化け猫の系譜~ライバルたち2~
「敵方」の事でもありまして、アメリカ陸海軍(大東亜戦争時)の戦闘機をシリーズで扱う気はなかったんですけどね(笑)
でも、ペロ八を誉めといて「グラマン」抜く訳にも行きませんのでね。
新興メーカー
アメリカ海軍向けに幾多の名機を生み出した「グラマン」社は1929年にリロイ・グラマンさんによってニューヨークで創立された会社です。
グラマンさんはこの前はローニング社に勤めていて、水上機用のフロートを造っていたモノであります。
このフロートは「水陸両用」でタイヤが付いておりました。この事が、後々大きな意味を持ってまいります。
まあ、それはさておきまして、時代に注目であります。
グラマン社が創立されたのはロンドン軍縮会議の前年なのです。
すなわち、1921年のワシントン海軍軍縮会議で「主力艦」の保有に制限が掛かったあと、各列強は「補助艦」の強力化に血道をあげておりました。
特に「航空母艦」は新しい戦力として注目を集めていました。
大日本帝国が1922年に世界初の新造空母として「鳳翔」を竣工させて空母運用のテストを始めると、アメリカも1922年に「ラングレー」を給炭艦から改装して実用テストを開始。
日本が1925(大正14)年に本格的な空母「赤城」を巡洋戦艦から改造、1928(昭和3)年には「加賀」を就役させると、アメリカも1927年に巡洋戦艦改造の空母「レキシントン」、1928年に「サラトガ」を完成して日本に対抗している時であります。
航空母艦はそれだけでは「戦力」にはなりません。搭載する艦上機のデキが悪ければ、屁の役にも立たないどころか艦隊のお荷物になってしまいます。
「ラングレー」就役の当初に搭載されていたのは、第一次大戦末期の機体の寄せ集めといえる「ヴォートVE7練習機」の改良型や「ソッピース・キャメル」「RAF-S.E.5」「トーマス・モースS4C」「ニューポール28」などなど。
とても新時代の海戦の主役になれるレベルではありませんでした。
余計な事ですが、漫画のスヌーピーはソッピース・キャメルで第一次大戦の欧州の空を縦横無尽に駆け巡り、なんとレッド・バロンの好敵手だった(と、スヌーピーが夢想している)搭乗員ですよ、皆さん(笑)
1925年、ボーイング社が陸軍へ供給していた「PW-9」戦闘機を発展させた「FB-1」戦闘機を海軍に納入(着艦装置が未装着のために海兵隊用でしたが)しはじめ、カーチス社の「P-1ホーク」戦闘機の改良型も海軍の採用する所となります(海軍名「F6C-1」)。
この両機が改良を続けながらアメリカ艦上戦闘機の双璧に成長していくのですが、グラマンさんは立ち上げた会社とその従業員を喰わせるのに手いっぱいでした。
手一杯ではありますが、グラマンさんは「これからは海軍機だぜ!」と考えて海軍への軍用機売り込みを夢見ておられたのであります。
野心に満ち溢れたグラマンさんは、ローニング社の水陸両用機のメンテナンスを引き受けて収入を得ながら、ローニング製のフロートを改良した「引込み車輪つき水陸両用フロート」を造って海軍に納入いたします。
大好評
このフロートは海軍に大好評で受け入れられます。
海軍はヴォートO2U「コルセア」偵察機に装着してテストしてくれたのであります。しかも即座に10基を追加注文してくれる程でした。
アメリカ海軍は水陸両用機が大好きって事もありますけれど、やはり使いやすいフロートだったんでしょう。
グラマン社は調子こいて、この「グラマンAフロート」を改良して「Bフロート」も作ります。
ですが、この脚引き込み式のフロートはグラマン社にとって、もっと大きな意味を持っていたのであります。
この辺りで、アメリカ海軍の戦闘機の呼称について書いておきましょう。
