オレンジ計画異聞
第一次大戦が終わると、アメリカ海軍は「オレンジ計画」と呼ばれる、次に来るであろう大日本帝国との戦争計画を立案しました。
この「計画」はその裏側である軍種の確立に密接に関わっていた、というお話であります。
海兵隊の誕生
「オレンジ計画」は数次にわたって改訂されて行きますが、「大日本帝国の先制攻撃で始まり、アメリカ合衆国が態勢を整えて反撃」と言うストーリーは変わりませんでした。
此処で一つお断りしておきますが、
「早くから戦争計画を立てやがって!やっぱりアメリカの悪だくみだった」
というテの話には絶対になりません(笑)。そういう「史実曲解話」は藤井厳喜さんにでも聞いといてください。
ついでに言うときますけど、大東亜戦争に限らず国際関係や戦争について「どっちが悪い」とか「どっちが騙した」なんぞは、そもそも議論が成り立たないと私は考えています。
だいたい、国同士を裁く法も司法機関もないんですから、騙し放題・やり放題。国同士の約束(条約・同盟)なんて破るために結ぶようなモンです。
国の為政者たるもの、そのことは十分理解していなければ資格はありません。
アメリカに騙されて「勝ち目の無い戦争をさせられた」って言うなら、「させられた日本の政治家」が馬鹿なんです(実際に馬鹿も一杯いましたけどね)。
私たち日本人のご先祖は全体的に見たら、そこまで馬鹿じゃありません。いや、逆に尊敬すべき方の方がたくさんおられると思います。
この話、匿亜参国は該当しませんよ。あの国々は特別ね、普通じゃないから。
最初から脱線しちゃいました。
1914年に始まった第一次大戦に、アメリカは遅れて1917年に参戦しています。
主戦場(欧州戦線)には小艦隊しか派遣しなかった東洋の島帝国とは大違い、アメリカ合衆国は陸戦部隊も大挙投入してドイツ帝国に勝利するのでありました。
この陸戦部隊の中に「ある軍種」も含まれておりました。その軍種とは「海兵隊」なんであります。
海兵隊の創設は古く1775年であります。
当初は荒くれ水兵を取り締まるための「海上憲兵」みたいなモノだったようです。
それに相応しいのかどうなんだか?
アメリカ海兵隊の初代司令官は、居酒屋のオヤジをしていたニコラス某さん。隊員は居酒屋の常連のアル中どもを無理やり入隊させていたんだとか(笑)
軍隊も人間の集団である限り、キマリを守らないヤツは出てきますし、それを取り締まる組織も必要になります。
海兵隊もこの役目を果たすのですから、アメリカ海軍にとって必要な組織の筈だったんです。普通の軍隊なら自分の組織の一部として「憲兵」を持つんですけどね。
時代が進み、海軍が海賊の末裔だったころから様変わりしてくると、海兵隊は海軍の目の上のたんこぶ、邪魔モノになってきました。
邪魔モノにされた海兵隊はどんどん縮小されちゃったのであります。
いろいろと抵抗はしたみたいですが、一番のアピール法は役に立つぞ!ってところを見せることでしょう。
軍隊で役に立つとはすなわち戦闘に強い事。
海兵隊も戦争で暴れまわって目立ってやろう、と狙っていたのです。
しかし、アメリカは意外と戦争してないんですよね、第一次大戦前って。唯一と言えそうな海兵隊のチャンスは米西(アメリカvsスペイン)戦争でしたが、これも参戦機会なく終了(アメリカ圧勝)。
ついに海兵隊の隊員数は1万人の大台を割り込むまで縮小になってしまっていたのでありました。
活躍はしたけれど
そこに涌いて来たのがヨーロッパの大戦争への参加と言うまたとないお話です。
海兵隊は「このチャンスを逃したら、廃止されちゃうぞ」とばかりに大いに張り切りました。
海軍の一部みたいなモンでも、軍艦に乗ってたままでは目立てませんから、やっぱり陸上戦闘です。
海兵隊は陸に上がり、組織の存続をかけて必死の奮闘を見せるのであります。
そもそも、第一次大戦は第二次大戦と違って最後の最後までどっちが勝つか判らぬ大混戦でした。
海兵隊はココで、後に別名(マッド・ドッグ)となるブルドッグのごとき戦いぶりを見せつけるのです。すなわち「一度噛みついたら死ぬまで離さない」。
海兵隊の奮闘はアメリカ合衆国の国民を大いに興奮させました。
