ホワイト・フリート撃滅?海軍大演習
アメリカの海軍力をこぞった「ホワイト・フリート」は、ついに太平洋に入り、大日本帝国に迫ってまいりました。
この砲艦外交を、帝国は「歓迎」で迎え撃つ算段ですが…裏ではちゃんと(笑)
歓迎態勢
外交ルートを通じてホワイト・フリート(アメリカ大西洋艦隊)の日本招待交渉が一段落したところで、海軍省を中心にして歓迎の準備が進められていることは既に述べました。
この「歓迎計画」には元ネタがありまして。
明治38(1905)年の10月に来航してくれた大英帝国の東洋艦隊(サー・ジェラード・ノーエル提督)です。
この艦隊は「日露戦争の勝利」と「日英協約(第2回)」の成立を祝うためにやって来たもので、まったく平和と協調を象徴するモノでありました。
大日本帝国とその国民は大戦争に勝利した高揚感もあり、同盟国艦隊を熱烈に歓迎していたんです。
明治41(1908)年7月14日には西園寺公望から桂太郎へと政権が変わるんですが、「ホワイトフリート歓迎作戦」は滞りなく組み上げられていきました。
神奈川県や横浜市などの関係者を集めて検討会議を開き、20日には海軍省から各関係者に対して「米艦隊接待ニ關スル草案書」が通知されました。
草案書ではホワイトフリートの乗員編成が示され、艦隊の接遇に関する一般事務は海軍省が主管して、関係各省に主務官を置くことが定められていました。
その後9月3日に各省の主務官を委員に、「米国艦隊接待準備委員会」を組織して政府全体の歓迎計画を策定(10月14日には加藤友三郎海軍次官を委員長とする「米国艦隊接待委員会」に改組)いたします。
歓迎計画の案を、ホワイト・フリートがフィリピンを出港する前に郵送で通知するなど、念には念を入れたことは前述のとおりです。
もちろんアメリカ政府にもちゃんと通知されています。
こんな日本側の配慮に対し、ホワイト・フリート側も入念でした。通報艦「ヤンクトン」を、本隊より先にフィリピンから出発させて、日本側との最終的な打合せをさせようとしています。
接待艦隊
アメリカは、この当時24隻もの戦艦を保有していました。太平洋に廻した「ホワイト・フリート」には、就役したばかりの4隻を含む、比較的艦齢の新しい戦艦16隻が参加。
日本来航時の乗組員数は12,733人の多きに上ります。
それに対して大日本帝国海軍は、日露戦争で「初瀬」「八島」と2隻の戦艦を失っていました。
ロシアからの鹵獲艦が戦艦では「壱岐(インペラトール・ニコライ・)」「丹後(ポルタワ)」「相模(ペレスウェート)」「周防(ポビエダ)」「肥前(レトウィザン)」「石見(アリヨール)」の6隻があり、コヤツらを含めて戦艦が11隻です。
国産の戦艦(「薩摩」と「安芸」)は建造していたのですが、まだ就役していませんし、「戦利艦」の中には艦体整備が未成で、乗組員の慣熟が十分でないものもありました。
そこで帝国海軍は隻数だけは米艦隊と同数にすることを企み、戦艦6隻に巡洋艦10隻を主力とする「接待艦隊」を、伊集院五郎聯合艦隊司令長官を指揮官として編成したのでした。
その乗組員数は11,364人、当時の現役海軍軍人の総数が47,945 人であったことから、海軍人員の1/4を「ホワイト・フリート歓迎」のために投入した「大作戦」であることがお判りになりましょう。
実際の接遇に当たっては、1対1の「ホストシップ」を指定しています。
ラグビーワールドカップなどで好評だったシステムを取り入れやがったんだな(時間が逆転しとる!)