アメリカ海軍では戦闘機はファイターの「F」から始まります。その後ろの数字はメーカーの何番目に開発された機体かを表し、その次のアルファベットはメーカーを表します。
グラマン社はF、ヴォート社はU、ダグラス社はD、マクダネル社ならHです。
我が大日本帝国海軍のことでありましたら、この命名法は何時いつから実施された!と申し上げるのでありますが、異国の事とて確認が取れません。
と申しますのも、グラマン社初の海軍用戦闘機は「F1F」ではなくてFF-1、愛称をフィフィ(fifi)と言われているからであります。
「海軍御用達」へ
この先が長くなりそうなんで、Wikiからコピペしてここは誤魔化しておきます。
試作1号機XFF-1(社内呼称G-5、シリアル:A8878)は1931年4月22日に契約され、その年の12月29日に初飛行した。複座、密閉式コクピット、全金属製の胴体を持ち、主翼の大部分は布張りだった。主脚はF4Fまで使用される、胴体側面に引き込まれる形式である。胴体は水密構造を持ち、着水時にはフロートの役割を果たす。その太短い胴体の設計は、機体の表面積を減らす事により空気抵抗を低減しようという意図があり、その後のグラマン戦闘機の伝統となった。
記念すべき初の海軍制式をコピペで済ませてやったぜぃ
一応電脳大本営的に解説を付け加えておきますと、「フィフィ」は第一次大戦型から第二次大戦型への過渡期の機体だと言えるでしょうね。
全金属製と言っても主翼は布張り。複葉でそれも張線付き(複葉機は複葉そのものより、この張線によって抵抗が増えるんで速力が出ない)。
なのに引込脚(引込脚は空気抵抗が減る代わりに重量が増えるんで、速力が出るとは限らない。嘘だと思われるんならレッドブル・エアレースの機体を見てごらんなさい)。
それでもフィフィは当時のアメリカ海軍機で最速となり、大いに海軍当局に気に入られちゃったのですね。
この後、グラマン社はヒット作を連発して「海軍戦闘機はグラマン」という王国を築くのであります。
「フィフィ」のあとはアメリカ海軍の戦闘機ネーミングの公式通りにF2F、F3Fと続くんですが、あんまり変り映えしないんです。何せ複葉のままなんで。
ヒット連発って言っても、前作の焼き直しみたいなモノばっかりで。人はそれを「堅実な設計」とか言うんですけど(笑)
儂的に言えば、ちょっとヒットすると直ぐに次を造るハリウッド映画みたいなもんじゃ。何作目見たか判りゃしねえ、アマゾン・プライムで只で見とけば十分じゃ。
そこで、ちょっと目先を替えましょう。
さすが元フロート・メーカー
グラマン社は艦上戦闘機ばかりでなく、水上機も作っているのです。
それも、世界中の何処にも無いような変わった水上機。
前にも書いたと思うんですが、一般的に「水上機」って言うとゲタ(フロート)をぶら下げた機体で、胴体で水面に降りるタイプは「飛行艇」と呼び分けています。
で、グラマンが造ったJ2F「ダック」なんですが、1933年の4月に原型機の「JF-1」が初飛行。それからなんと大東亜戦争が終わるまで延々と造り続けられた傑作機なんであります。
造り続けたその数600機。えっ、少ねえじゃん?イヤイヤ水上機ならこんなモンですよ。
J2F「ダック」は哨戒・海難救助・輸送・連絡・海洋観測などのほかに標的の曳航やら人員輸送までこなすスーパー汎用機だったのです。
それも「水上機」なのか「飛行艇」なのか判らぬ機体だったのでありんす。
画像をご覧ください。
支柱でぶら下がってる筈のフロートが、ボディにくっついてます。
このフロートはほぼグラマンお得意の「Bフロート」なんです。
しかもこの中に座席があって、2人乗れる(合計4名)!
