至っても、少なくとも海軍では「スポーツが排除されていた」わけじゃないことは、ご理解いただけるでしょうか。

帝国本土だからだろ?って言われるかもしれませんね。いえいえ、スポーツは様々な工夫をしながら、海外の「戦場」でも行われていました。

昭和17年2月、ニューブリテン島に上陸した軍医の堀慶介は、さっそくクラブを持って飛行場にゴルフの練習に出かけ、
「久し振りにグリーンの上で力一杯クラブを振り心持ちよい汗を流して悦に入った」(堀慶介著『軍医のお笑い従軍記:帝国海軍で一番駄目な男の話』)
と記しています。

ラバウル東飛行場で整備中の零戦

ラバウル東飛行場で整備中の零戦

 

さらに堀は占領直後のラバウルについて、

「市街地の庭と言う庭は白い花の花盛りだ。近よってよくよく見れば、ゴルフのボールだ。何れもダンロップとかスポルディングの超一流品で、それならクラブも残ってはいないかと捜して見たが全然見当らない。
ボールがあってクラブが無いとは不思議に思って居たら、やっとその原因が分った。
陸さんが自動車に将官、佐官、尉官を標示する為に使って居る。本当に奴等は野蛮人だ。しかもクラブのヘッドをブッタ切って、シャフトだけを使って居るのだからヤリキレない」

と海軍将校(相当官)のエリート意識丸出しで仰っています(笑)。
あんた、ボールを戦利品にしただろ。クラブもかっぱらおう、と思って陸さんに先越されたからって、その言い草はなんだよ。

それでも、「軍隊がスポーツを毛嫌いしてた」のは当たらないとの証明にはなりましょう。

ニューギニア西部のファクファクに駐屯した第25特別根拠地隊では、体力の維持と増強を図ること、を名目に午後の自由時間の4:00からの1時間、バレーボールとバスケットボールをすることに致しました。

ボールはどこからかドッジボール用を調達してきて、コートはオランダの偉い人たちが使っていたテニス用のコートをそのまま使用。
バレーボールのネットはテニス用のもので代用、バスケットボールのゴールは大工や漁師出身の応召兵が自作。

ただ場所が熱帯であることが失念されていまして。
バスケットボールは熱帯でやらかす運動としては過激に過ぎ、ほどなく中止となってしまいました。

つまり、バレーボールは続けたんですね。応召兵のほとんどはバレーボールの経験がなく、横須賀防備隊時代にバレーボールを覚えた福室信四郎氏ら数名が指導にあたったそうです。

昭和18(1943)年初めにマーシャル諸島のクェゼリン島に着任した東京帝大ラグビー部出身の高島清氏によれば、当時は
「まだ空襲もなく、何することもなく、毎日野球、テニスを」
楽しんでいたようです。

高島氏はこの年末に離島するのですが、その後一か月少しでアメリカ軍が上陸、クェゼリン島の日本軍は全滅してしまいます。
(回想の東大ラグビー編集委員会編『回想の東大ラグビー:昭和 13・14 年前後』)

スポーツは国防に資す?

外来スポーツに対する有形無形の圧力が強まりつつあった時代に、海軍砲術学校の体育科長であった鬼束鉄夫大佐(海兵47期)は、
「武道を穿き違へて居ながら、一様に外来スポーツを排撃するは当らぬ。体育理念さへ明確となれば、外来スポーツであれ、国防スポーツであれ、棄捨する理由はない」
とスポーツを擁護しました。

「野球界」1956年8月号

「野球界」1956年8月号

 

(昭和15年10月15日付け『野球界』30巻20号所収「新体制下の体育理念」)
この鬼束大佐は海軍にデンマーク体操を導入した功労者です。

昭和16年2月の第10回明治神宮競技大会(国民体育大会の前身みたいなモノ)冬季大会には、スキー部の軍隊委員として参加。
同年夏の第11回同大会夏季大会には海洋競技などの委員として参加。
以後、昭和18年11月の第14回大会(14回は地方予選のみ)まで明治神宮競技大会に関わっています。

