伊47潜水艦の奇跡
昭和19年も暮れようか、と言う12月30日の夜のことであります。
大日本帝国海軍の誇る丙型(伊16型)潜水艦「伊47」はニューギニア島北岸・フンボルト湾の敵艦隊攻撃を策して行動中でありました。
回天母艦
伊47潜水艦は8隻建造された「巡潜丙型」の7番艦です。
大日本帝国の潜水艦は第一次大戦後のドイツ潜水艦(U142型)の技術導入以降、巡洋潜水艦(巡潜)として頭角を現してきます。
技術導入時にはまだ未熟だった我が国の潜水艦技術は、その後わずか10年ほどで世界のトップに躍り出てくるのですが、その方向は「大型化」「水偵搭載」「航続力/長期作戦能力」を力強く指向していました。
まだレーダーの実用化が視野に入っていない時期であり、想定戦場が広大な太平洋であった事を思えば、大型化や偵察機搭載は納得できるモノではありますが、もう少し静粛化とか探知能力にも配慮してればなあ、と思いますね。
さて、後智恵みたいな注文は置いときまして、本記事の主人公であります「伊47」潜水艦が属する艦級の巡潜丙型(伊16型とも)。このタイプは帝国海軍の潜水艦の「ほぼ」完成形とも言える「巡潜型」のうち、水上偵察機の搭載を無くしたタイプです。
排水量/基準:2184トン・常備:2554トン・水中:3561トン
全長/109.3m・全幅9.10m、最大速力水上:23.6ノット・水中:8.0ノット、航続距離/水上:14,000カイリ(16ノット)・水中:60カイリ(3ノット)、乗員95名、兵装/40口径14糎単装砲1門・25粍機銃連装1基2挺・53糎魚雷発射管艦首8門・九五式魚雷20本・二二号電探1基
同型艦はネームシップの伊16以下伊18・伊20・伊22・伊24・伊46・伊47・伊48と8隻ありましたが主人公の伊47を除きすべて戦没。
生き残った伊47潜も敗戦後に五島列島沖で海没処分されてしまいます。
伊47潜水艦は昭和19年の7月10日の竣工で、戦争の「良い時」は全く知らずに太平洋に出ることとなりました。
この時期に戦場に登場した一等潜水艦の宿命として、伊47の生涯は「回天母艦」として生きるしかなかったのです。
しかし、伊47は数ある回天母艦の中でも実績はトップクラス、しかも知られざる「奇跡」をも実現した稀有の潜水艦となります。
奇跡などと持ち上げるのは電脳大本営だけかも知れませんが、伊47の航跡を紹介させてください。
ウルシー泊地攻撃
佐世保の海軍工廠で建造されていた「伊47」。
昭和19年の4月15日に折田善次少佐が艤装員長として着任、艤装が進みました。7月10日にはついに竣工、折田少佐はそのまま初代艦長に任ぜられます。
「伊47」は訓練部隊である第六艦隊の第11潜水戦隊に編入されて短期間の慣熟訓練を終え、10月8日には第15潜水隊に編入されます。
おりから、山口県の大津島では帝国海軍が文字通り回天の希望を掛けた特攻兵器の搭乗訓練が進行中でありました。
人間魚雷「回天」であります。
当初「伊47」は最初の回天部隊である「菊水隊」に参加する予定ではありませんでした。
ところが母艦に予定されていた第15潜水隊の各潜水艦は台湾沖航空戦が生起して、その残敵(そんなモノはありませんでしたが)掃討に駆り出されてしまいます。
10月17日にはレイテ島の戦いにともなって、潜水艦はフィリピン方面に集中投入されて行ってしまいます。
こうして回天を乗せる「ベテラン」が居なくなってしまったので、新米の「伊47」に「回天母艦」の大役が廻って来たのです。
しかし、艦長の折田善次少佐はこの非情の作戦に「この人しかない」ほどの逸材だったのであります。
「伊47」は横須賀から直接大津島に移動、「回天特別攻撃隊菊水隊」の一艦となり、回天4基とその搭乗員を乗せると11月6日に大津島を出撃。(他に伊36、伊37も出撃)
20日0030。伊47はアメリカ海軍の対日根拠地の一つウルシー泊地(もともとは連合艦隊の大根拠地)に到達しました。
佐藤章少尉(兵科3期予備士官)・渡辺幸三少尉(兵科3期予備士官)・仁科関夫中尉(兵71期)・福田斉中尉(海機53期)の各英霊が回天に乗り込みます。
ウルシー環礁の位置
折田艦長の操艦よろしく泊地侵入に成功すると、回天各艇には攻撃命令が下されました。0328から5分の間隔をあけて0342までに回天4基全てが発進。
