陸軍雷撃隊~復仇~
初陣を果たしたものの、敵艦隊に大きな損害を与えられず、出撃機の約半数を失った「陸軍雷撃隊」の飛行98戦隊。翌日の出撃に備えていた彼らにもたらされたのは…
攻撃708飛行隊の戦闘
「陸軍雷撃隊」はじめ、米艦隊への接敵は出来たものの効果的な攻撃が出来なかったT部隊。
大損害を出していましたが、残存機は台湾・石垣島・宮古島などの飛行場に着陸していました。
しかしこのまま夜が明ければ、米軍機の空襲を受けてしまいます。各機は燃料補給が済んだ順に、急ぎ鹿屋を目指して離陸して行ったのでした。
実際に、10月13日の0500頃には夜戦型のF6Fが台湾に現れています。
残存部隊が目指した鹿屋では、762航空隊の攻撃708飛行隊が出撃準備を進めていました。
稼働できる19機の一式陸攻を直協(照明)7機、雷装12機に振り分け、今日こそアメリカ機動部隊を撃滅しよう、との堅い決意を固めていたのです。
帝国海軍は、T攻撃部隊が大損害を被りつつも、アメリカ艦隊にも大きな損害を与えたと認識していました。
これは、未熟な搭乗員の誤認(海面に突っ込んだ味方機の炎上を命中弾と誤るなど)が原因とされます。
でも私はその説は取りません。
搭乗員の報告(インフォメーション)を解析して、ちゃんとした情報に昇華させる過程(インテリジェンス)が、まったく為されていなかったことが原因であると考えています。
切り札投入
この日攻撃準備をしていたのは、前述の攻撃708飛行隊の他に攻撃703飛行隊(雷装の一式陸攻8機)、攻撃501飛行隊(銀河6機)、戦闘303飛行隊(零戦12機)の各隊合計45機でした。
機数こそ激減しているものの、攻撃708飛行隊の隊長を務めるのは「陸軍雷撃隊」の育ての親ともいえる長井彊大尉。
真珠湾以来の雷撃の先達です。
しかも戦闘303飛行隊には皆さんも良くご存じの西沢広義中尉がいました。
「ラバウルの魔王」に守られて、海軍伝統の雷撃隊が征くのです。
この攻撃隊は、海軍に残されたベテラン搭乗員を大挙投入した切り札部隊だったのです。
攻撃708飛行隊は
「敵はニミッツ・味方は長井、相手に取って不足なし。俺がまっ先に行くからついてこい」
と言う長井大尉の訓示のもと、酌み交わした杯を叩き割って決意のほどを示しました。
隊員たちの額には、高女生の手から渡された日の丸の鉢巻が固く締められていたことは言うまでも無いでしょう。
ちょっと余談になります。ラグビーの選手の「キャップ」ってお聞きになったことがあるんじゃないでしょうか?
これはその国の代表として試合に出た数を表しています。昔は代表として戦った証明として、ホントに帽子を貰ったそうです。
現在、日本では貰える帽子は一個だけ(それも小さくて被れない)で、年末にその年に出たテスト・マッチ(代表同志の試合)の分だけ星のワッペンが送られてきて、自分で貰っていた帽子に縫い付けるんだそうです。
お読みになってお判りのように、女高生による「日の丸鉢巻」は出撃ごとに手渡されたようです。
「俺、ヘッドバンド10本越えたぜ」なんて会話はあったんでしょうか?
坂井三郎氏によれば、「ヘッドバンド一本目の試合」から無事戻るのが一番大変だったそうですが。
準備なった長井隊は1330に鹿屋基地を発つと、1638に宮古島に到達し、薄暮を待って島の上空を大きく旋回しています。
この待機の時間に合わせるように、先行した索敵機の敵発見電が次々に入ります。
1620に偵察11飛行隊の二式艦偵が、与那国島の南南西90カイリで空母3を、1624には同じ与那国島の南南西40カイリで別の空母群(空母4)を発見・報告。
触接を続けましたが、1720以降の報告が絶えてしまいました。
1705、二式艦偵の南を担当していた攻撃708飛行隊の「銀河」が西表島の南60カイリでアメリカ艦上機(機種は不明)5機を見つけ、15分後にやや西側でアメリカ艦隊を発見。
さらに10分後空母1を含む機動部隊を発見して打電。
この機も1750から1805にかけて米機2機と空戦の末に撃墜されてしまいました。
しかし長井隊はこの報告で、ついに米艦隊を補足し攻撃行動に移るのであります。
無念なり
索敵機によって報告されたアメリカ艦隊は第38.4機動部隊でした。空母「エンタープライズ」「フランクリン(旗艦)」「ベローウッド」「サンジャシント」の4隻を中心に、重巡「ニューオーリンズ」軽巡「ピロキシー」と駆逐艦10隻という大部隊です。
この日の日没は1822で、「フランクリン」は上空直衛の戦闘機8機を収容にかかっていました。
その時輪形陣を作る駆逐艦の上を、4機の一式陸攻が一分間隔で飛び越えてきたのです。
一式陸攻は輪形陣の中で散開し、西・西南・北北東・西北から「フランクリン」に迫ります。
その高度15~25メートルの超低空飛行。
長井大尉が考案し、「陸軍雷撃隊」にも伝授した車掛り戦法でした。
「陸軍雷撃隊」に教えたよりも低い高度は「元祖雷撃隊」の矜持か誇りか?
