日本初の「エース」
大日本帝国陸軍の「バロン」と言えば、硫黄島で英霊となられたバロン西(西 竹一男爵)が有名ですね。
しかし、華族を紹介するにも「王道を行かない」のが電脳大本営流でしてね(笑)
実際に戦争するのは兵隊さんだから
とか言っちゃって、別に拗ねてるわけじゃないんですよ。
主力じゃないところにこそ、ホンマモンの英雄が隠れてるような気がする…だけです。ほら、デザインの世界でも「神は細部に宿る」っていうでしょ?
戦争は国対国で行われるモノではありますが、実際に戦うのは兵隊さんだ、ってことであります。
さて、バロン西はオリンピック(ロサンゼルス大会)の馬術金メダリストとして欧米でも大人気だったそうです。
その人気のきっかけになったのが、勝利インタビューの時に放った「We won.」の一言。
Weとは、西男爵自身と愛馬「ウラヌス」の事であるのは言うまでもないでしょうけど、自分のテクニックのみを誇らない「日本人らしい謙虚さ」がアッチの人に大うけだったのだ、と思うところであります。
さて、そのバロン西のずっと前の戦いの場で「アッチの人」に称賛された大日本帝国の男爵が居たんであります。
その人とは滋野清武(しげの・きよたけ)と申しまして、明治15(1882)年の10月6日のお生まれ。
男爵・滋野清彦の三男として名古屋で御誕生(東京説あり)になってます。
父親の清彦は長州藩士で、奇兵隊士を経て北越戦争・佐賀の乱などに従軍。
この頃からは後方支援(補給など)に当たるようになり、西南戦争後は士官学校長、日清戦争時には近衛師団の留守師団長を務めました。
この軍人の父親は明治29年に亡くなり、清武は13歳で男爵に。
滋野清武は父のあとを受けて、軍人になるべく(本人が望んだワケじゃなかろうが)広島陸軍地方幼年学校に入学。
ところが、軍隊とは相いれない性格だったのか?神経衰弱を患ってしまって幼年学校を中退。
少しの間遊び呆けていたあと、東京音楽学校予科に入学して本科の器楽科でコルネットを習得いたします。
この音楽学校で知り合った子爵清岡公張の三女和香子と結婚し、娘・露子を授かります。
しかし幸せは長続きしません。結婚して2年で和香子さんが亡くなってしまいます。
1910年12月、妻を亡くした後に渡仏。長女はどーすんだよ!
もちろん音楽を勉強するためでしたが、時はライト兄弟による「動力飛行」からわずか7年。
世界中で飛行熱の高まっている時であり、パリはその中心の一つでした。
まだ若く、生活のためのお金の心配もない滋野が「飛行術」に惹かれないワケがありません。
滋野は音楽の勉強は放り出し、ヴォワザン飛行学校に入学。次いでジュヴィジーの飛行学校・ドュマゼル・コードロン飛行学校と転校して操縦術などを学びました。
1912年1月、勉学が実り日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)第744号を取得いたします。
ライバルも男爵
ちょうどこのころ、祖国大日本帝国からも飛行術を習得しに来ていた軍人が居りました。
徳川好敏大尉であります。
のちに「日本初の飛行者」として、華族に列せられ男爵となる徳川(清水家)ですが、父親の篤守のデキが悪かったみたいで、借金返せずに爵位だけは返上しちゃってますから、この時は「平民」です。
ただし、後々の陸軍の扱いからすると、徳川一門の庇護があったようです。
また、徳川と同道してヨーロッパに来ていた日野熊蔵大尉は、発動機(エンジン)調達の都合もあってドイツに移動しています。
徳川好敏はアンリ・ファルマン飛行学校に学び、1910年の8月末に日本人として初めて操縦士資格試験に合格(免許証番号289号)しています。
軍隊も音楽も途中で放り出す何処かの「男爵サマ」と違って、徳川好敏はこの時は平民で金がなく、親父が滅茶苦茶にしちゃった「家名」を再興したいとも思ってたでしょうから、一生懸命勉強したんですなぁ。
いやいや、ちょっと待てよ。滋野(放蕩男爵)のところでも「日本人初」って書いたような気が…
しかも、滋野が免許を取ったのは1912年1月じゃなかったか?
