「疾風」と「烈風」1~「鍾馗」誕生編~
「紫電改」を傑作たらしめた中島飛行機の誉エンジンは「奇跡のエンジン」と称されるほどに小型軽量大馬力を実現していましたが、所定の性能が発揮できない「欠陥エンジン」という悪評も付いて回ります。
「烈風」開発開始
昭和17(1942)年4月、大日本帝国海軍は主力戦闘機「零戦」の後継機の開発を三菱に内示いたします。十七試艦上戦闘機、後に「烈風」と呼ばれる機体であります。
大東亜戦争の開戦前から、対戦相手のアメリカには2000馬力級エンジンを搭載した「高速戦闘機」が登場しつつありました。これに対抗するのは名機の名を欲しいままにしていた「零戦」でも難しかろうと判断されたのです。
航空機の設計開発には時間のかかるモノで、F4U「コルセア」などが部隊配備されつつあるこの頃に内示では遅きに失した感があります。実はこの一年前に「十六試艦上戦闘機」がいったん内示されているのですが、三菱の設計チームが「零戦」の改修や「雷電」(十四試局地戦闘機)の開発で多忙を極めていたために立ち消えとなっていたのです。
「烈風」の要求性能は、最高速が638.9km/時(高度6000m)以上・武装は九九式20mm二号機銃2挺、三式13mm機銃2挺・合成風速12m/秒で80m以内(過荷重)で離陸可能な事・零式艦上戦闘機に劣らない空戦性能を確保するなどで、航続力も零戦に劣らない長大なモノでした。
「烈風」(A7M1)の設計は難航を極め、試作一号機が完成したのは昭和19年4月。開発が内示されてからほぼ2年も掛かってしまったのです。
「烈風」はこの年5月に初飛行すると直ちに試験飛行が開始されました。操縦性・安定性・視界・離着陸性能には問題がないとされたのですが、速度が出ません。524km/時と零戦二一型にも及ばず、上昇力も高度6,000mまで9分以上と要求性能に遠く及びませんでした。
三菱は設計のエース堀越二郎技師を主務としているだけに、設計の落ち度が無い事を確信していたのですが、海軍側は重箱の隅をつつきました。
「機体の仕上げが雑だ」と言い出したのです。これを改善して再び試験飛行に挑んだのですが、最高速度こそ50キロほど向上(574.1km/h)して零戦五二型なみになりましたが計画値には遠く、上昇力はほとんど改善されませんでした。
誉エンジンのせいで
「烈風」の開発開始に当たり、要求性能を満たすには2000馬力級のエンジンが必要と考えられました。当時は戦闘機に使える2000馬力級エンジンは中島飛行機の「誉」だけでしたが、三菱でも「ハ43」エンジン(社内名称MK9A)をテスト中で、コチラなら2200馬力も可能でした。
三菱としては自社エンジンを使いたいのが当然の気持ちなんですが、海軍側は「実用化がまだのエンジンでは、機体の開発が遅れる」とこれを認めず、無理やり「誉」を押し付けていました。
「烈風」のために提供されていた「誉」を三菱でベンチテストをしたところ、カタログスペックを大きく下回っていました。
さらに、試作の「ハ43」エンジンを装備した機体は要求性能を満たし、操縦性能も零戦に勝る「傑作機」だったのです。
つまり「零戦」の正統後継機として期待された「烈風」が、ついに戦場にその姿を表すことなく終わったのは「誉」エンジンの不調のためでした…とよく言われるのですが。
本当にそうなんでしょうか?
「誉」が真に駄目エンジンなら、「紫電改」も陸軍の最高傑作戦闘機「疾風」も成立しないのではないでしょうか?