この大会では、相撲・柔道・剣道・銃剣道・弓道・馬術・射撃など「いかにも」ってスポーツに加えて、テニス・野球・バスケットボール・バレーボール・サッカー・ラグビーなどが実施されました。

こうした民間の体育・スポーツ界との交流経験を踏まえ、鬼束は「高度国防国家の建設」という時代の要請に即した体育論を構築していきます。

海軍体育は大元となる『海軍体操教範』について
「陸軍体操教範ノ丸写シトモ称ス可ク基本体操ハ瑞典体操ノ形骸ノミヲ採リ全ク不自然ニシテ如何ニモ形式的ニシテ運動ハ無味乾燥ナリ」(堀内豊秋大佐=メナド降下部隊の指揮官)
と酷評されたように、陸軍に大きく依存したものでした。

鬼束の登場によって、昭和17年に新しく『海軍体操教範』が編纂されることになり、海軍独自の運動理論が作り上げられていくことになったのです。

鬼束が中心となった新しい「海軍の体育」とは、身体の修錬であるだけでなく、精神の修錬でもある、とされました。

体育とは個人のためにするのではなく、民族国家のためにするもので、国民の義務でもある、としています。そして身体と精神の修錬を究極にまで高めたのが「武道」であると位置付けます。

鬼束によれば、武道とは要するに生きるか死ぬかであり、それを決めるのが「仕合」。
「仕合」は実技であり、戦争にとって必要となるものです。
人を殺さない「試合」などは仮技であり、第二義的なもの。

「戦闘、即ち最後の仕合の場、それは武技に相当する、この仕合の圏に於てこれに馴れるように、身体をつくつて行く」

ことこそ体育の目的である、そうです。

だんだん儂の大っ嫌いな方向に行ってるぞ、「もって回って判りにくくした糞屁理屈」の方へ。

ですが鬼束はココで方向転換(笑)、スポーツは

「一般ニ団体的対抗運動多ク体育ニ依リテ得ラレザル諸徳性ヲ涵養シ得ルノミナラズ体育錬成上モ極メテ有効」
であり、
「競技ニ当リテ要求セラルル遵法ノ精神従順公正誠実ノ美徳更ニ又相手ヲ制セントシテ要求セラルル創意工夫、果断、敢闘、犠牲、献身、協同、堅忍持久等ノ諸要素ヲ涵養」

することができる、と言いだすのです。

個別のスポーツでは、野球について
「今日種々の弊害が見られるが、興味深く、広く普及し、体育的にも教育的にも価値がある」
と基本的にその価値を認めています。

当時、プロ野球では用語の日本語化に頭を悩ませていた時期ですが、鬼束の上司の大川内伝七少将は

海軍体操教範とデンマーク体操教本

海軍体操教範とデンマーク体操教本(玉川大学史料から)

 

「そんなことを気にすることはない。野球はわれわれにも非常に参考になる競技だ。杭州湾の上陸作戦にも、野球のスクイズ ・ プレーからヒントを得たものを取り入れているくらいだ。野球は大いにやりなさい」
と言っています。

スクイズって、走者3塁の時にバントするやつでしょ?どこがどう上陸作戦のヒントになるんか、想像もつかないけれど、なんか凄いな(笑)

鬼束はバスケットボール、水泳の飛込みやスキーのジャンプには「航空体育」としての価値を認めていました。

上海事変の支那軍陣地

上海事変の支那軍陣地

面白いのはバレーボールです。

「排球ハ競技規則簡単ニシテ、相当ノ人数ヲ擁シ容易ニ実施シ得ル利点アリ。劇烈ナル運動ニアラザルモ、球ノ所在並ニ方向ニ常ニ注意ヲ集注スルヲ要シ、又前衛中衛ノ一部ハ相当活躍ヲ要求セラルル等体育的並ニ教育的効果少カラザルモノアリ。排球ハ其性質上一般ニ女子ニ最好適セル運動ナリトセラル。(句読点は私が打ちました)」

