「疾風」と「烈風」2
昭和16年12月29日。大日本帝国陸軍は最高速度が680km/hを越え、20ミリ機関砲2門・12.7mm機銃2丁を装備した高性能戦闘機の開発を中島飛行機に命じます。後に「疾風」となる「キ84」の設計が開始されたのです。
「鍾馗」改で済ませちゃお、っと
一方で海軍は三菱に対して「烈風」の開発を指示していますが、これは昭和17年4月ですから、「疾風」が4か月先行しているんですね。
と言ってもその一年も前から「零戦」の後継機というか、性能向上機の計画は出たり消えたりしてまして、三菱が多忙のためにこの時期にずれ込んだのが本当のところです。
一方、川西には昭和16年に水上戦闘機「強風」を陸上機に転用する「紫電」の計画が指示され、これが「紫電改」へと発展していきます。
大東亜戦争後半の強力な連合軍戦闘機に、十分対抗できるだけの機種が集中して計画されているのは偶然なんでしょうか、必然なんでしょうか?
なお、キ61(三式戦「飛燕」)もこの一年前に設計開始していますが、エンジンが違うのでここでは言及しません。そう、大日本帝国の空を護らんと奮戦した名機「疾風」「紫電改」と遅れてしまった「烈風」は共通のエンジン、陸軍名「ハ45」・海軍名「誉」を使うことを前提に計画された戦闘機だったんです。
ともあれ「キ84・疾風」のお話であります。
開発指示を受けた中島では「キ44・鍾馗」の2000馬力級エンジン・ハ45搭載型である3型(試作された説と計画のみ説あり)を基本に、チョチョイと設計してやろうと企んでいたようです。
「鍾馗」設計チームからエースの小山悌(病気で療養中で不在)を設計起用。「鍾馗3型」の翼面積を増加して着陸をやり易くすると同時に、運動性を向上させます。最高速では不利になるのですが、強力なエンジン(もともと鍾馗は1500馬力ですから)で速度・上昇力はかえって向上するはず。
昭和17年の1月半ば、設計チームは早くもキ84の要目をまとめて陸軍に提出したのです。
ところが、陸軍の視野には太平洋戦域での運用が視野に入っていました。広大って言っても支那大陸なら飛行場そのものを前進させれば、航続力はそんなに問題になりません。ところが太平洋で使うとなれば話が変わってきます。
航続力の飛躍的な増大を要求されて、中島の「チョチョイと設計」の目論見は見事に外れてしまいます。
陸軍はさらに整備取り扱いが簡単なこと、多量生産に適すること、未熟練操縦者にも楽に操縦できることなどという要求をつけ足しました。
中島としては、本格的に機体を開発する必要が出てきてしまったのであります。
海軍と三菱は
昭和17年の夏、「烈風」の計画がいよいよ具体的になってきた時期に、大日本帝国の2000馬力級エンジンとしては、中島のNK9A(「誉/ハ45」)の他に三菱のMK9A(「ハ43」11型となります)がありました。
三菱が設計主務者に起用した堀越二郎技師はMK9Aの採用を強く主張しましたが、MK9Aはいまだに試作の段階を出ず、またNK9Aよりも直径が大きくて重たいことから、海軍は大反対。結局はお金を出す方の意見が押し付けられることになります。
「烈風」の要求性能は最高速度640km/h以上(高度6,000m)、20ミリ機銃2丁、12.7ミリ機銃2丁と「疾風」とほぼ同レベル。
離陸滑走距離80m以内(降合成風速12m/秒のとき)で着陸速度は124.1km/h以下って言うのが零戦の後継艦上戦闘機らしい要目です。
空母への着艦は「コントロールされた墜落」ですから、機体もそれなりの頑丈さが要求されて、当然重たくなります。
まあ、その分要求速度は遅いんですけどね。
さらに「武装その他零式艦上戦闘機に劣らない空戦性能を確保すること」
海軍は「烈風」で零戦とドッグファイトするつもりだったんでしょう、とイヤミを言いたくなる「例の要求」も付いていました。
『この要求を満足することは、推奨される発動機(誉のこと)をもってしては、その性能を公表額面のまま受け取ってもほとんど不可能に近かった。
が、操縱者たちは、そんなことには無頓着に、その無理な要求を通そうとし、その他の海軍の関係者たちも強いて操縦者たちの意見を牽制しない方が、かえって会社側を剌激してよい飛行機ができるのではないか、と考えているという風に見えた』
戦後の著書『零戦』(日本出版協同)で堀越技師は、こんな風に書き残しています。
三菱と堀越技師には自社製エンジンを使いたい、との強い思いがあったと思われます。何しろ、自分が設計の指揮を執った成功作「零戦」のエンジンが中島製。その「零戦」に続く数が生産された陸軍の「隼」にも中島エンジン(両機とも「栄/ハ25」)。大量に造られる戦闘機用エンジンでは中島の後塵を拝しつつあったのですから。