その疑問を考えていると、陸海軍の戦闘機に関する「好み」が軽戦闘機に偏重していた問題に行きついてしまったのです。
重戦闘機が必要
中島飛行機の出世作となる九七式戦闘機(キ27)が完成に近づいている昭和11年の初め、社内にはある不満がくすぶっていました。
陸軍(海軍も、ですが)の戦闘機開発方針が「軽戦」一本やりであることに、将来への国防の不安とともに自分たちの技術を延ばしたい思いが渾然一体となった不満でした。
中島では、速度を犠牲にしても運動性能を追求する陸海軍の姿勢に疑問を感じ、これ以前にキ12という試作機を自発的に完成させていました。
「キ12」は液冷エンジンの低翼単葉、油圧式の引込脚(尾輪も引込)の先進的な戦闘機で、モーターカノン(液冷エンジンの構造を利用してプロペラ軸内から発射する)20ミリ機関砲と7.7ミリ機銃2丁を装備していました。
この「キ12」は480キロ/時の最高速をマークしたのですが、運動性に劣るとして採用には至りませんでした。余談ですが、一般に我が国初の引き込み脚戦闘機は海軍の十二試艦戦(零戦)だとされますが、本当はコチラですよ。
この経験を踏まえ、九七式戦闘機の後継機の「キ43」(のちの「隼」)がまたしても軽戦として要求されると、中島は「並行して重戦もやりたい」と陸軍に申し入れました。
海軍と違って軍用機の開発を産・学に丸投げしている陸軍は「自主開発ウェルカム」ですから、すぐにこれを認めています。それが「キ44」で二式単座戦闘機「鍾馗」として結実するのです。(実際には陸軍から「重戦」の開発指示が出た形にしてあります)
設計開始時は「寿」系列を複列14気筒にした「ハ41」エンジン以外に高馬力と信頼性があるエンジンがありませんでした。制式採用後になって「ハ105」という1450馬力の爆撃機用が実用化され、これに変更しています(二型)。
それでズングリ頭のあまりスマートじゃない格好になってしまったわけなんです。
主翼面積は、翼面荷重150キロ/平方メートルを目指しました。高速を目指すためには小さな翼が必須なのです。全備重量2200キロの予定に対して15平方メートルとされましたが、途中で重量は次第に増加、荷重は170~180キロ/平方メートルになってしまいました。
このお蔭で着陸速度が非常に大きくなってしまい、ベテランでも危険を感ずるほど。セミ・ファウラー・フラップをつけて、着陸速度を145キロにおさえてやる必要がありました。
「キ44」の試作第一号機は昭和十五年8月に完成。中島の主任テストパイロットの林操縦士による一通りのテストを経て、10月から陸軍の審査を受けることになります。
ヨーロッパでは前年の9月から第二次大戦が始まっており、Bf(Me)109をはじめとする重戦闘機(翼面荷重が高い高速機・格闘戦は苦手とされる)が活躍を始めていました。
中島では「やっぱり、儂らは先見の明があるじゃん」と意気があがったのですが、装備した1250馬力の「ハ41」エンジンは、予定通りの性能を発揮できず、最大速度は560キロ/時、上昇力は5000メートルまで6分30秒かかり、予定を下回る成績。
急遽、各所に改良を施して再テスト。最終的には速580キロ/時(高度3700m)、外板の継ぎ目を滑らかな状態にしてやると626キロ/hを記録しました。
今までの戦闘機に比べると旋回性能で劣りますし、エンジンが大直径ですから離着陸時の前方視界が悪く、失速速度も高いために着陸は高速でしなければいけません。
なによりもパイロットにも航空隊の上層部にも「軽戦信仰」がはびこっていましたので…なんて電脳大本営が言うと思います?(笑)
ソ連の一撃離脱(しか出来ない)戦闘機に苦戦した経験のある陸軍航空には、一定の重戦指向があったんです。ヨーロッパ戦域で高速化する爆撃機の情報も入っていましたし。
ただ、問題はその声があんまり大きくなかったって事で。ボリュームではなく、重戦指向の人たちの地位とか発言力って意味ですよ。
情けねぇ!ドイツ人に太鼓判押されて
抜き難い軽戦信仰に妨げられて制式採用が進まないキ44に、救いの手が伸びてきました。それも海外から。
昭和十六年の夏、ドイツ空軍のロージッヒ・カイト大尉が来日したのです。研究用に輸入してあった「Me109E」にカイト大尉が搭乗し、各務原飛行場でキ27(九七式戦闘機)・キ43(隼)・キ44(鍾馗)・キ45(屠龍)・キ60(川崎・土井武夫設計の、飛燕に似た試作水冷重戦)などと模擬空戦を行なったのです。
その結果、キ44はMe109Eよりも空戦性能のよいことがわかったのです。いや、これら陸軍期待の星の中で総合優勝を遂げちゃったんであります。
ドッグファイトの性能だけで見れば、キ27・キ43は、Me109Eに勝るのは当然としても、キ44や双発のキ45でさえもMe109Eに勝っていました。