海兵隊員の募集は超絶的な人気となり、その規模は拡大に続く拡大。ドイツ帝国が国民生活の窮乏から崩壊するまでに、海兵隊の兵力は7万5千人にまで拡大します。
ところが、でありました。めでたく大戦争に途中から参加して勝利をもぎ取ったアメリカ合衆国だったのですが、勝ってしまえば「軍縮」が待っているのは世の習い。
「狡兎死して走狗煮らる」のは支那だけの話じゃあないのです。
もっとも、走狗(活躍した猟犬)を煮て喰っちまうのはChinaとKorea位でしょうけれど。
陸軍・海軍も予算を大きく減らされ、兵員の削減を迫られている時、海軍の付録みたいな海兵隊が無事に済むワケがありません。
せっかく7万5千人まで増えた海兵隊は今度は減員に次ぐ減員で1万5千人になってしまうのでありました。
一方でアメリカ合衆国は、戦時特需と主要エネルギーの石炭から石油への転換によって世界一の大国にのし上がっておりました。アメリカは当時世界一の産油国ですからね。
国際連盟を提案しながら、自分だけは参加せず。
それでも主要国の外交には絶大な影響力を発揮するだけのパワーを持ってしまったんであります。
ところが、ですね。アメリカ合衆国は自らが牛耳って、自国の良いように造り上げた筈の戦後(第一次の、だぞ)国際態勢で、トンでもねぇミステークを犯していたんであります。
それはいつも注目していた西の方ではなく、太平洋の上でのミスでありました。
委任統治領
第一次大戦に参戦したアメリカ合衆国が主要戦線のヨーロッパにかかずらわってる間に、小狡い東洋の島帝国は「ドイツ領ニューギニア」、後の南洋群島を素早く占領していました。
パリ講和条約ではオーストラリアなどが大日本帝国の南洋群島領有には大反対します。これはシーレーン遮断と国防ラインの後退を恐れたのが理由でしょう。
白豪主義からくる人種差別的な偏見もない事はないでしょうけど、主要な原因ではありません。少なくとも儂はそう考えます。
この辺りも面白いし、大東亜戦争の一因ともなって行く(オーストラリアは喜び勇んで我が国と戦っていますからね)ので、回を改めて詳しく書きます。
ともあれ、現に占領してるモノは立場が強うございます(笑)。
結局「委任統治」ってシステム、それも現地の独立はほぼ不可能って言う「カテゴリC」で、南洋群島は大日本帝国の「領有」するところとなってしまうのであります。
この結果を地図に落とし込んで、ジックリ眺めたアメリカ海軍はオーストラリア人以上にビックリこいてしまうんであります。
日本人からしたら「ザマぁ見さらせぇ」って巻き舌で言っちゃう感じですね。
委任統治領の地図をご覧いただきましょう。
なんじゃ、こりゃ!アメリカ本土・ハワイ・・グアム・フィリピンの連絡線が、真横から圧迫されとるやん、って感じでありましょう。
大統領が戦勝に大はしゃぎしちゃって、「民族自決」だとか「領土不拡大」なんぞと理想論を振り回してたモンだから、太平洋で足元をすくわれる結果となってしまったのであります。
日露戦争終結時点では、アメリカ艦隊は大日本帝国に後れを取っていたほどですが、その後は経済力にモノを言わせて増強に次ぐ増強。
フィリピン・グアム・ハワイを擁して太平洋を圧する勢いだったのですが、その連絡路を大日本帝国の委任統治領で寸断されてしまいました。
本来、海軍の前進基地になる筈だったのに逆に補給を絶たれて弱点になってしまう。
肝心の日本側にはそんな気持ちは毛頭ありません(その証拠に「南洋諸島の要塞化」は一切やってません、連盟を脱退してからもね)でしたが、アメリカ海軍はそんな感じで大いに心配したんであります。
海兵隊、活路を見出す
戦争が終わったのち、1920年代~1930年代にアメリカ合衆国と大日本帝国が戦争すると予想していた人間は、実際のところほとんどいなかったと思われます。
1921年には「ワシントン海軍軍縮条約」も結ばれて軍縮ムードは満開状態でありましたから。
それでも西太平洋にはマーシャル諸島をはじめとする日本の委任統治領があり、そこが日本海軍の前進基地となったら?
アメリカが前進基地とするグアムやフィリピンとハワイ・本国とのルートは分断され、アメリカ海軍の優位性が損なわれる可能性が高いのです。
万一太平洋を巡って何ぞコトが起こり、大日本帝国が敵対側に付いちゃったら?