そうなんですよ。徳川は免許を取るのは早かったんですが、フランス国内専用。
それに対して滋野の免許は「万国飛行免状」で、技量も格も滋野の方がはるかに上だったんです。
我が国のクルマの免許で言うたら、AT限定vs大型2種+牽引にAライまで持ってる…くらいの大差があったようです。
徳川は免許を取得した年末にはアンリ・ファルマン製の飛行機とともに帰国。
グラーデ単葉機を持ち帰った日野熊蔵とともに「国内初飛行」を成功させています。
この時期がちょうど滋野が渡仏する時期でありまして、「国内初飛行」のニュースを、滋野が知っていたかどうか?微妙なところではあります。
アンリ・ファルマン機による徳川の初飛行についても、いろいろな話がついて回ります。
曰く
「日野の方が一日早く飛んだのだが、ジャンプだとして認められず、徳川に華を持たせた」とか
「飛行の当日、日野の方に期待が集まっていたが、徳川が無理やり先に飛んで名誉を奪った」だとか。
二人の陸軍搭乗員の先達(日野は技術畑)は、あんまり仲がよろしく無い様でして、徳川だけが陸軍で出世していきます。
それが、大日本帝国の航空界発展に、何らかの影響を与えちゃったんだ…と私には思えるのですが。
まあ、ともかくココは滋野の免許は徳川のソレより上等だった、ってことで先に進みましょう。
設計・製作・搭乗…一人で
徳川・日野は飛行術を習うのと並行して機体やエンジンの調査を進めていました。
結果、徳川が「アンリ・ファルマン」、日野が「グラーデ単葉」という飛行機を携えて帰朝しています。
まあ、操縦法を習って帰っても、飛行機がなきゃ飛べないし、当たり前ではあるんですが(笑)
で、滋野清武だって操縦術だけノホホンとやってたんじゃありません。
っていうか、徳川と日野が
「どれが良いじゃろか?」
とか言って既成の機体を物色していたのに対し、自分で飛行機を設計しちゃったのであります。
そのあたりが徳川・日野が数ヶ月の滞在だったのに、2年間も彼方此方の飛行学校をウロウロしていた原因かもしれませんね。
さすがに、作るのは自分ひとりでは出来ず、シャルル ・ルーさんっておっしゃる「飛行機製作者」に依頼してますけどね。
ついでに、シャルル ・ルーさんは設計にも関わった、って説もあります。
で、出来上がった飛行機はかなり進歩的なモノでありまして、なかなかカッコ良いのです。日本語で名前も付けました。
「和香鳥号」です。もちろん、亡くした愛妻の名前を取ったモノでした。長女はどうしたんだ、って聞いてんだぞ(笑)
「和香鳥号」は複葉ですが、複葉機は単葉機に比べて主翼の幅を小さくできて、格納が容易。
つまり大日本帝国まで運ばなきゃいけない、って条件では当然の選択だったでしょう。
もちろん、船に載せるときは分解しますけど、翼幅が小さいほうが良いに決まってます。
当時の技術では複葉の方が軽くて強度も上げられるんですが、構造は複雑になっちゃいます。
そこで滋野は「和香鳥号」の下翼を小さくして(一葉半=セスキプレーン)います。
そのほか「和香鳥号」は当時の最新知識と技術を盛り込んだ、と言える新鋭機で、全長約8m・全幅約10m・自重370kg。
発動機は60馬力の空冷星型6気筒(黎明期には偶数気筒もあったんですなぁ)のアンザニー ・エンジン、これで速度は100km/h超。
さらに主翼や胴体の構造材には薄肉鋼管を使用。
当時の高性能機とされていた「ブレリオ機」や「ルンプラー ・タウベ機」のような円型方向舵に鳩型尾翼を持っていました。
上翼後縁部は補助翼ではなくて撓み翼(後に改修)になってるなど、現代の我々が見ると「なんだかなぁ」ってところもありますが、東洋の島帝国には勿体ないほどの先進的な機体だったのです。
「和香鳥号」はフランスで何度か試験飛行を行い、滋野男爵とともに大日本帝国にやってきます。
臨時軍用気球研究会
