岸壁の母を思いだして

1式重機関銃

昭和20年8月。大日本帝国は崩壊し、600万人に上る在外(日本本土以外に居住していた、という意味です)邦人は築き上げた財産も地位も捨てなければならなくなりました。

支那大陸が悲惨

大東亜戦争中はグアム・サイパン・沖縄と民間人が米軍に攻撃される事態(アメリカだけが悪いわけじゃなくて、皇軍の対応も民間人保護の観点からは褒められたものではありません。電脳大本営は「軍隊の本分は国民の生命・財産の保護にあり」がモットーです)になり、一方で満洲・華北・華中などの支那大陸に根を下ろしかけていた人々は比較的静穏な生活を続けていました。

ところが、ソ連の参戦から状況は一変してしまいます。アメリカ軍に対しては、投降してしまえば生命が脅かされる事もありません。女性が貞操を心配することもほぼ無かったのですが。

ヴァシレフスキー(左)

極東ソ連軍のヴァシレフスキー元帥(左)

盟邦ドイツでもそうですが、ソ連軍の兵士(ロシア人が、というわけではありません、共産主義の軍隊と言うべきでしょう)は敵軍に対する憎しみがそのまま敵国民にも向けられてしまったようです。
そして征服者としての優越的な力を、己の劣情のはけ口に使ってしまったのです。

その上で、降伏した皇軍兵士を酷寒のシベリアへ拉致して強制労働させる無法ぶり。これは関東軍が自ら申し出た(要は首脳部が無事に帰国するため)とする説や、北海道占領を避けるための代償だったとの説もあります。

シベリア連行、強制労働の事実を日本政府が知ったのは昭和20年11月。もちろんこの時、日本政府にソ連と話をするだけの力はなく、翌昭和21年の5月になってアメリカを通じてソ連と交渉することが出来ました。この年12月19日「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立して抑留者の引揚げが始まりました。

我が国とソ連の国交が復活する昭和31年まで、実に47万3000人の日本人が「引き揚げた」のであります。

士官候補生の奮戦

北満洲の牡丹江に「関東軍歩兵第二下士官候補者隊」がありました。
これは甲種幹部候補生を集団教育して予備下級士官とするもので、内地の陸軍予備士官学校と類似のものです。

よく、「石頭予備士官学校」と表現されていますが官制にはありません。通称として「予備士官学校」と呼ばれていたのでしょう。まあ、それはどうでも良いことであります。
ここからしばらくの戦闘経過などは『実録 遥かなる回想(高崎弥生氏著)』によります。

昭和20年8月9日の早朝から、この「学校」に非常呼集のラッパが鳴り響いたのであります。日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が満洲国になだれ込んできたためでした。

学生とはいえ、国防を志した少年たちです。彼らには避難する邦人を逃がすための決死の奮戦が求められたのです。
3600名の生徒は2組に分けられました。歩兵砲・機関銃隊は1600名で荒木連隊長が統率。2000名は学校長の小松大佐が指揮してトンキン(東京)城に布陣したのでした。

トンキン城へ行軍中には避難する在留邦人がすし詰めのトラックとすれ違いました。逃げる日本人たちは「お願いします」「頑張ってください」と叫び、祈るように少年たちを見ていたそうです。
彼らにとっては、逃げるための時間を稼いでくれる唯一の頼みは「軍隊」なのです。頼られた少年たちの闘志には、厭でも火が付いた事でしょう。

T-34-76-1943

T-34-76 1943年型

 

彼らはトンキン城を狙ったソ連軍、航空隊や戦車隊を含めて50万に上る大軍に全生徒3600名で立ち向かったのでした。
盟邦ドイツの大戦車群を蹴散らしたソ連の重戦車軍団が、3ヶ月のあいだに満洲へと移送されていました。対する生徒たちの武器は重機関銃が最大。
これとても数は満足にあるわけではなく、弾薬も不足。実戦経験の無い悲しさで、小休止して飯盒炊爨中を発見されて空爆対象になったり、川で汗を流しているところを銃撃されて素っ裸で戦死してしまったり、の苦労をしながらトンキン城へ到着するのです。

