ロシアの英雄艦2~戦争は外交の延長~

ヴァリャーグ着彩

ロシア皇帝の方針で38度線より北じゃないと軍事行動できないのに、南の仁川に配置され、極東総督の無理解によって大日本帝国陸軍の上陸を攻撃できず、ロシア公使の見栄で港内から脱出できなかった巡洋艦「ヴァリヤーグ」と乗組員の運命は…

戦闘開始

「ロシアの英雄艦」の1はコチラ

圧倒的に優勢な大日本帝国艦隊に、
「出てこなきゃ、そこに居ろ。攻撃するからな。」
と脅されたロシア艦隊(「ヴァリヤーグ」「コレーエツ」のほかに、前日入港したばかりの商船「スンガリ」がいました)ですが、そのまま仁川港内に居座る手はありました。

前編で見てきましたように、この時点まで港の持ち主である「大韓帝国」はロシア艦隊に出ていけ、とも武装解除、とも言っていません。

この時よりず~っと後ですが。
第三帝国の「袖珍戦艦」が港外での自沈を選んだのは、逃げ込んだ港の主(ウルグアイ)が
「72時間以内に出てけ。」
と言ったからであります。

大韓帝国はそんな事を言ってませんし、それを言うだけの実力も、もちろんありません。

アドミラル・グラーフ・シュペーの最期

アドミラル・グラーフ・シュペーの最期

 

でも攻撃されたら、他国の軍艦に迷惑が掛かる?
いやいや、迷惑が掛かるかも知れませんが、掛けるのは大日本帝国の方で、ロシア側ではありません。

私がロシア艦隊を指揮する立場なら、英国艦のそばに3隻で移動して、取り囲んじゃいますね。何せ、イギリスは当面の敵「大日本帝国」の同盟国なんですから。

しかし、ロシア軍人は馬鹿正直でした。決して馬鹿にしてるんじゃありません。
ある意味、この時より後の大日本帝国なんて、軍人だけじゃなくて、政治家も国際的馬鹿正直になってしまったんですからね。
それは今に至るまで続いているような気もしますし。

ただ、この時は大日本帝国を代表してこの「戦場」に居る瓜生司令官以下は、十分な「国際感覚」を持っていました。

馬鹿正直なロシア(海軍軍人)と、真っ当な国際感覚を持っている日本、今の両国の関係とは真逆な関係であった、と言っては言い過ぎでしょうか。

ポートサイド港に停泊するバルチック艦隊

ポートサイド港に停泊するバルチック艦隊
大艦隊も「バカ正直」に来たよねぇ

 

さてさて「居直り」を諦めたロシア艦隊の行動は?と申しますと。

「ヴァリヤーグ」は「コレーエツ」を守るような態勢で八尾島に向かい、商船「スンガリ」が2艦に続航。

仁川港から黄海に出るには必ず八尾島の南を通らないといけないそうなんです。この航路をはずれると暗礁があって危険。

しかし「ヴァリヤーグ」は大日本帝国艦隊を避けるためか?八尾島の東手前で北に進路を取り始めました。

ギャラリーの誰もが
「ああああああああ!」
と思っている(かどうか、儂ぁ知らんけど)と「ヴァリヤーグ」も浅瀬に気づいたようで反転、南側の航路に戻ります。

「ヴァリヤーグ」が八尾島の南にさしかかったのは午後0時20分ごろ。
このとき「浅間」の20cm45口径連装砲が火を噴いたのであります。

巡洋艦浪速

巡洋艦「浪速」

 