そのうち一機は輪形陣を突破したとき、すでに火災を起こしていましたが、450メートルまで迫って魚雷を投下。
この魚雷は「フランクリン」の艦尾に命中!と思われたのですが、深度調定が深すぎたのか、真下を通過してしまいました。
しかしこの機のパイロットはまだ諦めていませんでした。火災を起こした乗機を巧みに操り、「フランクリン」の飛行甲板に突入したのです。
機は甲板を滑りつつ艦橋を破壊して右舷から落下し、海面に激突して爆発。
この間、アメリカ側の記録(「フランクリン」のアクション・レポート)から長井隊の攻撃ぶりを推定するしかありません。
ですから、この雷撃と体当たりの2段攻撃を仕掛けたのがどの機かは判りません。
ただ、長井大尉は「ト連送(突撃せよ)」で全機攻撃を命じた後、数分してから「天皇陛下万歳」を発信しているのです。
この突入が大尉の最後であったと考えて間違いない、と推定いたします。
長井隊ではもう一機、魚雷投下まで行った機がありますが、これは「フランクリン」の面舵でわずか15メートルほどの僅差で回避されてしまい、同機は避退中に撃墜されてしまいます。
他の2機は雷撃まで至らずに撃墜され、長井大尉とともに車掛りで攻撃した一式陸攻は全滅。
この日出撃した一式陸攻で戦果をあげたのは、長井大尉機だけではありません。
長井隊とは別の輪形陣で重巡「キャンベラ」を雷撃した部隊8機があります。
これも車掛り戦法で攻撃していますので、おそらく長井隊の一部と思われます。
6機までが撃墜されながら2機が魚雷投下に成功。
内一発が「キャンベラ」の右舷に命中しボイラー室を破壊、全動力喪失に追い込んでいます。
再出撃
鹿屋基地に帰った「陸軍雷撃隊」飛行98戦隊は、再度の出撃準備を急いでいました。
12日の攻撃での未帰還が多く、編成には苦労していました。
もう直協機は設定出来ず全機雷装です。
海軍の搭乗員にも搭乗割に協力してもらわなければ、飛び立つことさえできぬ状況だったようです。
そんな飛行98戦隊の下へ、恩師たる長井彊大尉の未帰還が伝えられました。
まだ戦死確定ではありませんでしたが、南西諸島や台湾へ着陸した機や不時着した搭乗員の安否が伝えられつつある時でした。
大尉の「天皇陛下万歳」電が伝えられたかどうかは、私の力では確認しきれません。
陸海軍の枠を越え、雷撃法や洋上航法を親身に教えてくれた師匠。
考案した「車掛り戦法」を自分の部隊ばかりでなく、よそ者にも教えてくれた長井大尉が未帰還。
飛行98戦隊員は復讐戦に燃えたのでしょうか?