ホストシップの艦長は
「受持米艦ノ乗員ト親シク往復歓待シ歓迎ニ関スル一切ノ事項ニ就テ成シ得ル限リ斡旋嚮導シ以テ十分ノ便宜ヲ與フルニ遺憾ナキヲ期スヘシ」と命令を受けていました。
しかし、流石はロイヤルネービーの盟友であり、強大なロシアバルチック艦隊を完膚なきまでにぶちのめした帝国海軍。ホストの真似事だけやってたワケではありません。
ホワイト・フリートの離日後になりますが。
海軍軍令部は「接待艦隊」の調査報告を編纂して「米國大西洋艦隊ニ關スル軍事報告」として部内に配布しているのです。
その緒言によれば大意
「米艦隊が艦内を十分に公開しなかったため満足な調査はできなかったが、軍紀や艦内生活など乗組員の人的な面については、ほぼ正確な観察はできた」
としています。
たとえば、「八雲」艦長のホワイトフリートの軍紀・風紀に関しての報告を見ておきましょう。
『艦内ニ於ケル兵員ノ風紀ハ最モ不良ナルヲ認ム。(中略)就業時ニ於テ水兵ノ極メテ多數「メスデツキ」ニ午睡ヲ貪リ或ハ「トランプ」ヲ弄スル等中甲板ハ雑然トシテ無職者ノ集合所ナルヤノ觀ヲナス(中略)米海軍ノ軍紀風紀ヲ維持スル爲メニハ比較的峻酷ナル軍法會議ノ判決處分ニ期待スルコト多カラサルヲ得ス(中略)横濱在泊中行状不良ノモノニシテ一時モ上陸ヲ許可セサルモノ多數アリ(中略)本月二十三日午前調査報告ハ歸艦ノ期ニ後ルル下士卒合計六十七名ナリ云々』
ホワイト・フリートにはコックやウェイターとして300人ほどの日本人が乗り組んでいたことは既に紹介しましたが、この人たちに対する聞き取り調査も行われ
「乗組員の勤務状況は不良であり、脱艦者が多い」
ことが報告されています。
また、ホワイト・フリートには無線電信とは別に、無線電話が装備されているとされていたのですが、その到達距離は噂されていた22マイルとは程遠い、13~15マイル程度であり、故障が多く有効ではない事なども判明しています。
ちゃんとやることはやってるじゃん、帝国海軍。流石ですね、明治の帝国海軍。
って申しますのは昭和になると、この情報にガツガツした様な態度が帝国海軍から消え失せちゃうんですよ。
たとえば、どこかの港(China大陸の)で他の海軍艦艇と「相互訪問」しても、相手艦を観察した報告などが上ってないんです。
いや、大したことは判らないんですよ。でも「次に会うときは敵かも」と思ってみると、意外な弱点を見つけるかも知れないじゃないですか。
少なくとも、大英帝国海軍は我が艦艇を訪問した時は「士官室の位置・規模」などを報告していますよ。
さらに、明治の海軍は「歓迎」だけしたのでは癪に触る、とでも考えたんでしょうか?