大正元(明治45・1912)年9月、「和香鳥号」は所沢飛行場で組み立てられて初飛行を行いました。
ところが、撓み翼が十分に機能しなかったらしく、機体が地面に接触して大破してしまいました。
滋野清武は飛行機に関わって、性格が変わってしまったみたいです。
陸軍幼年学校も音楽学校も中途半端で放り出してたヤツが、ずいぶん粘り強くなっていたのです。
壊れた和香鳥号を、翌年4月まで掛かってコツコツ改修。
今度は滋野の期待に十分に応える飛行性能を発揮したのでありました。
これを受けて「臨時軍用気球研究会」(陸軍を中心に海軍や逓信省が参加した航空研究委員会みたいなモノ。気球だけ研究してたわけではありません)は滋野を御用掛として招きます。
滋野のお仕事は「陸軍将校の操縦教官」でした。
自分の技量が優れているし、性格も粘り強くなってるし、勉学を途中で投げ出した過去もあるだけに「教えられる者」の立場を思いやれるし…
となかなか優秀な教官だったようです。
しかし、マズいこともありました。徳川が滋野の上司だったことです。
軍隊の教官なんですが、滋野は華族とは言え民間人。
徳川はれっきとした士官(最終中将)ですから、たとえ操縦技量や教え方は滋野がはるか上でも、地位は徳川が上に立つのは当たり前です。
しかし、徳川は家名の再興が肩にのしかかっていましたから、航空分野では「お山の大将」どころか唯一無二の存在であることを欲していたみたいです。
根が「根性ナシ」でフーテン系の性格でもあり、軍隊に不向きな滋野はこんなイやな上司などさっさと見切りをつけ、仕事を辞めちゃったのでありました。
おフランスが好きだった?
陸軍だけじゃなくて、大日本帝国にも嫌気を覚えやがったのか?滋野は1914年に再びおフランスへ渡っちゃいます。
どうも滋野男爵はおフランス人と気が合うんでしょうかね。
で、渡仏後じきに第一次世界大戦が始まります。
滋野男爵は何を思ったのかフランス陸軍航空隊に志願。
万国飛行免状がモノを言ったのか、バロンが効いたのかは判然としませんが、滋野はいきなり「陸軍飛行大尉」に任官。
1915年4月1日には、ランス市郊外の上空で「ヴォアザン式偵察爆撃機」で偵察攻撃中に敵「フォッカーEIII型駆逐機」に攻撃されます。
バロンはこの攻撃にひるまず反撃。45分もの長い空中戦の末に、ほとんどの弾を撃ち尽くした末に撃墜してしまいます。
この戦闘はあっという間に全フランス陸軍で噂になります。
偵察爆撃機が駆逐機(まあ、戦闘機と同義です)を撃墜したんですからね。
エース級の搭乗員ばかりを集めた精鋭部隊とされる「コウノトリ飛行大隊」に抜擢され、「スパッドVII戦闘機」のパイロットとして、主に対地攻撃を担当しました。
ここでもバロンはスコアを伸ばし、公認6機に達しています。
国際的には5機撃墜でエースと呼ばれるようになりますので、バロン滋野は「エース」となった、ってことですね。
6機では少ない?いや、たぶん戦果を人に譲ったりしたらしいので、実数はもっと多いでしょう。
そのころの滋野男爵の回想
私は元来狩猟が非常に好きである。
然し鳥を打ち落とした其の瞬間だけは非常に愉快だが、すぐに其の後には哀れな感じを禁じ得ない、其れでも矢張りこの遊びがやめられないのである。丁度其れと同様に敵機を打ち落とした瞬間に愉快を感じ次に非常なる哀れを感んじた。
そして1500メートルの高空からひらひらと真白な飛行機が落ちて行くのを見乍ら「嗚呼彼等も敵とは云へ親も兄弟もあるだらう」と思つて馬鹿に哀れっぽく感じた、それでもをかしい、昼食をする頃になると一時も早く出掛けて行って又打ち落とし度くなる、
人間は実に理由(わけ)の分からぬ動物であるとつくづく思ふ
陸軍士官学校は途中で放り出すクセに、おフランス陸軍の航空隊で大活躍とは、日本人の風上にも置けん奴ですな(笑)