砲声は遠く漢城にまで轟きました。
おりからお食事中だったロシアのパブロフ公使のご夫人が、あわてて窓から庭に飛び出しちゃった、って程の轟音だったとか。

帝国海軍軍令部の編纂した「明治37、8年海戦史」には、この海戦について次のように書いてあります。

「この日天朗に気清くして南東の微風あるも波濤起こらず。コレーツはワリヤーグの左舷に位置して0時15分には彼我の距離7000 ㍍に接近せしをもって浅間は敵を左舷に見、その前路を横断しつつ同20分ワリヤーグに向かい轟然砲火を開き、敵も直ちに応戦し、次いで浅間は右方に旋回し敵を艦首に置きて猛撃を加え、千代田は専らコレーツに当たり、浪速、新高もまた砲火を交え、高千穂、明石は機をみて援射を試み(中略)敵は損害甚だしきものの如く、艦体著しく左舷に傾き火焔に包まれつつ仁川錨地を望みて遁走し、コレーツもまたこれに従へり。1時15分に至り仁川錨地に近づきたるをもって浅間は発砲を止めて進路を反転し、諸艦艇相前後してフィリップ島付近に到り第9艇隊(水雷艇)の3隻も港口付近より来会せり。この一戦敵弾の命中するものなく我は寸害も被らず(注:フィリップ島は八尾島の西5.5キロにある円錐形の小島)。」

読み難い上にえらく簡単な記述ですね。

それに対してロシア帝国海軍軍令部は、けっこう詳細な記録を残しているようです。私はロシア語が(も、だけどな)読めませんので、秋山代治郎氏の著述を参考にして開戦の情況を追ってみましょう。

下瀬砲弾

ロシア海軍軍令部編「1904・5年露日海戦史」によりますと「浅間」の最初に放った一弾が「ヴァリヤーグ」の艦橋に命中しているんですね。

ヴァリヤーグの艦橋

ヴァリヤーグの艦橋

 

この砲弾が、ロシアにとって不幸なことに「ヴァリヤーグ」の第一測距所を破壊してしまいます。
測距担当将校のニロード少尉(伯爵)と測距手1名が即死し、他の3名の測距手が重傷。
測距所は5名の担当将兵を失って機能を喪失しました。

測距所は言うまでもなく、敵艦との距離を正確に測定し、砲手に対して砲撃データを供給する重要部署です。そこの担当5名全員が死傷し、測距装置も破壊され(たぶん)て、まったく機能を発揮できなくなったのです。

コレが初弾だったことは、ロシア艦隊にとって途轍もない痛手となったことは想像に難くありませんね。

帝国艦隊軍令部の言う「この一戦敵弾の命中するものなく」と言うのも頷ける次第です。

ついでに申し上げときますと、戦闘のみならず歴史上の事象ってのはこうやって
「双方の記録を突き合わせて、事実の確認を取りながら」
見極めていかねばなりません。

最近、突拍子もない珍説(説って程でもなかったりしますし)をもてあそぶ方がいらっしゃいますが、根拠がたった一本の新聞の片隅に載った「政府発表」で、その一方的に偏った解釈だったりします。
それはそれで、自己満足になるから良いっちゃ良いのですが「戦訓」は汲めません。

閑話休題

「ヴァリヤーグ」の損害は測距所にとどまりません。航海長室から火災が発生し、弾丸の破片は甲板上のボートや機器類を目茶苦茶にします。
それでも砲手たちは、第二測距所からのデータ(メインの測距儀より小さいため、正確性に劣ります)で反撃を開始したのですが。

有効弾を得る前に「浅間」の第二弾が「6インチ3番砲」を直撃、砲手全員と弾丸運搬員が即死。砲長のグボーニン少尉は膝を骨折する重傷を負います。

しかし勇敢かつ職務に忠実な少尉は、出血多量で失神するまで持ち場を離れなかった、とされています。

対馬

巡洋艦「対馬」

 

「浅間」以外の日本艦船も砲撃を開始し「ヴァリヤーグ」には砲弾が次々に降り注ぎます。
大日本帝国海軍の砲弾は、海軍技手(技官/軍人ではなく、軍属です)の下瀬雅允が開発した特殊火薬を充填しています。

「下瀬火薬」であります。下瀬火薬の「正体」は純粋ピクリン酸です。
ピクリン酸の爆発力が大きい(爆速が早く、その温度も高い)ことは以前から知られていたのですが、酸化力が大変に強い。
それで砲弾にピクリン酸を充填すると、素材の鉄と接触して自然発火する危険があり、世界中のどの国でも「軍用」としての使用は出来ていなかったのです。