アメリカが日本と戦争したかったワケではなくて、万一の可能性を考えてシミュレーションしておくのは、国防を任務とするモノにとって当たり前の事です。
アメリカ海軍大学校でいくら図上演習をやってみても、大日本帝国海軍には勝てそうもありませんでした。
このピンチを、意外なところから救った男が海兵隊にいたのです。その男とはアール・ハンコック・エリス中佐。
海兵隊司令部戦争計画課のR・H・エリス中佐は、ハワイ・グアム・フィリピンを防衛しつつ、日本の前進基地(南洋群島)を奪取して日本本土や支那大陸に進攻する研究論文「ミクロネシア前進基地構想」を書き上げたのです。
エリス中佐がこの作戦のために提唱した概念こそが「水陸両用作戦」でありました。1921年の事であります。
もちろん、エリス中佐はアメリカ海軍を救おうと思っていたワケでは無いのでしょう。自分が所属する海兵隊のためにこの構想を練り上げたと思われます。
「水陸両用作戦」には海軍のほぼオマケで、陸に上がると勇敢に戦う海兵隊が最適ですから(笑)
水陸両用作戦の考え方はエリス中佐以前にも存在していました。
ただ、唯一の例外を除いて大規模に実施された事は無いのです。その例外とは第一次世界大戦でのガリポリ上陸作戦。しかしガリポリ上陸作戦は見事な大失敗に終わりました。
失敗の原因は今から思えば「水陸両用作戦の考え方が未熟だった」と言えそうですが、当時は「水陸両用作戦は不可能」という認識が広まっていたのです。
しかしエリス中佐はこの失敗を教訓に水陸両用作戦を論理的に発展させたのでした。
エリス中佐の論文「ミクロネシア前進基地構想」は当時の海兵隊総司令官レジュン(John Archer Lejune)少将に認められ、徐々に海軍内での賛同者も増えてオレンジ計画に取り入れられて(と言うよりは、オレンジ計画の基本となって)行きます。
海兵隊はエリス中佐の論文に基づいて、艦隊と共に幾多の上陸演習を行うことになります。
1922年1月から4月にかけてグアンタナモ湾などで上陸演習。この時は重装備を艦船から陸揚げできるかの実験と位置付けられます。
1923年の12月と1924年2月、海兵隊はパナマ運河地帯での艦隊演習に参加しました。防御戦と攻勢双方の演習が実施されて貴重な経験が得られたそうです。
特に重要だったと思われるのは艦への積み降ろしの経験でしょう。この演習から「上陸用舟艇」の研究が始まったと(海兵隊内では)されてますから。
1925年春の「ハワイ沖統合陸・海軍演習」では海兵隊も演習に参加。敵前上陸を想定した訓練には完全に成功、装備もいろいろと実験されて上陸戦術が改善されたのです。
こうして水陸両用作戦に自信を持った海兵隊は1933年、「海兵隊装備委員会」を設立。上陸作戦や遠征用の物資のテストや開発を始めました。
私のような大東亜戦争フリークなら、強襲上陸作戦と聞いて最初に思い浮かべる「LVT」も此処でテストされ、実用化されるのであります。
エリス中佐は理論だけの軍人じゃなかった
エリス中佐の構想は1924年に完成したアメリカ海軍初の「対日戦争計画=オレンジ計画」に組み入れられるのですが、ご本人はそれをじっと待っているような口先軍人ではありませんでした。
エリス中佐は持論の補強のためにミクロネシア地域の調査を思い立ったのです。上陸作戦の適地や日本軍の防備状況を調べておこう、と言うワケです。
中佐は海兵隊に休暇願を出し、サモア・フィジーを経由してオーストラリアへ。シドニーの日本総領事館で南洋群島へのビザを取得。
この時、中佐は「ヒュージ貿易会社の代表である」と身分を偽っています。
しかしオーストラリアから直接南洋群島へ直接渡る便船が無く、エリス中佐はフィリピン経由で1922年の8月初旬に日本に入国。
ココまではエリス中佐の「光」の面ばかり描いてきました。日本人としては悔しいですけどね。
悔しいから「闇」の部分も書いてやることにします。「海兵隊中興の祖」の(笑)
日本に入国して「南洋群島」に渡るチャンスを伺っていた中佐ですが、8月12日には持病の腎炎が悪化して「アメリカ海軍横浜病院」に入院してしまいました。