鬼束さんって言いますか、海軍はバレーボールを女性に適したスポーツとみなしながらも、水兵さんに奨励していたんですね。

海軍はスポーツに「男らしさの鍛錬」としての価値だけでなく、必ずしも男らしさが求められない娯楽としての側面も認めていたんです。

さらに、もっと実際的な理由がありまして。
海軍には、長期の航海がつきものです。その長い艦上生活で体力が衰えるのを防止する手段として、身体への負担がさほど重くない運動が必要だったのです。

競技として真剣にやらなきゃ、バレーボールはこれに最適だと思われたんですね。
さて、そろそろ「蹴球」に行きますか。

機関学校ラグビー

鬼束中佐によって改革された「海軍スポーツ」でしたが、各種の球技の中でも特に「蹴球」は戦闘的であり錬成にふさわしい、とされました。

ただし、当時の蹴球はいくつか種類がありまして「ア式蹴球」「ラ式蹴球」「米式蹴球」と呼ばれていたんです。

ア式・ラ式とは何なのか?詳しいことは存じませんが(調べる気すらない)Association Footballのことらしいです。

なんでも、イギリスで「蹴球」の統一ルールを定めた協会が出来て、そのルールに則ってやるのが「ア式蹴球」。
その後Rugby Unionが誕生し、このルールでやるのが「ラ式」すなわちラグビー(15人制)です。
アメリカでAmerican footballができるのは、ラグビーのそのまた後ですが、もちろんこれが「米式」。
ってことで「ア式蹴球」とはサッカーのことなんですよ。

それで、でありますね。海軍では「より戦闘的である」という理由で「ラ式」が推奨されたんであります。

19世紀ラグビー校での競技

19世紀ラグビー校での競技

ラグビーは「鬼束以前」から海軍では盛んに行われていまして、いくつか例を挙げておきましょう。

海軍機関学校では何故かラグビーが古くから重視されていたようです。

昭和14(1939)年の機関学校の「訓育実施標準」によれば、ラグビーは1年生で12回、2~4年生時にはそれぞれ25回も実施されることになっていました。
2~4年生の場合、体操(ほぼ毎日)・剣道(年50回)には及びませんが、遊泳術(年30回)とほぼ同等。海軍の基本の筈の水泳とパリティですよ(笑)

もっとアピールしておくと、軍艦の上でできる武術として、海軍が熱心だった相撲(年20回)や銃剣術(年15回)よりも多い!

機関学校ラグビーチームは民間チームとも積極的に対戦しています。

第三高等学校と神戸高等商船学校とは定期戦があり、京都帝国大学で冬合宿をしたさいには、京都帝大や立命館大学と練習試合をしたとの記録が残っています。(機関学校は京都府・舞鶴所在)

艦上での相撲

艦上での相撲
(日露戦争時だと思われます)

 

同志社大学・三重高等農林学校・明治大学とも試合をしたようで、明大には0-76で大敗したこともあったそうです。

民間チームとの最後の対戦は、昭和16(1941)年5月18日の対三高戦らしく、18-12で海軍機関学校が勝利。

この試合を見学した海軍機関学校の生徒は「本日の見学中、感じたる事は流石に三高、彼等の三高魂あるを認めたり、『セイビング』『タックル』は実に猛烈なり」と相手のファイティングスピリットを評価しています。

海軍機関学校ラグビー部の強さは、今でいうとフィジカルに頼ったモノであったようですが、技術の向上にも熱心に取り組んでいました。
慶應義塾大学にコーチを依頼したり、京都帝大からコーチを受けたり。

1930年代の前半には、河口湖にあった慶大の合宿所で合宿をしたこともあったのですが、昭和11(1936)年4月に明大の北島忠治監督にコーチを受けてからは、明大との関係が深まりました。

北島監督は昭和17(1942)年5月まで、毎年機関学校へ選手をひき連れて指導に訪れることになります。

機関学校52期の阿部秀夫氏は、この北島監督の指導について次のように語っています。

「北島流のランニングパスが一番苦しかった。バックラインを組んで 100 ヤードのランニングパスを全力疾走でやるわけだが少しでもミスすれば『ハイもう一回』とニコヤカにやり直しさせる。完全にパスが通るまで何度でも平気でやらせる。」