ホンマの意味で(って言うか軍事的に)もホワイト・フリートを「歓迎」してやることにしたのであります。
演習計画
もちろん、ホンマの本気で「軍事的にお迎え」してしまったら、大日本帝国の上下官民軍政が揃って努力してきたことがパーになってしまいます。日米間の平和が…
ただ、圧倒的な力を見せつけるために、太平洋にやって来たホワイトフリートを、ただただ「歓迎」って、やっぱり悔しいし。
そこで帝国海軍は「ホワイト・フリート迎撃演習」をやってみよう、と考えたのであります。
そもそも、大日本帝国海軍は、明治20(1887)年6月に「海軍演習概則」を制定し、それからは数年おきに「大演習」を実施しています。
規則では大演習は「臨時に実施するもの」と定められていたのですが、明治20年代から30年代では常に3月~5月の春季に実施されています。
場所はすべて日本列島に極めて近い海域で行われています(除く、明治36年度=対露戦を意識したためでしょう)。
もちろん、ココまでの演習想定は特に対米戦を意識したものではありません。
帝国海軍がアメリカを仮想敵国として大演習を行うようになったのは、実にこの「ホワイト・フリート迎撃演習(明治41年度海軍大演習)」からなのであります。
ふたたび「公文備考」からこの大演習の「計画はじめ」を探ってみますと、明治40年11月29日に軍務局長名で各鎮守府・要港部の参謀長あて「翌年11月頃に大演習が実施される」旨の通知文書があります。
なお、この期日は一月後に「10月から11月」に変更されています。
つまり、明治41(1908)年度の大演習は前年の11月から計画されていたのです。
この時点では、まだホワイト・フリートの来日は決定していませんが、帝国海軍は早くから「来る」と判断し、その時期を正確に見積っていたことになります。
明治41年になりますと、3月10日に東郷平八郎軍令部長から斎藤海軍大臣あて商議が上がっています。
『本年十月中旬ヨリ約三十日間ノ豫定ヲ以テ(中略)大演習ヲ施行セシメラレ度右商議ス
明治四十一年度大演習豫定計畫要領
一、 明治四十一年度海軍戦時編制ニ準シ海戦部隊ノ大分ヲ以テ聯合艦隊ヲ編成シ防備部隊ノ一部ト共ニ演習ニ参加セシム
聯合艦隊ノ編成ハ演習開始ノ數日前ヲ以テ実施セシメラル
二、演習ハ二期ニ區分シ第一期ニ於テハ艦隊ノ出征前ニ施行スヘキ海戦諸要務及軍港防禦ノ一部ヲ実施攻究セシメ第二期ニ於テハ演習部隊ヲ南北両軍ニ分チ南軍ハ支那海ヨリ北上シ來ル敵國軍ニ擬シ又北軍ハ九州方面ニアリテ之ニ對峙セル帝國軍ト見做シ南西諸島九州沿岸ニ於テ艦隊對抗及攻撃防禦諸動作ヲ攻究セシム
三、略』
この商議に対して斎藤海軍大臣は「異存なし」との回答を3月24日付けで発します。
「ホワイトフリート迎撃大演習」の実施はコレで決定。
4月2日には軍令部から、「大演習は10月17日開始、11月18日終結の予定」と各部署に通知されました。
前回の「ホワイト・フリート太平洋へ」では、この年の4月28日に「アメリカ艦隊が10月17日から24日まで、横浜に来航の予定」と公表されたことを紹介申し上げました。
帝国海軍は当然、政権内部の公表前の予定を把握していた筈です。なにせ、「歓迎主務官庁」ですからね。
帝国海軍ったら、「大演習」の開始をホワイト・フリートの横浜到着予定日に合わせていたんです。お茶目さんなんだから!