まず40度の高熱で寝込んでいた戦隊付の宮嶋満少佐が、両脇を支えられてよろめくように指揮所に姿を現しました。
「戦隊付」の人は実戦では何の役にも立ちませんが、「少佐」ですから今日の攻撃指揮官は宮嶋満少佐に決定(と言うか変更)。
これをきっかけに地上勤務の高齢者や病弱の者までが次々と搭乗を志願、海軍側の搭乗員達も大挙して協力を申し出たそうです。
第一中隊長の吉川武雄大尉、第二中隊・瀬戸軫次(しんじ)大尉、第三中隊・富永義男大尉の各隊長も宮嶋少佐を支える強力布陣となりました。
出撃メンバーの額には、例の高女生の手になる鉢巻がキリリと絞められ、日の丸が誇らしげに輝いていた筈です。
1010、高橋太郎戦隊長の
『一億同胞の運命が、我らの一挙手一投足によって決せられる』
との訓示に送られて「陸軍雷撃隊」は鹿屋を発進したのでした。
沖縄読谷(北)飛行場には1250に到着。
この飛行場には朝から海軍第三航空戦隊の653空などの160機以上が進出してごった返していました。
30名の整備班員は陸軍機だからと言って後回しにすることもなく、燃料を補給してくれました。
総攻撃
この日、連日の大損害にもめげず、大日本帝国が準備した航空機は360機以上。
もちろんT部隊も含まれていますが、練成不足の隊も多く、主力は昼間攻撃となりました。
360機はいろいろな部隊の寄せ集めで、統一訓練もしていません。
360機の「数の力」は、一斉に攻撃行動を起こしてこそ発揮できるのですが、実際には多数の小部隊が自分たちの技量に合わせてバラバラに敵艦隊に迫る、という最悪の攻撃法になってしまいました。
参加部隊を全て上げるのは、少し長くなりすぎます。
主力は第三航空艦隊と五一航戦(基地航空部隊)でした。
その中で、653空は索敵しながらの攻撃を試みたものの、アメリカ戦闘機の妨害と低い雲に敵発見ならず。
752空隷下の攻撃5飛行隊(彗星)は1525、西表島の南南西120カイリで敵機動部隊を発見、攻撃3飛行隊(コチラが先に攻撃してたようですが)とともに急降下爆撃。
しかし戦果なく攻撃5飛行隊は2機を撃墜され、攻撃3の方は全滅。途中で脱落した機もありますので、はっきりしませんが、どちらの隊も10機前後で攻撃したように思われます。
続いて1704、攻撃252飛行隊(天山)が石垣島南南東で空母3他を発見、雷撃に移りましたが、飛行隊長機を除く16機が未帰還となっています。
そのうち1機は軽巡「リーノ」に体当たりで損害を強いましたが、他の戦果は無し。
戦果の無かったのはこれらの部隊ばかりではなく、昼間に攻撃したすべての部隊に言える事でした。
陸軍雷撃隊、到着
海軍航空隊の懸命な攻撃が実を結ぶことなく、10月14日の日が落ちようとしていました。
1700に宮古島に達した陸軍雷撃隊・飛行98戦隊は、その僅か後に偵察11飛行隊の「彩雲」からの情報を得てアメリカ機動部隊へと向かいました。
この頃から、飛行98戦隊の各機は敵戦闘機グラマンF6Fの攻撃を受けるようになります。陸軍雷撃隊は高度を下げ、雲の下に出ます。
「飛竜」には、後下方に向けられる防御砲火は独特な尾部銃座しかありませんから、理にかなった進撃方法なのです。
後上砲と尾部銃座を連射しつつ、高度200メートルで飛び続ける陸軍雷撃隊。
編隊による集中防御はそれなりに効果を発揮し、数機のF6Fの撃墜を報告しています(アメリカ側の記録だと1機か?)。
空はうす曇りながらところどころスコールの雲があり、視界を遮ります。
波は静かなものの、高度が取れませんから広域の視界は全く得られません。
索敵機の情報を信じて飛び続けること1時間30分。日没の時間は過ぎており、洋上は急速に暗くなっていました。
その時、1829。98戦隊は距離13000メートルのスコールの陰に、ついに敵機動部隊の輪形陣を発見したのです。
指揮官機からは待ちかねたように「トツレ(突撃隊形作れ)」が連送されます。
薄闇から徐々に黒さを深めていく洋上。陸軍雷撃隊は散開し「車掛り」隊形を指向しつつ、敵機動部隊に殺到して行きました。
輪形陣突破
編隊を解いた陸軍雷撃隊はアメリカ艦隊の輪形陣に南側から接近していました。
先頭の第三中隊(富永義男大尉)はそのまま直進し、第一中隊(吉川武雄大尉)は右へ、第二中隊(瀬戸軫次大尉)は左へ迂回して東・南・西の三方向から挟撃体制を作ります。
海軍の雷撃エキスパート、長井大尉直伝の車掛り戦法です。
第二中隊は(どの中隊も、なんですけれど)激しい対空砲火を浴びながら駆逐艦の脇をすり抜けていきます。アメリカ側の資料だと、駆逐艦「ウッドワース」が複数の「飛竜」を撃墜しているようです。
