高千穂空挺隊の最後
大日本帝国の陸海軍は盟邦ドイツの空挺部隊(降下猟兵)の活躍に大いに刺激されました。
大損害を出してたのに
ドイツの降下猟兵部隊は、1940年のデンマーク攻略に活躍しましたが、ノルウェイ侵攻ではドンボス村の戦いなど弱小?ノルウェイ陸軍に蹴散らされ、1941年のクレタ島占領では大損害を出しています。
空挺兵はどうしても軽装備になり兵数も限られますから、よほど味方陸上部隊との連携が上手くいかないと孤立して各個に撃破されてしまいます。そんな事は軍事のプロなら考えるまでもなく判りそうな事なんですけれど、帝国陸軍も海軍もまるで競争のように落下傘部隊の育成に取り掛かったのであります。
陸海ともに落下傘部隊の育成にとりかかったのは昭和15(1940)年です。
陸式の方は秋頃から、なんと朝日新聞社から提供された「アメリカ陸軍の空挺部隊の写真」を参考に装備研究が始まり、浜松陸軍飛行学校に練習部を開設しています。
スマートネス海軍の方はこの年の11月「第一〇〇一実験」と称して横須賀海軍航空隊司令を委員長に、航空技術廠や砲術学校などから集まった委員会で研究が開始されています。
当初は人形を使った落下傘試験などをやったようです。
海軍は流石にスマート(つまりはズルいって事だよね)で、翌昭和16年の1月には初の有人降下実験に成功、2月20日に有人降下に成功した陸軍をリードするのでありました。
この後、大東亜戦争の緒戦期に先陣争いをするように陸海で落下傘降下作戦が行われるワケですが、この時期から競争をやっていたわけなんですね。
笑っちゃうのは(訓練する兵隊さんは真剣そのものだったでしょうから、笑っちゃいけませんが)陸海ともに遊園地のアトラクションで訓練した、って事なんでありまして。
この当時「二子多摩川園」って言う遊園地に「落下傘塔」って言う、今でいう絶叫マシンがあったそうなんです。その高さ50メートル。
そこからパラシュート付けて飛び降りる、って言う何だか乱暴なアトラクションなんですけど。
そこで陸海ともに初歩訓練をやったんですね。陸式の方は多摩川園の協力を得て、とも身分を隠してとも記述があるんですが、スマート海軍の方は完全にお忍びだったようです。
遊園地で行列する屈強な兵隊さん
お忍び、って言っても空挺隊は陸海ともに選抜された屈強な兵隊さんばかり。そんな人たちが規律正しく緊張した面持ちをぶら下げ、遊園地で並んでる姿って、なんだかおかしいじゃありませんか。
女っけもナシで筋骨隆々の男どもがずらりと並んでおります。
しかも、陸海お互いにライバル視してますからね。
「見ろよ、あの坊主頭じゃあ陸式丸出しじゃないか。カッコ悪いったらありゃしねえ」
「海軍さんは良いよな、髪の毛延ばせるし並んでても目立たない」
なんて喋りながら行列してたんでしょうか?
陸式の方は昭和16年5月には満州の白城子陸軍飛行学校に拠点を移し、10月には本土に帰還して「陸軍挺進練習部」となり、11月5日には最初の空挺部隊として「教導挺進第1連隊」が編成されることになります。
空挺連隊は連隊と言っても大隊規模で、改編されて第一から第4までの「挺進集団」に編成されて行きます。
海軍の方は16年3月には第2期研究員として66名が入隊。武器の選定や輸送方法などの研究が進められました。鹿島爆撃場(現神栖市)での12名連続降下実験を行った時に事故があり、殉職者を出しています。
こうして陸海ともに空挺隊の陣容が整っていったのであります。
大日本帝国にとって順調に戦争が遂行出来た時期の空挺隊の活躍については、別記事に譲ると致しまして、フィリピン防衛のために出撃した空挺部隊について書いて参りましょう。
台湾軍の高砂部隊
昭和19(1944)年10月末。レイテ島を巡る一連の海戦において我が海軍は大敗北を喫してしまいます。もはや大日本帝国に海上でアメリカ軍の侵攻を阻止する手立ては残されていません。
残るは陸上での徹底抗戦。ところが、拙いことに当面のアメリカ軍の攻撃目標たるフィリピンでは、レイテ島への増援・補給物資が輸送できなくなっていました。
この状況を打開するべく、海軍では残された戦力で「オルモック湾輸送作戦」を展開するのですが、これもなかなか上手くは行きません。
そこで空挺部隊に状況打開の期待が掛けられることになったのです。
