特攻を企画した卑怯者1~仙人参謀黒島亀人~
防衛大学校の卒業者が、任官を拒否する事例が多い、との報道がありました。
一見関係の無い、「特攻推進者」たちの話題ですが、「エリート純粋培養」の危険性を読み取ることは出来ないでしょうか?
特攻は効果的だったのか
特攻に対する批判は、電脳大本営でも「敗戦前の対馬海峡を飛んだ飛行機」
でちょっとだけ行なっています。
もちろん、国を守ってくださった英霊にとやかく申し上げるのではなく、特攻を発案し、「後に続くものを信じて」とか言いながら、後からさっぱり行かなかった糞どもに対する批判であります。
さらに、この糞どもはせっかくの英霊のお命を「効果的に使わせて頂く」と言う、用兵者として当然の工夫すらマトモには行ないませんでした。
初めての「神風特別攻隊」は皆さんご存知のように、在フィリピンの一航艦(第一航空艦隊)司令長官、大西瀧治郎中将(この糞のいい加減ぶりは別記事にする予定、腹を切ったのだけが僅かな情状酌量点)が発案・編成したものです。
大東亜戦争最後の大規模艦隊決戦となったレイテ沖海戦に投入され、新婚で母一人・子一人で育った、関行男大尉が指揮する「敷島隊」の5機が昭和19年10月25日、米海軍の護衛空母「セントロー」(7800トン)を撃沈、他の3隻に損傷を与えました。
「戦史叢書」は「比島特攻作戦(戦史叢書の表現、電脳大本営の見解ではこの時期は「敷島隊」に刺激を受けた五月雨的なもので、作戦とは呼び難い)」で海軍は436機、陸軍は243機の計679機が出撃して成功率は27%だった、としています。
真珠湾攻撃での一航艦の九九式艦爆は急降下爆撃での命中率58.5%を記録、翌年4月のインド・セイロン沖海戦では、英東洋艦隊の空母「ハーミーズ」に対して命中率89%もの高確率を記録しています。
真珠湾での敵は動かぬ的でしたが、「ハーミーズ」は逃げ回る相手であることにご注意。
世界史上初の空母機動部隊同士の決戦、昭和17年5月の珊瑚海海戦では、大日本帝国海軍は米空母「レキシントン」に命中率53%。
ただし、これは当時は二線級とされていた「瑞鶴」「翔鶴」の艦載機によるものです。「二線級」でも投弾すると半分以上命中です。
ここまで、勝ち戦の連続で、搭乗員の戦死はさして多くありません。
繰り返し出撃して生還することで、搭乗員の技量は飛躍的に高まっていくのがお判りいただけるでしょう。
すなわち、レイテ沖海戦における「特攻成功率」は特に高い数字というわけではありません。
誤った認識
私が「特攻成功率」にこだわる裏にはある人物の考え方があります。
その人物とは、某警察大学教授HH氏。危機管理の専門家と名乗って、著書も何冊かお持ちの有名人です。
HH氏は「兵頭二十八氏の言」としながら、「特攻は交換率としては良好だった(細かい表現は記憶にありません)」と言い放ったのです。
私にはこれが許せません。
「電脳大本営の産みの親」たるフェイスブックグループ、「軍事・軍隊・武器・兵器・戦術・戦略等軍事関連の研究」での議論で、結局HH氏は逃げてしまいましたが、自分で「警察大学校教授」と名乗り、第二次大戦の諸戦闘に対して偉そうに教えを垂れていた人がこんな杜撰な認識。
申し訳ありません、感情が多分に入ってしまいました。
成功率はさらに低下
「つらい真実 虚構の特攻隊神話」(小沢郁郎著・同成社、左っぽいですが、調査はキッチリしてます)によれば、昭和19年10月~昭和20年1月(フィリピン攻防の時期)に、特攻の命中率は23.5%だったのですが、僅か半年後の沖縄攻防以後(昭和20年3月~)は7.9%に急降下しているのです。
ただし昭和19年後半ともなると、海軍の誇った錬度の高いベテランパイロットは多くが戦死してしまい、急降下爆撃の命中率も激減していますので(開戦時の海軍搭乗員7000人のうち、19年3月時点では既に3900人が戦死/戦史叢書)特攻の方が命中率そのものは良かったかもしれません。
すなわち、特攻は機材+英霊のお命と敵艦の交換として決して率の良いモノではありませんでした。
もちろん、大多数の英霊たちはロクな訓練を受ける機会もなく(本人の責任ではなく)技量拙劣な状態で敵艦へと向かいました。
待ち受けるアメリカ艦隊は、大日本帝国が想像もしなかった高精度の対空レーダーをほとんどの艦艇に装備。
