継続戦争の終わらせ方2

T34-85冬迷彩

ヴィープリを占領し、無条件降伏を要求してきたソ連垢軍。しかし講和交渉の裏では、ちゃんと次の行動に備えて補給と再編成を行っていました。

ココまでのお話は終わらせ方1

続きは終わらせ方3

士気を鼓舞してこそ名将

1944年6月25日、ついにソ連軍が動き出しました。
フィンランドからすれば、無条件降伏を拒否していますので、待ち構えていた動きであります。

このわずかの時間で、フィンランドの方も新たな戦力を防衛ラインに張り付け、ドイツからの援軍を迎え、前線への補給を行っていました。

それよりなにより、ヴィープリ市が占領されたことで崩壊の危機にあった兵士たちの士気が回復していました。
コレは、マンネルヘイム元帥のスピーチによる影響が大きいと言われています。

 

1937撮影のマンネルヘイム

1937撮影のマンネルヘイム

 

マンネルヘイムは防衛への自信を無くした兵士たちを前に、次のような演説をしたそうです。

「諸君、かつて我らは自分の手・自分の力で独立し、自由な未来を守ると誓った。」
「自分たちの国を、自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他の国が認める筈がない。」
「我々は自分たちの手で未来を守らなければならない。」

長く他国の支配下に置かれ、わずか20数年前に「独立」できた兵士たちが反応しないワケがありません。

元来が精強そのもののフィンランド軍は、垢軍を撃退するために再び立ち上がったのであります。

私がマンネルヘイムを「名将」と評価するのは、大きくこの演説が預かっております。
衰えた将兵の士気を一気に高めるのは、言葉の力だけじゃ絶対にムリで、言葉を発する人の人間力・指導力が問われると思っているからであります。

いっぽうで、絶対有利なはずのソ連垢軍には、士気の衰えとまでは言いませんが、持てる戦闘力を全開に出来ないような事情が出てきていました。

アリタヨシフ・スターリン

アリタ・ヨシフ・スターリン

 

ソ連垢軍は、軍人の指揮官と狂産党のお目付け役の「政治将校」の二頭体制であることは良く知られています。

この時もこの弊害が出やがったようです。
プロの軍人たちの主張は
「フィンランド野戦軍を殲滅してから首都ヘルシンキを攻略」
だったのに対し、政治将校たちは
「フィンランド軍は後退するのに任せ、真っ直ぐにヘルシンキを目指す」

でありました。

まあ、この後見ていくように、垢軍はそれどころじゃなくなるんでありますが、こういう作戦目的がはっきりしない戦いは「敗北」と相場が決まっています。

両軍がぶつかるのは、タリ=イハンタラ(どちらも小さな都市の名前です)のライン。
小国フィンランドが独立を死守するか?大国ソ連が「旧領」を回復するか?
「北欧最大の戦い」が始まるのであります。

狭隘な場所で

タリ=イハンタラの戦いはヴィープリ(垢が占領したので、ロシア名のヴィボルグとすべきでしょうか?)から東北方10km内外の距離の、ヴィープリ湾の北端。
ヴォスキ川に沿ったタリとイハンタラという二つの町に挟まれた狭い地域で行われることになります。

ヴィープリ市街(ソ連名ヴィボルグ)

ヴィープリ市街(ソ連名ヴィボルグ)

 

もっと詳しく書くと、ヴィープリから道路を北上しますと、タリという街に到着。
さらにタリ川を渡って北上すると、「ポルティンポイッカ十字路」で、この十字路を北に向かえばイハンタラ。

十字路を左折して西に向かえばユースティラという街で、ユースティラを通り過ぎてどんどん西へ進めばヘルシンキ。もちろん、ココがフィンランドの首都であります。

ソ連垢軍はヴィープリ東部に集結し、小さな湖と東のサイマー運河、西のヴォスキ川に挟まれた幅10キロほどの進撃路を進もうとしていたのです。

第二次大戦当時は、この道以外に、戦車や大砲や大部隊が通行できそうな道がありませんでした。

地形は平坦なんですが、レイティモ湖・カルスティラ湖・イハンタラ湖などと言った湖やタリ川・サイマー運河などの河川、無数の沼や湿地帯に加えて森林もあって、ソ連機甲部隊が縦横に駆け回れるような土地ではなかったのです。
まさに「森と湖の国」の面目躍如ってところ。

ヴィープリ

ヴィープリ

 

当然フィンランド軍の激しい抵抗が予想されるのですが、ソ連軍にとってみれば、イハンタラから先は扇状に広がっていますので、ココさえ突破すれば多方面に展開可能。
一気にヘルシンキを狙えるってモンであります。

