帝国海軍のあんなこと

長門新造時

かつて日本の鉄道のトイレって言ったら、「垂れ流し式」が主流でありました。私などが餓鬼のころ、急行のトイレに入れば雲鼓の落ちていく穴から線路が見えたモノです。

海軍はトイレも進んでた(笑)

この電脳大本営の記事は、お読みになるタイミングを十分にお考えいただくよう、強くお勧めいたします(笑)。
雲鼓の出てこない下ネタ編もありますので

私がガキンチョで、急行の雲鼓穴から線路を見ていたころよりももっともっと前、海軍や陸軍がちゃんと「軍」と名乗れていた頃の話です。

列車便所

列車のトイレ

大日本帝国はいろんな意味で「清潔」な国家を目指していた国でしたが、さすがに戦前は全土で下水が完備していた、とは言えません。

そんな状況下で、一般国民に先駆けて水洗トイレの恩恵を受けまくっていた集団が海軍でした。

今の私たちは当たり前だと思ってるけど、水洗トイレは恩恵なんですよ。儂の実家はいちおう県庁所在地である大津市の、けっこう都心部だったから、モノゴコロ付いた時から水洗だったけど。

高校生になって(昭和40年代の後半じゃ)、同じ市内でも周辺部から来てる友人の家に行ったら「簡易水洗」ってヤツでビックリしたことがありましたわ。

まあ、海軍ばっかりじゃなくてフネのトイレってのは、帆船がババを利かせていた頃から、下水道の整備には関係なく(笑)水洗なのでありましたけどね。

と言っても「ちゃんとしたトイレ」が大航海時代のずっと前から、フネに付いてた、って訳ではありません。昔のフネのトイレは「便器が備わった個室」では全然なかったのであります。

私は日本のフネの場合は良く存じませんが、西洋の場合は船の舳先の辺りを「トイレ」と呼んでいたそうな。
西洋のフネって、先っぽに女の人なんかの像が付けてあるじゃないですか。そう、船首像です。
その下あたりが「巨大な水洗トイレ」区画になっていた、という説があるんですね。

で、その説では
「帆船の場合、船の進行方向が風下になることが多く、落下物は風の力で前方に飛ばされ、船体を汚すことがない。よしんば汚れても波が洗い流してくれるため、非常に好都合な場所だったのだ。」
だそうで。

この人は、なんで帆船が世界の海を制したか?ご存知無いようですね(笑)。

とくに意味はない帆船のイラスト

とくに意味はない帆船のイラスト

一歩間違わなくても海賊に早変わりする、勇敢無比の船員さんにだって、雲鼓の出る時間は容赦なくやって来ます。
その時、フネが風上に向かって間切ってない保証はどこにもありません。コロンブスが風下にだけ向かって大西洋を横断したとでも思ってるんでしょうか?

「落下物」は相当に高い確率で船体を汚しますな、悪臭とともに。

さらに、この人ったら
「コロンブスの時代には、マストと舳先をつなぐロープにぶら下がって用を足すというアクロバット的なことも行われていたが、後の時代には船首部に腰掛式の便器がしつらえられるようになった。もちろん、その下は海面である。」

どうせ排便にプライバシーなんか認められていない時代なんだから、舷側からケツ突き出せば済む話じゃないか。

船首像

船首像

もちろん「その下は海面である」の部分は全く同意しますよ、巨大な水洗トイレってのはそういう意味でありますから。

閑話休題。

大日本帝国海軍ではトイレのことを「厠」と呼んでいました。軍艦にはたくさんの水兵さんが乗り込んでいたのですが、専用厠(個室)を使えたのは艦長だけ。そのフネが旗艦であれば長官(司令官)と参謀長も専用厠を持っていたようです。

って言うか、巡洋艦とか戦艦なんかですと「司令部施設が設けられた」なんて記述を時折見かけますよね。

「司令部施設」とは普通より上等な通信設備や専用会議室などもありますが、長官用のベッドルームとか、参謀長用の食器だとか、雲鼓用の個室とかのことなんです。

他の非エリートの水兵さんたちはどうだったか?と言いますと、士官用・ガンルーム士官(中少尉)用・特務士官用・准士官用・下士官兵用、と厳密に分けられておりました。

雲鼓・廠勉にも階級ありではありましたが、どの階級用も海水を使った水洗式で、ココに階級差はナシ。

ただ、用紙には階級差がちゃんとあって、士官以上はトイレット・ペーパーでしたが下士官兵は安物の落とし紙だったようです。若い人は落とし紙って言ってもお判りにならんだろうけど。

