最後のトンボ釣り~駆逐艦「夕風」~

峯風型「夕風」

一流海軍には、裏方仕事に徹する小艦艇がたくさんあるものです。初めから「裏方さん」として生まれた艦もあれば、艦齢が行ってから裏方に回るフネもあり…

誕生

駆逐艦「夕風」は大正7(1918)年計画、大正10年に三菱長崎造船所で竣工した「峯風型駆逐艦」の10番艦です。鋭い方はもうお判りでしょうね、「八六艦隊(のち八八艦隊に発展)」計画の一艦です。

時は建艦競争の華やかな頃でありまして、第一次大戦では散々なメにあったのに、有力な「巡洋戦艦」がますます速力を増して建造されつつ(日本の「天城」「赤城」・アメリカの「レキシントン」など)ありました。

改造中のレキシントン1925

空母へと改造中のレキシントン
1925年撮影

 

「峯風型駆逐艦」はこれに対抗、あるいは随伴するために速力性能を重視して設計されました。
峯風型以前の大日本帝国海軍の駆逐艦は、大英帝国の駆逐艦の設計を模して改良したモノでしたが、この「峯風型駆逐艦」の設計をもって模倣の時代を終わります。

外形的には艦首楼甲板が艦橋の前でカットされています(ウエルデッキ)。

改峯風型野風の武装配置図

改峯風型野風の武装配置図

 

これは、高速力を発揮している時に甲板を乗り越て来る海水を、ウエルデッキに落とし、艦橋への波浪直撃を避けるため。
同じ目的と操船の便のために艦橋を若干後方に下げ、極力船体中央部に設置しています。

また、艦首はスプーンバウという帝国海軍の特徴的なカタチ。これは一号機雷(浮遊式機雷)を使用した海面を安全に乗り切るため、という説もあります。

ダブルカーブドバウとスプーンバウ

ダブルカーブドバウとスプーンバウ

 

素直に「速力のために水切りの良い船型にした」で良いんじゃね?と思うんですけどね(笑)、福井先生。

ともあれ、「峯風型」は39ノットの高速力を誇る駆逐艦シリーズとして15隻が建造されました。
この記事の主役「夕風」のほか、最速駆逐艦・乙型駆逐艦の「島風」の先代に当る「島風(初代)」も「峯風型」です。

要目は1345トン、水線長102.5メートル、幅約8.92メートル、39ノット、12センチ単装砲×4、53センチ連装魚雷発射管×3(魚雷8本)、一号機雷16個(投下軌条2本)、乗員145名。

しかししかし、大東亜戦争が始まる頃には、「峯風型」は既にかなりの「熟女」になっていました。
後継の「特型駆逐艦」が大型化・高性能化していた事もあって、「島風」「灘風」が「哨戒艇」に転籍。

対潜実験艦「澤風」

対潜実験艦「澤風」 前甲板に日本版「ヘッジホッグ」が…

 

その他の艦は駆逐艦として大戦争に加わるのですが、後方での船団護衛などがメイン(「矢風」は戦中に標的艦となり、「澤風」は対潜兵器実験艦を務めています)でした。

トンボ釣り

「夕風」の名が全国民の注目のマトになる事件が勃発いたします。

昭和3(1928)年10月11日の午後9時20分、浦賀水道で行われていた小演習中に僚艦の「島風(初代)」と衝突してしまったのです。
「夕風」の損傷は軽微なモノでしたが、「島風」は艦首に大きなダメージを負ってしまいました。

島風(初代)」は快速を誇る「峯風型」の中でも機関のデキが良く、公試運転の時に40.698ノットの帝国海軍最速記録を叩きだしている「スタア」でありましたから、「夕風」の肩身の狭いことったらありませんでした。

その後の「夕風」は大人しく地道に勤めていたようです。
2.26事件(昭和11年)に際して横鎮の陸戦隊を芝浦まで送り届けたり、日支戦争で華中沿岸をウロチョロしたり。

快速優秀駆逐艦としては無為な日々を送って、だんだん容色が衰えて(笑)いきます。

1928夕風、島風と接触損傷

1928夕風、島風と接触損傷

 

この無為な時代に「夕風」が主に活躍したのがトンボ釣りであります。

航空機がコンピューターで誘導・制御され、自動化が進んでいる現代でさえ離陸と着陸はもっとも事故が多い時であります。
まして、一般の飛行場と比べると小さすぎる空母の甲板への発着艦は危険そのもの。