92式重機関銃の射撃

92式重機関銃の射撃

彼らを待っていたのは、子供のランドセルくらいの「爆薬」でした。中身はびっしり詰められたダイナマイトです。これに30センチほどの導火線が付けられている急造爆雷でした。
敵戦車に接近したら導火線に点火して、全速で戦車に突っ込み弱点である腹の下に投げ込む「対戦車肉迫攻撃」を行おうと言うのです。

間違ってはいけません。この攻撃方法は「決死の覚悟」は必要ですが、「必死」ではありません。戦車という攻防ともに優越した強敵に「小回り」という歩兵の特質で挑む、ある意味では合理的な戦法です。

急造爆雷を持った生徒たちはトンキン近傍の磨刀石という地に布陣しました。道路の両側に蛸壺を掘って爆雷を抱いて生徒たちがひそんでいます。

刺突爆雷

候補生には刺突爆雷すらありませんでした。

 

その道路をソ連軍戦車は一列になり、蛸壺を揺るがせて前進してきます。戦車には歩兵が随伴しています。偽装が不十分な蛸壺などは発見されて肉薄攻撃前にやられてしまいますが、周りの蛸壺の生徒たちはこの混乱を好機として「先にゆくぞ」と叫びかわし、次々に戦車に向かっていきます。

数台の戦車が破壊されると、ソ連軍の後方から歩兵が大量投入されて肉攻手たちを狩りだそうとします。これに対して日本軍は後方に控置した重機関銃となけなしの榴弾筒を発射してソ連歩兵をなぎ倒します。
たまらずソ連歩兵は後退すると再び生徒たちの肉薄攻撃が始まります。ひとりの肉攻生徒が蛸壺を飛び出しソ連戦車の直前に爆雷を置いて伏せました。
しかしソ連戦車は急ブレーキ、爆雷の3メートル手前で停まってしまいました。生徒は諦めずに匍匐前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとしたそうです。
戦車の直前まで推し進めたのですがm僅かに間に合わず、爆雷は轟音を発してしまいます。生徒の半身は高さ20メートルほど白煙とともに吹き飛び、鮮血を撒き散らしてグルグルと回転しながら、またもとの位置に落下しました。

戦車乗っ取り

損害を受けながらもソ連戦車隊は止まりません。生徒たちの肉薄攻撃も止むことがありません。邦人を逃がすために、一人でも多くの日本人を故郷に帰すために。

一台の戦車が擱座すると、あまりの凄惨な攻撃に恐れをなしたのか、ソ連兵は戦車から飛び出して逃げ出しました。勇敢な肉攻手が3名、蛸壺から飛び出すと敵の戦車に飛び上がり、掩蓋(えんがい/ハッチ)から侵入。
と思う間もなく、戦車の砲塔がグルリと後ろを向きます。

この3名は鈴木秀美候補生・一之瀬候補生・和泉伍長であると、高崎氏は書いておられます。
3名のうち、敵の戦車砲を扱ったのは鈴木生徒だったようですが、彼は後続の敵戦車に乱射。分捕り戦車は猛然と火を吐き、たちまちのうちに5~6輌の敵戦車を粉砕してしまいました。敵戦車群は大混乱となり後退していきます。

殊勲の3戦士、とりわけ鈴木生徒だったのですが、彼はまだ砲の構造が良く理解できていなかったそうで、射撃の際の砲座の後退で顔面を強打。大腿部も負傷しており、戦闘の継続は不能。自爆を切望して英霊となってしまいます。

箱爆雷

箱爆雷

こうしていったんはソ連軍を押しとどめたものの、ついに衆寡敵せず。蛸壺陣地は敵戦車の蹂躙する所となり、死傷者続出の事態となってしまいます。ここに至って、ついに生徒たちは後方に下がり山中へと後退するのでした。

750名の生徒のうち、後退できたのは僅か105名の奮戦でありました。
この生き残りたちは、前述のようにソ連軍に投降後はシベリア抑留の憂き目を見ることになります。そして見事な遅滞戦闘の末に散華なさった生徒の中に「瑞野新二生徒」もおられたのであります。

