継続戦争の終わらせ方1
フィンランド共和国は元々は「フィン人(スオミ人)」が農業を営み、航海術を発展させている土地でした。
スウェーデン王のエーリクⅨ世が「北方十字軍」とか勝手なことを言い出して、征服しちゃったのが1155年の事であります。
考えようによっちゃあ、ソ連領(笑)
北方十字軍っていうだけあって、フィン人はこの頃は「異教徒」だったんです、もちろんキリスト教中心主義だとね(笑)。これでキリスト教徒になって、「ヨーロッパ人」の仲間入り…
大丈夫ですって、長いフィンランドの歴史を全部やるつもりはありません。
ただ、国の成り立ちくらいはザクっと知っておかないと「存亡をかけた戦争」とか、そこに至る外交交渉のホントの意味なんて判りゃあしません。
ってことで続けます。
スウェーデンの支配は長く続きますが、大北方戦争(電脳大本営的には、「おもろい」のでそのうちじっくり記事にしたい事件です)でカレリア地方がロシアに取られます。
大北方戦争は1700年から延々とやってたんで、まあそのころ取られた、ってことにしといてください(Wikiで見たら1721年でした)。
続いてナポレオン戦争で(一時的に)スウェーデンが敗北して、フィンランドのほぼ全域はロシア帝国皇帝陛下のモノになります。
すなわち、フィンランドは「大公国」となり、ロシア皇帝が大公を兼任したんですな。
まあ、ロシア帝国の一部になっちゃった、ってことで桶でしょう。
この状態のまま、時はすすみ歴史は流れて…ロシア革命がやってきます。ロシア帝国大混乱。
スウェーデン支配時代から、隙あらば独立を!と狙っていたスオミ人たちにとっては願ってもないチャンス。
ロシア軍の大佐だったマンネルヘイム(日露戦争に従軍、奉天大会戦で活躍しています)さんが内戦(フィンランド国内の垢vs独立派)を指揮して、ロシアのクビキから脱するのでした。
ってことは、ソ連からみたら
「スウェーデン支配から救ってやって、大公国(ただし大公はロシア皇帝だが)にしてやったのに、ウチが内部でもめてる間に勝手に出ていきやがったクソ生意気な国」
ってことになりますな。
ココをちゃんと抑えとかないと、冬戦争前のフィンランドとソ連の領土交渉が「ただの大国の無理難題」にしか見えません。
この難題ってのはソ連からしたら、「大都市の一つで軍需産業の中心」でもある、レニングラード(元首都のサンクトペテルブルグを改称)の防衛のために必須の土地を要求しただけだったのです。
防衛ってことは相手があるワケで、ソレはもちろんドイツであります。
領土交渉が決裂してソ連が戦争を仕掛けるのが1939(昭和14)年11月ですから、独ソ不可侵条約が出来た後なんですが、あくまでも名目は「レニングラード防衛の要地確保」。
「ウチの大事な土地を守るのに必要な陣地を『返して』くれ」
って要求でありますので、ソ連からすれば
「必要な土地だけ返してくれたら、独立は認めてやろう」
っていうに等しい、大変に優しい主張であったワケです(笑)。
で、書きましたようにドイツはソ連と不可侵条約を結んでるし、英仏などは「ソ連と事を構えるとドイツに足を掬われそう」ってんでフィンランドを助けません。
フィンランドは世界中から同情だけは有り余るほど送って貰いましたが、肝心の軍事援助はほとんど無いままにソ連と戦い(冬戦争)、独立は守り通したものの、かなりの領土を取られちゃいます。
続いてドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込むと、フィンランドは「勝ち馬に乗って領土を取り返すべえ」と思ったか?ソ連に戦争(継続戦争)を仕掛けちゃいました。
初めのうちは良かったんですが、ドイツが段々と負けてきますと、フィンランドも徐々に押し戻されて…この記事はそういう時期のフィンランドとその政治家のお話です。