まあ、この時は大日本帝国とおフランスは敵対してたわけじゃねえから良し、としてやりましょうかね。
帝国の搭乗員事情もお話しとかないといけませんね。
第一次大戦には、陸軍の臨時航空隊(青島派遣航空隊)や海軍の航空母艦「若宮」(空母の類別ができたばかりで、フネは無く、改装水上機母艦の若宮を「航空母艦」に類別してました)搭載の航空隊も参加してますが、ドイツ軍の「タウベ」に翻弄されて戦果はありませんでした。
でありますので『日本人初のエースパイロット』はフランス陸軍航空隊所属ってことになってしまうんであります。
なお、「コウノトリ飛行隊」では乗機の胴体にコウノトリのイラストを描いてるんですが、滋野大尉だけは丹頂鶴だったそうです。日本人ですから…
で、ですね。
エースになったバロン滋野は、1915年10月にレジオン・ドヌール勲章とクロワ・ドゥ・ゲール勲章をもらいまして、英雄扱いされるようになったのであります。
このころ、バロンは戦争未亡人(だと言われる)ジャンヌ・エイマール(Jeanne Aimard)さんと恋に落ちます。
Wikiではジャンヌちゃんを「入院先の看護婦ともカフェのレジ係とも」と書いてますが、電脳大本営的にはレジ係説を支持ね。
理由?んなモンねえよ。
お二人は、まだ戦争が続いている1917年の10月にご結婚になるのですが、結婚するとすぐにバロンは病欠届を提出。
新婦ジャンヌちゃんと二人でモンテカルロの移住しちゃったのであります。
移住したからってフランス陸軍を辞めたわけじゃなく、「病気を押して」後方の防空部隊なんかでウロウロしてたみたいです。
つまり、バロンめ!また放り出しやがった(笑)
帰国
今回はジャンヌちゃんが「勾当内侍化」しちゃったのも原因かも?しれませんが(「勾当内侍化」がわからぬ方は新田義貞を検索してください)、いずれにしてもバロンの「戦い抜かない」ってご性格は「エース」になっても勲章二つ貰っても健在でありました。
しかしながら欧州全域を覆った空前の大戦争は、東洋の島帝国からやってきた若いバロンが戦闘機に乗ろうが乗るまいが、片一方の主役の自滅で幕を閉じます。
戦争が終わるのを待っていたように、名を挙げたバロン滋野は、1920年に妻ジャンヌとを伴って帰国します。
子供はジャンヌとの間に3人出来たのですが長女(ジャンヌとの)は早世しています。
実は、清武とジャンヌの結婚はみんなに祝福されたものではありませんでした。
特に清武の実家(男爵家)や、華族を管理してる宮内省筋にはウケが悪かったようで、次のような手紙が残っています(現代語訳済)。
清武から母房子への手紙 1918年11月25日
当方ではいよいよ去る11月21日に女児が生まれ、母子ともども健全であります。
ジャクリーヌ・綾子と命名し、役場へ行って公式に出産手続を終りました。
これらの書類をもって宮内省の許可を御受け下さるよう願い上げます。いまさら結婚の件に関しては、母上をはじめ皆様が御不賛成など為し下されぬよう幾重にも御願い申し上げます。
もし左様なことがあるとジャーヌの親たちに対しても私は申し訳なく、日本人の不名誉、不信用というようなことに相成りますので、ちょっと私の立場がなくなります。
宮内庁は華族と外国人との婚姻をあまり快く思っていなかったようで、ジャンヌの入籍は最後まで認められませんでした。
滋野男爵家からも大したプッシュはなかったようです。
そんな家庭の事情はあったモノの、帰国した清武は「空中輸送」の重要性を説き、航空事業の発展に努めました…とWikiに書いてあるんだけど、はっきり言って何をやらかしたのかよく判りません。
そんな暮らしの中、滋野男爵が「らしさ」を発揮できる事案が生起いたします。
1924年、世界初の「パリ~東京間長距離飛行」が行われたのです。
現在ではパリ~東京間なら12時間程度でしょう。
でも1924年当時は、120時間も掛ったそうです。平均時速は168キロメートル/h。