戦後ヒダリツバサ君が「関東軍はソ連軍が攻めてくると、日本の国民をほったらかして逃げた」との侮辱を広めやがりました。
確かに、上層部で逃げたのは大勢います。しかし、一線の部隊でスタコラ逃げ出した部隊などありません。
軍隊の本来の任務(国民の生命財産を保護すること)に実に忠実に、雄々しくかつ効果的に戦ったのです。武器・兵数・補給などが圧倒的に劣るなかで。

平桟橋

アメリカを通じてソ連と交渉した結果、シベリアに連れ去られた戦士たちは昭和22年から順次日本に帰れる事になりました。これを「引揚げ」と呼び、船便で京都の舞鶴港に帰ってこられたのです。

平引揚げ桟橋

舞鶴港の平引揚げ桟橋

舞鶴は日露戦争までは大日本帝国の「防衛正面」であった日本海の中央に位置しており、海軍鎮守府が置かれた軍港都市でありました。
日露戦争の勝利によって、その重要性は低下してしまったのですが、舞鶴海軍工廠は軍艦建造に活躍を続けました。大東亜戦争の敗北まで、舞鶴工廠は駆逐艦のネームシップ(一番艦)が建造される「駆逐艦の故郷」だったのです。

舞鶴港の中でも、引揚げ船が到着したのは「平桟橋」と言われる桟橋で、今でも保存されて抑留された人々の苦労を偲ぶことが出来ます。

その桟橋には、引揚げ船に乗って帰ってくる我が子、我が夫を迎える女性たちが鈴なりになるのが恒例となりました。この女性たちは誰とも無く「岸壁の母」「岸壁の妻」と呼ばれるようになります。
そんな岸壁の母の中に瑞野いせさんの姿もありました。

そうです、磨刀石の激烈な遅滞戦闘で散華された瑞野新二生徒の母上であります。
いせさんは明治32年(1899年)の9月15日に石川県羽咋郡富来町の生まれ。青函連絡船乗組みの夫端野清松さんと結ばれて一女を授かり函館に暮らしていました。
昭和5年(1930年)頃に夫と娘を相次いで亡くしてしまいます。いせさんはどういう経緯か判りませんが、函館の資産家で夫と暮らしていた家の家主であった橋本家から養子をもらいます。
これが新二生徒なのです。昭和6年には新二を連れて函館から東京に出て行きます。
決して豊かな生活だったとは思えないのですが、いせさんは女手一つで新二を立教大学に進学させます。

「岸壁の母」瑞野いせと息子新二

「岸壁の母」瑞野いせと息子新二

しかし、時代は新二を大学で学ばせることを選びませんでした。新二は軍人を志し立教大学を中退して満洲国に渡り、昭和19年に関東軍の通称「石頭予備士官学校」に入学するのです。その後は書かせて頂いた通り。

戦死された(これには異説がありますが、私の見るところガセ)新二が帰ってくるはずもないのですが、いせさんは引揚船の報せがあるたびに東京からはるばる舞鶴まで出かけて行ったのでした。

平桟橋に出迎える人の姿も徐々に少なくなっていく中で、毎回必ず姿を見せる瑞野いせさんの姿は注目を集めました。この話に感動した作詞家の藤田まさとが「岸壁の母」を作詞、平川浪竜が作曲して、菊池章子の歌唱でレコーディングされます。

既に何枚ものレコードを出している菊池が、泣き出してしまってレーコーディングが困難だった、という逸話が付いたレコードは昭和29年9月に発売され、我が国の国民を感動の渦に巻き込みました。170万枚を超えるセールスを記録する大ヒットとなったのでありました。

岸壁の母は「日本死ね」と言ったのか?

