特攻を企画した卑怯者3~陸軍にもいます~
「特攻を企画した卑怯者」の第三弾は部下に特攻指示、自分は敵前逃亡、処分なし。陸軍代表の卑怯者、富永恭次から陸軍特攻の真犯人を探します。
陸軍特攻の最初の命令者
東條政権下、富永恭次中将は陸軍次官(陸軍省№2)と人事局長を兼任して東條首相兼陸相の権力を支えていました。
絶対国防圏の一角であるサイパンの失陥で東條が首相の座を追われても、富永恭次はしぶとく立ち回り、小磯国昭内閣でも杉山元陸相のもとで次官を務めていたのですが、昭和19年9月に在フィリピンの第四航空軍司令官に「左遷」されます。
これがフィリピンに展開していた陸軍航空兵たちには大きな不幸となってしまいました。
歩兵出身(実戦経験はありません)の富永はフィリピンへ赴任しても何の方策も持っていませんでした。
富永に出来ることは特攻命令を出すことだけでした。
Wikiによれば、「特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令官」だった、と言います。
11月12日には陸軍最初の特攻隊「万朶隊」に出撃命令を出し、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」(Wiki)
12月には「軍ハ全力之悉ク『ト』号部隊タルノ決意ヲ愈々堅クシ『レイテ』島周辺ノ敵艦船撃滅ヲ続行シ…」
という軍命令を発令しています。『ト』号とは特攻のことであり、この命令は第四航空軍全軍に特攻命令を出したことになります。
富永は全軍特攻を証明するかのように、機材の不調や天候不良で戻った搭乗員を罵倒し、何度も出撃させたのです。
「万朶隊」隊員だった佐々木友次伍長のように9回(通常攻撃の出撃を含む)もの出撃を技量と幸運で生き延びた方もおられましたが、大半の搭乗員は大きな戦果を上げる為の方策も施されることもなく、洋上航法の訓練(陸軍ですから)も受けぬままでアメリカ艦隊に突っ込まされることになってしまいました。
万朶隊を準備したのは?
海軍の関大尉指揮の「敷島隊」に対応するのが陸軍「万朶隊」(岩本益臣大尉指揮/特攻出撃前に戦死)だったわけですが、海軍が現場で大西滝次郎によって急遽編成されたのに対し、陸軍の万朶隊は事前に本土で準備されていました。
海軍機と違って陸軍航空隊は対艦攻撃を本来の任務としていませんでした。
太平洋での劣勢がはっきりとし、海軍機だけではアメリカ軍の攻勢を止められないことが判ってきた昭和19年前半になると、陸軍航空隊でも艦船攻撃用の新戦術を必要だとする気運がうまれ、「反跳爆撃」と「体当り攻撃」がともに検討されていたのです。
この年の後半になると、現場で自発的に体当り攻撃を行なう事例が出ており、大きな戦果を上げたこともありました(阿部信弘中尉以下3機で英空母大破など)。
このような状況の下で、海軍の敷島隊が出撃する少し前の10月21日、鉾田教導飛行師団で万朶隊、浜松教導飛行師団では「富嶽隊」が編成されたのです。
どちらの隊も教導飛行師団の精鋭が投入されたと言われていまして、万朶隊の隊員16名の内、陸軍士官学校出身者は25%の4名に上ります。
この比率は電脳大本営としても批判は出来ません。
敗戦に至るまで、すべての特攻がこの比率で行なわれたのなら、私がこの記事を書く必要などなかったのかも知れません。
陸軍特攻の創始者は東條英機?