って、そんな軽いワケ無いですよね。
ホワイトフリート、おそれる(笑)
ホワイト・フリートの大日本帝国訪問の日程が決まったすぐあとのことです。谷口駐米武官から
「米國ニ於ケル日米開戰論ニ關スル件」と題するレポートが東郷軍令部長に提出されています。この報告で谷口は、
「艦隊來訪ノ擧ハ實ニ米國國民ノ我ニ對スル誤解ヲ解クニ於テ最上ノ好機タルヲ疑ハス。(中略)艦隊乗員ヲシテ悉ク陶然トシテ我友情ニ醉ハシムルヲ得テ、一萬三千ノ兵士ヲシテ盡ク好感ヲ齎ラシ歸ラシムルヲ得ハ、米國國民ノ心裡私カニ我ヲ疑フノ念必スヤ氷然トシテ釋ケ、兩國ノ國交益厚キヲ加フヘキコト又疑ヲ容レサル所ナリ」
と述べて、歓迎に万全を期すことの必要性を述べています。
帝国海軍が「演習」とはいえ、何時でもホワイトフリートと一戦交えることの出来る態勢でアメリカ艦隊を迎えることは、
「我が国の歓迎効果を減じ、相手側に懸念を懐かせる結果となる」
との心配は各界で提起されていました。
そこで10月8日になって、軍令部長名で
「今回ノ大演習ハ、世界ノ注視スル所ニシテ、而モ其行事ハ機密ヲ要スルモノ極メテ多シ。
諸官ハ、宜シク此意ヲ体シ、尚部外ニ對シテハ一切演習ニ関スル談話通信等ヲ避クヘキ様、厳ニ部下一般ニ訓示スヘシ」(改行・句読点は電脳大本営)
と命令が出されています。帝国海軍、超巨大戦力のホワイト・フリートに対して、やる気満々じゃないですか。
(演習)企図は秘匿しても、作戦中止なんて考えても居ません。
この演習は次のようなシナリオで実施されました。
「聯合艦隊(この当時は常設ではなく、演習時に臨時編成されたモノ)」を北軍と南軍に分けます。北軍が大日本帝国艦隊で、南軍が「敵国艦隊(すなわちホワイト・フリート)」の役割です。
南軍は南シナ海を北上してきます。奄美諸島を占領した後で九州沿岸に進出してくるのです(沖縄はどうなるんじゃろ?)。
これに対し、「演習ルール」で北軍の「関門海峡通過」は禁止。
北軍は佐世保と呉から出撃するのですが、各個に大隅海峡と豊後水道を南下しなければなりません。
九州東方で会敵するまでに合同するなり、同時攻撃を可能にする方策を取るなりしないと、優勢なる南軍を撃破することは出来ない、って「課題」だな、ってのが私の見立てです。まあ、間違いないでしょう。
「演習シナリオ」は蓋然性の高い「敵の可能行動」を見積って策定されるものです。そうじゃなきゃ、演習は意味を成しません。
この演習の「南軍」の行動は、ホワイト・フリートが日本来航時にとった航路とほぼ一致するものでした。
ただし、演習はホワイト・フリートの横浜入港の予定日に開始されてるんですから、「敵の可能行動を見積って」やった、とは言えませんね。「敵」が既にたどった航路を南軍が再現して、それを北軍が叩く、と言う演習でした。
やられる方のホワイトフリートは、帝国海軍が大演習をやってることをを察知し、訓練の概要を掴んでいたようです。
大日本帝国海軍の名を高めた「日清」「日露」両戦役では、いずれも日本海軍が宣戦布告前に奇襲攻撃をかけてますし(特にどこの国からも批難されてませんよ)、それはアメリカ海軍軍人も良く知ってますから、奴らは心配だったんじゃないでしょうか。
「儂らが東京湾に進入したら、聯合艦隊が浦賀水道を封鎖するんじゃね?」と恐れおののきつつ、我が国にやって来たんだと思うと、すっごく気持ちよくなりますなぁ。
若かりしハルゼーもスプルーアンスも、しょ〇べ〇漏らしたんじゃねえのか(笑)
ちょっと横道にそれますが、この
帝国海軍は「宣戦布告前に奇襲攻撃をかける」って「前科」を持ってる、アメリカ海軍はそんなことは百も承知だってことなど、「真珠湾奇襲攻撃はわざとやらせたんだー」とか主張する陰謀論?の方々は、もちろんご存知ですよねぇ。