歌謡曲「岸壁の母」は昭和46年の二葉百合子につづき、ちあきなおみ・天童よしみ・石川さゆり・島津亜矢などにカヴァーされて歌い継がれ、2012年には坂本冬美のアルバムにも収録されています。

いせさんは菊池章子からレコードをプレゼントされるのですが「家にはプレーヤーが無いから」と断ってしまいます。菊池章子は自分でプレーヤーを購入して持参したそうです。
いせさんは「未帰還兵の母」という本を出したりもしますが、基本的に和裁の内職で生計を立てていたようです。そんな中で交通費をやり繰りして遠い舞鶴まで。

(オリジナルの岸壁の母、バックは舞鶴港の平桟橋)

事前に乗船者(ソ連に解放された人)の名簿は発表されているのです。昭和29年の9月には厚生省が新二の死亡理由認定書を発行。昭和31年には東京都知事が戦死告知書を発行(昭和20年8月15日、牡丹江にて戦死)。この告知書は舞鶴引揚記念館に保存されています。

それでもいせさんは岸壁に立ちました。「岸壁の母」の歌詞にあるようにもしや、との思いを断ち切れなかったのでしょうか?

当時は引揚船が到着すると臨時列車が仕立てられました。舞鶴から山陰線で京都へ向かい、そこから全国に帰って行ったのです。
昭和25年10月の時刻表を見ますと、東舞鶴駅から京都駅まで3時間半、京都から東京までは東海道線の急行で9時間半。
引揚船は通常朝7時か8時に到着していましたので、これを待ち受けるには前日に舞鶴に到着していなければいけません。
そのため、いせさんは前日朝8時ちょうど発の急行で東京駅を出発したのだと思われます。この急行は17時23分に京都着。もちろん新幹線はありませんし、特急に乗るとお金がかかりますから。
17時35分京都発の山陰線は、20時55分に東舞鶴駅に到着。13時間30分乗りっぱなしの難行であります。

この間、瑞野いせさんは「自分の息子(養子)を戦死させた国」に対する恨みつらみを言う機会はいくらでもありました。彼女はそれなりに有名人となっていましたから発信力はあったのです。

それでも彼女は「日本死ね」などとは一言も言っていません。自分の腹を痛めたわけでも無い「我が子」をただ黙って迎えに出ていたのです。

晩年の瑞野いせ

晩年の瑞野いせ

映画・ドラマなども制作され、平々凡々の日常生活と年に何度かの舞鶴行きだけでは映画になりませんから、いろいろ脚色されるわけですが、実際の彼女はじっと待っていました。その間、いせさんの脳中にいかなる思いが渦巻いたのか、私どもには想像するしかありません。

あるいは無謀な(?)戦争を実行した「国」に対する恨みだけがあったのかも知れません。いせさんはその恨みを言葉に出すことはありませんでした。
国を恨むことは、息子新二の最後の思いを大きく裏切ることだと理解出来ていたのに違いありません。

瑞野いせさんの息子だけでなく支那大陸で散った多くの英霊も、60万~80万とも言われるシベリア抑留者も、大日本帝国の国民を護ろうとして果敢に戦った結果なのです。

英霊・被抑留者のほとんどは「大日本帝国」などと言った抽象的なモノではなく、自分の母、姉妹、あるいは幼馴染、初恋の人、憧れの女性、初めて接吻した相手、妻、娘。あるいはすれ違った避難民たち、近所に暮らしていたおっちゃん・おばちゃん。そんな人々を頭に思い浮かべて絶望的な戦力差をも顧みずに戦ってくれた、私はそう信じています。

日本とは何なのか

早くも「去年の話」って事になりますが、ガソリンをたくさん使うので有名な女性性治家が「日本死ね」って言葉で流行語大賞を受けました。

匿名ブログの言葉って事ですが、それなら匿名さんが大賞を受ければ良いわけで、「日本死ね」はこのガソリーヌなる性治家の自作自演と考えてよいでしょう。
ではこの女性性治家が「死ね」と宣う「日本」とは一体なんでしょうか?