私などの少年時代(昭和40~50年代)、「特攻は現場の熱誠によって自発的・自然発生的に行なわれた」というのが常識のようになっていました。
その後、さまざまな研究(左巻きが混じっているのが気に喰いませんが)によって強制的な指名が大勢で、上層部が計画的に特攻隊を組織する命令を出していた実態が明らかになってきました。
しかし、特攻の発想そのものが誰だったか?と言う研究は少ないように思います。
電脳大本営としてはこの点に大いに興味があります。
結論とまでは至りません。が、どうやら陸軍の特攻については、時の首相にして陸軍大臣と参謀総長を兼任していた絶対権力者の東條英機だった、と言う感触を得ています。
その「証拠」を少し提示してみましょう。
戦史叢書「捷号陸軍作戦1」には昭和19年6月、元帥会議(伏見宮、梨本宮、永野修身、杉山元各元帥+東條英機参謀総長・島田繁太郎軍令部総長)の結論を受け、大本営が研究した内容が記載されています。その記載とは…
「大本営は即日、爾後の作戦の勝目を何に求めるかの研究に着手した。『日本の特殊的な点を活かすもの』として新撰組的部隊、片道戦法、肉弾攻撃をも研究し始めた。(略)陸軍部はわが特攻機一機をもって敵艦船一隻を、わが特攻艇一隻をもって敵艦船一隻を屠ることについて研究することを6月27日決定した。前者は生還を期し得ないため軍令をもって部隊を編成するに至らなかったが、後者マル八は敵艦船の側面に近迫し爆雷を投射後、転舵反転するものとして軍令による部隊編成を見るのである。」
マル八(○の中に漢数字の八、海軍名震洋のこと)は明らかに体当たり専門艇なので、「戦史叢書」にもいい加減な記述があることになりますが、「公刊」戦史の権威を軽んずることは出来ません。
このとき、大本営陸軍部・参謀本部・陸軍省の責任者は東條英機です。
この戦史叢書の記述だけでも、少なくとも「船艇特攻」を考えていたことは間違いないでしょう。
さらに戦史叢書を引いて見ます。「比島捷号陸軍航空作戦」から。
「昭和19年初期、陸軍中央部の関係者は、航空特攻戦法の検討を開始した。それは主に艦船体当たり攻撃を対象にしたものであり、春季には器材の研究にも着手した。(略)昭和19年春季、陸軍中央部の航空関係者は特攻戦法の必要性に関し、ほぼ意見の一致をみた。当初の考え方では精鋭な要員と器材で特攻隊を編成し、一挙に大戦果を獲得して敵の戦意を破砕することを重視した。(略)19年7月、陸軍中央部は濱松教導飛行師団に対し重爆の特攻隊を、鉾田教導飛行師団に対しては双軽の特攻隊をそれぞれ編成(厳密な意味では要員器材の差し出し)することを内示したようである。」
繰り返しになりますが、このときの「陸軍中央部」とは東條だと言っても問題ない時期です。
海軍の「敷島隊」が多大な戦果を上げる一ヶ月以上前から、「厳密な意味では要員器材の差し出し」とは言え、陸軍中央部・すなわち東條英機が特攻隊の編成を指示していた証拠とはならないでしょうか?
この昭和19年7月をもって東條内閣は瓦解退陣することになりますが、東條の息のかかった幹部は「陸軍中央」に残りました。
この記事の主人公、富永恭次も生き残ったことは前述いたしました。そして第四航空軍司令官に「左遷」されたことも。
富永恭次は東條の片腕にまで出世する間、実戦を経験していません。
戦訓を調査研究していたわけでも、航空作戦に造詣が深いわけでもありません。
電脳大本営はこの「左遷」人事に陸軍の隠された特攻体質が見えるような気がするのです。
何故に最前線の第四航空軍だったのか?
当時の第4航空軍に至る命令系統は大本営~南方軍(総司令官;寺内寿一元帥)~第14方面軍(司令官;山下奉文大将)~第4航空軍(司令官;富永恭次中将)となります。
寺内寿一は東條英機と同じ陸軍統制派の大物で、2.26事件で皇道派を徹底的に叩いた人。いわば東條が権力を握るきっかけを作った恩人なのですが、東條とは対立していました。
東條後の総理大臣に推されたのですが、「前線の司令官を動かすわけにはいかない」と東條が強硬に反対し、結果朝鮮にいた小磯国昭が総理になったほどの大物。
指揮官としての評価は?が一杯付きます。
第14方面軍の山下奉文は東條と対立していた皇道派の大物で、当然東條とは犬猿の仲。
戦闘の指揮なら皆さんご存知のように一級品。
*ココで整理しておきましょう。昭和に入ってからの陸軍「中央」には大きな派閥対立がありました。「皇道派」と「統制派」です。
両派の思想(と言うほど大したものではありません、勢力争いのための派閥なんですから。特に統制派なんて「非皇道派」くらいのモノです)を探ると、けっこう興味を引かれるのですが、それはまた別記事に。
皇道派の大物である山下奉文大将が、統制派の寺内寿一と富永恭次に挟まれることになったわけですが、実戦経験の無い富永を第4航空軍の司令官に左遷する意味が判りません。
左遷するポストはいくらでもありますし、なんなら予備役編入でも一向に構わないのです。
証拠になる文書は残っていないのですが、電脳大本営ではこれを
「特攻命令を出させるため」と考えています。
前述のように、東條が少なくとも小艇による特攻を構想していましたが、これに富永が絡んでいないわけがありません。
東條内閣の後継は仲が良くないとは言え、同じ統制派の小磯国昭です。
戦勢の挽回はもはや不可能に近いところまで彼我の戦力差は開いています。
効果がある、と東條・富永ラインが信じていた「特攻」を投入するときでした。
しかしながら誰だって必ず死ぬ作戦の実施を命ずるのはいやなものです。また、だれでも命令を出して受け入れられるモノでもありません。