最高速度306キロ/時、航続距離1370キロメートル。国内だけじゃなくて、アルゼンチンにも売ったりしています。
この「ダック」の成功に気を良くしたグラマンは民間機分野にも水上機で進出します。1936年に初飛行したG21A「グース」がその機体です。8人乗りで最高速324キロ/時。
グラマンとしては、マンハッタンへ「通勤」するお金持ちの為に造ったのですが(グラマンはニューヨークの会社ですからねぇ)、この高性能と運用のしやすさは海軍の注目する所となり、ついでに沿岸警備隊用にも使われるようになります。
海軍用の機体は「JRF」という極東の島国の競走馬育成協会(現代の話じゃ、ココだけは)みたいな符号を割り当てられて、イギリス・ポルトガル・カナダ・アルゼンチン・オランダにも輸出されてそれぞれ長く愛用される事になります。
何処かの島国の海軍もこれを一機輸入して、水陸両用飛行艇の研究用としているんですが、大日本帝国時代はついに水陸両用は実現せず。
「自衛隊」と名前が変わってから、ようやく「水陸両用飛行艇」を造る事が出来たのであります。
我が国の飛行艇技術は、間違いなく世界のトップレベルにあります。
しかし、この「水陸両用」部分のように技術的に弱い部分もあった、という事はちゃんと認識しておかなければなりません。
まあ、そんな大上段に振り被らないでも、昭和30年には海上自衛隊がアメリカからこの「JRF(5型)」10機の供与を受けて、対潜哨戒機として運用しているんです。
自衛隊オリジナルの対潜飛行艇に切り替わるのは、この後UF-2(グラマン「アルバトロス」飛行艇)を使った後になるのでした。
そうそう、大事なことを忘れてました。この飛行艇「グース」こそグラマンが造った初めての単葉機なんです。初めての単葉機が肩翼ってのもグラマンらしいっちゃぁらしいですよね。
しかも「グース」はグラマン初の双発機でもあるんですね。グラマンの双発機って言うと、私はアヤツを思いだしちゃって(笑)いかんのですが、直接ご先祖はこの「グース」なんであります。
化け猫の話だった
さてさて、「フィフィ」に始まるグラマン艦上戦闘機は「F2F」「F3F」と発展していきますが、そう大した変化はありません。
それでも1935(昭和10)年初飛行の「F3F」では、エンジンがライトの「R-1820-22」950馬力になった事もありまして最高速425キロ/時まで向上しています。
この4年後に初飛行した零式戦闘機が、当初940馬力の栄12型エンジンで最高速530キロ/時ほどですから、複葉機としては優秀な数字じゃないでしょうか?
少なくとも、このズングリムックリな姿のハンディは感じられないと言ってもよいでしょう。
F3Fに続く、1936年の新型艦上戦闘機の競争試作で、グラマン社は一旦複葉機で応募します。
応募してから、他社の高性能を見て単葉機を設計し直して「F4Fワイルド・キャット」として再応募するって言うブザマを晒します。
F3Fまでの実績にアグラをかいていたんでしょうか。
そしてブリュースター社の「F2Aバッファロー」に敗れてしまうのですが、実績を積んでいるズングリムックリボディと胴体への引き込み脚システム(「バッファロー」もズングリだけど、脚は半分だけ胴体に引き込む)が海軍関係者の眼を引いたのです。
アメリカ海軍はF4Fの開発を続行させました。
こうして命拾いしたF4F「ワイルドキャット」は、「バッファロー」が大日本帝国の「零戦」や「隼」に蹴散らかされた大平洋の空を、辛うじて支えることになります。
グラマンが初めて海軍に買ってもらった艦上戦闘機「フィフィ」以来、使い続けてきた「海軍御用達システム」こそ、「胴体引き込み式主脚」でありました。
ここまで何度も述べましたように、グラマン社は「引き込み脚付きフロート」を造っていました。
ヘタを売りかけたF4Fでも、グラマンを救ってくれたのは「胴体引き込み式主脚」だったと言って良いでしょう。
ただ、この御用達システムを、グラマン社は次の「F6Fヘルキャット」であっさりと捨て去ってしまいます。
このシステムは「Bf109」や「スピットファイア」などと同様にエンジンマウントに主脚を取り付ける方式ですから、単純にその分の重量が軽減できます。
零戦などのように主翼に重量物を搭載しませんから、翼の構造材も節減できますし、翼も薄く出来ますから、速度が稼げます。
その代り、トレッド(左右のタイヤの間の幅)が狭く(1.95メートル)なりますので、離着陸時の安定性に欠ける、との批判が付きまとっています。
本当に不安定だったのか?
