ホワイトフリート、太平洋へ
明治40(1907)年12月、バージニア州ハンプトン・ローズを出港したアメリカ艦隊は大西洋を一路南下、チリ海軍の艦艇に先導されて「難所」のマゼラン海峡を通過いたします。此処までのお話はコチラ
大艦隊は太平洋に姿を現したのです。
示威か自慰か「白色艦隊」
アメリカ艦隊はハンプトン・ローズを出港した時には、エバンス少将を指揮官として戦艦16隻・駆逐艦6隻・給炭船などの補助艦船5隻と、その乗組員約14,000人で編成されていました。
乗組員の中には大東亜戦争で、アメリカ海軍の艦隊指揮官として活躍するレイモンド・スプルーアンスやウィリアム・ハルゼーの名前も見えております。
このアメリカ艦隊は何故か艦体を白く塗装していました。
塗装の理由は不明ですが、石炭を積み込めば激しく汚れるのが通例ですから、何らかの積極的な理由があった事は間違いないでしょう。
大日本帝国もこの塗色には注目したようで、「白色艦隊」と呼んで、その動静に注目いたします。
ただ、この時点では大統領のルーズベルト氏は「世界周航」「日本を攻撃する」などと表明したワケではありません。ただ、太平洋に艦隊を入れただけであります。
明治41(1908)年3月11日、ホワイト・フリートはメキシコのマグダレナに到着、翌々日にルーズベルトは「ホワイト・フリートの航海の目的は世界一周である」との声明を発表します。
この発表はその次の日(3 月14日)には、高平小五郎駐米大使から林董外務大臣に報告されています。
その報告によれば、アメリカ政府が公表した白色艦隊の7月以降の行動予定は、
《サンフランシスコ~ハワイ~ニュージーランド~オーストラリア~フィリピン~スエズ~ニューヨーク》
となっています。
太平洋を一周して、西回り(スエズ運河経由)で世界も一周しちゃおう!という大航海計画であります。ただし、日本への寄港予定はないんですね。
この「危機」に対し、大日本帝国が選択した対策とは…「白色艦隊」の歓迎でありました。
ご覧になったように、太平洋を横断しようとするホワイト・フリートの寄港予定地に帝国領内の港は含まれていません。
そこで予定航路を変えて、寄港するよう強く要請することにしたのです。
そもそも、高平駐米大使は米艦隊行動予定の報告の際、
「英国政府は白艦隊のオーストラリア訪問を招請しております。訪問先に帝国領が含まれていないのは、日本が正式に艦隊を招請していないからで、日本政府も同艦隊を招請すべきです。」
との意見を具申しているのです。
引き続き高平大使からアメリカ政府筋の確かな情報として、
「日本政府が招請さえすれば同艦隊を日本に訪問させることになる。その場合、(示威行動とみられて)日本人の感情を害しないように、かつ、アメリカ国内の排日煽動家に口実を与えないように考慮し、戦艦 4 隻のみの派遣となる」
旨が伝えられました。
この情報を精査した林外務大臣は3月18日、高平大使にホワイト・フリートの日本訪問を米国政府に正式に招請するように、との訓令を出したのでありました。
大日本帝国の招請に対して米国政府は同20日夜、回答を出しています。
「大統領ハ日本國民ノ表明セル誠實ナル好意ニ深ク感スル所アリ米國ハ欣然此招請ニ應スヘキ…」
ルーズベルト大統領は日本からの招請を受諾した直後に高平大使と懇談、日米関係について語っています。
「今回ノ招請ハ日米間ノ友好関係ニ付従来世人ノ抱キタル疑惑ヲ冷却スルニ於テ現ニ米國内到ル處顯著ナル効果ヲ奏シツツアル(中略)
…(移民問題ニ言及シ)當國ノ人心全ク平調ニ復シテ貴邦移民ヲ歡迎スルノ傾向ヲ見ルニ至ルル(中略)
此上勞働者ヲ當國ニ送ラサル様留意セラレムコトヲ希望ス」
どっちやねん(笑)移民歓迎なのか、労働者送り込み拒否なのか。
まあ、政治家の発言、特に外国に向けての発言なんて「何言ってるんだか」が普通であります。
私どもは、隣国Koreaの捏造政治家どもの発言を聞きすぎてますので、
「政治家の嘘」に拒否感があり過ぎるんですよ。
Koreaのは特別に悪質、1%の真実も含まない発言はダメですが、「自国が有利になるように嘘をつく」のは政治家の当然の職務です。
歓迎態勢