で、そのトイレはどんなんだったかな~って言いますと。

たとえば「世界のビッグ7」として国民に愛され、誇りともされた大戦艦「長門」の場合、士官用トイレの数は11ヶ所だったようです。これに対して使う士官はおよそ70名。

下士官兵用は24ヶ所で、使用人数は1300人強。

下士官兵用、ちょっと少ないんじゃね?と思いますが、「長門」の下士官兵用厠は扉も仕切りも無しで便器だけがズラ~と横並び。
プライバシーも何もあったもんじゃない!なんて言われそうですが、効率的であることの方が大事ですからね、軍艦のトイレは。

同じ戦艦でも「霧島」の下士官兵用厠は顔と足元は丸見えでしたが、腰の部分だけはドアと仕切りが有ったそうです。

T4霧島

大正4年撮影の「霧島」
ほぼ完成時の姿です

これ、儂が大昔に行ったロンドンのパブのトイレもそうでしたよ。
あの頃(30年くらい前)は大英帝国だって女性がパブに出入りすることなんて無かった(儂が知らんだけかも)から、それで問題ありませんでした。

儂は雲鼓しながら、順番待ってる奴の顔が見えるのは嫌だったけどな。

士官はみんなラクだったのか

まあ、その点士官サマは曲りなりにも個室で出せるから良いよな、と申しますと、そうでもなくて。一部ではありますが、水兵さん以上に苦労の多い士官もいらっしゃったのであります。

軍艦は戦うためのモノでありますが、戦うまでは艦長以下の乗員が日常生活を共にする「場」でもあります。
この日常生活がちゃんと出来るか、が下士官兵にとっては昇進に大きく関わります。
その生活具合をじっと見ていることが職務である士官がおりまして、コレを「甲板士官」というのであります。

「甲板士官」 とは、艦の副長の下で勤務する若手の将校のことを言います。
砲術科や水雷科など各科のいずれにも属さないニッチな業務や、日常の日課(掃除や軽整備など)の確実な実行、艦内生活に関わる諸々などなど、艦上のあらゆることに顔と口を出すいわば「便利屋」です。

S12霧島

昭和12年の「霧島」

ですから、特に艦の細部のことをよく知っていまして、「甲板士官の勤務ぶりを見ればその艦の善し悪しが分かる」と言われたほどなのです。

下士官・兵一人一人の性格や素行や能力については、日頃からその作業態度や集中ぶりなどを見ていて、直接上官の分隊長や分隊士より詳しく把握しています。
下士官・兵の昇進・昇格など人事考課には同席することが求められていまして、強い発言権を持っていました。

つまり、下士官・兵にとっては甲板士官の覚えがめでたくなければ海軍生活が続けられない、という恐ろしい存在なのです。
逆にみると士官の中ではもっとも自分たちに近い存在なんですけどね。

どれくらい近い存在だったか?と言いますと、次のようなお話がありまして。はい、雲鼓で始まった話でありますから、コレも尾籠極まる話でありますよ。

個室すらない軍艦の厠ですが、やっぱりたまには詰まることもあるんですね。
いや、水兵さんの出す順番が詰まって渋滞するんじゃなくて、出したのが流れていかない事案ですけどね。安モンの落し紙使ってるせいかも知れません(笑)

水兵さんは順番で「厠番」をするんですけど、詰まるとこの厠番の出番。
厠番は「糞掻き棒」なる金属製の道具を持ってまして、その棒で「詰まり」を取り除くんですね。

糞掻き棒でダメとなると、機関科に声をかけて水圧を上げて「開通」させようとします。
なにせ、数の少ない貴重な場所であります。一ヶ所あたり50人以上の雲鼓を担当していますので、開通に手間取ると艦の戦力も棄損してしまいます。

東福寺東司外観

東福寺「東司」外観
禅寺のトイレは東司で海軍のトイレは厠

 