回天を発進させた「伊47」は直ちに浮上して南東へ避退するのですが、途中で艦尾方向にオレンジ色の大火柱が上がるのを見、数分の後には同一方向に再び閃光と火焔を望見します。
これは給油艦「ミシシネワ」を一発轟沈した大火柱だったようです。アメリカ海軍の公式記録では、この夜の「回天」の戦果はこれ一隻ですが、母潜「伊47」の折田艦長の見立ては違います。
折田艦長は2基(英霊が乗られているのに基は如何かとも思いますが)の暗礁にぶつかっての爆発(つまり戦果なし)を認めながら、もう一発は空母を沈めている筈、と戦後になっても主張しておられます。
私も、心情としては回天のデビュー戦(こういう軽すぎる表現をしないと、哀しくて先が書けぬ、ご容赦を)は「空母と給油艦!」と主張したい所ではあります。
しかし、こればかりはアメリカ海軍が正直に記録を開示してくれぬ限り、何とも言えぬ、糞がっ。
2回目の出撃
ともあれ、初回の出撃を成功裡に終わらせた伊47は内地へ帰還、次の出撃と「奇跡」への遭遇に備えて、新しい回天と搭乗員を積み込むのであります。
昭和19年12月25日「伊47」は「回天特別攻撃隊金剛隊」として大津島を出撃、ニューギニア島に向かいます。ニューギニア島北岸にあるホーランディアと言う町の港に集結するアメリカ軍を叩くためでした。
出港から6日目の19年12月30日の黎明のことであります。
伊47はグアム島の西方、約540キロの海域を南下していました。夜明けが迫っており、艦橋で哨戒に当たっていた航海長が、「潜航」を令した瞬間でした。
見張員が「大きな漂流物があります」と叫んだのです。
当時、浮上充電中の潜水艦が漂流物を発見することは良くあったそうです。太平洋上では航空戦やら海上戦やらが毎日毎日何回も繰り返されているのですから。
アメリカ軍などは、戦闘によって艦内火災が起こったりすると、備品も何も手当たり次第にすべて剥ぎ取って海に投げ出してしまいますから、戦場の跡に近づくと、沢山の漂流物と出会うワケです。
当然のことですが伊47の航海長も艦長も、「そのたぐい」だと思っていました。
ところが見張りは「人が乗っているようです」と言ったのです。
この解釈として「本土を爆撃にいったB29が不時着して、救命筏に乗って漂流しているのでは?」と判断されました。
それなら「米兵を捕虜にしてやろう」って事で艦長は漂流物に接近します。
接近してみると、「米兵」たちはキャンバスをかぶって動きません。もう死んでいるのか?と双眼鏡で見てみますと、キャンバスから足がはみ出ています。その足がピクピク動いています。
「おお、生きているぞ」
アメリカ兵だと思い込んでいた艦長は先任将校の大堀正大尉(69期)を呼びました。
大堀大尉は幼少期をアメリカで過ごし、広島二中を経て兵学校に入った経歴がありますので英語が堪能だったのです。
コチラが助けようとしても、米兵が抵抗するかも知れません。護身用の軽火器を持っているかも知れませんから、伊47側も拳銃を構えていました。
狭い甲板にひしめく乗員が見守る中、大堀大尉が漂流物に呼びかけます。
「おおい!」
語学力を見込まれた大堀大尉ですから、「へイ!」とかなんとか言うんだと思い込んでいた一同はズッコケたようですが、漂流物の方ではキャンバスをはねのけて起き上がる人物がいました。
その人を見ると、帝国海軍の略帽を被っているではありませんか。それも黒い筋が2本入ったのと1本入ったのが見えたのです。
帽の周りを取り巻くストライプが2本は士官用、1本は下士官用です。
「なんだ、あれは日本兵だぞ」と艦上は大騒ぎになります。
「オーイ」「オーイ」と叫び手を振りながら近づいてみると、なんと8人も乗っているではありませんか。
玉砕からの生還
漂流物(手製の筏だったのですが)に乗っていた8名は、海軍陸戦隊の伊藤京平少尉・後藤昌富飛曹長・荒川幸作一等兵曹・涌井伊三郎二等兵曹・佐藤一水兵長と軍属の平井信太郎・笹正志・川崎四郎の三氏でした。
伊藤少尉と7人の仲間たちは、伊47の東方540キロのグアム島から脱出してきたのです。
グアムは昭和19年7月21日にアメリカ海兵隊が上陸、第29師団を主力とする約2万名の将兵が死力を尽くして抵抗したのですが、衆寡敵せず、次第に島の北部に追い詰められていきます。