生き残り搭乗員の証言だと「ウッドワース」(と思われます)艦上で対空戦闘を行うアメリカ兵の顔がハッキリ見えたほどの、超低空飛行での輪形陣突破でした。
第二中隊は駆逐艦の防御ラインを突破したものの、中隊長の瀬戸軫次大尉機は高度を下げ過ぎたのか、僚機によれば
「瀬戸大尉機は突然海に落ちたが、次の瞬間、飛びあがった。しかし再び落ちて視界から消えた」
海面に接触して弾み叩きつけられた…ように思えるのですが、距離のある機から見ると印象が変わります。
「瀬戸大尉機は機腹で海面をバウンドしつつ、なお突撃していく」
となっています。
おそらく敵弾回避運動で高度を失い、海面に接触してしまったものの手練の操縦技術で一旦持ち直したのでしょう。
口で言うほど簡単な事ではありません。
海面に触れると急激に速度を失いますから、慌てて上げ舵をとっても上昇はしないと思われます。
プロペラの少なくとも先端は曲がってしまいますから、時間をかけて速度を得ることもできないでしょう。
瀬戸大尉は傷ついた機を巧みに操り、海面の反発を利用してアメリカ空母を目指したのだと思います。水切りをする小石のようになりながら。
98戦隊はアメリカの38.1機動部隊と38.2機動部隊の輪形陣の間をすり抜けるように突入したようです。
駆逐艦「ウッドワース」が警報を発して3機を撃墜(第一中隊・吉川隊長機を含む)したようですが、他の機は38.2機動部隊輪形陣の内部に侵入。
うちの1機が巡洋艦「ヒューストン」に魚雷を命中させ、機関室を破壊しています。
しかしながら受けた損害は甚大で、攻撃を終えて輪形陣を脱出できた陸軍飛行98戦隊「陸軍雷撃隊」の所属機は僅か数機だったと思われます。
第三中隊の平田英一大尉の機は空母を雷撃した後、攻撃隊長を務める宮嶋少佐の乗機を視認しつつ脱出。
何機もの陸軍雷撃隊機が魚雷を抱えて火の玉となりながら敵艦に迫る姿を認めた、としています。
脱出した平田機は送受信機を破壊されていましたが、航法士として海軍の味澤飛曹長が乗っていたのが幸いでした。
味澤飛曹長の的確な進言で一度は向かった宮古島への着陸を中止。
北飛行場へたどり着くのですが、着陸寸前に海軍機とニアミスを起こして不時着してしまいました。平田大尉はこの不時着の衝撃で戦死。
この日の飛行98戦隊の中では、平田大尉機とともに脱出した斎藤敢大尉のクルーがもっとも幸運だったと思われます。
斎藤機は2200に沖縄北飛行場に無事に帰投し、滑走路でもう一機「飛竜」の爆音を聞いた(おそらく平田英一大尉の機)そうです。無事、と言っても機体の弾痕は40以上ありましたけれど。
沖縄へ帰った機ばかりではありません。
杉本喜代太曹長の機は台湾西岸沿いに北上して嘉儀にあった陸軍飛行場を目指しました。
上空に達して「夜設(夜間着陸施設)点灯」の連絡を入れたのですが、いつまでたっても点灯されず、飛行場高くの畑に不時着しています。
画像はこの不時着機ですが、胴体上に索敵電探のアンテナが見えています。結構珍しい画像ではないかと(検証はスーパーモデラーさんたちにお任せします)。
これで良かったのか?
こうして陸軍雷撃隊の第一陣、飛行98戦隊はいったん戦力を喪失してしまい、沖縄戦に投入されるまで再練成となります。
陸軍が「自前の雷撃隊を持ちたい」と願ったのは「離島防衛」のためです。
離島を守り抜くためには、敵を待つよりも侵攻してくる上陸部隊を海上で叩く方が得策、と言う判断でした。
本来、様々な手段でその任に当たるべき海軍が能力を喪失し、その意志にも疑問符がついていたために、「それなら自分たちで」と起ちあがったのでした。
洋上航法にしても雷撃運動にしても、魚雷の取り扱いも陸軍の専門外ですから、海軍の協力が必要でしたが、海軍機と同じように敵の機動部隊を攻撃する必要があったんでしょうか?
例えばルソン島決戦(レイテ決戦は台湾沖の「戦果」で急浮上)を着々と準備しつつあった山下奉文大将の隷下に「陸軍雷撃隊」を転用し、上陸船団の攻撃に使えなかったのか?
山下大将なら上陸させといて補給部隊を叩くとか、いろんな運用を試してくれたんじゃないですかね。
「陸軍雷撃隊」を調べ始めると、よく言われる「陸海軍の対立」と言う図式は少なくとも現場レベルでは無かった、と判ります。
ですが、防衛に関する考え方は陸海では全く違うのです。
今でも、支那や半島南部との戦争を考えますと、どこかの局面で「離島防衛」戦になることは間違いないと思います。
一つ一つの離島についてどう守るか?については論議を尽くしておく必要があるのではないでしょうか。