だいぶん長くなりそうですので、ご承知おきのほどを。フィンランドだからって、クリスマスで決着つくワケではありませぬ(笑)
フィンランド軍、押されまくる
1944(昭和19)年の6月11日、ソ連垢軍はフィンランド攻撃を再開いたしました。
ソ連垢軍はカレリア地峡のフィンランドの主防衛線・VT線を次々と突破。
冬戦争の時にはフィンランド軍が劣悪な装備にも関わらず、引くことなく戦い、百日以上も守り抜いた同国第二の都市・ヴィープリまで、わずか数キロに迫ります。
カレリア地峡とは、フィンランド湾とラドガ湖に挟まれた700以上もの湖が点在するフィンランド・ソ連の国境地帯。
ほぼすべてがフィンランド領でしたが、冬戦争でソ連に取られ、継続戦争の初期にフィンランドが取り戻していました。
地峡の一番南のフィンランド湾岸がレニングラードで、北端の西岸がヴィープリだと思っていただければよろしいかと。
地峡内は北へ行くほど湖や湿地や川が多く、ヴィープリを抜けるとフィンランド本土ということになります。
つまり、フィンランド軍は冬戦争の時以上に垢軍に追い込まれ、本土決戦寸前の状態だったのです。
苦戦するフィンランドに、ようやく同盟国ドイツから援軍が到着しました。
23機のフォッケウルフFw-190戦闘機と、23機のユンカースJu-87急降下爆撃機を擁する第3地上攻撃航空団です。
司令官はクルト・クールメイ大佐で、「クールメイ戦隊」としてよく知られている部隊。
地上部隊の援軍(歩兵1個師団・突撃砲旅団1個)も海路で到着しています。ただし、実兵力は合わせても半個師団ほどしかなかったようです。
なお、継続戦争前からフィンランド国内に駐留していたドイツ軍は、北部の国境を守備していましたので、今回はほぼ登場してこない予定。
ヴィープリ市郊外では、ソ連軍は6個狙撃兵師団と1個戦車旅団を中心に10万近い兵力を集中し、6月20日に攻撃を開始しました。
ヴィープリ陥落
ヴィープリ市は垢軍の攻撃を前に、フィンランド軍が構築していた3重の防衛線(主防衛線・VT線・VKT線)の最終ラインに位置していました。
ソ連垢の攻撃発起いらい、フィンランド軍は各防衛線で抵抗しては次の防衛線まで後退…を繰り返して遅滞戦闘を遂行していたのですが。
冬戦争時には、この戦法が効果を発揮して、垢を食い止めました。
しかし、ソ連軍は対ドイツの戦闘で経験値を積み上げ、兵力量も武器も飛躍的に強化されていました。
精強フィンランド軍をもってしても、強化された垢軍の前進を止めることはできず、ヴィープリの運命も風前の灯火となっていました。
カレリア地峡には50万人ほどの住民が住んでいたそうなんですが、冬戦争で守り抜いたのに、ソ連に割譲した時、この人達も地峡を追い出されフィンランド本土へ移住しています。
継続戦争で地峡を再占領すると、元住民は当然舞い戻ってくるワケで、ヴィープリを放棄することは、この人々の避難先を放棄するに等しい事でした。
「ヴィープリ放棄」はわずか10日ほどの戦闘結果を見て、フィンランド軍上層部(と政府)では「暗黙の了解事項」となっていたようですが、この一般人の脱出・退避などの事情を考えると、そう簡単に明け渡すことも出来ません。
マンネルヘイム元帥(出世が早いのぅ)は一個旅団(約5千名)を麾下部隊から引き抜き、住民が避難して空っぽのヴィープリ市の守備に宛てました。
この部隊は当初は地雷などの障害物を巧みに利用し、ソ連軍の攻撃を撃退していました。
しかしソ連垢軍の火力は圧倒的で、フィンランド軍の陣地は次々に潰されていきます。
市の周囲の陣地が潰れると、垢軍はKV重戦車70輌を前面に押し出して市街地に突入してきます。防ぎきれないフィンランド軍は市街戦でも抵抗を試みますが、火力の懸絶は覆いようがありません。