その後いったん退院したのですが、9月20日には宿泊先の横浜のグランド・ホテルから救急車で運び出されて強制的に再入院させられてしまうのです。
強制入院とは穏やかではありません。この入院を企んだのは駐日アメリカ海軍武官のコッテン少佐とアメリカ海軍横浜病院長のウェブ中佐でした。
実はエリス中佐は来日してからの素行がすこぶる悪く、毎晩のように横浜で飲み歩き泥酔していたのです。
酔っぱらうだけならまだしも、
「俺は政府の密命で南洋群島に偵察に行くのじゃ」
だとか
「日本はベルサイユ条約に違反して委任統治領に軍事施設を建設している」
等々、ない事無い事言いふらしていました。
大日本帝国が南洋群島に軍事施設を建設している証拠などは一切ありません(実際にやってません)し、ズルやり放題の欧米諸国から見れば馬鹿が付くほど真面目に委任統治に取り組んでいます。
エリス中佐の酒癖は余りにも悪過ぎて、このままでは国際問題になりかねぬ、とコッテン少佐が心配。エリス中佐をムリヤリにでも本国へ送還するために強制手段に出たのでした。
しかし流石は腐っても鯛、アル中になっても海兵隊。
送還されそうな事を察知したエリス中佐は10月6日の夜に病院を脱走してしまうのであります。
アルコール浸りの英雄
アメリカ海軍横浜病院から忽然と消えたエリス中佐は1923年3月の中旬にパラオ諸島のコロール島に現れます。
この間の行動や南洋群島への潜入ルート、 南洋群島での詳細な行動は良く判りません。
戦後の海兵隊の調査では、南洋貿易会社所属の「春日丸」(空母に改装される豪華客船とは別)に神戸から乗船したモノと思われます。
当時は南洋貿易の定期船がサイパン・ヤップ・パラオ・ヤルート・トラック・ポナペ・クサエなどを巡航していましたから、 これら諸島を調査して廻ったのでは?と思えますが、裏付ける史料はありません。
ほんでもって、エリス中佐はこのコロール島で死亡してしまうのであります。
コロール島でのエリス中佐の行動や死亡時の状況については、 戦後の1950年に海兵隊のウォーデン少佐が調査した記録があります。
ウォーデン少佐は当時の出入国管理官(大日本帝国の官僚ですな)だったギボン氏の未亡人から聞き取り調査を行っています。
エリス中佐はギボン氏の世話になって、原住民地区に家を与えられていました。その上25歳の女性メタウエを妻としていたそうです。
この現地妻メタウエちゃんは
「6週間同棲したが、エリス中佐は常に散歩と言って出歩いていた。何をしているかは判らなかった。また、 常に酒を飲んでおり死因は呑みすぎだと思う」
と証言しています。
エリス中佐はコロール島でもウヰスキーを手当たり次第に呑んでいたようです。
特に、5月21日は朝から狂ったように呑んで酔っ払い、 1700ごろに死亡してしまいました。
持て余しモノの死に、やむなくギボン夫妻が棺を造ってやり、現地人の墓地に埋葬したという事です。
エリス中佐はどうも対日作戦計画を立案している過程で、重度のアルコール依存症に陥って行ったのではないか?と考えられるフシがあります。
海兵隊の存続が掛かっている、と言う精神的な負担が大きかったのでしょうか。
重要な作戦計画を書き上げて、それが海軍に採用されようか、って言う重要な時に休暇を与えているのも「病気」の為かも知れません。
となると、アル中の部下の才能を上手に引き出した海兵隊総司令官のレジュン少将はもう少し評価してあげた方がよいかも知れませんね。
エリス中佐の死亡は大日本帝国南洋庁の把握する所となり、南洋庁から在日アメリカ大使館に連絡されました。
暗殺説
エリス中佐が南洋群島のコロール島で死亡した、との知らせを受けた駐日アメリカ海軍武官のコッテン少佐は、大日本帝国の海軍省に対して
「エリス中佐は貿易商ではなく、現役の海軍士官である」
と打ち明け、確認のため遺体と遺留品を受け取りたいと口頭で申し出ました。
うがった見方をすれば、遺体の受け取りを口実に南洋群島へ渡り、何らかの調査をしようとしたのかも知れません。
この申し出に対して日本側の回答は、