たぶん、陰謀論者の方々がご存知無いだろう(陰謀論のネタになりそうだから良っくご存知かも)「史実」がもう一つありまして。
それは「戦艦メインの悲劇」とでもいうべきモノであります。
戦艦メインはアメリカ合衆国海軍初(と言っても良いでしょう、たぶん)の「外洋航行可能な軍艦」でありまして。
Wikiによると米海軍の類別は「装甲艦」見たいっすけど、ココでは「戦艦メイン」で通します。
で、この戦艦は就役(1895年9月)してからずっとカリブ海をウロウロしてるんですが(その程度がこの当時のアメリカの勢力範囲です)、1898年1月になると、キューバのハバナで暴動?が起きます。
キューバはこの時、スペインの植民地支配からの脱却を目指して、あと少しで独立を勝ち取るところまで来ていました。要はスペインと戦争中。
ハバナにはアメリカ人も沢山暮らしていましたから、メインは合衆国と国民の「権益保護」のために急遽派遣されるのでした。
ところが2月15日、ハバナ港に停泊していたメインは突如大爆発を起こして、艦の前部を吹き飛ばされ、あっという間に沈んでしまったのです。
アメリカはコレを
「スペインが仕掛けた機雷のため」
と言うことにして、キューバからスペインを叩き出し、キューバを属国化しちゃいます。いっちゃん割を食わされたのはキューバの人達、と言う悪オチです。
アメリカはキューバだけじゃなくて、太平洋全域でスペインと戦争を繰り広げて、フィリピンを奪い取ったりしています。
ただし、ホワイト・フリートのリーダー陣から見れば
「外国の港に行ったら、ひそかに爆薬を仕掛けられて沈んじゃった先輩がいる」
でありますからね、怖かった筈です。
ホワイト・フリート、遅れる
そのためかどうか?私しゃ感知しませんが、ホワイト・フリートは、日本到着が遅れてしまいます。
通報艦の「ヤンクトン」が先行したことは、すでに書きましたけれど、コレの横浜到着予定が10月16日。
ホワイト・フリート主隊は同17日の朝の到着予定。ところが、16日の太陽が沈んだのに、主隊どころかヤンクトンもその姿を東京湾口に見せなかったのであります。
結論を先に申しますと、ホワイト・フリートはフィリピンから北上中に台風に遭遇しやがりまして、横浜到着が1日遅れてしまったのでした。
日本側がそろそろ慌てふためくころ(「演習」が気に喰わず、戦争する気になったんじゃね?ってな心配で)、アメ公から「遅れるわ~」って電信がありまして、今度は帝国海軍が緊急の上奏(天皇陛下への報告)を要請。
私のような下々に判りそうな言葉にしますと
「ホワイト・フリートのボケ、台風くらいで遅れやがって。よって、大演習も1日遅らせて18日午前8時からおっぱじめますわ。」
って報告でありました。
帝国海軍、ホワイト・フリートの横浜到着時から大演習を開始することにエラく拘ってたんですね(笑)
まあ、こうしたスッタモンダはあったのですが、ホワイト・フリート(アメリカ大西洋艦隊)は無事に横浜に入港、大日本帝国の各界から大歓迎を受けるのでありました。
入港の当日には、横浜公園での歓迎園遊会で三橋信方横浜市長が
「ペリー提督が初めて来航した当時は漁村に過ぎなかった横浜が、今は帝国貿易上の首港にまで成長しました。その繁栄をもたらしたのは実に米国であります。」
と、最大の米国ヨイショ演説をぶちかまし。
その夜はグランド・ホテルで市長晩餐会、続いて知事公邸で夜会。
翌日は将校一行が東京へ向かい、新橋駅で小学生が歌うアメリカ国歌に迎えられ皇居での天皇陛下に謁見。
続いて海軍大将東郷平八郎主催の園遊会(新宿御苑)・岩崎久弥主催晩餐会(深川岩崎邸)・東京市長歓迎会(上野精養軒)・東京市歓迎会(日比谷公園)が休む間もなく催されたのです。