しかも英霊たちが目指す航空母艦(この時期、空母を狙っても大勢に影響ありません。隻数が膨大ですし…)は対空装備充実の護衛艦艇に十重二十重に取り巻かれ、雲霞のごとき護衛戦闘機に守られ、ピケット艦を配置して迎撃誘導は完璧、近接爆発信管まで発明されている始末。
英霊を「無駄使い」した極悪人
結果的に特攻はわが国を、国民を、皇土を守らんとした英霊の貴重な志を有効に使ったとは言い難いものとなってしまいました。
ここで百歩譲って、「統帥の外道」たる特攻が国のために万やむを得ぬものであったとしましょう。
さらに万歩譲って、すべての特攻隊員が熱誠の志願である(そうでないことは、諸種の調査が証明しています)、としても特攻推進者たちが日本国民に対する罪をまぬかれることは出来ません。
なぜなら、この「日本破壊者」どもは英霊を特攻に送り出すだけで、「戦果を上げさせるための方策」をなんら施していないからです。
英霊の魂が世界に誇る私たちの歴史となり、私たちの精神のバックボーンとなっているのとは別次元の話です。
特攻を企画し、英霊たちにほとんど強制し、自分たちは栄達して責任を取らなかった反日犯罪者どもを私は許すことが出来ません。
いつの日にか、こいつらを墓の下から掘り出して裁きに懸けなければ、わが国本来の清冽な道徳心は戻ってこないような気がします。
電脳大本営の能力では、いっぺんに悪人全部を退治することは難しいので、少しずつ紹介させて頂くことにいたしましょう。
今回はあまり大物ではありませんが、有名人。
電脳大本営的「海軍三馬鹿大将」の一人、山本五十六の信任の篤かった聨合艦隊先任参謀、黒島亀人です。
良い記事とは言い難いですが、黒島亀人についてはコチラで。
黒島は山本が戦死する前には、その信任を失ってしまうのですが嶋田繁太郎海相に重用され、軍令部第二部長の要職に就きました。第二部は兵器の開発・製造・整備を担当する部署です。
この部署に就いたのを良いことに、黒島は安物の仮想戦記作家でも思いつかぬような奇想特攻兵器を次々と採用していきます。
仙人参謀・黒島が構想した「特攻兵器」
黒島が初めて「特攻」について公式に言及したのは、昭和18年8月6日の『大本営海軍戦備考査部』の会議のための予備検討会だと思われます(戦史叢書各所より推定)。
ここで、黒島が「戦闘機の衝突撃戦法」を「突飛意表外の方策」の例として挙げているからです。同月11日の本会議(永野修身軍令部総長・嶋田海相も出席)でも『必死必殺戦法』を提案しています。
昭和19年4月には第一部長(作戦計画担当)の中沢佑少将に対する要望の形で「体当たり戦闘機」「局地防備用可潜艇」「装甲爆破艇」「大威力魚雷」などを提案しているのです。
お判りですよね?「大威力魚雷」は「回天」、「装甲爆破艇」は「震洋」として実現します。(中沢佑は戦後「私は特攻は承認しなかったが、嶋田大臣が…」とか主張しましたが嘘八百です)
そのほか、「震海」と言う低速低性能の港湾潜入型の小型潜水艇も試作させたりしています。
これは第六艦隊(潜水艦を母艦として発進する予定だったので)参謀の鳥巣健之助大佐が試作を見て強硬に反対しましたが、黒島少将は鳥巣大佐を「国賊」と罵ったそうです。
さらに酷い兵器は「伏龍」でしょう。
これはもともと飢餓作戦(各種の機雷封鎖によって、瀬戸内海を中心とした港湾を使用不能にし、大日本帝国臣民の糧道を断つ非人道的作戦)を打破するために準備されていた潜水機具を流用して、敵上陸舟艇を爆破しよう、と言うものです。
いわば海軍版「肉薄攻撃」ですね。
陸軍の肉薄攻撃は、「爆弾を抱えて敵戦車に突っ込む」とは言っても「必死」ではありません(誤解なさらぬように。危険は大きくても陸軍版は特攻ではないのです)が、黒島が推進したのは「攻撃成功=攻撃者の死」でした。
そもそも流用した潜水器具が、物資の不足から思いっきりの粗悪品。
それでも機雷の処理になら使えたと思いますが、呼吸もままならない程度のものだったのです。
これで、そこそこの速度で移動してくる敵舟艇の下まで海底を歩いて(重量が嵩んで遊泳不能)迎撃するって言うんですから、私には「自分でやってみろ」としか言うべき言葉が見つかりません。
では、どうすべきだったのか
電脳大本営の基本コンセプトは「大東亜戦争の敗戦を直視して、貴重な戦訓を得る」です。
そのために惨めな敗戦の真の原因を暴きます。真の「戦犯」の責任を追及いたします。