コンピューターも無ければ無線も通じにくい当時は、発着艦は一種の「職人技」でありました。
「職人」になるため、また「職人」が一層のウデを目指すには練習しかありません。
しかし熱心に練習すればするほど、事故もたくさん発生いたします。

大きな空母は小回りが利きませんので訓練中に事故機が出ても、搭乗員を救いに自分で駆け付けるのは難しい事でした。
そこで、空母には必ず随伴している駆逐艦が救助を担当することになりました。

この救助活動や、救助に当たる駆逐艦を「トンボ釣り」と呼んだのです。

着艦訓練をする空母の後方に占位して着艦に失敗した機から乗員を救助するのがその役割。
当初は飛行機の回収も試みたようですが、これは上手くいかなかったし、回収できても再使用できない機の方が多かったそうです。

主にこの担当となったのが大正時代前期の建造で昭和では老朽化しつつあった峯風型駆逐艦(のちには「睦月型」や「吹雪型」も)でした。
たとえば、こんな感じ。

「(大正15年1月末)鳳翔飛行作業並事故当時の情況概要」(アジア歴史資料センターのレファレンス・コードC04015186800)

「一月三十一日鳳翔有明湾口ニ於テ着艦訓練中着艦ニ際シ攻撃機海中ニ墜落同乗者ハ無事ナリシモ操縦者三等兵曹今野清功行衛不明、飛行機ハ駆遂艦ニテ揚收中曳索切断沈没セリ掃海捜索中 右不取敢報告ス」
※着艦失敗で海中に墜落した攻撃機のパイロット殉職事故について報告に続き、鳳翔艦長(小林省三郎大佐)の所見所見 (抜粋)
「・・・右實情ニ鑑ミ鳳翔飛行訓練上更ニ常時飛行機援助作業ニ慣レタル専属ノ駆逐艦ヲ得ハ一層完全ナル援助ノ目的ヲ達シ得ヘシト確信セラルルニ付此ノ際特ニ此ノ点ヲ完全ナラシメ艦隊ニ欠クヘカラサル航空作業ノ演練ヲ遂行スルノ要アリト認ム」

アジ歴に飛んで頂いたら、釣り上げてたことはこんな文書でも判ります。

「(海軍省)官房機密第82号 昭和7年1月22日 第二駆逐隊各艦ニ飛行機吊揚装置装備ノ件」
(C05022090000)

「(昭和7年7月)第一航空戦隊 定員艤装兵装等に関する意見の件」(C05022393600)
「・・・現航空戦隊掩護駆逐艦ノ如キハ単ニ平時ノ人命救助任務ノミナラズ平戦時ヲ通シ母艦ノ警戒航空機ノ支援ニ重要ナル任務ヲ有スルモノニシテ・・・」

アジ歴の文書は結構デカいのがありますんで、スマホからだとダウンロードは大変かも知れません。概要だけ読むことが出来る文書もありますが…。

廃艦?から一転…

トンボ釣り専用艦が便利で有用なことは判っていました。

が、貧乏な大日本帝国海軍には、旧式駆逐艦をそんなにたくさん動かしておく余裕はありません。
トンボ釣りに活躍しながらも、「夕風」は昭和15年には予備艦籍に入れられて「駆逐艦の故郷」の舞鶴港に留め置かれてしまいます。

このまま廃艦か?と思われたのですが、太平洋を挟んで日米の対立が激しくなり、ぎりぎりセーフで「現役復帰」。

日米開戦に当たっては山本五十六連合艦隊司令長官の直率する主力艦隊とともに「出撃」する栄誉までゲットします。
この時の配置が空母「瑞鳳」と「鳳翔」を基幹とする「第三航空戦隊」でありました。

先頭陸奥、後続長門

当時の第一艦隊・第一戦隊の勇姿
先頭「陸奥」後続「長門」

と言っても、この「出撃」は主力艦隊のたくさんの乗員に戦場加俸を付けるためだった、と言われるほどの「なんちゃって」であります。
それでも、この出撃で「夕風」は運命の出会いを果たしたのです。生涯を掛けて守り抜くことになる「鳳翔」との出会い、でありました。

この後「夕風」は定期整備などで舞鶴へ(「夕風」は舞鎮所属なので舞鶴海軍工廠が修理担当)行く以外は内海(瀬戸内海の事です)に居座る「鳳翔」の後にくっついて、「トンボ釣り」に従事するのであります。