しかし高速性・瞬発力などとそれを踏まえた一撃離脱能力などをまじえて、各種シチュエーションを総合的に判断すると、キ27・キ43・キ45は格闘性のリードを帳消しにしてしまいます。先に撃たれて逃げられたら戦闘にすらなりません。
キ44だけがMe109Eに先手を打たれても、反撃して勝利をあげられると判定されたのです。
この模擬空戦には「リング」つまり空戦空域が設定されていて、Me109Eのカイト大尉は追い詰められると場外乱闘?に持ち込み判定が難しかった、とされています。
「リング」の説明を私は見たことがありませんので、実際にカイト大尉と対戦した荒蒔義次大尉の回想などが元になったヨタの可能性は否定できませんが。
大日本帝国らしいっちゅうか、対戦相手の陸軍パイロットはちゃんとルールを守るんですけどね。実際の空戦にルールのあろうはずがありません。自機の能力を極限以上に引き出した方が勝ちなんです。キ44はそのハンデさえ乗り越えちゃったワケです。
この時、中島の設計陣も陸軍にはナイショでちょっとした細工をしていたそうです。
昇降舵の操縦系統の途中にバネを仕込んでおいたのです。荒蒔大尉も他のパイロットも軽戦に慣れきっていますから、キ44のような重戦に乗っても急激な舵を使ってしまうのです。
とくに上昇で過激な舵を使った日にゃあ、失速確実。日本の誇るエースパイロット達ですから、舵ミスでの失速などたちまちリカバーするでしょうけれど、ドッグファイトに敗れることも、ほぼ確実。
そんな心配から昇降舵の効きを悪くしておいたんですね。
ともあれ、外圧を受けて初めて自国の良さが判るなんて、日本人として情けない限りではありませぬか。この時はまだ欧米への技術信仰みたいなのもありましたけどね。
今はもうそんな状況じゃありません。誇りと自信を持ちましょうよ、自分の国に。
中島の努力は続く
こうして「鍾馗」(ここからは愛称で呼んでやりましょう)は制式採用に向けて大きく踏み出してまいります。
外圧ばかりでなく、中島技術陣の「鍾馗を重戦として成功させてやりたい」という執念に似た思いもありました。
相次ぐ改修が次々に行なわれているのです。昭和十六年9月までに試作と増加試作が9機作られたのですが、座席まわり・主脚の引込み方・主翼面積・尾翼の形などがみんな異なっています。
この9機が通称「はやせみ部隊」またの名を「新選組」という精強部隊を構成することになるんですが、その前に中島が「鍾馗」に投入した技術の粋を少しだけ羅列しておきましょう。
「蝶型フラップ」は有名ですね。この操作系が単純で良いのです。
油圧で離陸時には20度、着陸時45度、空戦時15~20度開くのですが、操作は操縦桿の上に装備された赤と青(赤が開)の押釦を押すだけ。何かと忙しいドッグファイト準備中か既に突入しちゃったパイロットさんでも気軽に使えます。
小さな主翼(高速を狙っているから)で、胴体だけが飛んでいるように見える「鍾馗」は高速旋回のとき自転現象を起こし、低速時にはきりもみに入りやすい癖を持っています。その防止のために胴体を長くとり、その分垂直尾翼を思いっきり後退させています。
垂直尾翼と水平尾翼がずれてる配置は中島設計の特徴なんですけどね。
これで「鍾馗」の場合は射撃時の機体のスワリがたいへん良くなったそうです。射撃テストでは極めて優秀な命中率を示し、制式採用への大きなポイントとなりました。
実戦でも滋賀県の誇る撃墜王、上坊遼太郎が初速がクソ遅くて当たる訳の無い「ロケット弾」でB29を屠っています。これも機体のスワリが良い「鍾馗」と上坊のウデがそろって成しえた偉業でしょう。
重戦闘機は、一撃離脱など突っ込み速度が重視されますから構造が脆弱では成り立ちません。
「鍾馗」は急降下制限を850キロ/時までとしています。それでもびくともさせない為、主翼・胴体の内面は波板張り構造としています。
試作一号機は空中分解事故を起こしたのですが、この補強を施した二号機以降は発生していません。
主脚の轍間も十分にとってあり、引込み装置の油圧作動は、チャンス・ボートV143戦闘機のものを参考として確実性を増し、高速離着陸を安全にしています。
実戦部隊
大東亜戦争に突入することがほぼ確実になっていた昭和16年11月。とりあえず「鍾馗」試作機の九機で実験部隊を編成し、実戦テストをしてみよう、という企画が持ちあがりました。
独立飛行第47戦隊「かわせみ部隊」の誕生であります。「かわせみ部隊」は山鹿流の陣太鼓のマークを機体に描いていることでも知られていますね。
この「かわせみ部隊」の神保進大尉は次のように語っています。
「使い慣れるに従って、こんないい飛行機は少ないと思うようになった。加速性が良いので、日本機ではなく外国機に乗っているような錯覚にとらわれた。それほど従来の日本戦闘機にはない魅力があった」
「かわせみ部隊」は大東亜戦争の開始9日前、審査主任だった坂川敏雄少佐が隊長となって昭和16年12月3日に日本を出発。サイゴンを目指しましたが増槽が間に合わず、途中一機を着陸事故で失っています。