大日本帝国が歓迎してやったのは乗員だけではありません。ホワイト・フリートの士官の家族まで日本へ呼び寄せていました。
家族まで歓迎行事に招待するばかりか、鉄道での移動や宿泊などにも特別な待遇を与えたようです。
東京・大阪・京都・横浜・神戸の5商工会議所は、連名で排日熱が盛りあがっていたアメリカ西海岸の実業家を、この時期に合わせて日本に招いたりしていました。
この実業家たちは帝国を離れるにあたって
一、日本帝國人民の北米合衆國人民に對する友情好意は何等疑を挟む餘地なき事
一、兩國間の通商關係は鞏固となり得べきのみならず之をして益々鞏固ならしめざるべからざる事
一、 兩國間の通商貿易の増進を計り兩國民間の友情を持続する爲め適當なる方案を講ずる事
などの決議を日米両政府・経済界の関係者に送付しています。
ホワイト・フリートに随行して来日したアメリカ人新聞記者4名に対しては、新聞・通信記者が数十名も出迎え、東京を付きっきりで案内し、上野精養軒でのランチや紅葉館でのディナーで歓待しています。
これら「艦隊歓待」の効果で、アメリカ・ワシントン州の日本人会から、
「米国内における日本に対する誤解は一掃し、対日感情が好転した」との報告が上がるようになります。
ホワイト・フリートに対する日本の歓迎振りが伝えられた欧米諸国主要な新聞の反応も概ね好意的でした。
「ニューヨーク・タイムズ」の10月24日の社説では、
「既往及び現在における日米両国交誼の基礎は、到底従来発生し又は将来発生することあるべき紛争のために攪乱せらるゝものに非ざるを吾人並に全世界に表明した」
としています。
ただ、アメリカの排日派新聞の中には
「優勢ナル米艦隊ニ對シ我邦(日本のこと)カ遜譲ノ應待ヲ爲スハ猶ホ『ブルドッグ』ノ鼻息ニ畏縮セル『フォックス、テリアー』ノ醜態ニ似タリ」
とする悪言も散見される、との在外公館からの報告もありました。
招待された西海岸の実業家からは、日本側の実業家たちにアメリカへの招待も申し込まれ、翌年の8月20日に渋沢を団長とする52名の実業家らがアメリカへ出発しています。
アジア・太平洋は平和になった
この段落を書くにあたって、まずお断りしなきゃいけません。儂は「太平洋戦争」と言う人を信頼したことがありません。
まして、「アジア・太平洋戦争」などと自分から抜かす輩は物体ではあるかも知れんけど、人間じゃあない、少なくとも日本人であるとは認めねぇ、と思っております。
なので、このタイトルはパヨどもに対する嫌味でありますからね(笑)
さて、明治41(1908)年7月、つまり大日本帝国がホワイトフリートを「お迎え」する準備をやってた時に、桂太郎が内閣を組織した、ことは紹介いたしましたね。
このとき、桂は「アメリカとの関係改善」を重要な外交方針として掲げていたんです。
たとえば9月25日の閣議で決定された「対外政策方針」の一部を見ますと
「帝國ノ列國ニ對スル態度
米國、帝國ハ政事上ニ於テ米國トノ關係ヲ親善ナラシムル必要アルノミナラス同國カ我商業上ノ大華主國タルノ事實ニ鑑ミ同國トノ親交ハ益々之ヲ増進スルヲ必要ナリトス(中略)
太平洋問題ノ如キモ適當ノ時機ニ於テ米國トノ間ニ協商ヲ遂ケ一般米國人ヲシテ不安ノ念ヲ去ラシメ以テ排日論者ヲシテ煽動又ハ離間ノ餘地ナカラシメ日米永遠ノ和親ヲ維持スルヲ必要ナリトス」
「對外經營
米清兩國ハ我對外商業上最モ重要ナル市場ナルヲ以テ啻ニ兩國トノ間ニ於ケル現時ノ貿易ヲ維持スルノミナラス益々兩國ノ市場ヲ開拓シテ我貿易ヲ此方面ニ發展セシムルヲ必要ナリトス」
「移民ニ關スル方針
