「疾風」と「烈風」4

VSサンダーボルト

「疾風」と「烈風」3では、大東亜決戦機「疾風」が整備さえちゃんとできれば、米軍機に負けない戦闘力を持っていた事を紹介申し上げました。今回は、そのデビュー戦を少し詳しく見てみましょう。

テストパイロット・岩橋譲三

支那大陸の空で苦闘を続けていたのは大日本帝国陸軍の第五航空軍で、P51マスタングやP47サンダーボルトに手を焼き、新鋭機の応援を求めてきたことは先に書きました。

それも致し方のない事で、昭和19年8月の第五航空軍の保有機は戦闘機が82機、その他計104機の計186機しかありませんでした。対する「実質アメリカ空軍」のフライング・タイガースは戦闘機だけで100機、という触れ込みですが、重慶の支那国民党軍の戦闘機もあり、爆撃機も活発な活動を始めていたのです。

P47

P47サンダーボルト

いっぽう本土では、窮迫する戦況に「疾風」の増加試作機を集めて飛行第22戦隊が編成されました。戦隊は「疾風」のテストパイロットを務めていた岩橋譲三少佐を戦隊長に、フィリピンへの進出(「捷号作戦」参加)を目指して猛訓練を重ねていました。そこへ支那大陸からの応援要請でした。

フィリピン防衛も大切ですが支那大陸の爆撃機、とりわけ新たに配備されたとの情報が入っていたB29を放置するわけにも行きません。飛行第22戦隊は、昭和19年8月24日には漢口に進出して、常時30機出動可能の態勢を整えたのです。

大東亜決戦機「疾風」

大東亜決戦機「疾風」

第22戦隊は米軍機の跳梁に切歯扼腕していた各地の部隊からひっぱりだこになりました。8月28日の岳州付近での迎撃戦を皮切りに、翌日も岳州・30日は帰義・9月4日衡陽・6日零陵・9日老河口、新郷、易俗河・13日老河口・14日衡陽、全県・17日シコウと連戦、支那各地を飛び回っています。

わずか30機の「疾風」を二手、三手に分けてあちこちに出動させなければなりません。小分けにしても「疾風」の威力はパイロットの優秀さもあって米軍を圧倒しましたが。

初公開された時の4式戦

初公開された時の4式戦「疾風」

米第14航空軍の司令官シェンノートはフライングタイガース時代から指揮を執っている歴戦の勇者ですが、
「恐るべき新戦闘機による戦隊は数個にのぼる(約150機)であろう」
と誤判断してしまうほどの威力なのであります。

しかし、この酷使は第22戦隊のパイロットたちにはいささか負担になってしまいました。桂林・柳州と並んで敵の有力基地であったシコウ飛行場攻撃のあとの事であります。
岩橋戦隊長は司令部に対して
「余りにも出動回数が多すぎ、満足な攻撃および整備が行なえない。搭乗員の疲労も限界にきている」
と苦情を述べたほどだったのです。

第22戦隊長岩橋譲三

第22戦隊長岩橋譲三

第五航空軍は、敵の西安飛行場に輸送機がさかんに往復していて、新型のP51戦闘機も16機進出している事を偵知していました。司令部は
「B29爆撃機も近々進出してくるはずだ。B29とP51を同時に叩たい…」
と考えるのも当然の成り行きで、機材・搭乗員ともに最優秀の岩橋戦隊に期待する所が大きかったのであります。

岩橋戦隊長、西安飛行場に散る

9月20日、第五航空軍はB29が西安に到着した情報をつかみました。
「飛行第22戦隊は第八飛行団長の指揮下で、西安飛行場の攻撃を行なうこと」
という命令が下されるのもまあ当然と言えば当然ですが、この日中央からは
「第22戦隊は、九月末までに内地に帰還して『捷号』作戦にそなえるよう」内命も来ているのは皮肉とでも言うべきでしょうか?
自分の戦隊の酷使に不満を漏らしつつも、岩橋戦隊長の闘志が人後に落ちることはありませんから、直ちに第八飛行団におもむく戦隊長でありました。

内地を出発するとき航空審査部長の今川一策少将は

「五航のたっての希望なので支那に行ってもらうが、期間は一ヶ月だけだ。貴官のごとき優秀なテスト・パイロットを戦場で失っては、国家の大損失だからな」
「軍人が戦場で死ぬのは本望だろうが、貴官は審査部主任であるから死んではならぬ。本当はフィリピンにも行かせたくないが、四式戦の実戦テストも兼ねているということで許可しておる。くれぐれも自重するように」