黒島亀人の悪辣ぶりのネタはまだまだありますが、「どうすべきだったか」を紹介申し上げておきましょう。
特攻全般に言えることですが、機材と操縦者の力量、敵の迎撃能力への理解、敵情の探知。
戦果を上げるための全てが不足していました。
有り余っていたのは英霊たちの熱誠だけでした(人的資源だけが余っていた、と言う論議もありますが、これも間違いです。人が足らないからこそ勤労動員がおこなわれたのです)。
当時のわが国の低劣な技術レベル、劣悪な訓練で得られた僅かな技量、不足を極める物資。
この条件で、英霊たちの護国の情熱だけをプラス要因にして戦局を転換することは可能だったのでしょうか?
いささか安物のIF戦記小説めいてしまいますが、出来るだけ現実の戦史に沿って考えてみたいと思います。
なぜ特「攻」なのか?
「絶対国防圏」も呼号しただけで、あっさりサイパンを取られ、フィリピンも奪回されそう、ついには沖縄にまで触手を伸ばされている状態で、大日本帝国軍は特別「攻撃」と言う最後の手段に打って出たわけです。
このことを問題にした議論を私は知らないのですが、何故こんな時期に大日本帝国は「攻め」たんでしょうか?特攻はすべて来寇する米英艦隊を指向していますから、「攻撃」と申し上げています。
そうです。電脳大本営はこの時期に大日本帝国は守りに徹するべきだった、と考えているのです。
これを実践した部隊があります。
それは「震天制空隊」と言う陸軍航空部隊です。
震天制空隊
「震天制空隊」とは第10飛行師団(昭和19年に編成された首都防空用の陸軍航空隊)が隷下の各飛行戦隊に持っていたB29迎撃専用の体当たり部隊です。
体当たりと言ってもパイロットは脱出が前提で、もちろん「必死」の攻撃ではありませんでした。
震天隊員は技量の優れた者が選抜され、訓練で技量不足と認定されると震天隊から外されることもあったようです。
それはB29の常用高度1万メートルまで上昇し、防御放火を掻い潜って体当たりすることは高い技量を持つパイロットにしか出来なかったからです。
使用機も、これは一回で喪失ですから中古機ばかりで「軽量化のため」と称して武装も外されていました(勿体ないですから)。
もちろん体当たりして脱出に失敗するケースもありましたが、悪条件にも関わらず複数回の体当たりに成功する隊員もおり、一遍に2機のB29を屠った豪の者もいました。
また、体当たりしてパラシュート降下、近くの駅から電車で基地に帰り、再び出撃した隊員(板垣軍曹)もいます。
体当たりを成功させて、2度生還している隊員は電脳大本営が把握しているだけで、この板垣軍曹と中野軍曹の2名います。
電脳大本営的な「英霊の有効な使い方」はこの防空隊がヒントになっていますが、もう一つ参考になった防空システムがあります。
体当たり防空は同盟国ドイツも行なっていました(エルベ制空隊)が、やはり隊員はベテランや訓練を重ねた者ばかりでした。
そのドイツで、初心者でも有効に爆撃機の迎撃が出来るように開発されていたのが「ナッター(バッヘムBa349)」と呼ばれるロケット機でした。
「ナッター」はご覧のように簡易構造の全木製ロケット機です。
航続時間は2分、最高速は1000キロ/時、高度は14000メートルまで上昇可能(スペックには諸説あり)、武装は機首に装備された24発~33発のロケット弾のみ。
垂直に発射され(離陸操作の必要なし)、敵爆撃機の編隊に地上から誘導され(索敵と航法必要なし)、敵に近づいたらロケット弾を一気にぶっ放して(接敵機動・照準など必要なし)、パイロットはパラシュートで脱出(着陸の必要なし)。機体は使い捨てですが、ロケットエンジンだけパラシュート降下させて回収再使用。
いわば原始的な子弾付き対空ミサイルって所でしょう。
本土防空に徹していれば
「ナッター」のシステムであれば、パイロットに熟練の必要はなかったのです。
ロケット弾は一発の威力は大きくても、初速が遅いために「狙って当てる」ものではありません。大量に撃って、どれかが当たればいいや、と言う武器なのです(この点を改良したのがミサイル=誘導付きロケット弾)。
しかも目標が稠密な編隊を組んでやってくる相手ですから、「震天制空隊」ほどの覚悟さえあれば相当の戦果を上げた可能性が高いと思われます。
何故こんなに簡単な発想が出来なかったのか?