ココまで努力をしてダメだと厠番は甲板士官を呼びに行くんですね。

水圧を上げてもダメなら排水パイプを取り外して、詰まりを取り除くのが、やっぱり一番。

排水パイプがどこをどう通って艦外に雲鼓を運んでいるか、は艦と厠にもよりますが、こういうことを実地に良く知っているのは甲板士官。
「甲板士官が詰まった排水・排雲鼓パイプを外す」ってぇのは全海軍共通だったようです。

こういった、誰もが嫌がる汚れ仕事を率先してやったから、水兵さんも甲板士官を尊敬し、それ以上に慕っていたんですね。

だからこそ、人事考課に思いっきり口出ししても文句が出ないし、艦長も頼りにする、って訳です。

海軍士官って言うと、制服もカッコ良いし、だいたいスマートがウリで、大日本帝国を代表する「モテ集団」だったそうですが。

海軍将校に惚れる撫子のみなさんも、まさか旦那候補の仕事が「雲鼓パイプを外す」だとは思ってなかったでしょうね。

和式?洋式?

今でこそ当たり前な洋式便器ですが、普及しだしたのは戦後に公団住宅で導入されてからだそうです。
そういえば、儂の実家も和式だったな。アレって、何時洋式に代わったんじゃろ?

東福寺東司内部

東福寺東司内部
穴だけ、仕切りは一切なし(笑)

 

当然ながら戦前ではまったく普及していません。

ところが、はじめ海軍では特に主力艦の建造を欧州諸国(とくに大英帝国)に頼っていたためか、上で書きましたように仕切りは無いものの洋式便器がズラっと並んでいました。

大英帝国に発注すると、厠もジョンブル・タイプが付いてきたんですね(笑)
だんだん国産の軍艦が増え、ついには戦艦だって大日本帝国内で建造できるようになるんですけど、「伊勢」級みたいに大正半ばに完成する戦艦までは厠はジョンブル・タイプを踏襲していました。

旧海軍だって軍艦は税金で作ってもらっていますし、税金で石炭やら重油を買ってもらわないと動かせません。
でありますので、旧海軍は現在の849の皆さんには想像もつかないくらい、積極的に軍艦の「一般公開」を行っていました。
体験航海も、今以上に長距離長時間のモノが実施されていました。

そうなりますと、乗艦させてもらった帝国臣民のみなさんは当然催すわけでありまして。メシが出るコースもあったようだし。

帝国海軍の軍艦には女性用の設備は一切ありませんから、「公開」の時は士官用トイレを女性見学者に提供することになっていました。
兵員用のトイレは仕切りが無いから男性見学者用ですね、ちょっと男女差別気味だけど。

見学者はほとんど洋式を使ったことはありませんから、「公開終わりの厠番」は水兵さんんがもっとも嫌がったモノだったそうであります。

しらせのトイレ

「しらせ」のトイレ

そんな「公開」対策だったかどうか?私は知りませんが、長門級は純国産の癖に厠はジョンブル・タイプでしたが、次級の大和級は最初から半分の便器は和式になりました。

金剛級も「巡洋戦艦」から「高速戦艦」へと変身するついでにドアと仕切りのある和式便器に変更。
長門級も、昭和11年からの大改装で仕切りつきの和式便器(一部)になりました。
大方の見込みとは逆に、大日本帝国海軍の軍艦の便器は洋式→和式と「進化」していたのでございます。

揺れる艦上での雲鼓は、洋式の方が当たり外れがなくて良いと思うんだけどなあ。
洋式ばっかりのままだったら、ウォシュレットももっと早く開発されてたかも知れぬし。

陸上は和式

海軍と言ったって、すべての人員がいつもいつも海の上にいるわけではありません。
ってか、特に平時なら陸上にいる人員の方がはるかに多い。

したがって便器の話も、陸上の分もやっておかなきゃイカンでしょう。

洋式が主流だった艦船の厠に対して、陸上の、例えば兵学校の厠は和式のままでした。ただし、水洗。
和式で仕切りと扉付きの娑婆タイプだけど、扉にカギはありません。
その代わりに個室の扉には帽子掛けが取り付けてありました。