「帯同して来たバックローの現役選手は、と見れば柔剣道合はせて十段を越えるような我々の猛者達を3人ぐらい腰の廻りにブラ下げて平気で全力疾走している。
之だからタックルは膝から下にしなければダメなのですとニコヤカに云う北島監督の言葉には説得力が伴う。」

「我々の訓練は総合的に物凄いものだと云う自負が、明治大学のラグビーを見たらテンデ問題にならない程甘いものだと云う事がよくわかった 。」

明治大学北島元監督

明治大学ラグビー部の北島元監督

 

しかし、北島監督の海軍機関学校ラグビーについての評価は、次のようなモノでした。

「技術的には上手くはないが、精神については大いに範とするに足る」

「平素わが明大ティームが云々する、ラグビー精神即ち『倒れてもなお止まざるの気魄』を機関学校のラガーに見せて貰ったような気がする。」

「プレーに対する研究心の強いこと、自分のわからないことは率直に質問する、練習に出る際の支度の早いこと、は実に感心させられた。かかる点等は、大学選手の学ばなければならないことであろう。」

「ラグビー技術に於ては、未だしと思う点が多々あるが、これは学校の性質上、時間的に余裕のないことであるから致し方ないと思うが、一年に三〇時間で四年間のプレーヤーとしては上手過ぎる位である。」

「機関学校のラグビーの行くべき道について、私の希望は現に機関学校に於て指導されているとおり、単に『上手な鮮かなプレーを行なわんとしてはいけない。飽くまでも頑強な、力強い、元気なプレーヤーを心懸けること』だ。そして、その間に体得した精神によって帝国海軍の向上に資せられんことを、国民の一人として希望する。」

北島監督はラグビーを通して帝国海軍の軍人らしさを感じとり、ラグビーがさらに帝国海軍の資質を向上させると信じていたようです。

昭和17年だからな、最後のコーチングは。

海軍航空隊の「闘球」

霞ヶ浦海軍航空隊でもスポーツが盛んに行われていました。
昭和10(1925)年度体育実施計画では、4月中旬に野球競技・5月上旬に庭球競技・10月上旬に蹴球競技が予定されていました。

この当時、霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭をしていたのは、皆さんご存知の山本五十六で、長岡中学時代に野球の選手だったそうです。
霞ヶ浦航空隊チームは昭和12年4月29日に竜ヶ崎中学校野球部と対戦して19-10で勝っています。

昭和14(1939)年3月には予科練が霞ヶ浦航空隊に移転してきます。

水戸高等学校ラグビー部はさっそく予科練に勝負を申し込みました。

昭和14年5月14日の試合では年下の予科練ラグビーチームを相手に0-24 で完敗。翌年も6-47で大敗しており、予科練の強さが際立ちます。

霞ヶ浦の予科練が土浦に移転するのは昭和15(1940)年11月のこと。この時「最高学年」だった第10期乙種飛行予科練習生は「蹴球強者」を取り揃えていたようです。

予科練のジャージ

予科練のジャージ

サッカーは「付近の旧制高等学校チームを軽く一蹴」、ラグビーは強豪の成蹊高等学校を撃破、立教大学にも善戦。
立大とはテクニックでもフィジカルでも格差がありましたが、気魄ではけっして負けていませんでした。

立大の監督をして
「このチームを三年借してもらつたら必ずや世界無敵のラグビー選手に仕上げてみせる」
と感嘆させたと言います。(原田種寿『翼の蔭:予科練教官の記録』講談社刊)

昭和16(1941)年には機関学校出身の片岡正一(海機42期)が教官として土浦航空隊に赴任してくると、「海軍ラグビーの本場の出だから」
という理由でラグビーの指導官を命ぜられたそうです。

この頃、来るべき大戦争に対応するために、予科練の養成員数は急激に増加していました。
甲種800名、乙種1600名が一気に入校したため、片岡氏は6面のラグビー場を作り、「午後3時からの体育時間は雨が降らない限りグラウンドに立ち走り回った。」