それでも、自社製エンジンは未だ完成せず、一方中島エンジンは既に2次にわたる公式審査を終了、大量生産の準備が進められている段階(制式採用と生産開始は17年9月)であります。
海軍は「烈風」の設計に当たって翼面加重(=機体重量÷主翼面積)まで指定するなど、余計な口出しもするのですが、ことエンジンに関しては三菱・堀越の希望は我儘としか言えません。開発成功が見えてないエンジンを積んだ主力戦闘機など、大戦争中に造れるワケがありません。
この事に拗ねてしまったのか、堀越二郎もまた過労で倒れて入院してしまうのでありました。
中島と小山技師は設計を始める
4月になると、中島の小山技師はようやく病が癒えて出社、スタッフ一同は設計にとりかかりました。
整備取り扱いが簡単で大量生産向きの機体という要求に応えるため、機体の構成は主翼と前部胴体を一体構造とし、そこに後部胴体をボルトでつなぎ合わす方法を取りました。これは九七戦・一式戦・二式単戦で培ってきた中島伝統の手法。
また主翼前縁を左右一直線とする直線翼も踏襲することによって、一式戦の治具をそのまま流用できました。さらに基準孔集成法というドイツの多量生産方式を取入れ、工作手数の減少を図っています。
中島の設計陣は九七戦・一式戦「隼」で軽戦を、二式単戦「鍾馗」で重戦の設計を経験して成功させていました。それぞれの特質を呑み込んでいたので、それを素直に活かしています。
つまり、「疾風」は一式「隼」と二式「鍾馗」の長所を上手く取入れた構造的には冒険をしない穏当な戦闘機でした。
航空機の設計は、空力設計が基本となります(と思います)。中島の場合は設計第一課が基礎計画を担当するのですが、昭和16年の11月には空力班長の糸川英夫が会社を辞めて(東京帝大の助教授になりやがった)しまっていました。
それでも、西村節明技師を中心に設計は順調に進んだようです。主翼断面の形状・翼面積・上反角やひねり。尾翼の形状・配置。必要な装備から全備重量を推定して飛行機の外形を決めて性能計算。要求性能に合致しない部分を修正して計算、の繰り返し。
要求性能をクリアしたら、計画重量を維持できるように主翼や胴体の構造などとその強度計算。エンジン・燃料廻りの装備、操縦・計器類の取り付け位置などを決めていきます。
中島飛行機では、空力だけでなく翼型や燃料関係、兵装、降着装置などの専門チームがあり、「鍾馗」「疾風」などの機種別チームからの注文で、それぞれの分野の設計をするシステムになっていました。
それぞれのチームはメンバーが重複してたりするんですけどね。
対する三菱は機種別チームが、担当する機種のすべての分野の設計をやっていたようです。
当初の段階で「疾風」設計チームが戸惑ったのがプロペラでした。「ハ45」を搭載すると、これまで使われてきたハミルトン社製(ノックダウン生産)の油圧式定速ピッチ・プロペラでは2000馬力が活かせないと思われました。
定速って言うのは、飛行機の速度ではなくて、プロペラの回転数が一定って事です。
飛行機が速度を上げると、プロペラに対する気流も変化して抵抗が少なくなります。ピッチが固定されたプロペラでは、飛行機の速度に比例して回転数が早くなります。
回転数が早くなるとプロペラの効率が落ちてしまいます。プロペラは要は主翼と同じで、空気中を移動する事で揚力を生んでいるのです。
プロペラの場合は揚力が「推力」と呼ばれて飛行機を前に進める力になっているわけです。
ですから、プロペラにも迎え角があり、最も効率の良い角度と回転数(速度)があるのです。速度が速くなると、この迎え角が小さくなり効率が変わってしまいます。
定速プロペラなら飛行機自体やエンジンの出力に関係なく、回転数が一定になる様に設計されています。回転数が一定になる様にプロペラの角度が変化するのです。
この機能のおかげで飛行機の速度に影響されず、効率の良いプロペラの角度を維持する事が可能になるってワケです。
中島設計陣の考えは、「ハ45」エンジンのパワーを最大限引き出すためには、電気式定速プロペラを装備しなければならないということでした(アメリカからハミルトンの改良情報が入らなくなるので代わりを使っただけの可能性は高いと思いますけどね)。
残念なことに、この分野では国産に思わしいものはありませんでした。事前に輸入していたフランスのラチェ式をもとにしたプロペラを採用したようです。
三菱は戦後になってハミルトン社に使用料を払うと申し出て、一ドルの請求書が届いたのは有名な話ですが、中島はどうしたんでしょうかね?