兵学校の学生はみんな帽子をかぶってますから、使用する際には帽子をココに掛けるんですね。帽子が掛かっている個室は使用中。

個室は奥のほうから詰めて使います。手前の個室は緊急事態の人がすぐに入れるよう、空けておくのが海軍式スマート雲鼓であります。

兵学校学生は個室に入ると、まず便器に紙を一枚敷いてから雲鼓を出すように指導されていたそうです。
便器を汚さない心配りってモノですな、さすがスマート。

支那事変時の艦内食事風景、艦名不詳

支那事変時の艦内食事風景、艦名不詳

 

海軍の清潔ぶりはグレート(雲鼓のこと、UKとも)だけではなくてスモールも対象になっておりまして、発射にあたっては共通の標語と言うかガイドラインみたいなモノがありました。それが

「もう一歩、捧げ銃、帽振れ」

というモノでありまして。

田舎の会社のトイレをお借りしたりすると、この令和の御世になった、って言う時代の便器の前に「大きい人も普通の人も、一歩前へ」なんて手書きの指南書が貼ってあることがあります。

儂、若いころ、この紙に「小さい貴方は二歩前へ」って書き足したのがバレて怒られたことがあるけど、まあそれと同じことやな。

軍艦を含めて海軍の施設を見学した人は、その清潔さ、とりわけ厠の手入れぶりに感心したそうです。

とかく軍艦の甲板磨きに注目の集まる、掃除大好き海軍でありますが、トイレもきれいにしてたんですね。

パヨクとか、あまり史料をちゃんと読まないお方たちは
「どうせリンチなどで脅して無理やりキレイにさせたんだろ」
みたいにお考えになるのでしょうが、そうでもありません。

陸軍だって海軍だって、一生軍隊で生計を立てる人なんてほんの一握りです。
とくに徴兵(海軍の場合は志願兵がメイン)の兵隊さんは2年経つとシャバに戻るんですよ。

そんな人達を乱暴に扱ったら、軍隊が社会的に批判されて制裁を受けること間違いナシです。
もちろん武闘派の集団、いわば「元祖昭和的スポ根集団」ですから暴力が全くなかったとは言いませんが、軍隊生活は「自分と部隊の仲間が生き延びるため」にやってますからね。

多少の愛の鞭はあっても許されるべきじゃないでしょうか?

だから、トイレ掃除も「舐めて綺麗にさせられた」とか言われますけど、実際には
「俺が舐めても大丈夫なんだな?」
とか言われ、怪しいときには点検者が便器の縁を人差し指でこすって嗅いでみる…ってな程度だったみたいです。

コレで十分手抜き予防になってますよね。

帝国海軍はこんな風に掃除を徹底し、厠には昇汞水(しょうこうすい)と呼ばれた手指用の消毒液を用意して、衛生に大変気を遣っていました。

しかししかし、艦隊ではしばしば伝染病である赤痢や腸チフスの患者が発生いたしました。それも大量に。

衛生に気を使いまくっていた帝国海軍で何故?と思っちゃいますけど、ちょっと調べると水兵さんたちの残念な衛生観念が浮かび上がってまいります。

昭和5年、戦艦「山城」に赤痢患者が発生したときであります。
赤痢は法定伝染病ですから、すぐに感染者を隔離しなければなりません。

T6山城

大正6年撮影の「山城」

 

それでなくても、軍医科では普段から艦内衛生に注意し、兵員の健康維持に血道をあげていたのですが。
軍医長は「赤痢患者発生」の報を受けると、さっそく全乗組員を対象に検便を実施。
検便される方は、ちょっとナニが柔らかいんですけど、しかしお腹が痛いわけではありません、まだね。

もし、柔らかいことで隔離されてしまっては、楽しみな「上陸」がフイになってしまいます。
ということで、調子の悪い水兵さんは仲間の堅いのを「借りて」提出いたしますが、そこは百戦錬磨の軍医長。

提出された雲鼓の状態がすべて見事なことに、軍医長は疑問を抱いたのです。軍医長は厠に衛生兵を派遣、流す前の雲鼓をいちいちチェックすることに致しました。

ただ、戦艦山城の水兵さんは「鬼の山城」ってくらいに鍛え上げられています。
軍医長の「作戦」を事前に察知し、コレが実践される前に「自覚症状」のある水兵さんは、厠を避けて致す戦法に出たのでありました。