フィンランド軍は夕刻までに市内から掃討され、わずか1日の戦闘でヴィープリ市は垢軍の手に落ちてしまったのです。
空軍健闘
垢軍に立ち向かったのは、もちろん陸上部隊だけではありません。
ドイツから応援のクールメイ戦隊だけではなく、「世界一雑多の航空機を運用する」ことで有名なフィンランド空軍も全力出撃して垢戦車狩り。
当然、垢の空軍も戦闘機を投入してきますから、陽がなかなか沈まないカレリア地峡上空は、ドッグファイトの巷と化したのであります。
もともと数が少ないフィンランドの戦闘機隊ですが、ソ連軍の夏季攻勢が始まった時、カレリア地峡にいたのは、メルス(メッサーシュミットMe‐109)が14機とブルーステル(バッファロー戦闘機)が18機。全部で32機だけだったとされています。
この32機にクールメイ戦隊のFw-190が23機(Me‐109も少数居た、って説もありますが、それでも計30機まででしょう)。
ソ連空軍は戦爆併せて2000機に上る大軍。
フィンランド戦闘機隊は6月20日(ヴィープリ陥落の日)だけでも7回の出撃を記録。
この1日だけで51機のソ連軍機を撃墜し、いっぽうでは出撃したメルス7機(たった7機ですよ!)が全機帰還という超絶的なキルレシオを記録いたします。
もちろん、この日だけではなくフィンランド空軍はパイロットの優秀さを証明しています。
「無傷の撃墜王」として知られるイルマリ・ユーティライネンさんは総撃墜数94.5機ですが、その内34機は1944年6月と7月の戦果なのです。
他のエースたちも似たような感じで、ソ連軍機をバタバタ墜としています。
もちろんフィンランド側の犠牲も大きいモノがありました。
ユーティライネンに次ぐ75機撃墜を誇るエース、ハンス・ウィンドさんが負傷して戦線を離れると、その時列機を務めていた35.5機撃墜のニルス・カタヤイネンさん(アンラッキー・カタヤイネン)も負傷。32.5機撃墜のラウリ・ニッシネン、23機撃墜のヨルマ・サーリネンらが相次いで戦死しています。
士気阻喪?
ヴィープリ市陥落は、前線の兵士たちに衝撃を与えました。
困難な状況でも頑強に抵抗するのがフィンランド軍兵士たちでしたが、ヴィープリ陥落から数日間の間は、絶望してソ連軍に投降する者が多くなってしまったのです。
コレで「勝ち」を確信したソ連は、在ストックホルム(スウェーデン)の大使館を利用して「無条件降伏」を要求してきました。
フィンランド首都ヘルシンキのアメリカ大使館も「ソ連と講和すべきである」という忠告をフィンランド政府に進言。
アメリカはフィンランドと交戦関係にはなく、国交が維持されていました。
フィンランド大統領リスト・リュティは「もはやこれまで…」と勧告の受け入れを、防衛軍を指揮するグスタフ・マンネルヘイムさんに諮りました。
マンネルヘイムさんは冬戦争の終末期、その指揮よろしくソ連垢の大群を食い止めていましたが、休戦交渉を続ける大統領以下に
「戦果に酔ってはいけない。前線は恐ろしい現実が迫っている。私はどんな条件でも即時講和を支持する」
と、占領されてもいない領土を割譲してでも休戦すべし!と進言していました。
ほぼ勝っている時でさえ、講和を支持した戦争指導者ですから、当然負けてる今は…
ほとんどのフィンランド指導層はそのように思っていましたが、マンネルヘイムはこんな時にも「敵の事情」を冷徹に観察していたのです。
マンネルヘイムの大統領に対する返答は大方の予想を裏切るモノとなりました。
「我が軍は健在だ。講和の機会は軍が作ってみせる。貴方は毅然と無条件降伏を拒絶してほしい。」
マンネルヘイムは強引な攻勢と、それによって「無条件降伏」を要求するソ連の対応をみて、
「我が国との戦争を早期に終結させ、ドイツとの戦争に専念したいのだ」
と見抜いていたのです。
ココでフィンランド軍が善戦し、ソ連軍に一大打撃を与えたら?