ガソリーヌ

ガソリーヌ

私など、国家像を語る能力も知識も持ち合わせがない事は百も承知ですが、あえて書いちゃいましょう。

我が国・日本はアメリカなどの人工的に作られた国家ではなく、自然発生的に誕生した国です。
この土地に暮らしていた人たちが「国」という概念すら持つ前から、血族関係の無かったであろう人たちとも協力して生活を支えあった「生活共同体」がその発生であろうと思われます。
4つの主要な島嶼と、その周りの数多くの離島(離島の皆さん、申し訳ない表現ですみません)には長く「統一政権」が誕生することはありませんでした。しかしながら同一の生活共同体・文化共同体とでも呼べるものに属しているのだ、という意識は濃密に持っていたようです。

サミュエル・P・ハンチントンはその著書「文明の衝突」で日本を世界の八大文明として挙げています(日本文明:2世紀から5世紀にかけて中華文明から独立して成立した文明圏。日本一国のみで成立している孤立文明であり、孤立文明は世界に類例がありません)。

単一の国家として世界で最長を誇る悠久の時のながれの中で、数々の政権が日本の行政にあたりました。ハンチントンは気付いてないでしょうが、そのどれもが「ある血族」の権威を借りるカタチで国政に当たった、というのも世界的に見ると日本の特徴の重要なモノでしょう。

佐倉連隊の兵営

佐倉連隊の兵営
かつて、兵営の誘致が地域を上げて行われました。

女性性治家が「死ね」と宣った日本とは、そういった側面も持っている国です。
彼女には彼女なりの国家観・日本観がおありでしょうし、それを認めるのにやぶさかではありません。
しかし私が日本を愛し、大切に思い、もっと豊かにしたいと思う気持ちも否定される筋合いはありません。「日本死ね」とは我が国の歴史・文化・文明・固有の精神性、そのすべてを否定している言葉です。
しかもこの性治家は日本の政治家ではありませんか。日本のおかげで生まれ育ち人となり、日本から給料をもらう政治家になって日本のために働くことになったのではありませんか。
自分の子を、自分の都合で保育園に預けようとして断られた。それだけで日本に「死ね」と言える分際か?

瑞野いせさんと比べて、私は同じ「日本の母」とはとても思えません。我が国の母性はこんなにも劣化してしまったのかと考えると、絶望的な気持ちにもなりますが、負けてはおられませぬ。

この人たちはどこの国民なのか

実はこの記事は2017年の大東亜戦争の開戦記念日にあわせて、「岸壁の母」から敗戦の惨めさを噛みしめ、戦争は勝たなきゃ!って言うお話にしたかったのです。
でも最低な性治家が頭に浮かぶと、おさまりが付かなくなってしまいました。

最低なのは所謂ヒダリ側の政治家の専売特許みたいなモノですが、これは今に始まった事ではありません。「岸壁の母」絡みで昔の悪事を一つ暴いておきまして、この記事を治めたいと思いますので、お許しのほどを。

シベリア被抑留者の引揚げもメドが付き始めた昭和30年のことであります。
この当時、ソ連(共産党)と親密な関係にあった社会党左派の国会議員が収容所の視察を行いました。もちろん「視察」といっても、ソ連側が準備したコースを回るだけでした。要は「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と言い繕うための茶番だったのです。

ただ、視察団には気付けるチャンスはいくらでもありました。
衆議院議員の戸叶里子は調理場のカーシャ(スラブ系諸国の粥)を味見したのですが「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と感想を漏らしたそうです。
収容者たちは日本の政治家が視察に訪れたチャンスを活かそうとしました。過酷な状況の下で強制労働をさせられていると伝え、故国に伝えてもらおうとしたのです。
ソ連は収容者と視察団の自由な接触など認めるワケがありません。
収容者たちは命懸けで収容所の現状を書き連ねた手紙を視察団に渡したのです。
視察団はその手紙を握りつぶしてしまいました。その上で帰国後の記者会見や国会での報告に臨み「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと説明を行ったのです。

収容者たちは帰国後、この件を新聞に投稿して視察団の虚偽を告発したのでありました。
ところが大悪人である視察団団長の野溝勝などは「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で多少の追求を受けただけでした。

ロシア政府は4万1千人分の「シベリア抑留」の死亡者名簿を作成して我が国に引き渡しています。一方、我が国で確認済みの死者は25万4千人の多きにわたり、その上行方不明・推定死亡者は9万3千名。合計で34万人以上の日本人が死亡した悲劇であります。

その被害者の必死の訴えを握りつぶし、虚偽の報告をなした罪は未だに償われないどころか、一言の詫びさえも「社会党」からは出てきません。
私が福島瑞穂を絶対に認めない所以であります。

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