タリ=イハンタラのラインって言いますのは縦深方向のラインってことにもご注意ください。

小国の運命のかかったタリ~イハンタラの距離はわずか10キロメートル…

他の方面でも戦争は続いてまして

もちろん、ソ連垢軍はカレリア地峡以外でも攻勢を取っています。

フィンランドに対しては、ヴィープリ市の陥落後、東カレリア(カレリア地峡の北東)でもソ連第7軍が攻撃を開始しています。
第7軍は狙撃兵師団12個と海兵師団4個+14個戦車・自走砲連隊を含めて兵員30万の大軍です。

垢はこの大部隊で地域を奪取するとともに、東カレリアにフィンランドの注意を引き付け、カレリア地峡の防備を手薄にさせようとしたのです。

フィンランド側は、しかしその手には乗りませんでした。いや、戦力が小さすぎて乗るにも乗れなかった、と言った方が正解かも。
カレリア地峡の北端で、何としてもソ連の進撃を止めて、有利な講和に持ち込みたいフィンランドは、東カレリアの防衛を放棄しちゃったのです。

タルヴェラ大将

タルヴェラ中将

 

ココを守っていたフィンランド第2軍(マセル作戦群=司令官タルヴェラ中将)はソ連軍の攻撃が始まる前から、退却を始めていたのです。

しかし、ヴィープリ市が陥落するときと同様に、東カレリアの住民の多くは、フィンランド本土に逃げようとしました。
退却する「マセル作戦群」から見れば足手まといですが、国民を置いて「逃げる」こともできません。

タルヴェラ司令官は、東カレリアの住民のために時間稼ぎもしなきゃいけなかったんです。
かたやソ連軍の狙いを正確に見て取ったマンネルヘイムは、東カレリアには援軍を送らない方針を変えようとはしませんでした。

冬戦争のシモ・ヘイへ

フィンランド軍と言えばこの人、「白い悪魔」シモ・ヘイへ

 

こうしてフィンランド第2軍約15万名の、苦しく長い退却戦が始まりました。
タリ=イハンタラでのフィンランド軍(+応援ドイツ軍)の善戦は、こうした他地域の犠牲の上にもあることは、忘れてはなりません。

6月22日、ソ連軍は「バクラチオン作戦」も開始しています。

バクラチオンはドイツ軍(もちろん東部戦線の)に対する大攻勢、それも189個師団(総兵力250万)を動員したモノでした。
狙いはドイツ軍中央集団の崩壊とドイツ本国への侵攻、とされていますが、実際には西からドイツ本土を目指す米英軍との競争、陣取り合戦の勝利が垢魔スターリンの目的でありましょう。

バクラチオン作戦が実施されたことによって、ドイツはフィンランドを助ける余裕が無くなってしまいました。
しかしソ連軍にも、フィンランド方面に今配置している以上の援軍を送る余裕はありません。

それどころか、ソ連軍はフィンランド攻略軍をバクラチオンに転用したいのです。それほど、ドイツから東欧を奪い取って支配下に置きたかったんです。

ジューコフ

ゲオルギー・ジューコフ
バクラチオンもこの人が指導。

 

それがマンネルヘイムのヨミであり、狙いだったのであります。

鹵獲兵器+援助兵器

1944年6月25日の午前6時30分を期して、ソ連軍はタリの町に20万発以上の砲弾を撃ち込み、第21軍が進撃を開始。

しかし、フィンランド軍は事前に住民を避難させ、ソ連軍に拠点として利用されそうな建物は破壊(「タリ製粉所」という大きな工場だけ破壊せず)していました。

つまり、フィンランド軍は「防衛に不向き」としてタリの防衛を放棄して郊外に布陣していたのです。
ソ連垢軍は簡単にタリの街を手に入れたのですが、フィンランド軍の頑強な抵抗はここからでした。

ソ連軍は歩兵部隊にレイティモ湖沿いの森林内を進撃させ、街道上は第27戦車連隊と第397自走砲連隊が突進。

あっという間に「ポルティンポイッカ十字路」に到達。これでタリ郊外のフィンランド軍を孤立させ、イハンタラとユースティラへの進撃が可能となったのです。

フィンランド軍の抵抗は確かに激しかったものの、ヴィープリ陥落までの余勢を駆って「ごく簡単に」進出出来ました。

無条件降伏を拒否しやがったクセに、口ほどもない…とソ連垢の将兵が思ったかどうか?勝利を確信したことは間違いないでしょう。

T34-76_1940年生産型

T34-76_1940年生産型

 