と岩橋戦隊長を懇切に諭しているのですが、戦場の厳しさは上司の言葉に勝ったのでありましょう。
敵の新鋭P51に対抗できる数少ない戦力としてあちらこちらに引っ張り回され、戦隊は疲れ切っていました。そして休む間も無く「疾風」でも限度いっぱいの距離への進攻を強いられたのです。

B29

B29

第八飛行団は
「20日夜、飛行第60戦隊の重爆で西安飛行場を拘束爆撃、21日の払暁を期して飛行第22戦隊の選抜機にて同飛行場を襲撃」
との命令を伝えたのです。

岩橋少佐は技量と疲労の蓄積具合を勘案して大いに悩んだすえに、斉藤大尉・古郡准尉・久家准尉の三人を選抜しました。

4機は21日払暁、新郷飛行場を発進します。ところが斉藤機と古郡機はエンジン不調と離陸失敗で途中で引き返してしまいます。これで岩橋・久家の2機だけでB29の配備が進む西安飛行場を奇襲することになったのです。
前夜の重爆隊の拘束爆撃も失敗していて、敵の迎撃力は十分です。たった2機では襲撃成功は覚束ないでしょう。攻撃は中止すべきでしたが岩橋戦隊長は死を覚悟していたのでしょうか?

西安飛行場に到達すると、P47戦闘機がスクランブルしてきました。岩橋戦隊長はコヤツをたちまち一連射で撃墜。続いて超低空に舞い降りると滑走路に並ぶ敵機を銃撃していきます。

P47

P47サンダーボルト

その時でありました。先に撃墜されたP47に続け!とばかりに離陸してきた敵戦闘機が岩橋機と接触。絡み合った両機はともに地上に激突し炎上してしまったのです。
上空警戒の任にあった久家准尉は次々に離陸してくる敵戦闘機群をかろうじて振り切り、帰還。戦隊長戦死を報告したのでありました。

支那派遣第五航空軍を活性化し、米第14航空軍(フライング・タイガース)を恐怖させた「飛行第22戦隊」は、代償として戦隊長と10機を失ってしまいました。残った約20機の「疾風」を第25戦隊に譲って、10月初めに内地へ引き揚げたのでありました。

赤鼻のエース登場

内地の中島工場では「疾風」の制式機の生産が急ピッチで進められていました。「疾風」は敗戦までに3500機余りが生産されたのですが、この数は零戦、隼に次ぐ我が軍第3位の多数に上ります。

疾風vs.P51

疾風vs.P51

支那戦線に展開している航空隊にも、徐々に四式戦「疾風」が供給されるようになっていました。
飛行第85戦隊(第二飛行団隷下/広東)にも9月になって9機が配属となりました。
第85戦隊はこのとき二式単戦「鍾馗」が主力でしたが、選抜された搭乗員が7月から「疾風」の伝習教育を受けていました。

この教育を受講していた根岸中尉・野村曹長とともに第2中隊長の若松幸禎大尉が先陣の3機を受領して9月22日、岩橋少佐と入れ替わるようなタイミングで広東基地に帰ってきました。

若松大尉は二式単戦鍾馗」で大きな戦果をあげていました。大尉の技量は敵にも大いに認められて、「赤鼻のエース」と呼ばれて恐れられていたのです。

「赤鼻」

「赤鼻」

若松大尉が「赤鼻のエース」と呼ばれたのは「鍾馗」のスピナー・キャップ(プロペラ先端の整流用のフタ)と垂直尾翼を真っ赤に塗っていたからです。もちろん、派手な見た目だけではありません。
「赤鼻のエース」は常に先頭に立って、正確な一連射でP40などは抜く手も見せない早業で仕止めていたのです。

真っ赤なスピナーの機影を見ると、爆撃機を援護してきたP40のパイロットたちは、われ先に逃げ散ってしまいます。
ついに支那(重慶)政府は、「赤鼻のエース」に2万元、それでもなかなか撃墜できないと5万元に増額した「賞金」をかけたと言われています。
一応「義勇兵」の体裁を取っていたフライング・タイガースに相応しいエピソードではありませぬか(笑)

赤鼻のエース若松幸橲大尉

「赤鼻のエース」若松幸橲大尉

 

その若松幸禎大尉をもってしても、アメリカ製の新鋭機が登場すると「鍾馗」の性能に限界を感じざるを得なかったのです。若松大尉、いや「赤鼻のエース」は今までの乗機を遙かにしのぐ性能の「疾風」を与えられて、安心感とともに烈烈たる闘志を燃やしていました。