ともあれ、ホワイト・フリートの日本招請に関する、アメリカとの外交交渉が一応の成功を見ることになりました。
ついで、艦隊の乗組員と艦隊に航海のカネを出してやっている、アメリカの納税者(=排日運動を熱心にやらかしてる人びと)に好印象を与える(あくまでも印象、ですよ)ことが重要になります。
さっそく政府内に加藤友三郎海軍次官を委員長とする「米国艦隊接待委員会」が組織されます。
直接の相手はアメリカ合衆国海軍の大西洋艦隊でありますので、歓迎準備は海軍省を中心にして進められることになったのです。
委員会には明治大帝から直々に
「日米海軍の間に軋轢が生じないように、駐日米国大使とよく協議するよう」
とのお言葉が下されます。
また「歓迎計画案」を、米艦隊がフィリピンを出港する前に、同地に郵送して米側の意向を確認する、同案を高平小五郎駐米大使から米国政府にも通知しておく、などなど、日本側は念には念を入れまくった配慮を積み重ねていました。
このあたりはアジ歴の「公文備考」で閲覧可能ですが、電脳大本営調べでは、「ホワイト・フリートの歓迎計画に関する最も古い海軍省文書」は、明治41年5月28日付け(作成?)の「本年十月米國艦隊横濱來航ニ付準備事項」と題する文書です。
さてホワイト・フリートの航海、名目は演習航海であります。しかし演習とはいっても所要14ヶ月・航程40000カイリは、かの「バルチック艦隊の極東回航」を大きく超える大航海です。
航路のほとんど全てが「敵対的」な沿岸であったバルチック艦隊に比べて、安全・快適な航海が約束されていたのですが、それでも石炭の積み込みは重労働でありまして。
それを14か月もの間、同じ水兵さんにやらせて、反乱の一つもない(脱走はあり)というのは、見事な艦隊、あっぱれな司令官と言うべきでありましょう。
先走りますが、その全航程を見ておきましょう。世界周航は大きく3つに区分されていました。
第1航程は、東海岸のハンプトン・ローズから大西洋を南下、マゼラン海峡を通って太平洋を北上し西海岸のサンフランシスコに至るまで。
この航程終了(サンフランシスコ到着)後、指揮官のエバンスが病気のためチャールズ・スペリー少将に交代。
参加の戦艦も「メイン」と「アラバマ」が「ネブラスカ」と「ウィスコンシン」に入れ替えられています。
その上でサンフランシスコからシアトルまでの間の西海岸を往復して太平洋を睥睨するの武威を張っています。
第2航程は太平洋に「出撃」、オーストラリア大陸の南を回り、フィリピン着。ロンボク・マカッサル・バシーの各海峡を通って日本に寄港した後、フィリピンに戻るまで。
日本を出発した後、艦隊を2分し半分は中国に寄港させた後、フィリピンで合同。
第3航程は、フィリピンからマラッカ海峡を通ってインド洋を横断、スエズ運河から地中海に入り、ジブラルタル海峡から大西洋を横断して、明治42(1909)年2月22日に帰国するまで。
アメリカ合衆国大統領のセオドア・ルーズベルト氏は、このホワイト・フリートの帰国を待っていたかのように、同年3月9日に大統領を退任するのでありました。
アメリカの不安・帝国の不安
ホワイト・フリートの招待について、大日本帝国が大変な気の使いようだったのですが、程度の差こそあれアメリカ政府も気は使っておりました。
ホワイト・フリートの日本訪問に際して、不測の事態が起きることを予測し、それを防ぎ、親善訪問の実を結ぶために…
日本へ寄港する艦隊の規模、乗組員の日本での上陸などに関して検討が行われたのです。
艦隊司令長官のエバンスには、日本を訪問するように計画を変更させ、特に水兵さんの上陸にあたり、素行の確実な者のみに許可するように指示しています。
また、日本および日本以外の外国で接する日本人に対して「極度の敬意及び好情を示す」ことが命令されています。
実際のところ、ホワイト・フリートが立ち寄ったブラジルでは、3000~4000人の水兵さんを上陸させたのですが…
一部の水兵さんが地元の人とトラブルになり、乱闘に発展したために上陸していた兵員を全て艦に呼び戻した事件が発生していました。
その前のサンフランシスコ出港時には、129人の水兵さんが帰艦せず(笑)これは全乗組員の約1パーセント!