片岡は翌年7月に土浦を離任するのですが、この頃に教官の堺和助が中心となって「闘球」が考案されました。

ラグビーは土浦航空隊の象徴のようになっていたのですが、修業年限の短縮と入隊者の急増で指導が行き届かず、ラグビーで訓練効果をあげるのが難しくなっていたのです。簡単に言うと
「飛行技術を教えるのが手一杯で、ラグビーを教えきれん。」
という事ですな。

普通なら、カリキュラムを考え直すとか、教え方を工夫するとかでしょうけど、流石に海軍はスケールが違う。

海軍はラグビーの方を教えやすい様に変えちまうのであります。
ルールを簡素化すだけじゃなく、ラグビーに「渡来競技」のもつ各特異性をたくみに取り入れちゃうのであります。

「コートを接敵地帯・突撃地帯・陣翼・本陣に区分するなど実戦場を彷彿せしめ、殊に敵本陣突入を敵航空母艦の撃沈に比して弥が上にも敢闘精神を発揮せしむる如く仕組んだもの」

を考えて、これを「闘球」と名付けたのです。ルールを簡単に紹介しましょう。

海軍闘球のコート

海軍闘球のコート

競技時間…20分が基本、適宜増減可。競技員…15人が基本、適宜増減可
服装…体育服上下、紅白鉢巻、運動靴。審判…主審1人、副審2人。
ボール…サッカー用かハンドボール用。

得点…接敵地帯と突撃地帯を越え、相手の本陣に球をつければ「命中球」で3点。陣翼なら「有効球」で1点を獲得できる。

競技方法…接敵地帯では、球を持って走る、蹴る、前後左右に投げることができる。しかし、突撃地帯では、前方に投げたり蹴ることはでき
ない。
妨害に関しては、接敵地帯では球を持っている者に対して妨害できるが、突撃地帯では球を持っていようといまいと妨害できる。

ってなことのようです。

闘球は、ラグビーにかわって土浦航空隊を象徴する存在になりますが、敗戦とともに廃れ、「闘球」という名前だけが「ラ式蹴球」に代わって残るんであります。

最後に

南アフリカのキャプテンは南アラグビー127年の歴史上、初めて黒人が務めました。

シャ・コリシ選手。ポジションはリーチ選手などと同じフランカー。
生まれは1991年。アパルトヘイトが無くなった年の産だってのは、何か運命的なモノを感じます。
ただ、生まれたところが「非白人地区」で、当然のように貧しく、しかもお母さんは16歳、お父さんが18歳だったとか。

コリシとデクラーク

コリシとデクラーク

 

コリシ選手の少年時代はいつもお腹を空かせ、小学校の授業料(年間350円!)を払うのに四苦八苦だったそうです。
コリシは小学校の校長にその才能を見出され、貧しさからの脱出のためにラグビーを極めたのでしょう。
決勝を前に、お父さんを日本へ招いたことはちょっと話題になってました。

ラグビーが注目されて、スイミングスクールの代わりに何の不自由もなくラグビー教室に通う日本のガキどもに、南アを倒すことは出来そうもねぇなあ。(ホントはかなり期待してるんだけどね。)

まあ、そうは言ってもラグビーが「餓鬼どもが必ずやるスポーツ」として注目されるのはありがたい事ですね。

習わせる親御さんに、一言ヒントを。小学校低学年までは、タックルなんて考えなくて良いですよ。
子供さんに「低く入るタックル」とか教える指導者は、まがいモンと言っても良いくらいだと私は思ってます。

そもそもタックルは「捕まえる」んです。抱き付きゃ良いんです。抱き付いて相手を抱えたまま、ボールを出させなければ「モール・アンプレアブル」でターン・オーヴァーですから。

そんなことより、お子さんには「ハンドリング」を教える。
教えるって言うか、いつもラグビーボールを触らせておけばOKです。
キャプテン翼じゃないけど、「楕円球は友達」ってことで。

今回は国防よりラグビー強化の目が向いてしまった(笑)

 

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