8月10日に至り、掌握する兵力が僅か300にまで減少していた小畑英良第31軍(第29師団の上級部隊)司令官は、ついに先帝陛下と大本営に宛て
「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」
と決別の辞を打電したのち、又木山戦闘司令部壕内で田村義冨参謀長をはじめ60余名の将兵とともに自決していました。
アメリカ軍は島の北部に達して島の完全占領となったのですが、一部日本兵はまだ抵抗を諦めていませんでした。
飛行場を襲撃し、交通・通信網を遮断するなどのゲリラ戦を行って居たのです。
しかし、ゲリラ戦に転じた日本兵の戦闘条件も日増しに悲惨となって行きます。グアム島のジャングル内には食物どころか飲み水も少なかったのです。
兵士は葉に付いた露で渇きを癒し、蛙やヤドカリを捕らえて飢えを凌ぐありさまだったそうです。
この敗残日本兵を、アメリカ軍は軍用犬まで投入して追い詰めました。アメリカ軍は密林に逃げ込んだ日本兵を7500名と推定していますが、そのうち敗戦までに捕虜になったのは1250名。
他はアメリカ軍の掃討で戦死・自決あるいは病気や飢えで亡くなったのだろうと思われます。
そんな中で、なんとかグアム島を脱出しようと試みた生き残り日本兵が居たのです。それも何組も。
密林内の木を利用して筏を組んで海に出るのですが、アメリカ軍に発見されたり潮流に押しもどされたり。
伊藤少尉たちの筏だけが外海に出るのに成功したのです。
伊藤少尉たちはドラム缶と椰子の丸太を組みたてて、六畳敷きほどの筏を仕立てて約1カ月ものあいだ漂流していました。
筏には飲料水が尽き食糧もなくなってしまいました。筏の上で息もたえだえに横たわることしかできない敗残兵の眼前に、突如として黒い潜水艦が出現したのです。
筏兵たちはそれでも、大日本帝国海軍の名を汚す事はありません。伊藤少尉は、筏に突っ伏したまま「戦闘用意」と叫んだのです。
部下たちは僅かに残された体力をふりしぼって手榴弾を握りしめていました。
助けられない
「玉砕の島」の過酷な戦いを生き延び、さらにその後のゲリラ戦を潜り抜け、一か月に及ぶ筏での漂流にも耐え抜いた8名の陸戦隊員。
私の知る限りでは、数ある「玉砕の島」から脱出に成功したのは伊藤少尉のグループが唯一の例であります。それが、勢力がめっきり減ってしまった味方の艦艇に拾われる。
これこそ「奇跡」と呼ばれるにふさわしい現象であろうと思います。
しかし、彼らがすぐに救助されたわけではありませんでした。伊藤少尉たちが「伊47」に助け上げられるには、今一つの奇跡が必要だったのです。
と申しますのは、伊47は命令によってアメリカ軍を攻撃に行く途上です。それも特攻兵器である「回天」を積んでの重要任務です。
これから死にに行くようなモノ、と言っても過言ではありません。
潜水艦の艦内容積は極度に小さく、4名の回天乗員は優遇してあげなければいけませんから、8名もの漂流者を受け入れる余地は無いのです。
折田艦長は迷い、先任将校の大堀大尉と相談して結論を出しました。
「生死のほどは保証できない。みすみすここで助けても、結局、殺すことになるかもしれん。ここは一つ、食料と水をあたえて、いちばん近いフィリピンの方角を教えて突き放したほうがいいだろう」
多少の食料と水を与えられて、行くべき方角を指さして貰っても、筏の8人が大海原で生き延びられるはずがありません。
艦長と先任将校が出した結論ですから、艦内にはこれに異論を唱えることのできる人は居ないのです。
しかし、救いの神はちゃんと潜水艦内に居たのです。それは「回天」搭乗員の川久保輝夫中尉でした。
「オジさん、頼むからあの8人は助けてやってくれ、われわれ4人はあと10幾日で確実に死ぬのだ、4人のかわりに8人の海軍がかわって生還するということはめでたいことです。着るものはわれわれのものをやってください」(戦後の折田艦長の回想)
と中尉が訴えたのです。
回天隊員は、攻撃の際に艦長の指示・命令を受ける(目標物・進撃方向など)とはいえ、本来潜水艦にとっては「お客様」です。
艦内居住で優遇されては居ても、艦の行動に口出しなどできる筈がありません。
しかし、川久保輝夫中尉(72期、2階級特進で少佐)は折田艦長と同郷(鹿児島)の出身でした。しかも中尉の兄の川久保尚忠少佐は、兵学校で折田艦長と同期だったのです。