ってか、出発地(ハンプトン・ローズ)からの脱走者の総計は693人の多きになっちまったのであります。
つまり、アメリカ海軍はカネがあるから戦艦をたくさん造れたのでありますが、この時点ではまだ水兵さんの資質が追いついていなかったんですね。
各寄港地において米艦隊の初級士官たちは、脱艦者の防止や捜索に忙殺されていたようですよ。
大日本帝国とは民度が違うんでしょうか(笑)
大日本帝国には、外国の軍艦の訪問については痛恨の思い出があります。「長崎事件」であります。
長崎事件の当時は、大日本帝国の軍備いまだ十全ならず。清国のレベルの低劣な水兵どもに、国内を荒らされてしまったのですが…
今や帝国の海軍力は、やってくるホワイト・フリートにはわずかに及ばず、と言えども世界的な「強力海軍」と認知されるまでに成長しております。
相手も、種々軋轢はあると言っても「文明国」であり、猿に毛が生えたのより程度の悪い清国水兵のようなマネを許すことは、出来ない道理。
一方アメリカ海軍の方も、礼儀正しく訪問することが国威を発揚する道であることは理解しておりまして、特に日本訪問にあたっては取り締まりを厳しくすべく日本側と調整を進めるのでした。
警備体制
ホワイト・フリートが「世界周航」をはじめますと、帝国が憂慮するような報道が各国から伝えられるようになります。アメの水兵さん、ブラジル以外でも暴れたり逃げたりしたんですな。
これでは日米ともに(親善効果を損なうことなく)、ホワイト・フリート寄港時の警備と取締りを真剣に考えざるを得ません。
帝国にはこういった、相手国の機微に触れる交渉事のときの「とっておき」としてお雇い外国人が用意してありました。
外務省顧問のヘンリー・デニソンさんであります。
デニソンは、日露戦争時の対ロシア交渉文書を、全て起草したほどの外交家にして名文家であります。
デニソンを通じて日本側から、水兵さんの上陸やその警備に関する考え方が次のとおり伝えられています。
「一、上陸兵員取締ノ爲艦隊ヨリ武装セザル風紀衛兵ヲ陸上ニ差遣ノ儀ハ毫モ差支ナク至極便宜ノ方法ト存候又米艦隊ノ上陸兵員接待ノ爲メニ我艦隊ノ水兵ヲ案内者トシテ同行セシムル場合モ可有之ト思考致居候
二、(省略)
三、…多數兵員ヲ陸上ニ宿泊セシムルコトハ頗ル困難ナルヘクト存候而シテ我國ニ於テハ午後九時十時以後ハ市街ノ大部分ハ寂寥タルヘク候得バ晝間早目ニ上陸セシメ夕刻ハ早目ニ皈艦セシメラルル方我國風ニ適スル事カト思考候」
読みようによっては、国内の警察権を手放す気かよ?って聞いてみたくなりますね。まあ「武装セザル風紀衛兵」って断ってますから…
ただ、トラブルってモノは一方の責任だけで生起するとは限りません。
大日本帝国の臣民は今も昔も民度が高いのですが、価値観が異なるであろうアメリカ水兵が、大量にウロチョロするとなると、やはり心配はあります。
内務省及び警視庁などが警備・取締りに関する調整を行い、明治41(1908)年10月1日に「米國艦隊員入京ニ對スル取締手配」が亀井英三郎警視総監から示されています。