しかしながら、この先陣を切ったのはここまで紹介申し上げた「正式」の空挺隊ではなく、台湾の先住民族である「高砂族」の人たちを義勇軍として組織した「黛空挺隊」でありました。
台湾では昭和16年から志願兵制度が実施されていました(徴兵制は昭和19年から)。
この志願兵制が実施された時、募集定員1020名だったのですが、応募したのはなんと45万人。翌年も1008名の募集に対して志願者は60万人。この当時の台湾の人口は約600万人ですからね。たいへんな数字なんです。
これを、ロクな就職先が無かったからだとか、強制的に志願させられたんだとか、変な解説を付けたがる売国指向の学者もいますが、その後の戦いぶりを見れば「熱誠」の志願であった事は間違いありません。
台湾軍司令部には熱心な青年たちの血書と嘆願書が山をなしたといいますから、後の戦いぶりを見るまでもありませんけれど。
台湾軍に各192名からなる遊撃第1中隊と遊撃第2中隊が編成されたのは昭和18年12月24日でした。両中隊は指揮官・通信・衛生担当者は中野学校の出身者が指名されていました。
それ以外の140名ほどは高砂族(台湾先住山岳民族)で構成されている、ジャングルでのゲリラ戦専門部隊だったのです。もちろん、この高砂族は志願してきた人たちから選び抜いた精鋭。
山岳地帯に適応した高砂族(幾つもの少数民族の総称です)は、かつてゲリラ戦で台湾総督府の統治に激しく抵抗した霧社事件で勇猛な戦士ぶりが知られています。
その特性を活用したのが台湾軍の遊撃中隊でした。
半年間の訓練を受けた2個中隊は、昭和19年5月28日にニューギニアへ向けて出撃。途中で目的地が変更となってフィリピンのマニラへ上陸していました。
第2中隊はマニラからモロタイ島へ移動、米軍相手のゲリラ戦を展開しています。
ルソンに残留した第1中隊へ、第4航空軍からブラウエン攻撃部隊を出すよう命令が下ったのは11月22日のことでありました。
選抜されたのは中重夫中尉率いる40名の遊撃隊員で、「薫空挺隊」と命名されたのでありました。
レイテ島に対する空挺作戦は合計三回実施されたのですが、その第一回が高砂族主体の「薫空挺隊」の切り込みとなったのでありました。
昭和19年11月26日。フィリピンはルソン島南部のリパ基地で訓練を積んでいた中重男中尉指揮の40数名の「薫空挺隊」は桐村浩三中尉以下8名の操縦する100式輸送機四機に搭乗して、リパ飛行場を出発したのです。
将校・下士官・通信兵・衛生兵以外は台湾高砂族出身者で構成された小部隊。落下傘降下訓練はしていませんから、敵の飛行場(ブラウエン飛行場)に強行着陸して在地の航空機・飛行場施設を破壊しよう、と言う計画でした。
高砂族を乗せた100式輸送機は、27日深夜のブラウエン飛行場突入を期して高度約150メートルでレイテ島上空を飛行。
一機が海岸から25メートルの海上に不時着してしまいました。友軍機の不時着と判断したアメリカ軍は救助に向かったのですが、黛空挺隊員は手榴弾を使って反撃。
敵と知ったアメリカ軍は兵力を増強して反撃に転じました。このため搭乗者2名が戦死し、他の13~15名は海岸に泳ぎ着いて米軍から離脱、それ以降の行動は不明。
一機はブリ飛行場への強行着陸に成功し、この飛行場にあった米軍部隊と戦闘を繰り広げたのちに全員壮烈な戦死を遂げています。
三機目はアブヨクの北方ビト河近くの海岸に不時着。27日の夜が明けるとアメリカ軍からの攻撃を受け、1名が戦死。他の隊員はアメリカ軍の攻囲を突破して離脱、爾後の行動は不明。
もう一機はオルモック付近に不時着、同機の搭乗隊員は日本の第26師団が収容。
こうして「薫空挺隊」の飛行場に対する攻撃は大きな成果はありませんでした。
しかしながら、この夜「何度もブラウエン方面で火柱が上った」との証言もあります。米軍の記録でもブラウエンの東方16キロのドラグ海岸に、日本軍の大型機二機が着陸して乗っていた日本兵が闇に姿を消したとあります。
消えた高砂族の兵隊さんが、何らかの働きをしたものと想像することは可能でしょう。
それが効果を発揮したのか?27日のオルモック海上輸送は敵機の妨害もなく、珍しく成功しています。
高千穂空挺隊
レイテ島に対する第二回目の空挺作戦は、12月6日、第2挺進団の挺進第3連隊主力と第4連隊の一部、計474名で決行されることになりました。