大日本帝国海軍は初の「航空艦隊」を昭和3年4月に編成しました。
航空母艦「赤城」と「鳳翔」を基幹とする第一航空戦隊(一航戦)です。
一航戦には航空戦隊のなかに駆逐艦の部隊(駆逐隊)を組み入れ、空母の直衛・対空・対潜、そしてトンボ釣りを担わせていたのです。

鳳翔艦上での制動鉤を外す作業。機体は10式2号艦戦

初期の「鳳翔」艦上での制動鉤を外す作業
機体は10式2号艦戦 注目は制動索  飛行甲板に対して縦に張ってあります

 

それが、昭和16年4月になりますと大きく編成替えになります。第一艦隊(一航戦が所属)と第二艦隊(二航戦が所属)で個別に編成されていた「航空戦隊」を【第一航空艦隊】にまとめることになったのです。いわゆる「空母の集中運用」です。

昭和16年10月時点の第一航空艦隊編成

艦隊 戦隊 航空母艦 随伴艦
第一航空艦隊 第一航空戦隊 赤城 加賀 第七駆逐隊 漣 曙 潮
第二航空戦隊 蒼龍 飛龍 第二十三駆逐隊 菊月 卯月 夕月
第四航空戦隊 龍驤 春日丸(特設空母) 第三駆逐隊 汐風 帆風
第五航空戦隊 翔鶴 瑞鶴 秋雲
朧(第七駆逐隊より引き抜き)
(第三航空戦隊は第一艦隊所属)
第一艦隊 第三航空戦隊 瑞鳳 鳳翔 三日月(第二十三駆逐隊より引き抜き)
夕風(第三駆逐隊より引き抜き)

上の表でご覧いただくように、各航空戦隊にはトンボ釣り(兼護衛)の駆逐隊がついています。陽炎型の「秋雲」は9月に就役したばかりの新鋭艦ですが、第三駆逐隊は峯風型・第七駆逐隊は吹雪型・第二十三駆逐隊は睦月型、と中堅からロートルばかりです。

中堅・老朽化駆逐艦では艦型が小さい事もあって、長駆ハワイまで空母に随伴することは困難だと思われました。

そのために真珠湾攻撃作戦(参加:一航戦・二航戦・五航戦)では、第一水雷戦隊と第二水雷戦隊から引き抜いた第十七駆逐隊・第十八駆逐隊(いずれも陽炎型)が護衛についています。

睦月佐世保で進水

睦月佐世保で進水(大正14年)

しかし三航戦は第一艦隊(主力艦隊)の直衛の位置づけですから、前述のごとく「夕風」は「鳳翔」のトンボ釣り兼護衛のまま。

昭和17年4月になりますと、機動部隊固有の護衛戦力として陽炎型と夕雲型の新鋭駆逐艦で第十戦隊が編成されました。
各航空戦隊は空母だけの編成となり、トンボ釣りは艦隊所属の駆逐艦全体で行うようになって行きます。

ミッドウェー海戦時(昭和17年6月)の南雲機動部隊

艦隊 戦隊 所属艦
第一航空艦隊 第一航空戦隊 空母 「赤城」 「加賀」
第二航空戦隊 空母 「蒼龍」 「飛龍」
第三戦隊(第二小隊) 戦艦 「榛名」 「霧島」
第八戦隊 重巡洋艦 「利根」 「筑摩」
第十戦隊 軽巡洋艦 「長良」
第四駆逐隊 駆逐艦 「野分」 「嵐」 「萩風」 「舞風」
第十駆逐隊 駆逐艦 「風雲」 「夕雲」 「秋雲」 「巻雲」
第十七駆逐隊 駆逐艦 「浦風」 「磯風」 「浜風」 「谷風」