下瀬技手は砲弾の内側に漆を塗り、ピクリン酸を充填しても鉄と接触しない仕組みを考案し、この問題を解決したのです。

下瀬「火薬」とは言われますが、実際のところは下瀬「砲弾」と言うべきでしょうね。あるいは「下瀬式爆薬充填法」とか。

大日本帝国海軍は日露戦争の前年、この砲弾を採用していました。
「ヴァリヤーグ」に撃ち込まれた下瀬砲弾は、たちまちのうちに6 インチ砲4門、3インチ砲5門、47ミリ砲4門を破壊しただけでなく、第二測距所も使用不能としてしまいます。

下瀬砲弾が炸裂すると3000度もの高温を発しますから、甲板上のボート(木造)はもちろん、鉄板に塗ってあるペンキまで燃えあがり、ロシア水兵は消火に追われてしまいます。

多くの将兵も死傷し、司令室(おそらくコレは「司令塔」のことでしょう)にいたルードネフ艦長も、砲弾の破片で頭部を負傷。艦長の負傷とほぼ同時に、操舵室も被弾して手動操舵のやむなきに至ります。

回避もままならぬ「ヴァリヤーグ」は午後0時50分ごろ、左舷喫水線下に命中弾を受け、石炭庫から浸水が始まりました。

下瀬雅允

下瀬雅允

 

艦は左に傾き始めます。
ルードネフ艦長はついに脱出も抵抗も断念し、仁川港に引き返すことにいたしました。

傷つきつつも、なお「コレーエツ」と「スンガリ」を庇うかのよう従えて港に引き返す「ヴァリヤーグ」に、大日本帝国艦隊も砲撃を中止。

戦闘はわずか1時間ほどで、帝国艦隊には何度も申しますが、一発の命中弾もありませんでした。
発射した砲弾は日本側が415発に対して、ロシア側は1105発。
初弾による測距所の破壊が、これほどの差をもたらしたのでしょう。

自沈

ロシアの3艦は仁川港の、以前に停泊していた錨地に戻ってきましたが、「ヴァリヤーグ」の姿は眼も当てられないほど変わり果てていたようです。

「その道のプロ」の水兵さんたちさえビックリしたほどで、4本の煙突は無惨にも崩れ落ち、甲板は焼けただれ、あちこちでまだ火が燻ぶり続け、艦は左に20度ほども傾いていました。

人員の損害も大きく、将校1名と下士官・兵31名が戦死。ルードネフ艦長を含む士官6名と下士官・兵85名が重傷、100名以上が負傷。

浅間に砲撃されるヴァリヤーグ

浅間に砲撃される「ヴァリヤーグ」

 

「ヴァリヤーグ」は、誰がみても戦闘を継続できる状況ではありませんでした。
イギリス艦「タルボット」のベイリー艦長が、艦を寄せて短艇を降ろし「ヴァリヤーグ」に乗り込んで、乗組員の救済を申し出ます。

ルードネフ艦長はこの「助け舟」に謝意を示し、「ヴァリヤーグ」の乗組員は「タルボット」に移乗。

フランス艦「パスカル」とイタリア艦「エルバ」もこの救助作業に参加し、「パスカル」は「コレーエツ」の乗組員を収容。さらに「スンガリ」に接舷し乗組員だけじゃなく貨物も載せ替えています。

救出作業が終わると、ルードネフ艦長はベイリー艦長に
「敵国海軍に拿捕されるのは避けたい。この場で自爆で沈したい」
と告げました。

しかしベイリー艦長は難色を示します。急遽「艦長会議」を招集し、
「ヴァリヤーグのような大艦が爆発したら、狭い港内で多くの艦船に影響が及ぶ」
とか屁理屈を付けて、ルードネフ艦長に
「爆破ではなくキングストン弁を開いて沈める」と約束させました(「コレーエツ」は艦体がそんなに大きくないので、協議の対象になっていません)。

コレーエツ1900年撮影

コレーエツ1900年撮影

 