さて、その三菱と堀越技師は
堀越二郎技師を主務者とした「烈風」設計チームは「零戦」の改修をやり「雷電」の開発を担当しながら「烈風」も設計するハードワークを強いられていました。現在のブラック企業どころの騒ぎではなかった、と思われます。
「烈風」の設計の途中では「九試単戦(九六式艦上戦闘機になります)」以来ずっと戦闘機に参画してきたベテラン吉川義雄技師が過労で倒れ、ついに亡くなってしまうほどだったのです。
新型艦上戦闘機「烈風」の基本性能として最高速度640キロ/時(6000メートル)以上、火力・航続距離は零戦以上、格闘性能は零戦なみ…が要求されていました。
三菱は社内で検討した上で、昭和17年8月28日開催の官民合同研究会において「要求は無理である」と意見をのべたのです。
速度・上昇力を向上させた上に強大な火力と長大な航続距離という要求は、零戦より搭載重量がかなり増大することを意味します。
これに見合うエンジンは1000馬力そこそこの零戦の少なくとも二倍の出力が必要でしょう。
予定される「誉」(この時は試作中)は2000馬力級エンジンでしたが、高度6000メートルにおける出力は1600~1800馬力しかありません。これでは海軍の要求する最高速度を実現するのは無理というのです。
「零戦なみの格闘性能」も問題でした。最高速度を上げるためには主翼面積を小さくすることが常識です。
ところが格闘性能は飛行機の翼面過重の大小で基本的なところが決まってしまいます。翼面過重は機体の主翼面積÷重量ですから、主翼面積を小さく(速度重視)して翼面荷重を大きくすれば、格闘性能は低下します。
「格闘戦に強い」零戦(初期)の翼面荷重は110キロ/㎡程度ですが、「烈風」は、計画値として150キロ/㎡程度になりそうです。これではとても零戦なみの格闘性能は望めません。
このままでは速度も格闘性も要求を満たせない中途半端な戦闘機になるぜ、って言う三菱の主張に、空技廠飛行実験部の周防元成少佐は(曲がりなりにも技術者ですから)多少の理解を示しました。
翼面荷重をやや小さくして130キロ/㎡程度にして、そのかわり最高速度は我慢するというものです。最高速度は軍令部の要求まで行かなくても、実戦上は搭乗員の技量があるから、って例の思考。
一見、現実的で三菱側に理解を示しているように見えます。が、この後も軍令部は高速を主張し、空技廠側が空戦性能に拘り、結果として三菱の足を引っ張り続けます。
結局、速度より空戦性能を優先という実施部隊側の主張がとおり、試作方針が決まって翼面荷重130キロ/㎡の設計を優先して進めることとなったのではあります。
しかし、三菱が素直に真面目に翼面荷重130キロ/㎡で「空戦性能最優先」の「艦上戦闘機」を設計したのか?というとかなり怪しいのです。
翼面荷重などは明らかに「設計内容」でありまして、ココに海軍が口を突っ込むなんて異常な干渉であります。陸軍の方は翼面荷重150キロ/㎡どころか175キロ/㎡まで(「キ44」「キ60」「キ61」など)、続々と試作を許していたのに較べてもちょっと可笑しいのではありますが、それにしても。
だって艦上戦闘機ですよ。地上に造る滑走路なら、格納庫はいくらでも出来るでしょう。ですが航空母艦ではそうは行きません。大きさに限りがありますので、搭載機は出来るだけ小さく造らねばなりません。
機体は小さいほどスピードは出せるし、運動性は良くなるし。大きくて良いのはモノが沢山積めるって事だけで、爆撃機ならいざ知らず、戦闘機はなるべく小さい方が良いのです、「艦上」じゃなくてもね。
「烈風」を批判する人たちも「これが完成していたら」と夢想する人たちも、あまり注目なさいませんが「烈風」設計の問題点はコレだけと言って良いでしょう。
零戦との大きさの比較をご覧いただきましょう。
これだけゴッツイものが、軽快な運動能力を持つと思って設計したんでしょうか?後付け(空戦フラップやらなんやら)で誤魔化すつもりなんでしょうが、速度性能は?