垢は必ず譲歩してくる筈…と考えたのです。
リュティ大統領はマンネルヘイムの考えを了解しました。
いや、了解どころかちょっと強気すぎるんじゃね?ってくらい(垢にしたら)クソ生意気な返答をしちゃったのです。
「我が国は無条件降伏の要求を受け入れない。
我が国の自由な政治思想と、議会制民主主義・資本主義の維持を保障しない限り、ソ連との講和に応じるつもりは無い。」
ドイツも牽制してきて
マンネルヘイムの慧眼によって、最悪の選択(無条件降伏)を回避したフィンランドですが、戦争をやめるって方針が変わったワケではありません。
やめる前に一発カマして、なるべく有利に…ってだけで「枢軸側から抜ける」ことになります。
ところが、ですね。フィンランド国内には枢軸国(の盟主)のドイツの軍隊が駐留しています。
彼らはフィンランド北部でソ連垢と対峙して、つまりフィンランドを守っているのです。
下手に講和なんぞしたら、彼らがフィンランドを占領しちゃうかもしれません。これはイタリアなどで現実になっていますからね。
それ以上に、一発カマしてやるためには、ドイツからの武器の援助は必須ですし、食料も貰わなきゃ、国民が飢えてしまいそうでした。
しかし、ドイツだってフィンランドをとことん信じているワケではありません。ってか、かなり「裏切りやがるな」と思ってたようで。
こういう処の外交感覚はしっかりしている日寅総統(真ん中の人ですよ)。
フィンランドからの軍事援助を送ってやる前にリッベントロップ外相を送り込みました。
リッベントロップは、軍事的な支援と緊急の食料を供給する見返りに、
「フィンランドは連合国といかなる講和もおこなわない」
という、いわば「永久共闘宣言」を要求したのです。
リスト・リュティはこの共闘宣言に署名いたします。共闘宣言は「リュティ・リッベントロップ協定」と呼ばれています。
コレ、以後の話の展開の大きなヒントです。判ってる方は十分にお判りでしょうけど(笑)
「ドイツ・フィンランド共闘協定」ではないんです。
リュティ・リッベントロップ協定の存在が連合国側に知れ渡ると(ドイツが発表しますからね)、連合国は激しく反応します(あるいはそのフリを)。
アメリカは先述のように、フィンランドとは戦争をしていませんでした。それどころか、フィンランドは枢軸側なのに、同情的な態度をとっていたのです。
しかし、この宣言にコーデル・ハル国務長官が激怒(したフリ)。
「リュティ大統領は、ナチスの勝利を信じて疑わない狂信者だ。アメリカはフィンランドと交渉しない」とか言い出しちゃいます。
そのままアメリカはフィンランドとの国交を断絶。在ヘルシンキの大使館も当然閉鎖。
それでもアメリカ国民のフィンランドに対する共感は強いままで、宣戦布告にまでは至っていません。
北欧仲間のスウェーデン(冬戦争の終了時、フィンランドはスウェーデン・ノルウェイを巻き込んで「北欧同盟」を企画しています)もフィンランドを批判。
形ばかりの戦争関係にありながら、何かと便宜を図ってくれていたイギリスもリュティを批判…とフィンランドはついに「国際的に孤立」っていうか「本格枢軸認定」を受けちゃたのであります。
しかし、フィンランドにとってはそんなことに構ってる暇はありませんでした。
ソ連垢軍の総攻撃が始まろうとしています。
次回はフィンランド軍の反撃です。