残念ながら、私はこの「手配」の内容を読んだことが無いのですが、防衛省の研究文書等によれば
「米艦隊乗組員を賓客として優遇することに主眼を置き、併せて人力車夫の取締りや衛生管理など日本の体面を保つことにも配慮されたものであった。」
という事です。
もちろんアメリカ側も日本で水兵を上陸させることには懸念を感じていました。
そのためフィリピンを訪問した後、艦隊を二つに分けて一方は日本に、他方はChinaの芝罘(チーフー、と発音するらしいです)へ分派するなどが検討されています。
また、米海軍次官からは
「日本人カ米國軍艦ニ給仕又ハ司厨等トシテ雇用セラルルモノ三百名内外アリ而カモ其中頗ル怜悧敏捷ニシテ且ツ彼等ノ階級ニハ相應ハシカラザル高等ノ教育ヲ有スルモノモ少カラザルヲ以テ此等ノ或ル者ハ或ハ日本海軍ノ廻ハシ者ニアラズヤトノ疑念ヲ懐ケルモノサヘアル」
という、彼我の教育問題の機微に触れる(笑)苦悩も披露されています。
この「高等ノ教育ヲ有スルモノ」が艦内にいる事が、どう怖いのかって話ではあります。でもアメリカ海軍は怖かったんでしょうね、
「米艦隊を歓迎すべし」とする勅諭を出して欲しい、などと呆けたことを言っております。
明治大帝の事じゃから、お聞きになればアタマから否定なさるようなことはなさらぬじゃろうけれど、それでもなあ、ちょっと図々しいのと違うか?アメ公。
まあ、それでもね。結論を言ってしまいますと、これらの「気遣い」は大きな成功を収めました。
ホワイト・フリートが去ってから、警視総監・神奈川県知事及び憲兵司令官の取締状況に関する報告を総合いたしますと、心配された米艦隊乗組員との間に
「彼我感情ノ衝突ヲ來スカ如キ著シキ事故」
は一件も生しなかったのですが、水兵さんからは4名の「未帰艦者」がでています。
しかしながら脱走兵たちは全員が通報艦「ヤンクトン」に収容され、ホワイト・フリートの主隊から2日遅れただけで日本を離れたのであります。
時間を戻します。
4月24日の米国政府の閣議でホワイト・フリート艦隊の全艦(二つに分けず)を日本に訪問させることを決定、28日には訪問日程が「10月17日から24日まで横浜」と発表されたのでした。
日系の移民による労働が良質過ぎて「排日運動」が起き、海軍の大増勢もあって「戦艦外交」を実行に移すアメリカ合衆国。
この圧力を上手くかわして、「太平洋の覇権」を維持したい大日本帝国。
太平洋を挟んで「宿命のライバル」となった両大国、いよいよ第一ラウンドのゴングが鳴ろうとしております(笑)
注:いつも申し上げておりますが、私は「陰謀史観」「陰謀論」ほど嫌いなモノはこの世に存在いたしません。
ですから、日米宿命のライバル論もまともに信じちゃいませんからね(笑)
次回「ホワイト・フリート撃滅」は大日本帝国がオモテで繰り広げた官民挙げての歓迎と、そのウラでちゃんとやってた迎撃作戦のお話になります。