当然無着陸で飛んだワケありません。その距離2万キロ、ブカレスト・バグダッド・カラチ・ペキンなど20都市に着陸しながら47日も掛っています。
妻を残し
この「冒険飛行」のパイロットはペルティエ・ドアジーさんというフランス人。フランス陸軍の大尉でした。
ン?フランス陸軍って…
1924年6月8日、ついに操縦士ドアジーさんと機関士のブザンさんが乗り込んだ「カトリーヌ号」(ブレゲーの400馬力型だったそうで、ドアジーさんの一歳になった娘の名)は対馬海峡を渡りました。
目指すは19番目の中継地である大阪です。
ドアジーさんを歓迎する大群衆の中に、フランス陸軍の士官の軍装をまとった一人の日本人が居たのであります。いや、華族サマだから「居られた」のでありんす。
バロン滋野でありました。
滋野男爵とドアジーさんは、コウノトリ中隊でともに戦った戦友だったのであります。
「大戦中ずっとフランスのために前線で戦ってくれた同志バロン滋野の出迎えを受け、わたしは非常に感動した」
日本に産まれ、日本軍を嫌ってフランスのために戦ったバロン滋野にとって、この時が生涯で一番楽しかった時かもしれません。
と申しますのも、この時から僅か半年。滋野清武は胃腸を患ってあっけなく他界してしまったのです。
清武がフランスから連れてきたジャンヌと二人の間に出来た男の子が二人。
前述のように、華族と外国人の結婚のためにジャンヌの入籍は認められないまま。
男の子はジャック清鴻(きよとり/1920)・ロジェ清旭(きよひ/1923)と名乗ります。
ジャンヌの子供としての二人には襲爵権がありません。
そこで滋野家側はジャンヌに対して
「二人のこどもを残してフランスへ帰国してくれ」
と要求するのですが、彼女は敢然とこの要求を拒絶しちゃいます。
滋野家と宮内省に内々の約束(外人の母ちゃんが国内に居なければ、襲爵を認めちゃるでぇ)があったんでしょうね。
しかし、ジャンヌ母ちゃんは日本に居座り。
32歳で未亡人になったジャンヌさんの苦労は大変だったと思われます。
日本には味方してくれる親族は誰一人いないのですから。
ジャンヌさんは大佛次郎の夫人たちにフランス語の個人教授をし、その収入で親子三人のつつましい生活を支えました。
そんな間に滋野男爵家の襲爵期限(3年だったそうです)は過ぎてしまい、滋野家は爵位を喪失してしまったのです。
やがて大東亜戦争がはじまります。滋野男爵の二人の子供も兵役に就きました。
次男のロジェ・清旭もミュージシャンで、ジェリー藤尾がリーダーをしていたバンドのドラマー。
親父は音楽を志して空を飛んだけど、子供は音楽の道をちゃんと歩んだんだな。あっ、次男の方は最後は画家になったりもしてる。
クリエイティブな才能に恵まれてたか、放り出す性格をバロンから引き継いだか?儂にはよく判りませぬ(笑)
国力としてはどうだったのか?
電脳大本営的には、ココから戦訓を汲まねばなりませぬ。
バロン滋野は優秀な搭乗員ではありましたが、私ども日本人が大好きな「やり抜く」とか「戦い抜く」とか「根性」とかを基本にした兵隊さんタイプでは全くありませんでした。
大日本帝国が日支事変からの航空戦で、技量優秀な搭乗員を前線に張り付け(大東亜戦争開始まではまだ余裕があり、交代で内地教育航空隊配置もありましたが)、消耗した搭乗員が次々に散ってしまったことは、反省しても仕切れることではないでしょう。
もし、バロン滋野が帝国の(民間)航空界に大を成していたら?
逓信省(当時の航空業界の所管は逓信省です)が邪魔したみたいですけど(ほぼ同時期に申請された民間航空事業で、川西航空機はOK、バロンは却下など)、滋野みたいな「チャランポラン男」が日本の航空業界にいたら?
私の大嫌いな「航空機は砲弾(小沢治三郎提督)」みたいな発言も無かったんじゃないかなぁ、と思うところなのであります。