ところが、でありますね。
F4Fの着艦事故の写真って意外に無いのですよね。
米軍の資料を漁ってみても、ドーントレスとかアヴェンジャーとかと比べて特に事故率が高い統計など出てこないんですよ。
そんな疑問を長年抱えていたんですけど、学研の「歴史群像・大平洋戦史シリーズ」の67「米海軍戦闘機」に
「空母の甲板の高さが波の影響で20m以上上下するような状況で着艦作業を実施して脚部に相当の衝撃を受けてもパンク以外の事故が生じることはほとんどなかった」
という、それこそ衝撃の記載を発見しました。
「空母の甲板の高さが波の影響で20m以上上下」したら、空母側の着艦要員が甲板に出られないと思われますので、着艦は不可能です(笑)
こういうアフォ話がサラッと混ぜてあるので、このシリーズも頭から信頼することは出来ないんですけれど、意外に「ヘルキャット」の安定性は良かったのではないか?とは思えます。
それは、写真でもお判りのように脚の衝撃吸収機構がシッカリしていて、ストロークも深いところからきているのではないでしょうか。
ちなみに、この主脚は手動で巻き上げる仕組みだったそうです。アメリカ軍のパイロットもこの頃は良く働かされたんですねぇ。
F6Fへ
最新兵器である航空機の発達は、とんでもないスピードで進展していました。
一方で、アメリカを取り巻く情勢は大平洋も大西洋も暗雲が垂れこめて来ていたのであります。
F4Fの初飛行は1937年9月2日で、1940年の11月になってようやく部隊配備されるのでありますが、後継機の開発はそれよりもずっと前の1938年3月に始まっています。
今回も他社との競争であり、本命視されていたのはヴォート社のF4U「コルセア」でした。
二代続けて「予備」の扱いでありましたが、グラマン社には焦りが無かったように思われます。
先代のF4Fが複葉機を単葉に設計し直した機体だったのと異なり、流石にF6Fは初めから単葉機として設計されていました。
主脚の引き込みが一般的な(って言っても凝ってますよね、思いっきり)「翼内引き込み」に変更になったのは、このためかも知れません。ただ、グラマン戦闘機伝統の太短いボディはそのまま。
ライバルの「F4U」は1940年には初飛行して、けっこうな飛行性能を見せていました。陸上運用機としては、ですけど。
アメリカ海軍はF6Fに2000馬力のP&WのR-2800エンジンを搭載して試作機を造るように指示します(もともと1600馬力エンジンでした)。「F4U」が実用に時間が掛かった場合の保険みたいなモノでしたが、これが見事に奏功します。
「F4U」は空母での運用などに問題が続出してしまったのです。
「F6F」の方はF4F、いやフィフィからの伝統で空母はお手の物。
大柄になったF6Fのボディでは小さな護衛空母からはカタパルト無しでは発艦は出来ませんでしたが、零戦と対等以上の速度・海面上昇率を実現し、公式記録で5000機以上の大日本帝国軍機を撃墜する傑作機となったのでありました。
間違いなく「ヘルキャット」は大日本帝国の航空戦力撃滅のもっとも貢献した航空機です。
ちょっと横道に逸れますが、
「F6Fは零戦を徹底的に研究し、ぜったいに勝つために開発された」
とか仰る方が結構いるんですね。
これ、ネットでの情報だけじゃなくって、昔からなんですよね。
儂、中学生の頃だったと思うんだけど、その説を「丸」で読んじゃったんですね。純粋無垢だった少年時代の儂の心、傷ついたよ。
当時は活字って絶対だったからね。「間違ってる活字もあるんだ」ってのはガキにとって凄まじい発見だったんですね(笑)
もちろん「F6F」が「主力」になれたのは、ライバル「F4U・コルセア」が空母の狭い甲板からの運用に四苦八苦して実戦配備が遅れた事も大きいのですが、グラマン社の堅実そのものの設計方針が「大戦中」というタイミングにぴったりと合っていた事も忘れてはならないと思います。
我が軍のベテラン搭乗員も、一撃離脱戦法に徹することの多いP-38やF4U、P-47などに比べて横転が素早くて格闘戦もこなすF6Fを「もっとも嫌な相手」に挙げているんですけどね。
坂井三郎さんは、零戦でF6Fと戦った体験を
「ここまで零戦の旋回に付いて来られる奴は今までなかった」「他の奴ならとっくに撃墜している」
と回想されています。