まもなくポルティンポイッカを占領したソ連垢兵は、T-34中戦車が、見慣れぬ迷彩模様を施されて行動しているのを見ることになります。

そのT34は、近づいてくるとソ連軍めがけて発砲。油断していたソ連軍の戦車や自走砲は次々と破壊され炎上。

この部隊はフィンランド軍の重戦車大隊で「ソトカ」(鹵獲T-34のフィンランド名)と、「クリミ」(鹵獲KV-1重戦車のフィンランド名)に歩兵が随伴していたのです。

垢軍は慌てて体制を立て直そうとしますが、III号突撃砲が側面から迫ります。
III突は「同盟国」ドイツから供与されていました。
挟撃されたソ連軍第27戦車連隊と第397自走砲連隊は、保有する戦車・自走砲の全車両(80両以上)を失って全滅してしまったのです。

フィンランド軍が鹵獲したKV-1重戦車

フィンランド軍が鹵獲したKV-1重戦車

 

この当時のフィンランドは、航空機や戦車を自製できるほどの工業力がない、とされていますが。
供与されたり、分捕ったりした他国の兵器を、元の国より上手に使っているところを見ると、国民の才能は工業に向いていることが判りますね。

そのことを改めて証明するかのような、奇跡的な工作が行われます。
フィンランドの兵隊さんは、ココで撃破した最新型の「T34/85中戦車」(フィンランドが分捕って使っていたT34/76より長砲身・大口径砲を装備、装甲も厚い)を29両(とされています)かき集めました。

破壊した29両から使える部品を取り外し、6両のT34/85をDIYしてしまったのです。
ペンキで砲塔の垢い星を消し、スワスチカを描いて即日戦線に投入!
なんと1944年6月25日当日の話。

再生されたT34/85は従来の「ソトカ」と区別するため「ピトカソトカ(長いソトカ)」と呼ばれたそうです。

歩兵も敗退

機甲部隊と別れ、森の中をイハンタラ近くまで進んだソ連垢軍の歩兵部隊も、フィンランド軍の「賢い」抵抗で前進が止められていました。

歩兵部隊を苦しめたのは、ドイツからもたらされた「パンツァーファウスト」でした。パンツァーファウストは、ご存知のように
「使い捨て(ではないんですが)の携帯用対戦車ロケット砲」
と言って良いでしょう。

パンツァーファウスト

パンツァーファウストを構えるフィンランド兵(映画から)

 

フィンランド兵は、これを垢軍の補給線破壊に使ったのです。

パンツァーファウストは、破壊力は大きいのですが、射程距離が100メートルほどしかなく、初速も遅くて数十メートル程度まで近寄らないと命中率も劣悪。

誰でも手軽に(無反動ですから)使えそうですが、有効に使うのは熟練した兵士でないとムリなモノ。

ところが、この戦場は森の中。隠れ場所が多く、待ち伏せ場所は掃いて捨てるほどあるんです。
しかも、使うのは狩りを得意とするフィンランド兵(狙撃の名手シモヘイヘさんも猟師が本職です)。

そのうえ、狙ったのは一線部隊じゃなくて後方部隊でしたから、パンツァーファウストも本来の力を発揮しようってモノです。

フィンランド兵たちは、2~3本のパンツァーファウストを抱えて森で待ち構え、垢軍の兵員・食糧・弾薬などの輸送車を手当たり次第に狙ったのです。

鬱蒼たる森林を、歩兵中心で進撃したソ連軍ですが、補給車輛が大量にやられたことは、ボディブローのようにジンワリとしたダメージになりました。

後方には、弾薬や食糧が潤沢にあるのですが、わずか数キロ先の前線に届けることができなくなりました。

BT42

BT42はフィンランド製。いちおう、だけど(笑)

 

最前線のソ連兵は飢えと弾薬不足に苦しみ(大東亜戦争の帝国陸軍なら何の問題もないレベルですが)、攻勢は停滞。

イハンタラ近郊では攻守所が変わり始めていました。

垢のくせに粘る

1944年6月26日の時点で、ソ連軍のタリ=イハンタラ線での攻勢は停滞してしまいました。
ソ連軍の大軍はタリ・エリアとイハンタラ・エリアに大きく別れています。
タリでは市街を占領したものの、川の北のフィンランド軍陣地は突破できません。
イハンタラ付近では、森林内を前進したソ連軍がフィンランド軍陣地に突き当たると、側面の補給路を脅かされています。

この時のカレリア地峡の戦力は、フィンランド軍5万名に対してソ連軍は15万名。
ソ連軍の兵力は3倍で、武器もフィンランド軍よりはるかに豊富です。
このまま対峙を続け、垢軍が形勢を立て直してしまったら…。フィンランド軍の勝機は去ってしまうでしょう。
好機の女神には前髪しかないのです。アトハゲなんですね。

カレリア地峡軍の司令官レンナルト・オシュ中将は、そう考えました。
もちろんマンネルヘイムもこの判断を容認。

うまいことに、フィンランド軍の増援に加え、ドイツからの援軍(第303突撃砲旅団)が到着していました。
余力があるって程ではありませんが、なんとか攻勢に出られそうだったのです。