高千穂隊がブラウエン降下作戦を準備する中、別の部隊がブラウエンに空挺攻撃をかけたというニュースが伝えられます。
黛空挺隊(高砂族部隊)がブラウエン飛行場を攻撃した情報が高千穂空挺隊に伝わるや、隊内には衝撃が走りました。
薫空挺隊への称賛はもちろんありましたが、「落下傘兵以外に敵飛行場攻撃の先を越された」という反感もあったのです。
そこで、生還の見込みが薄いタクロバン飛行場への攻撃も計画に追加される事になってしまったのでは無いかと、私は想像しています。
もともと高千穂隊の計画はブラウエン飛行場だけを目的としていました。ブラウエン飛行場ならば友軍(尚武集団)が近くにいて、降下と同時に飛行場攻撃を発起して高千穂隊を収容することになっていました。
しかし、タクロバン飛行場ではそういった事情はありません。全くの片道攻撃になってしまいます。薫空挺隊の奮戦が無ければ、初めから考慮されることも無かったでしょう。
そんな「タクロバン飛行場攻撃」の指揮を執ることを申し出た大尉がいたのであります。
訓練中の事故
高千穂部隊がまだ内地(宮崎県唐瀬原飛行場と思います)で訓練を積んでいたころの昭和18年6月18日。
挺進第4連隊では、あらたに配属となった将校の実兵指揮のための訓練を実施しました。その中に小丸川を渡渉する場面があったのです。
その前の日、山間部に降った雨の影響で小丸川が増水していました。川の流れや川床の調査をしていたものの、訓練規格の想定をはるかに越えた水量でした。しかし、訓練は実戦を想定したものです。
ムリを押して川中に入った兵士たちでしたが、激しい水流に押し流され、陸軍大尉・伊藤成一、陸軍中尉・鈴木寛、陸軍准尉・河原田津留吉、陸軍曹長・平方國三郎、陸軍兵長・池本治登、陸軍上等兵・杉村博、陸軍上等兵・山崎茂男、陸軍上等兵・大森良市の八名が殉職してしまう事故となったのでした。
この演習を計画したのは当時中尉だった榊原達哉でした。榊原中尉は事故の責任を取って自決しようとしたのですが、連隊長に諭されて思い止まっていました。
大尉に昇進した榊原達哉は、地上部隊と連携できる見込みが皆無のタクロバン降下部隊の指揮を執る事を志願し、上記八名の位牌を抱き、輸送機に乗り込んだのでありました。
榊原大尉ほどこの作戦の成功を祈った人はいないでしょうが、アメリカ軍は祈りで退散するほど甘くはありません。
空挺作戦決行の日の朝からクラーク飛行場には、「P-38」二機が偵察に飛来しました。一時は挺進攻撃部隊の発進が危ぶまれる事態となったのですが、午後になるとルソン島方面のアメリカ軍偵察機は退去します。
出撃
出撃したのは「第二挺進団」で、次のように編成されていました。
第二挺進団(=高千穂)団長:徳永賢治大佐、挺進第3連隊(=香取)連隊長:白井恒春少佐、挺進第4連隊(=鹿島)連隊長:斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(=霧島)戦隊長:新原季人中佐、挺進飛行第2戦隊の第1中隊(=阿蘇)中隊長:三浦浩大尉。
そして作戦の概要は以下です。
1.「高千穂」は意図を秘匿しつつX(12月6日)-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下)す。
2.跳下部隊は主力をもって「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及び「サンパブロ」飛行場に跳下し、まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊・焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、「尚武」の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す。
3.着陸部隊はタクロバン及ドラグ飛行場に強行着陸し敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む。
お判りのように、タクロバン・ドラグに向かう「着陸部隊」は独力で敵飛行場を破壊しなければなりません。こんな作戦は立てたらあきません!