ただ、「ヘルキャット」がアメリカ海軍の人たちに愛されていたかと言うと、こんな話もあります。
「ニッポンが降伏した」との報を受けたある護衛空母は、搭載していたF6Fを海に投棄しちゃった、というのです。
当時の搭乗員へのインタビューで記録されているそうです。
またF6Fにはこれだけの実績がありながら、朝鮮戦争ではF6F-5Kが僅かに実戦に投入されただけでした。
小型化して高性能に
1943年11月、グラマン社の社内で新型戦闘機の開発が始まりました。海軍からは「XF8F-1」の名称が与えられています。
この試作機は1944年8月に初飛行、1945年の2月には最初の生産機がロールアウトという超スピードで開発されています。
開発開始から一年3ヶ月で量産機!これぞ戦時開発ですよね。
これが「F8F・ベアキャット」の誕生でありました。
「F8F」は決して戦時急造の戦闘機ではありません。
それどころか、「零戦に必ず勝てる」「護衛空母からも運用可能」などのコンセプトを実現した「最強のレシプロ艦上戦闘機」なのであります。
そう、「零戦を徹底的に研究し、ぜったいに勝つために開発された」のはF6FじゃなくてF8Fの方なんです。
それほどの機種を、たった1年少しという短期間で実戦配備できたのはアメリカの高い工業技術力があってこそ、なのですが、それ以上にフィフィ以来のグラマンの太短ボディ・コンセプトの優秀さを誉めなければいけないでしょう。
先代のF6Fヘルキャットよりも一回り以上小型になり、どころかライバルの「零戦」よりも小さく軽量な機体に、強力なエンジンを搭載する「お約束」通りの造りで上昇率は3割増し。
「F4F」までのグラマン戦闘機は、胴体に主脚を収納するため、胴体が思いっきり太く設計されていました。
「F6F」になって主翼に収納するようになったのですが、胴体は太いままでした。
格闘戦能力を重視していないのに、主翼面積も過大と評されるモノで、結果として日本機に対抗し得るだけの運動性能を得たものの、無駄が多い設計でありました。
「F8F」はその反省をこめたために、機体設計が徹底的に洗練されていました。
同時期に零戦の後継機として開発されていた烈風(電脳大本営的には帝国戦闘機の足を引っ張った大駄作)は全備重量こそ4.5トン前後でF8Fとそんなには違わないのですが、機体寸度は肥大化しちゃっています。
ハッキリ言って冗長が過ぎる設計でして、小型化を追求した「F8F」とはコンセプトが対照的ですね。
烈風11型は全備重量4719キログラム・主翼面積30.86平方メートル・エンジン出力2200馬力・最高速度624キロメートル/時
F8F-1の方は全備重量4354キログラム・主翼面積22.67平方メートル・エンジン出力2100馬力(緊急出力2300馬力)・最高速度678キロメートル/時(緊急出力使用時は30km程度アップとされています)
如何でしょうか?
馬力は大差ありませんが、機体の重量は「F8F」の方が一割ほど軽く出来ています。
主翼が小さく空気抵抗が少ないので上昇力も最大速度も「F8F」が上です。
翼面荷重は烈風の方が軽いですから、旋回半径は烈風が小さくなった筈ですが、旋回率(=旋回に掛かる時間)は「F8F」の方が優秀でしょう。
電脳大本営的には同レベルのパイロットが格闘戦をやったら、「F8F」が圧勝したと思いますね。
ただ、我が軍だって負けてはいません。
「烈風」は航空母艦への離着艦があって抵抗の大きな大面積の主翼を付けていたので、ちょっと不利(「ベア・キャット」だって艦上機じゃん!というご意見はごもっともながら無視します〔笑〕)。
小さな主翼と細身の胴体を誇り、2000馬力級のエンジンを積んでいた陸軍の4式戦「疾風」の方こそ日本の代表にするべきでしょう。エンジンが~って言うなよ(笑)
同じ誉エンジンを積んだ試作機のテストでは烈風より疾風の方が高性能でしたし、烈風11型と同じ「ハ-43」エンジンを疾風に積めばF8F「ベア・キャット」にも負けない最強戦闘機になっていたんじゃないでしょうか。
しかしながら、ベアキャットもまた米軍人からは愛されなかったようで、F4U「コルセア」が朝鮮戦争でジェット戦闘機Mig15を撃墜してるのに、F8Fはほとんど使われませんでした。
小さすぎて爆弾積めなかったのが原因だって言われてますが、私は「零戦の呪い」だと思いますよ( ´艸`)