午後4時2分、「コレーエツ」は大音響とともに爆発沈没しました。
もちろん自爆です。その爆風は凄まじく、沈みゆく「コレーエツ」からは多くの書類が舞い上がりました。

「コレーエツ」が爆発すると、「ヴァリヤーグ」も自らキングストン弁を開き、念のために火が付けられました。
「スンガリ」にも同様の措置がとられています。

2隻の艦船は盛大に炎をあげながら徐々に沈みはじめ、午後10時には着底。

ココにロシア帝国が大韓帝国に「影響力」を及ぼすために仁川港に配置していた小艦隊は、大日本帝国の邪魔をすることが出来なくなったのであります。

コレーエツの爆破

コレーエツの爆破

 

数千人もの日本人居留民が、高台に登ったり、屋根に上がったりして、朝から戦況を見守っていました。

ロシア艦隊がボコボコにされて帰ってきたのを目の当たりにしたのですが、帝国艦隊の方にも大損害が出たんじゃね?と言う声もあって、ギャラリーの心配のタネは尽きず。

午後11時ごろ、やっと瓜生外吉司令官から仁川の領事館に

「本日の海戦に日本艦隊は些少の損害もなく、兵員にも一人の死傷なし」

と連絡が入り、心配する市民にも知らされて、歓呼の声が沸き上がりました。

自沈するにも、救助するにもワケがある

「仁川沖海戦」の顛末は以上です。

ですが、電脳大本営的には「その後」の顛末の方がずっと面白いんであります。その話をする前に、「なぜ自沈か」を書いておかねばなりません。
まあ、想像はおつきになるでしょうけど。

まずは、これ以上の(無駄な)戦闘を避けて、乗員の生命を救うため。
降伏すれば良さそうなモノですが、それだと「ヴァリヤーグ」の艦体は敵に拿捕されてしまいます。

自分たちは助かり、敵の海軍は強化される…コレは「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長のような、勇敢な「海の男」には耐えがたい屈辱でしょう。

干潮時は横転

「ヴァリヤーグ」は着底 (干潮時は横転したようです)

 

そして港内は浅い。ただ自沈したら敵(大日本帝国)が引き揚げて、降伏と同じ結果になるでしょう。

と言うワケでルードネフ艦長は「自爆」を希望したんです。
大日本帝国の同盟国(大英帝国)は、何とか日本の艦隊を強化してやりたいから、屁理屈で自爆を止めるんです。

一方、フランスはロシアの同盟国ですから、ベイリー艦長の行動にちゃっかり相乗りして、「スンガリ」の荷物をせしめちゃってます。

「ヴァリヤーグ」は大破の状態で仁川港内に放棄されますが、帝国海軍は浮揚を計画、明治38年8月に浮揚に成功し、「宗谷」と命名して二等巡洋艦に編入されました。

ヴァリャーグ引き上げ工事

「ヴァリャーグ」引き上げ工事

 

明治38年8月ですからね。さらに修復工事が行われ、「宗谷」が就役したのは明治40年11月。日露戦争はとっくに終っています。

ベイリー艦長の策謀にも負けず、ルードネフ艦長の執念が日露戦争中の就役を阻んだんでしょうね(笑)

こんな点が評価されたのでしょうか?「敗軍の将」であるルードネフ艦長に対する故国の評価は、大変高いモノでした。

ペテルスブルグに帰り着いた艦長は、思いがけなくも民衆の歓呼で迎えられたのです。
皇帝ニコライ2世は

「劣勢と判っていたのに、敢然と立ち向かったのは武人の鏡である」

としてゲオルギー勲章を授与したばかりか、艦長を侍従武官に任命したのです。
大日本帝国においても、誠実な軍人として評価が高く、1907年に明治大帝から旭日重光章を賜っています。

「宗谷」は不滅なのだ

「宗谷」は、就役後はもっぱら練習艦として使用されました。

浮揚したヴァリャーグ

浮揚した「ヴァリャーグ」

 

戦列に加わらなかったのは、帝国海軍では珍しい「米国式」である上に、同型艦がなくて運用が難しかったためでしょう。

ただ、流石に「元ロシア海軍」のフネとは「相性」も良かったのか?