「(南洋群島は)昨年4月以来、 全ク海軍ノ手ヲ離レ居ルモノニ付、 爾後ノ御交渉ハ外務省ヲ経テ南洋庁ニ致サルル事適当」
と至って真っ当。アメリカ側は2日後には文書で再び遺体の引き取り方を要望。
これに対して親切にも帝国海軍は
「便宜上、当方ヨリ当地南洋庁出張所ニ通知致度処、 希望通リ横浜マデ死体送付ノ件ハ仮埋葬ノ今日、先方ノ情況不明ニ付、直チニ御返事ハ不可能ナルヲ以テ早速パラオ宛、 御希望ノ要領並ニ『エリス』氏カ旅券通リノ商人ニ非スシテ現役ノアメリカ海兵中佐ナル事ヲ電報通知スヘシ」
と文書で回答しています。
日本海軍はさらに外務省の欧米局にコレまでの経過と処置を知らせた上で事後の処理を依頼、 以後アメリカ大使館(駐在武官)と海軍省とは交渉していません。
一方、エリス中佐の死はアメリカ国内の新聞報道などで「説明されない死」「奇妙な死」「事故を装った死」とされ、大日本帝国に行って暗殺されたかのような雰囲気となってしまったのでした。
日本側の了承を得たコッテン少佐は部下のゼムシュ中尉に情報収集の上での入念な指示を与えて南洋群島へ向かわせました。
ゼムシュ中尉は南洋貿易会社の「丹後丸」に乗船し7月5日に横浜を出港。コロール島に到着すると遺体を発掘して火葬、遺骨を白木の箱に入れて8月14日に横浜に持ち帰りました。
この横浜帰着時、ゼムシュ中尉は出迎えの人にも見分けが付けられないほど衰弱していたそうです。
僅かに一か月の旅で激ヤセしちゃったわけで、任務中の記憶もアヤフヤになっているほどだったようです。
もちろん出発時のゼムシュ中尉には健康上なんの問題もありませんでした。
ゼムシュ中尉は直ちにアメリカ海軍横浜病院に入院、 やや回復した8月27日にコッテン少佐と面談、 エリス中佐の死亡原因について常に酒を飲み精神的錯乱状態であったと報告しています。
さらにゼムシュ中尉は療養を重ねたのですが、カラダは快方に向かい記憶も徐々に蘇りつつあった9月1日。
関東大震災によって病院の建物が倒壊、ゼムシュ中尉は下敷きとなって死亡してしまったのであります。
今となってはエリス中佐とゼムシュ中尉の死亡に関する「真実」はもう探りようがありません。
ただ、エリス中佐やアメリカ海軍が知りたがっていた「南洋群島の軍事施設」は皆さんご存知のように全くありませんでした。
大日本帝国海軍にとっては探られても痛くも痒くもない事象で、アメリカ合衆国の軍人なりビジネスマンなりを暗殺する理由などどこにもない、とだけ申し上げておきましょう。
海兵隊は攻撃的
エリス中佐の基本的な構想は「攻勢的な水陸両用作戦」にありました。
太平洋で戦争が起こったとき、水陸両用作戦によって前進基地を奪取することアメリカ勝利の鍵であり、海兵隊の重要な任務になるとしたのです。
エリス中佐は構想を発展・具体化し、海兵隊はそれを海軍内部で研究されていたオレンジ計画に売り込み、海兵隊の存続を図ったのです。
世界各国の海軍の陸戦隊は基本的に海軍の基地の警備や保持を目的にした至って守備的な存在です。
ひとりアメリカ合衆国の海兵隊だけが、非常に攻撃的な軍種として海軍からさえも「独立」を果たすのであります。
対日作戦計画である「オレンジ計画」は1906年から始まって1940年まで改訂が重ねられ、以降は「レインボー計画」に発展します。
大日本帝国側から見て、この計画の重要性は戦争方針の公式決定ではなく、海軍内部で非公式に決定され検討され、練り上げられた柔軟性にあったと思います。
この過程で海軍大学校で繰り返し作戦の研究・シミュレーションされた「水陸両用作戦」はアメリカ海軍と海兵隊の士官の共通見解となりました。
オレンジ計画は、米海軍・海兵隊の遺伝子に組み込まれ、大東亜戦争の開戦後は自分達が蓄積した研究の結果を、意識的・無意識的に活用していくことになります。
大日本帝国海軍は「攻勢的な水陸両用作戦」を全く考慮せず、ついに南洋群島の要塞化には手を付けることなく、大敵との戦争に突入してしまうのであります。おしまい。
あっ、いつもと違って今回はちゃんとオチついてるんですよ。
初代司令官が居酒屋のオヤジだけに「中興の祖」もアル中で、ってね(笑)今の海兵隊司令官は?知らん。