前の表との違いは歴然ですよね。この変更の狙いって言うのが今一つ良く判らないんですが、まあ先に進みましょう。

「鳳翔」専属

こうして大日本帝国の航空母艦は固有のトンボ釣りを持たなくなりました。

しかし、唯一峯風型の10番艦「夕風」だけが大東亜戦争を通じて特定の空母の随伴を続けたのであります。

編成時期 戦隊 空母 随伴
昭和15年11月15日 第一航空戦隊 加賀 第三駆逐隊 汐風 帆風 夕風
昭和16年4月10日 第三航空戦隊 鳳翔 夕風
第四航空戦隊 龍驤 第三駆逐隊 汐風 帆風
8月11日 第三航空戦隊 瑞鳳 鳳翔 三日月 夕風
昭和17年4月10日 (連合艦隊附属) 瑞鳳 三日月 (ミッドウェーでは第一艦隊所属)
鳳翔 夕風 (ミッドウェーでは連合艦隊所属)
7月14日 (第三艦隊附属) 鳳翔 夕風
昭和18年1月15日 第三艦隊
第五十航空戦隊
鳳翔 龍鳳 夕風
摂津(標的艦)
鹿屋海軍航空隊(鹿児島)
築城海軍航空隊(福岡)
9月1日 鳳翔 夕風 鹿屋海軍航空隊
築城海軍航空隊
昭和19年1月1日 第十二航空艦隊
第五十一航空戦隊
鳳翔 千代田 夕風 築城海軍航空隊
豊橋海軍航空隊(愛知)
厚木海軍航空隊(神奈川)
2月20日 (連合艦隊附属) 鳳翔 夕風

昭和16年に三航戦が「鳳翔」と四航戦(新編)の「龍驤」に分けられたのに伴い、第三駆逐隊も分割されて「夕風」が単独で「鳳翔」のトンボ釣りへ配置されました。

これ以降「夕風」は「鳳翔」の編成替えに付録のようにくっついて行きます。
昭和18年には空母艦載機育成部隊の第五十航空戦隊・第五十一航空戦隊が出来ますが、「夕風」は「鳳翔」の発着艦訓練のトンボ釣りを務め続けています。

なんで「鳳翔」と「夕風」がセットになったか?理由は全く分かりませんが、太平洋でアメリカ軍と死闘を繰り広げるにはお年で弱兵装の「夕風」には適役だったのではないでしょうか。

「鳳翔」と「夕風」は瀬戸内海に居座って空母搭乗員の育成に奮闘を続けましたが、昭和20年に入ると燃料不足で訓練も続けられなくなります。
追い詰められた帝国海軍にとって、もはや「空母搭乗員」を養成する必要もなくなったのも大きな理由かもしれません。

4月20日付けで「鳳翔」は現役から外れて予備艦籍に移され、ついに長かったコンビもついに解散。

大物釣り

コンビを解消した「夕風」は「海鷹」(改装空母)の護衛に配置換えされ、大分県の別府湾へと移動します。

別府湾には特攻兵器「回天」の訓練基地(大神基地)がありました。「海鷹」と「夕風」は「回天」の訓練のための標的艦を務める事になったのでした。

海鷹(あるぜんちな丸)

空母「海鷹」(元豪華客船「あるぜんちな丸」)

 

7月24日。「海鷹」と「夕風」は空襲を避けて室津港(山口県)へ移動します。その途中で「海鷹」が米軍の投下した機雷に触れ航行不能に。

1200トンの「夕風」に対し「海鷹」は13000トン。それでも「夕風」は敢然と「海鷹」の曳航にチャレンジしました。
10倍以上の重量差がありますので、曳航速力はわずか2ノットしか出ませんでした。

ワイヤーが切れないよう注意しながら、ジリジリと移動。10時間ほどかけて「夕風」は「海鷹」を大分県速見郡の城下海岸へ座礁させることに成功したのでした。

城下海岸に座礁した海鷹

城下海岸に座礁した「海鷹」

 

7月28日には座礁している「海鷹」は米軍艦載機の攻撃を受けます。呉軍港空襲のとばっちりだと思われますが、動けない「海鷹」は大破し、放棄せざるを得ない事態となってしまいます。

しかもこの対空戦闘で20名もの戦死者を出してしまうのですが、大多数の乗員は上陸して難を逃れることができました。

貴重な水兵さんの多くが生き延びたのは「夕風」が必死で「海鷹」を曳航したおかげでありましょう。

これが電脳大本営認定(笑)の「帝国海軍、最後のトンボ釣り 」であります。
「夕風」は最後の最後に「鳳翔」から離れて、とんでもない大物を「釣った」ワケであります。

「海鷹」は大破したものの座礁状態のままで敗戦を迎え、離礁・解体されることとなりました。

城下海岸に上る旭日

城下海岸に上る旭日 「夕風」のような駆逐艦を揃えれば、日はまた昇るぞ、必ず。

 

「夕風」はと言えば、15隻もの峯風型の仲間で、ただ一隻だけ駆逐艦籍のままで敗戦を迎えます。

甲板上に臨時の収容スペースを設けて、19回もの復員輸送を実施した末、賠償艦としてイギリスへ引き渡されて解体されてしまいました。

相方の「鳳翔」も大東亜戦争を生き延びています。飛行甲板を一部撤去した姿となって復員輸送に当たり、任務終了後に解体されてしまいました。

「神風型」の記事はコチラ

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