明治42年3月から元露海軍の巡洋艦「バヤーン」であった、一等巡洋艦「阿蘇」と練習艦隊を編成して、ハワイ・北アメリカへ少尉候補生の遠洋航海訓練を行っています。
「宗谷」はこの遠洋航海訓練に大正2年までずっと使われています。

やがて欧州で第一次世界大戦が始まりました。
大日本帝国とロシア帝国はたいへん良好な関係が続いています。「雨降って地固まる」ですね。

帝国は同じ「連合国の一員」であるロシアを支援するために、日露戦争で分捕ったフネをロシアへ返してあげることにしたのです。

防護巡洋艦「宗谷」

防護巡洋艦「宗谷」

 

「宗谷」もその一隻に選ばれました。

大正5年4月に帝国海軍籍から除籍され、ウラジオストクまで航海して、ロシア帝国海軍へ引き渡されました。

「明き番」になった宗谷のネーミングは、それから暫く(なんと30年近く)空きっぱなしでした。
昭和15年に至ってかなり複雑な経緯を経て(素直に海軍の予算で作ったフネじゃない、って意味です)、「宗谷」と名付けられた2代目は戦後も活躍を続けることになりますけど。

ボロチャエベツの進水

ずっと後に我が国の南極観測船になる、「ボロチャエベツ」の進水

 

それはさておきまして。ロシア海軍は艦名を「ヴァリヤーグ」へと戻しています。

「ヴァリヤーグ」は大正5年6月には「北氷洋小艦隊」の司令官旗を掲げてウラジオストクを離れ、11月にロマーノフ・ナ・ムールマネ(後のムルマンスク)へ到着しています。

その後、「ヴァリヤーグ」は修理のためイギリスへ赴くのですが、同年11月にロシア革命が起きてしまいます。
帝政を打倒した「ソヴィエト政府」は修理代の支払いをケチったためもあって、「ヴァリヤーグ」は英国に抑留され、曳航中にアイルランド沖で座礁してしまいます。

その後引き揚げられ、大正9年にスクラップにするため、ドイツに売却。
ドイツへの曳航中(係留中に、との説もあり)、今度はスコットランド沖で座礁し、大正12年から3年ほどかけて現地で解体され、この世から姿を消してしまいました。

ミサイル巡洋艦ヴァリャーグ1991

ミサイル巡洋艦「ヴァリャーグ」1991年撮影

 

ただ、ロシア国民はこの巡洋艦がなぜか大好きだったようです。

私たちのような「大海軍」を持った経験が無いからでしょうか?
ロシア帝国海軍軍人の勇気と男気を証明した点を除けば、大した戦績もない「ヴァリヤーグ」の名前を、次々と新鋭艦に付けてやるのです。

まず、1965年に就役したキンダ級ミサイル巡洋艦の4番艦。コレがヴァリヤーグの2代目です。

支那空母遼寧(ヴァリヤーグ)

支那空母遼寧(ヴァリヤーグ)

3代目が有名な「空母ヴァリヤーグ」ですね。ソ連の類別だと「重航空巡洋艦」(こういう、前時代的大袈裟名称って素敵ね)って言うらしいんですけど。
で、建造途中に母国ソ連が崩壊して所有権がウクライナに移り、Chinaに身売り。

技術不足のChina海軍は、「空母ヴァリヤーグ」を、たいそう時間を掛けて「なんちゃって空母」として完成させようと努力するんですが、結局「自慰(示威とも)用練習空母・遼寧」にしかなりませんでした。

ロシア海軍は、この「重航空巡洋艦」の代わりに、スラヴァ級ミサイル巡洋艦の3番艦「チェルヴォナ・ウクライナ」を名称変更。
コレが4代目「ヴァリヤーグ」と言うことになります。

4代目「ヴァリヤーグ」は今も現役で、近代化改装も予定されてるみたいです。

さらに2007年には、元祖「ヴァリヤーグ」の座礁地点にほど近い、スコットランドのレンダルフットと言う所に、ロシアの海軍ヨイショ団体の音頭取りによって記念碑を建設。

元祖の「功績」を他国の地で顕彰し続けています。

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