補給が

「スピードも上昇力・旋回性…鍾馗よりいいぞ。それにアシだってずっと長い」
「すべてに勝っているのか。P51も問題ではないな」

二式単戦鍾馗

二式単戦「鍾馗」

「無線機も良くなっている。編隊内も基地との連絡も」
「数がな。ちゃんと補充されるかな」

若松第2中隊長は第3中隊の中村守男隊長と話が弾むのでありました。
四式戦「疾風」を受領すると飛行第85戦隊若松中隊の意気は上がっていました。

昭和19年10月4日。梧州から西進する、補給品を満載した遡江船団がありました。海上と同様にアメリカ軍は輸送船団を狙ってきます。
この日は08:30から17:30にP40とP51を延べ32機投入、八波にわたって攻撃してきたのです。
若松中隊はこれを迎えうち、P51を5機撃墜、2機撃破したのでした。

『0815(午前八時十五分)、四式戦4機、二式戦4機を引きつれ、梧州付近の哨戒に赴く。
太陽を背に、快適なる索敵行なり。
梧州上空にて下方にP51一機を発見第一撃にてP51瞬時に火を吹く。
続いて左に発見せる敵機に一撃、火と水を吹かせ一挙に二機撃墜す。

大久保は一機を追いかけ発火せしめ、石川軍曹も二式にて攻撃、敵を落下傘降下せしむ。
発見敵機を全部撃墜す。我が方被弾機一機もなく、赤子の手をねじるがごとし。友軍の頭上眼前に敵を圧倒撃滅せしは嬉し。』

と若松大尉は自身の日記に綴っています。

広東の飛行第85戦隊第二中隊、前列中央若松隊長

広東の飛行第85戦隊第二中隊、前列中央若松隊長

五機撃墜したP51の内訳は、若松大尉が二機と大久保操軍曹も二機で8割が「疾風」の戦果。その高性能ぶりには、「疾風」を絶賛していた若松大尉自身もびっくりしてしまった程でした。
「疾風」の戦闘力は実戦によって速力・ダッシュ力・火力の各分野ともにP51に匹敵することが実証されたのです。

飛行第22戦隊によって米第14航空軍「フライング・タイガース」を恐怖させた四式戦闘機「疾風」は、飛行第85戦隊の「赤鼻のエース」部隊に引き継がれて輝きを増したのです。

10月6日、15・16・17日と広東に来襲したB24「リベレーター」爆撃機とP51・P40の戦爆連合(機数不明)を迎えて、飛行第85戦隊は果敢に立ち向いました。

B24リベレータ

B24「リベレータ」

85戦隊は17機を撃墜破した(地上砲火によるものを含む)のですが、そのうち5機は若松大尉で4機は大久保軍曹の「疾風」によるもの。

しかし85戦隊も無傷では済みません。9名のパイロットが戦死したとされます。
この年10月17日に「捷一号作戦」が発動されます。支那方面への搭乗員の補充はもはや期待できませんでした。
10月20日には梧州・広東上空の防空にあたっていた飛行第85戦隊に未帰還一機を生じています。この結果、戦隊(第3中隊欠/漢口にあり)の空中勤務者は8人になってしまったのです。

こうして「疾風」の優秀さにもかかわらず、支那大陸における航空優勢は米支側に傾いてしまうのです。

飛行第85戦隊第1中隊と第2中隊は12月初め、漢口に移動して第3中隊と合流したのですが、戦力は四式戦「疾風」が10機、二式単戦「鍾馗」が17機に減少していました。

第五航空軍全体でみても、戦闘機の保有数は150機前後でしたけれど、米支連合空軍は800機。
飛行機の性能や搭乗員の技量・闘志とは関係のないところで、支那大陸上空の支配権は大日本帝国の手から離れつつありました。

実況中継

『ただいまP51追尾中ーーー距離二五〇、一〇〇ーーーテッ!』
『敵機白煙を吹いた、降下中。オッ、発火した、分解。』
『P40六機、広東に向け侵入しつつあり、われ接敵中』

「赤鼻のエース」若松大尉は不利に傾いていく戦況の中でも自分の部下ばかりでなく、地上要員の士気の維持にも気を配っていました。

若松大尉は空戦に入ると無線のスイッチを入れっぱなしで「実況放送」を流していたのです。
ドドドドドッと12.7ミリ機銃と20ミリ機関砲の極低音の射撃音がスピーカーから流れ、基地の将兵は手に汗を握って無線に聞き入っていたそうです。
「若松! 頼むぞっ」「中隊長っがんばれっ! 」と応援の声が飛んだのでしょうか?
見事「撃墜」の報告が上がれば「万歳!」の歓声が沸き起こったことは間違いないでしょう。

疾風に搭乗した若松大尉

疾風に搭乗した若松大尉

基地に残留している整備員や基地要員にとってみますと、敵の空襲は手も足も出ないことです。そこに颯爽と「赤鼻のエース」が現れて「実況付き」で敵を叩き落すのですから、これは痛快この上ナシ。滑走路の整備もエンジンの整備も力の入れ具合が違った事でありましょう。