「高千穂部隊」は昭和19年12月6日1540にアンレレス南・西飛行場から離陸。挺進飛行第1戦隊の「100式輸送機」(落下傘降下用に改修済み)三十数機が先頭に進み、爆撃と煙幕展張に任ずる第5飛行団の「100式重爆」13機が続きます。
タクロバン・ドラグ強行着陸の4機がこれに続き、直掩の一式戦闘機30機が上空を警戒・掩護しつつ南下したのであります。
ブラウエン飛行場上空に到着した高千穂部隊は、まず100式重爆の攻撃でガソリン集積所および連絡機を炎上させ、各隊に分かれて降下を開始しました。
ブラウエン北飛行場攻撃隊:挺進第3連隊(連隊長白井恒春少佐)挺進飛行隊の17機からパラシュート降下。
ブラウエン南飛行場攻撃隊:挺進第3連隊の一部(桂善彦大尉)挺進飛行隊6機からパラシュート降下。南・北飛行場あわせて合計330名
サンパプロ飛行場攻撃隊:挺進第4連隊の一部24名(龝田大尉)挺進飛行隊3機からパラシュート降下。
以上の3飛行場には、予備部隊が後続降下の予定でした。
ドラグ飛行場攻撃隊:挺進第3連隊の一部26名(竹本中尉)第95戦隊重爆2機から降下、挺進第4連隊の一部50名?(宮田嘉孝中尉)挺進飛行隊第2戦隊の7機から降下
タクロバン飛行場攻撃隊:第2挺進団司令部13名(佐藤中尉)第74戦隊重爆2機が強行着陸、挺進第4連隊13名(榊原大尉)挺進飛行隊第2戦隊の2機からパラシュート降下
予備部隊(第2派レイテ降下部隊)として挺進第3連隊の残余がリパ飛行場で、挺進第4連隊の残余はアンフェレス飛行場にて待機し、後続降下に備えていました。
輸送機のうち18機はアメリカ軍の対空砲火で撃墜されていますが、降下部隊は無事に地上へと降り立ったようです。
サンパブロ飛行場に降下した部隊は、ただちに飛行場の北方に進み、飛行場北側に集結しました。この間に連絡機3~4機、幾つかの幕舎とガソリン集積所を破壊・炎上させ、夜明けとともにブリ飛行場の北側地区に移動して日本軍の第16師団の部隊と合同することに成功。
サンパブロ飛行場にはアメリカ軍第11空挺師団の一部の第127空挺工作大隊・通信中隊・師団砲兵の本部中隊と航空隊地上要員がいました。
これらの部隊は日本軍の降下とともに混乱状態に陥ってしまいました。指揮は乱れて射撃はメクラ射ち同然。
混乱は7日夜明けまで続いたようです。
夜が明けてくると、アメリカ軍127空挺工兵大隊長がようやく戦場を掌握。航空隊地上要員を戦闘部隊の指揮下に入れて部隊を整理し、日の出後にサンパブロ飛行場に向かって前進しました。
127空挺工兵大隊長は近辺に居た第674落下傘野砲兵大隊も指揮下に入れて挺進隊を攻撃し始めます。
日本挺進部隊は米軍の反撃してくる部隊を、飛行場西側において阻止。ここに日米落下傘兵同士の対戦が行われました。
この地域の戦線は膠着状態に陥り、ようやく12月10日に至ってアメリカ陸軍第149連隊第1大隊が連隊砲兵の三十分間の準備砲撃の後に奪還攻撃を開始。
同連隊は飛行場の北に進出して日本軍降下部隊を圧迫。
サンパブロ飛行場にあって、四日間にわたって頑強な防御戦闘を継続していた挺進部隊は、この攻撃によってついに壮烈な最後を遂げたのでした。
同日、日本軍の第二六師団はブラウエン飛行場に対して突撃を開始していました。この攻撃に投入されたのは約一個大隊だけでしたが、きわめて果敢壮烈なものでした。
攻撃は奇襲となり、アメリカ第5航空軍司令部およびブラウエン飛行場の所在部隊を恐慌状態に陥れたのですが、第8航空通信部隊・管理部隊などが戦闘参加してようやく阻止し、翌11日には戦局を落ち着かせてしまいました。
以上が電脳大本営が再現できた高千穂空挺隊の奮戦ぶりであります。「空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻する」という空挺部隊使用のセオリー通りの運用が出来ていたら、ごく一部にしろフィリピンの戦局が逆転していた可能性を感じていただけたでしょうか?
終焉
これより先の12月7日。アメリカ第77師団は大日本帝国軍第三五軍の策源地のオルモック湾南方イピールに上陸を開始しました。
この上陸は第三五軍の抗戦方針を根底から覆すばかりでなく、その死命を制するに足る衝撃となりました。
第十四方面軍司令官山下奉文大将は12日、第三五軍にブラウエン作戦の中止を命じました。
第三五軍司令官鈴木宗作中将は方面軍の命令にもとづいて、オルモック南方に上陸した米軍を攻撃するために、ブラウエン作戦を中止。
第二六師団に対し、ブラウエン地区から転進してイピール方面で防御に当たるように下令したのでした。
もはやブラウエン地区の飛行場を制圧しても、戦局好転のメは全く無くなりました。
黛挺身隊、高千穂空挺隊と第一線で戦い続けていた将兵が心血を注いだ空地協同の空挺作戦は、ついに奏功することなく終わってしまったのでありました。
なお、タクロバン・ドラグに対する大日本帝国陸軍挺進部隊の攻撃は、対空砲火によって輸送機が撃墜されて全員戦死した、とも言われます。が、私は榊原大尉が抱いた八柱の加護を信じたいと思います。
必ずや降下と強行着陸に成功して、強大なアメリカ軍に一矢を報いてくれたに違いありません。