いわゆる「野雲鼓」って奴ですな。

「扶桑」大改装完成
昭和8年

古くからの滋賀県民である私にとっては「野糞」=フランク・ショーター選手でありまして、野雲鼓にあまり悪い印象が無いんですけど、コレを軍艦って言う閉鎖空間でやっちゃあイカンでしょう。

まずいことに、軍艦の中は普段使わないモノが満載されておりまして、ソレがすぐに使えるように「整理」されております。
モノとモノの間が適度に開けてあり、人目に付かない空間が無数にあるんです。つまり「野雲鼓」し放題。
一度タガの外れた衛生観念だか倫理精神だかディシプリンだかは行きつくところまで行かなきゃ治りません。
たとえ、民度の高いことで知られる大日本帝国の臣民であっても、です。

用具庫や砲塔のなかに、水溶き雲鼓が発見された…という報告が軍医長に上がった時は既に手遅れ。
艦内の衛生環境はどん底まで落下していまして、戦艦「山城」は艦長以下乗員すべてが「保菌者」とみなされて総員海軍病院送り。

病院で隔離ですから、とりあえず上陸だけは出来たわけですが、帝国海軍の一大汚点となったのであります(笑)

もう、汚い話は終わりにしよう

軍艦、特に戦艦のように大きなモノの内部は、部外者が乗り組んだらまるっきり迷路みたいな様相を呈していました。

戦艦「大和」などに新規乗り組み員が着任すると「スタンプラリー」みたいなことをやって、艦内の配置を覚えさせた、って伝えられています。

ブルネイに停泊する第一遊撃部隊の大和・武蔵。手前に長門

ブルネイに停泊する第一遊撃部隊の大和・武蔵。手前に長門

 

では、就役前のまだ「既存の乗員」がいない時はどうやって艦内の配置を覚えたんでしょうか?
軍艦は進水した後、岸壁に係留された状態で「艤装」という工程を経て「完成」します。
基本的にはこの艤装の段階で兵装やらセンサーやら取付工事をするんですが、この段階には「艤装員」という用兵者が乗り込みます。

艤装員長が普通は初代艦長になるんですが、コレは艤装のしかた一つで、操船のしやすさや業務の遂行具合や居住性などなど、船の性質が大きく変わってしまうからです。
言い方を変えれば、初代艦長がやり易いように艤装をしてもらうんですね。

ただし、厠の位置は進水までに決められて配管もされている(たぶん)ので、初代艦長が厠に出来るのはウォシュレット付けたり、個室に入ると自動で便器の蓋が開くギミックを仕掛けたり…程度です。
場所は動かせません(笑)

実際には艦橋の位置を動かした艤装員長も居ましたけどね。

それで、ですね。問題は艤装工事をする工員さんたちなんですね。進水まで建造を担当していた工員さんとは交代しています。
つまり艦内不案内で、いきなり施主さんのワガママな直接指示を受けて細かい工事をするワケであります。

ココまで書いてきましたように、艦内厠の数はそれほど多くはありません。
艦内は迷路のような通路があちこちに通り、厠に行くためにはこの迷路をクネクネと辿らなくてはいけないのです。

中には厠発見前に限界が来てしまったか、遠出をするのが邪魔臭くなった不心得者もいたと思われます。

艤装中の軍艦は常に造船官の検査が入ります。水漏れチェックは特に念を入れて行われることは、誰にでも想像が付くでしょう。

そんな造船官の検査中に、どっか目立たない区画の隅で、水溜りが見つかったと思ってください。

造船官はドキっとしますよね。そして、時代が時代でありますから、その水溜りの水を舐めてみたに違い無いのです。

「塩辛くない。海水じゃない。良かった!」

たぶん、今回の記事は電脳大本営史上、もっとも汚ねぇ記事になったに違いありませんね。

もう、これで終わりにいたします。

汚い話を延々とやらかしたお詫びに、爽やかな話題と画像を。

東郷元帥ゆかりの銀杏の木、里帰りへ

東郷の銀杏(英国)

東郷の銀杏(英国)

この時の東郷さん、艤装員としてイギリスに行ってたんです。辛うじて「縁あり」ってことで(笑)

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