「大日本帝国の陸軍は頭がカチカチで専制的で、海軍のようにユーモアを解する事が無い」という評価が一般的なように思われます。

実際には、特に航空隊を比べるとそんな事は全くありません。
海軍では、若松隊長のような実況中継はまず許されないでしょうし、地上要員が集まって歓声を上げながら中継を聞く事も無かったでしょう。
海軍では各航空隊のマークとして派手な模様などを使うことは基本的にありませんでしたし、一介の水兵から佐官にまで出世するという処遇もほとんどありませんでした。
ところが陸軍では尾翼や胴体に各戦隊を表す色とりどりのマークをあしらっています。中隊長機の機首や尾翼を赤く塗ることも許されていたのです。

一兵卒から佐官まで上昇することも数は少ないながら、現実だったのです。しかも、海軍みたいに「特務士官」と言う別枠じゃありません。幼年学校(海軍で言う兵学校に相当)出のレッキとした士官と全く同じ士官になれたのです。若松幸信大尉もその一人だったのです。
佐官から上の出世はチョイと違いますけどね(笑)

若松大尉は昭和5年に飛行第3連隊に志願兵として入営し、昭和7年11月に戦闘機パイロットとなり、所沢・熊谷飛行学校助教官を務めていました。
昭和13年5月、第18期少尉候補者として航空士官学校に入校、同年末少尉。
昭和14年9月、ノモンハンの飛行第64戦隊第1中隊に派遣されたのですが、すぐに停戦で空戦には参加していません。

97式戦闘機

九七式戦闘機
ノモンハンで活躍

同年末、中尉。
15年末、明野飛行学校の甲種学生、16年4月同校を卒業。満州・八面通で新しく編成された第85戦隊付となります。
17年1月、第2中隊長となり、同年8月大尉。

戦闘機乗りとして、九一式戦闘機にはじまって九七式・一式戦「隼」と乗り継ぎ、実戦では二式戦「鍾馗」四式戦「疾風」に搭乗。
P40を10機以上、P51を8機以上、計一八機以上の戦闘機ばかりを撃墜しています。超一流の陸軍パイロットでありました。

最後

昭和19年11月末になると、B24・B25の夜間爆撃が盛んになり、漢口の損害も急増していきましたが、陸軍は戦力を温存したこともあって効果的な迎撃が出来ていません。

12月に入ると、ついにB29が中国内の要地に対する爆撃を始めました。「漢口市街地が爆撃される」と言う情報もあって、10日ごろから市民は脱出していました。

VSサンダーボルト

VSサンダーボルト

12月18日、B29の大編隊約90機が正午過ぎから約一時間にわたって漢口に侵入し、爆弾・焼夷弾を投下して市街を炎上させてしまいました。

戦力を温存していた飛行第25、第48、第85の各飛行戦隊は、青木飛行団長指琿のもと、全力で迎撃。B29を2機撃墜、11機撃破の戦果を報告します。
米軍の空襲は続きます。14:36から15:15の45分ほどの間に、B24・B25・P51などの戦爆連合70機以上が五波に分かれて来襲。

各飛行戦隊ともに正午からの空襲の合間を縫うようにして着陸、燃料・弾薬を補給しては飛び立つことを繰り返していました。
米軍に比べて、地の利はあると言っても圧倒的に少ない機数・人数。搭乗員も地上要員も次第に疲労困憊、次第に離陸までの時間が掛かるようになり「疾風」は地上で破壊されてしまうようになります。

若松少佐は最強の敵P51「マスタング」を選んで激闘して2機を撃墜。しかし、一旦着陸して補給を済ませて舞い戻ると、P51十数機にとり囲まれてしまったのです。

いかに「赤鼻のエース」が乗る「大東亜決戦機・疾風」といえども、第二次大戦最優秀戦闘機の呼び声高い「マスタング」10機以上を同時に相手にしてはどうしようもなかった事でしょう。

若松少佐は愛機の燃料タンクから白い筋をひき、引いたと思ったつぎの瞬間、白い筋は真っ赤な炎となって墜落。壮烈な戦死をとげてしまったのであります。少佐34歳でありました。

若松少佐とともに第85戦隊の双璧とうたわれていた第1中隊の柴田力男准尉・細堀軍曹もこの迎撃戦で戦死。大久保軍曹は負傷し不時着。斉藤戦隊長も被弾して火傷を負い、戦隊の可動機数はわずか3機になってしまいました。

第85戦隊は壊滅しても、「疾風」と「烈風」まだまだ続きます。

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