これね、私だけのイメージかも知れませんが、ラリー選手権で競い合ってた頃のスバルと三菱を思いだしちゃうんですよね。
三菱がベースにした「ランサー」も車体の基本はしっかりしたクルマでしたけれど、電子デバイスで「武装」して、毎年バケモノに近くなっていきました。私もレヴォリューションⅣには二年近く乗ってましたけど、それ以上買い換えるつもりにはなれませんでした。
対するスバルはお金が無いせいか、シャシーを磨くことで速さを増してたんですね。私らシロートが乗っても、気持ちの良い自然な安定感でした。これは後になって息子が「インプレッサWRC」の中古に乗るようになって、初めて実感したんですが。
いけね、クルマの話じゃないですね。
一年後
開発指示がでて一年と少しの昭和18年3月。中島では「疾風」の試作1号機が完成、翌月には初飛行して社内のテストは順調に進みました。
陸軍側で初めて「疾風」を操縦したのは航空審査部飛行実験部戦闘隊・キ84審査主任の岩橋譲三少佐です。
岩橋少佐は試験飛行を終えて着陸するや否や「これはいける!」と笑ったのであります。設計主務の小山技師以下のスタッフが男泣きに泣いたのは言うまでもありません。
結論を書いてしまいますと、「疾風」は小山悌(やすし、と読むらしい)技師長を設計主務者とする「中島型戦闘機」の集大成とも言える機体となりました。
速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性に加えて生産性にも優れた傑作機だったのです。
624km/h(5,000m)という最高速度は大東亜戦争中に実用化された大日本帝国の戦闘機では最速でした。試作機は試験飛行の際に高度6,000mで660km/hを記録していますし、アメリカ軍のテストでは687km/hを記録しているそうです(オクタン価の高いガソリンとアメリカ製点火プラグで武装なし)。
急降下による強度テストでは、800キロ/hを越えてもビクともしません。二式戦「鍾馗」も650キロをオーバーしても大丈夫でしたが、陸軍の他の機体ならシワが寄ってしまう所です。
主翼面積は「隼」よりやや小さい21平方メートル。これで全備重量3800キロを支えますので、翼面荷重は180キロ/㎡になり、「鍾馗」とほぼ同じ値でした。主翼構造は「隼」の三本桁に対して二本桁として、波板を裏張りして強度を確保しています。この構造変更で引込み式主車輪の外方に、「ホ5・二〇ミリ機関砲」を装備できました。弾数は各150発。
さらに左右翼内に各173リットル、左右翼前縁部にも各67リットルの防弾燃料タンクを設置し、両内翼下には落下タンク(容量200リットル)または250キロ爆弾が懸吊できます。
尾翼まわりは「鍾馗」とよく似て、垂直尾翼を水平尾翼より後にずっと延ばしています。これで安定が良くなり、射撃のときの機体安定性が高まり命中度が良くなります。
これは小山技師長の持論「戦闘機は射撃ベース」の具現化です。
風防は、前面固定部が70ミリ厚の防弾ガラスで、中央部はガイドレールに沿って前後にスライドします。ヘッドレストから下方の背当てまで13ミリの防弾鋼板を装備して、大日本帝国軍機は被弾に弱いと言う定説を打破しようとしています。
陸軍は大喜びで「疾風」を四式重爆撃機「飛龍」(キ67)とともに重点生産機種に指定して大増産に励みました。
「疾風」の実戦部隊が編制されるのは昭和19年3月だったのですが、
こんな時期に登場したにも関わらず、大日本帝国の戦闘機として「零戦」「隼」に次いで多い約3,500機が生産されたのであります。