そこで東條と小磯の何らかの取引で東條の腰巾着・富永を「特攻命令者」として第四航空軍に送り込んだのだろう、というのが私の想像するところです。
迫る米軍
フィリピンの防衛について、当初陸軍は彼我の戦力差を考えてレイテ島を放棄するとしていました。
しかし昭和19年10月12日から、進出してきたアメリカ機動部隊を海軍第二航空艦隊が攻撃(台湾沖海空戦)しました。
「我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し轟撃沈 航空母艦10隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦1隻、撃破 航空母艦3隻 戦艦1隻 巡洋艦4隻 艦種不詳11隻」
と戦果を過剰報告(実際には重巡二隻が大破しただけで沈没艦はなし)。
さらに検証結果をひたすら隠してしまったため、陸軍は制海権をとれたと思い込んでレイテ島の防備を強化しようとします。
しかし、増援はことごとく失敗。
レイテ島ばかりか肝心のルソン島の防衛部隊まで戦力を削られる結果となりました。
レイテ島の組織的抵抗が終息すると、第14方面軍司令官の山下奉文大将はマニラを放棄してルソン島山中で持久抵抗する方針を示して隷下部隊に指示しました。
ところが第四航空軍の富永は
「すでに多くの特攻機を送り出した。いまさらマニラを離れるわけには行かない」
とわけのわからぬ主張を展開してマニラ放棄を拒否しました。海軍部隊もこれに同調して、戦後にいたるまで山下奉文大将を苦しめたのは有名ですね。
ですが、富永恭次は海軍部隊よりもっと情けない糞でした。
富永は米軍の来寇以前から、心身が消耗した、として司令官の辞任を2度も申請していたのですが、決戦の最中に司令官を交代することなど、できるわけがありません。南方軍によって二度とも拒否されています。
昭和20年1月になると、冨永は第14方面軍の説得を受け入れてマニラからの後退に転じます。
さらに戦況の悪化を理由にして第四航空軍も台湾に撤退して戦力の再建を図ることを検討しています。
第14方面軍の山下大将はマニラ撤収は命じても、第4航空軍が台湾に引き上げることなど認める訳がありません。
冨永と取り巻きの参謀からは何度も第14方面軍に対して引き上げを申請したのですが、温厚な山下大将は激怒したそうです。
ついに1月16日、冨永は「視察のため」という理由で台湾に逃げ出してしまいました。もちろん上級司令部には無断です。
司令官(と参謀たち)に置き捨てにされた1万名を数える第4航軍の残存将兵は、編成替えで歩兵部隊として地上部隊に編入され、大半が戦死してしまいました。
いくさが終わっても糞は糞
富永の「引き上げ」は大本営はおろか直上の第14方面軍の許可を取っていません(いろいろ言い訳はしていますが)ので、「敵前逃亡」と言って問題ありません。
本来であれば軍法会議が相当です。しかし何の処分も下されませんでした。
陸軍中央でもさすがに疑問の声が上がり、ひと月以上経った2月23日に待命、5月5日予備役編入となりました。
7月には再召集、第139師団の師団長として満州の敦化に赴任。
敗戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留されました。昭和30年4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国しました。
平和になった日本で、富永は一度も特攻命令を謝罪することも反省することもなく、フィリピンからの逃亡については「部下に騙されて引き上げた」とうそぶき、昭和35年まで余生と恩給をむさぼり続けたのであります。
最後に第14方面軍司令官の山下奉文大将(フィリピンで無実の戦犯容疑=海軍部隊の違法行為=で刑死)の遺言の一部を紹介しておきます。
「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。」
比較として、富永恭次ごときには勿体ないと思うのであります。
なお、海軍マニラ防衛隊による「マニラの虐殺」については、電脳大本営としては大きな疑問があります。
海軍マニラ防衛隊は迫撃砲程度の装備しかありませんでしたので、ご覧に入れたような市街の状況になるのか?という疑問です。
これは大規模空爆による破壊ではないのか?マニラの虐殺とは、空爆による犠牲者を海軍部隊の責任に転嫁しているのではないのか?というものなのであります。(比較のための東京大空襲の記録画像はコチラ)
富永将軍の一子、富永悌(やすし)少尉が、沖縄戦も終盤に近付いた昭和20年5月25日、第58振武隊員のひとりとして、尾翼に釜ゆでされるドクロを描いた四式戦闘機 疾風を駆って、知覧より敢然、特攻出撃された事はご存じですか?出撃に際し、壮行に来た参謀が、「あの堂々とした士官は誰か?」と尋ね、副官が「富永軍司令官のご子息です。」と答えた逸話が残っています。このとき沖縄方面陸軍特攻作戦の総指揮者であった菅原道大司令官のご子息も、海軍白菊特攻隊員として出撃を旬日に控えた配置にありました。日本の特攻作戦の指揮官はビン・ラディンのごとく、他家の息子だけを誘導弾に使うだけではありませんでした。
一昨日木更津博物館「金のすず」へ行ってきました。
一千五百名を祀る慰霊塔へ手を合わせてから入館しました。
1/48サイズの白塗陸攻2機と同サイズ海軍色流星2機が展示してあったんです。
聞くと8月15日玉音放送の前に出撃された部隊があったとのこと。
聞くまでもなく未帰還でしょう。
ことばに詰まりますね、あまりにももったいなくて、かわいそうで。
帰りにも慰霊塔へ手を合わせて、今ある日本の平和に感謝し本日来られたことにもお礼を申し上げました。