進攻作戦にももちろん参加できません。そういう仕事をする飛行機ではありませんからね。「鍾馗」が参加するまでもなく、地上部隊はマレー半島を快調に進み、シンガポール攻略戦あたりから前進基地に進出して敵地制圧を行なうようになります。
黒江保彦大尉はシンガポール上空で「ハリケーン」と「バッファロー」に遭遇し、「バッファロー」を撃墜いたします。これが「鍾馗」の初撃墜。
黒江大尉は、「実戦では全然空戦フラップを使わなかったし、のちにはキ43同様、それを止めてしまった」と仰っています。
「止めてしまった」がどんな操作を意味するか解りませんが、空戦フラップがなくても「鍾馗」の運動性は航空先進国の戦闘機に十分通用したって事でしょうか。
「かわせみ部隊」がいまだにその実力を発揮しきれない昭和17年4月18日。ドーリットルの本土空襲があって、「かわせみ部隊」がその対策として内地へ呼び戻されることになります。
内地には九七式戦闘機が残って帝国の防空に万全を期していました。ところが、ドーリットルが率いてきたB25は九七式戦闘機では撃墜できないのです。陸軍は東京の防空に、重戦「鍾馗」を必要としたのでした。
陸軍(もちろん海軍もですよ)がこんな簡単な「軽戦闘機で爆撃機を墜とせない」事に気付くまで、何と年月のかかったことでしょうか。
中島の「キ12」や川崎の「キ28」を用兵側がもっと真剣なまなざしで見つめていれば。
その流れを汲むキ44やキ60などの重戦は、とっくに大成していた筈です。ドーリットルやB29「超重爆」ごときに、あれほど易々と皇土を荒らされることなどなかったのに。
昭和十七年八月には「鍾馗」一型のエンジンを「ハ100」1450馬力エンジンに換装した性能向上型(二型)が作られ、年末に制式採用されます。
この二型甲のさらなる改良型「乙」は、武装が胴体・主翼とも12・7ミリ各二挺となったほか、眼鏡式照準鏡から光像式反射照準機となるなどの大きな進歩を見せて、二式単座戦闘機「鍾馗」全生産の大半を占めることになります。
甲・乙型いずれも最大速度は時速605キロ、上昇力は5000メートルまで4分20秒。増槽付きで航続力2000キロ。
B29撃墜用の二型丙も少数造られました。機首の12・7ミリ二挺は変らない主翼の銃を20ミリ二門、あるいは40ミリ二門と強化。
それだけ余裕のある機体だったということで、こういったところは軽戦には真似できない重要なところ。
昭和十九年になって、奇跡の2000馬力エンジン「ハ145」をつけて性能の大幅アップ(三型)を試みましたが、すでにキ84重戦「疾風」が誕生していたので少数機だけで中止となりました。
キ44は試作から制式の一・二・三型を合計すると1225機製造されたことになります。
「かわせみ部隊」第10飛行師団飛行第47戦隊のほか、飛行第70戦隊(柏)京阪神防空の飛行第246戦隊(大正地)の他に、南方ではパレンバン防備の飛行第85、第87戦隊などに配備されました。
昭和19年6月15日、中国からのB29による北九州爆撃が始まると、飛行第246戦隊は山口の小月基地に、また飛行第70戦隊は南満州の鞍山に転用され、B29の迎撃に活躍することになります。
昭和20年2月19日午後、120機ものB29大編隊による東京空襲を迎え撃って、第10飛行師団の二式単戦は大活躍。体当たりによる二機を含め10機を撃墜。
このとき特別操縦見習士官出身者が、わずか二〇〇時間前後の飛行時間で出撃していますが、従来1000時間以上の者でないと乗りこなせないといわれていた対爆撃機戦闘で見事な戦果をあげています。
二式単座戦闘機「鍾馗」は、「着陸速度が早くて乗りにくい」といわれていましたが、それは重戦アレルギーになっていた古いパイロットの言葉でした。若手のパイロッ卜(将校はじめ少年飛行兵、特操を含む)は、少しも乗りにくいとは思っていなかったように思えます。
さてさて、昭和16年12月29日、まだ「キ44」だった2式戦「鍾馗」の発展型が中島に発注されます(開発指示)。
最高速度680km/h以上、20ミリ機関砲2門・12.7ミリ機関砲2門の強武装。広い太平洋での運用も考慮して長大な航続距離。
あらゆる任務に使用可能な「高性能万能戦闘機」とのご注文。
中島は「キ44」の設計チームを2つに分け、このご無体な注文に応ずるのでありました。
やっと「疾風」に取り掛かったところで、あとは別記事とさせてください。
二式戦の可能性が大変あるので3型の図面が見たいですねもう少し大きめにして飛行距離を伸ばせるようにしたらよかつったと思います主翼の15平方めいとるは20平方メートル位にすれば良かったのではないかと思っています又垂直尾翼の面積ももう少し大きくすればなお二式戦の戦闘機としての可能性が高まつたのではないかと思います。