さらに1年後「烈風」
一方、三菱の開発する「烈風」。数々の困難を克服すべく設計者たちはひたすら努力したのですが、「疾風」のスピードにはとても及ばず、試作一号機が完成したのは昭和19年4月になってしまいました。
第一回の試験飛行は5月12日。続いての海軍による試乗は、五月の末から六月初めにかけて行われました。空技廠飛行実験部員の志賀淑雄、小福田租の両少佐が担当して、
「舵の効き、重さなどほぼ零戦に近く、操縦性、安定性もクセがなく操縦しやすい。空戦性能も有望」
と試乗の所見を述べています。
ところが、スピードが出ません。最高速度が550キロにも達しないのです。性能計算ではじいた速度を10%以上も下回るのですが、こんな事は三菱の設計技術からしては考えられない事態でした。
三菱では機体を手入れして表面をなめらかに、機銃口、無線アンテナ支柱などの抵抗になりそうなところを再検討しています。それで、わずかな速度増加はあったものの、目標をはるかに下回る事に変わりありませんでした。
さらに上昇力を測定してみると、6000メートルまで10分近くかかり(目標値は6分以下)、エンジンの馬力不足が大いに疑われました。確かに三菱に提供されていた「誉」エンジンは馬力が出ていなかったのです。
三菱は自社の試作エンジンを搭載した試作「烈風」を飛ばして、その高性能を証明するのですが。
注文されたのは「誉」装備だからね。「誉」エンジンは他の2000馬力級エンジンに比べて圧倒的な小型軽量が特徴。小型軽量がウリのエンジンを指定されたのに、くそデッカイ機体を設計して堂々としてる三菱。
なんでこんな事になっちまうんでしょうか?
確かに、三菱に提供された「誉」エンジンが初期の性能を発揮できなかった事もあるでしょうが、三菱の開発体制に問題があるとは言えないでしょうか?
三菱は設計主務者がまだテスト段階の「ハ43」エンジンに固執したのに対し、海軍航空本部は実績のある「ハ45」を要求した、それが遅れた原因、とはよく言われるんですが。
ついに海軍の「烈風」は敗戦まで大日本帝国の空を護ることは無かったのでありました。
「疾風」はベテラン・パイロットたちからも大きな支持を得ました。陸軍のパイロットは「鍾馗」で重戦の戦い方と良さを飲み込んでいた事もあるでしょう。
昭和19年3月1日、福生の航空審査飛行実験部で「疾風」の増加試作機で飛行第22戦隊が編成されました。
戦局が急迫してきて、テスト未了のままで一個戦隊を作ってテストを兼て強敵に一矢報いようというわけです。戦隊長は「キ84」審査主任の岩橋譲三少佐がそのまま横滑りし、搭乗員も優秀な者が集められました。
こうして四式戦闘機「疾風」は「大東亜決戦機」とも呼号され、いよいよ敗色が濃くなってきた我が国の大空に飛び立つのでありました。
さて、その後の経過はどうだったのでしょうか?
書き切れなかった三菱と中島の開発体制の格差とともに、「疾風と烈風」さらに続きます。
初めまして。
私は以下の条件が揃えば烈風の早期戦力化は可能と考えていますが、いかがでしょう?
1 雷電の開発中止
2 シルコスキー戦闘機(F4U)の必要以上の喧伝
3 「十五試艦上戦闘機」として試作命令(十四試局戦→十五試艦戦)
4 海軍側(もしくは他の誰か)が三菱A18の使用を強引に指定
5 海軍側が陸軍の高速重戦思想に引きずられる形で「一撃離脱一本槍」に決定(陸軍への対抗心を上手く利用すれば可能)
6 20ミリ2号4型機銃の早期開発(1号4型機銃の開発中止)
7 機体サイズへの某少将の横槍(Y氏)