尚忠少佐は昭和13年に支那事変で戦死してしまわれたのですが、兵学校生徒のころには折田艦長が良く川久保家に遊びに行っていたそうです。
輝夫中尉はその時まだ幼児で「エプロンをしてヨチヨチと歩いていた子供」(折田艦長)だったのです。
その幼子が、亡き友人の弟が、なんと「回天」の搭乗員として、特攻隊員として折田艦長のフネにやってきたのです。
決死の命令を下す者と受ける者として、これほど不適切な関係は無いでしょう。
回天隊員の人事を握っていた部署の単純ミスとしか言いようがありませんが、こんな関係だからこそ、艦長に向かって「オジさん」と呼びかけることが出来たのです。
これが伊藤中尉ら8名の筏乗員にとっては「もう一つの奇跡」となりました。
この川久保中尉の一言で、折田艦長は考えを翻したのです。8名を艦内に収容し、なんとしても祖国に連れ帰ってやろう、と。
こうして伊47潜水艦の「奇跡」が現実のモノとなりました。
戦果
筏兵8名を救助したのち、伊47はホーランディアに向けて進撃を続けます。
年も明けて、昭和20年1月12日。ホーランディア付近に到達した伊47は浮上して、村松実上等兵曹と佐藤勝美一等兵曹が甲板上から回天に乗り込みました。
その後、伊47は潜航し、川久保輝夫中尉と原敦郎少尉が艦内から交通筒を通って回天に移乗。
0316から0326の間に4基の回天全てを発進させた後、浮上して退避に掛かります。
0455、薄明のホーランディア方向には灰色の靄がかかっていましたが、そのベールを突き破るような大きな赤橙色の閃光が望見されました。
アメリカ側の記録では、0515にリバティ船「ポンタス・H・ロス」の左舷3番船倉に魚雷が命中。しかし命中角度が浅かったためか、この「魚雷」はココでは爆発せず、直径22cmほどの凹みを残しただけだったのです。
「魚雷」は海面上を滑って離れ、「ポンタス・H・ロス」の舷側を回りこんで船首前方右舷砲口に90m離れてから大爆発した、となっています。
折田艦長はその後沖縄への回天攻撃に出撃し、合計12名の、いや12柱の英霊に出撃命令を下しています。
その12柱とは
昭和19年11月20日「菊水隊(ウルシー)」
「仁科関夫」「福田 斉」「佐藤 章」「渡辺幸三」
昭和20年1月20日「金剛隊(ホーランディア)」
「川久保輝夫」「原 敦郎」「村松 実」「佐藤勝美」
昭和20年5月20日「天武隊(沖縄)」
「柿崎 実」「古川七郎」「山口重雄」「前田 肇」
の各英霊であります。
折田艦長によれば、「死の出撃」まえ、回天隊員たちは一人の例外もなく「伊47の武運長久を祈ります」との言葉を遺したそうです。
「一言でも、不満を漏らしてくれたら、私はどんなに楽だったか」
そう回想する折田艦長は「回天隊員はすべて神だった。輝夫も神でしたよ」とも仰っています。
余談になりますが、川久保輝夫中尉の兄弟のうち4人もが兵学校に進み全員戦死しています(文芸春秋昭和40年4月号)。
尚忠(兵学校59期)
二座水偵操縦員で水上機母艦神威分隊長。昭和13年5月16日厦門島偵察攻撃中に戦死、28歳。
三郎(67期)
呂117潜水艦の先任将校。昭和19年7月12日トラック島北西沖で戦死、27歳。
志朗(69期)
戦闘機搭乗員、戦闘301分隊長。昭和19年4月30日トラック島から敵機動部隊攻撃中に戦死、24歳。
輝夫(72期)
回天特別攻撃隊金剛隊員、昭和20年1月12日ニューギニア島ホーランディア攻撃で戦死、23歳。
この川久保家を戦後に尋ねた折田艦長は、兄弟の父上と面会。輝夫中尉を出撃させたことを報告するのですが、
「お前だからこそ、行かせてくれたのだ」
と、一言も責める言葉は無かったそうです。
英霊は、どこまでも日本人であります。ご奮戦に心より感謝申し上げ、合掌。
I?ve been browsing online more than 2 hours today, yet
I never found any interesting article like yours. It is pretty
worth enough for me. Personally. https://www.billieboutique.com/fc/denim/evase/