レンナルト・オシュ

レンナルト・オシュ

 

そのうえ、タリとイハンタラのソ連軍はお互いに「孤立」しているのですが、フィンランド軍はその中間で結集出来ていて、ソ連軍よりも効率的に兵力を集中できます。

オシュさんはこの条件を最大限に活かそうとしました。

すなわちイハンタラ近傍のソ連軍に対し、左翼をビョルクマン大佐、右翼をプロマ大佐の指揮に任せ、両翼を推進してソ連軍を包囲してしまおう!というのであります。

両大佐が指揮する部隊はそれぞれ指揮官の名を取って「ビョルクマン戦闘団」「プロマ戦闘団」と呼ばれます。

この「カンナエの戦い」の再現を狙ったかに見える大反撃作戦(カンナエの戦力比は1対2でしたけどね。もちろん、ほぼ全滅したローマ軍の方が2です)ですが、冬戦争時にもフィンランド軍の得意した戦術「モッティ(包囲網)」の拡大版と言って良いものでしょう。

冬戦争のスオムッサルミの戦いで、シーラスヴォ大佐(この時は中将になってます)がソ連軍を全滅させたのも、同じような少数軍による多数軍の攻囲です。

6月27日の早朝、ビョルクマン戦闘団とプロマ戦闘団はイハンタラ戦域で攻撃前進を開始。

フィンランド軍が大規模な反撃をしてくるなんて、思ってもみなかったソ連軍は大混乱。

タリ方面では、ドイツからの援軍「クールメイ戦隊」が「Ju87」急降下爆撃機を繰り出し、タリ川に架かる橋を爆撃・破壊。
タリのソ連軍を孤立させてこちらも大混乱に。

ヤルマル・フリドルフ・シーラスヴオ(右

ヤルマル・フリドルフ・シーラスヴオ(右)

 

この日の夕刻、順調に進撃したビョルクマン・プロマの両戦闘団の偵察兵同士が接触しました。
合流・すなわち攻囲の一応の完成まであと2キロでした。

それでソ連軍はフィンランド軍のモッティ(包囲網)に閉じこめられることになります。

しかし、ソ連軍は垢のくせに、冬戦争の時のような「ヘロヘロ陸軍」ではありませんでした。
ドイツとの激烈な戦闘で経験を積んだソ連兵は、包囲されそうになっても、混乱から立ち直るほどに精強な陸軍になっていたのです。

ソ連兵は奇襲の衝撃は受けたものの、半日ほどの混乱で状況を把握し、反撃を開始しました。

ソ連軍はフィンランド軍が破壊しなかった、タリ北方の製粉所を防衛拠点に利用し、ビョルクマン戦闘団を足止めしたのです。
製粉所はソ連兵によって「難攻不落の要塞」と化し、フィンランド兵の流血を強いました。

タリ製粉所で時間を稼いでいる間に、ソ連軍の第30戦車旅団が移動を完了し、フィンランド軍を待ちかまえていました。

前進を続けたフィンランドの両戦闘団は、偵察兵が接触した時よりもっと接近していました。

両戦闘団の中間に敵の第30戦車旅団T34/85戦車の隊列を置いて、お互いを遠目で視認するまでに接近したのです。500メートルか、もう少し近くまで行ったかもしれません。

しかし、防御態勢を整えたT34/85戦車の大群は、フィンランド軍を強力に阻みました。

T-34-85

T-34/85

 

さらにソ連軍は「無差別砲撃」を敢行したのです。
フィンランド兵とソ連兵が入り乱れている混戦地域でも、なんの遠慮も会釈もなく砲撃を加えるのです。

もちろんフィンランド兵だけではなく、味方の兵隊も吹っ飛ばしてしまうのですが、これこそ垢の本性であります。
コレをやられると、兵力の劣るフィンランド軍の方が、相対的にダメージが大きくなります。

28日昼過ぎで、イハンタラで攻囲を志向していたフィンランド軍の攻勢は停止してしまいました。

その頃、タリでも状況は暗転しかけていました。

タリ川に架かる橋を破壊されたソ連軍は、徹夜で橋を修復。予備部隊数万を総動員して攻撃に転じやがったのです。

タリ郊外のフィンランド軍はすでに消耗激しく、ソ連軍の攻勢を防ぐ力はありませんでした。

ソ連軍は道路を制圧しつつ、ポルティンポイッカ十字路を通過し、イハンタラに突進。
それに呼応して、イハンタラのソ連軍も攻勢に転じ、フィンランド軍が攻囲されそうになっていました。

やはり小国は生き残れないのか…継続戦争の終わらせ方3に続きます。

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