米、加、濠等ノ「アングロ、サクソン」諸邦ニ對シ此上多數ニ我同胞ヲ移殖スルハ結局是等諸邦ニ通スル排日熱ヲ誘致シ彼等ノ排日的團結ヲ促シ累ヲ我政事上ノ關係ニ及ホスカ如キ危險ニ陥ルノミナラス我對外經營ノ主要目的タル商工業ノ發展ヲ阻害スルノ虞アルヲ以テ帝國ハ移民ニ關シテハ現状ヲ維持スルコトト爲スヘシ」
アメリカに関する「対外政策方針」は、ホワイト・フリートの来航が成功裡に終わったことを受けて、アメリカへも開示され、ただちに協議が開始されることになりました。
そして11月30日には、「太平洋における領土の現状維持」「清国の独立と領土保全及び清国における商業上の機会均等」などを取り決めた「太平洋方面に関する日米交換公文」(高平・ルート協定)が調印されたのです。
この協定は12月2日に日米両国で同時に公表されることになったのですが、アメリカの各新聞社の論調はこの協定に理解を示しすものがほとんどでした。
猖獗を極めた西海岸での排日論も沈静化し、日米開戦論などは影を潜めることになったのです。
欧州諸国のメディアには、「ホワイトフリート来寇」を含む一連の排日騒動から、高平・ルート協定成立までの交渉を「日本外交の勝利」と称賛するものさえありました。
ココで「大東亜戦争」派の人に考えて頂きたい、と思います。まあ、「太平洋戦争」派の人も考えてみて欲しい。
「ホワイト・フリート事件」では、アメリカは明らかに「砲艦外交」を用いて大日本帝国に迫ってきました。
我が国はこの時点でアメリカと一戦交える気は全くなく、いわば「外交」だけでホワイト・フリートを「撃退」しようとしていたのですが、その外交には「軍事力」も含まれていた、って事であります。
「どうしてもヤルってなら、いつでも相手になってやるぜ。お宅の御自慢の艦隊を半分くらい沈めるつもりなら、我が本土に陸兵を上陸させられるんじゃね?上陸したら、ロシア陸軍を満洲で追い回した帝国陸軍もお相手するからさ。」
ってな能力と、実際にその能力を使用する意思・それをはっきりと相手国に知らせる方策。
これらが揃って、いわゆる「外交」に力を与えるのであります。
こうして使ってこそ、「戦争は外交の延長」と言う格言が生きて参ります。逆に申し上げれば、戦争する意思が全くない外交なんぞ、何の力も発揮することは無いのです。
平和のためには強大な軍事力が
ルーズベルトが大統領職を退任したあとのことになりますが。
訪欧したルーズベルトに、ドイツ帝国の海軍大臣が質問いたしました。
「ホワイト・フリートが世界周航した時、日本から攻撃を受ける可能性を考慮しなかったのですか?」
ルーズベルトは次のように答えたそうです。
「10のうち9までは、攻撃があるとは思いませんでしたが、残りの1はその可能性を考えていました。」
ホワイト・フリートの世界周航の動機は、アメリカの海軍力を世界、特に大日本帝国に誇示するにあったのは間違いないところです。
日本との軋轢は一つには移民を含む貿易の問題であり、今一つはやっと手に入れた植民地フィリピンの安全、最後にChina大陸での機会均等(ハッキリ言えば、Chinaでの利権をアメリカにもよこせ!ってこと)でありました。
一方の大日本帝国は日露戦争に勝利はしたものの、軍備や財政は疲弊し、奉天会戦以降は戦いを継続することはほぼ不可能でした。
ホワイト・フリート来航時は、その疲弊からの回復期にあり、アメリカとことを構える意思も能力も大いに不足している時であります。
大日本帝国は「艦隊乗員ヲシテ悉ク陶然トシテ我友情ニ醉ハシムル」ことを目標に、ホワイト・フリートを官民挙げての熱烈歓迎で迎え撃ったのですが、その一方では、来港に合わせて「迎撃演習」を実施して見せたのです。
これこそ国としての外交力・軍事力の神髄でありましょう。