戦争指導者たちの頭が、「攻撃」に拘束されてしまっていたからに他ならない、と私は思っています。
日本のロケット機は
同盟国ドイツのロケット機は「コメート」にしろ「ナッター」にしろ「特攻機」ではなかったのに、わが国は「桜花」と言う自殺専用機しか実用化できませんでした。
それは技術的な要因ばかりではなく、黒島亀人のようなあまりにも阿呆で無責任な人間を登用したためでもありました。
電脳大本営の提案はこの「桜花」の「ナッター」的な使用です。
ナッターには一つ、発射時の衝撃と言う弱点がありました。
何度かの事故も発射時に起きています。
しかし桜花なら母機から投下されるだけですから離陸の苦労はなく、発射時の衝撃もなし、です。
桜花の鼻先に組み込まれた1トンもの爆弾の替りに、ホ-301(40ミリロケット砲/装弾8発)改造の多数同時発射タイプを装備することは簡単だったはずです。
他にも犯罪者がいっぱい
黒島亀人などはっきり言って小物です。
しかし、英霊のお命と有効に使えたはずの我が資源・戦力をムダにした罪は大きいのです。
黒島にしろ、山本も宇垣も嶋田繁太郎も海軍兵学校と海軍大学校を出たエリートであり、軍事のプロがこの非効率をやらかしていることになります。
エリートの弊害は海軍ばかりではありません。
陸軍の大馬鹿エリートも酷いことをやってくれていますので、海軍のもっと大物も含めて別記事にしたいと存じます。
黒島亀人は戦後も暴れています
黒島亀人は、戦後まで汚い行為を繰り広げました。
大東亜戦争の責任全体であるとか、連合国に対する犯罪行為、と言う意味で考えると黒島などは小物ですから戦犯に問われる事はありませんでした。
しかし、黒島は自分の「名参謀」の名声が傷つくことが心配だったようなのです(マトモに有効な作戦等、一つも立ててないんですけど)。
黒島は山本五十六に重用されて連合艦隊先任参謀となったのですが、その上司の宇垣纏参謀長とは対立していました。
山本も宇垣が嫌いだったようですが、ミッドウェイ、あ号作戦が失敗に終わると流石の山本も黒島の無能に気が付きました。
小沢治三郎などに黒島の代わりの参謀を推薦してくれるように依頼しているのです。同時に山本と宇垣との仲も修復されています。
黒島は戦後、宇垣纏(敗戦の日の午後、部下を道連れにして小汚い特攻死)の遺族を尋ね、有名な陣中日誌「戦藻録」を借り出しました。
やがて「戦藻録」は遺族に返還されたのですが、ちょうど自分が連合艦隊先任参謀を罷免される時期の記述がごっそり抜けていたのです。
遺族が黒島を問い詰めると、「電車の中に置き忘れた」ととぼけた返答が帰ってきたそうです。
自分の無能を暴いた記述を始末してしまった、としか思えません。
この程度の男どもに、大日本帝国の英霊たちは「無駄使い」されてしまったのでありました。
「この程度の男ども」は海軍兵学校や陸軍幼年学校など、大日本帝国のエリート養成学校の出身だったことは、悪しき戦訓として私たちの記憶に留めなければなりませぬ。
続編「特攻を企画した卑怯者2」「特攻を企画した卑怯者3」