ロシアの英雄艦1

防護巡洋艦ヴァリヤーグ1901

日露戦争の口火を切った仁川沖海戦。結果を見れば大日本帝国海軍の完勝だったのですが、ロシア側にも一隻の「ヒロイン」が産まれました。

宣戦布告前の攻撃

仁川沖の海戦は、Wikiによれば
『(1904年)2月8日午後、仁川港に接近した瓜生艦隊は出港してきたコレーエツと遭遇、日本の水雷艇が魚雷3本を発射しコレーエツも発砲したが共に損害は無かった。これは日露戦争の全てにおける最初の戦闘であるが、先に攻撃したのがどちらであるかははっきりしていない。』

ってな事が発端でありまして。
瓜生艦隊はこの戦闘によって、護衛してきた2200名の陸兵を上陸させることに成功。
続いてロシア艦2隻に港外へ出てくるように要求します。出てこなければ港内で攻撃する、との脅し付き。

2隻のロシア艦は、種々の事情で(コレを書かないと海戦の意味が良く判らないのですが、Wikiには記述がありません。電脳大本営はちゃんと書きますけど、もうちょっと後でね)仁川港を出撃せざるを得ず。

港外で瓜生艦隊にボコボコにされ、なんとか仁川港に逃げ込んで乗員を下ろして自沈した…

まあ、戦闘だけを書きますと、こんなところなんですが。

日露戦争の戦場

 

大日本帝国がロシアに宣戦したのが2月10日でありますので、何かとイチャモンを付けるパヨの輩が、沸いて出る戦いでもあります。

そのあたりは、別の記事で詳しく書くといたしまして、ココでは「ハーグ平和条約の締結は1907年だよ。」とだけ申し上げておきましょう。
電脳大本営の読者の皆様のご参考までに、当該条約の第1条は

「締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざることを承認す」

でありまして、コレが「宣戦布告してから攻撃しなきゃイカン」とか言う、お馬鹿説の唯一の根拠(と電脳大本営は判断しております)なんであります。

巡洋艦千代田絵葉書

巡洋艦千代田(絵葉書)

 

で、この時の仁川港には、ロシアの巡洋艦「ヴァリヤーグ」と砲艦「コレーエツ」だけじゃなくて、大日本帝国の巡洋艦「千代田」・イギリスの「タルボット」・フランス艦「パスカル」・イタリアの「エルバ」・アメリカの「ヴイックスボルグ」と言った戦闘艦が停泊していたのです。

開港地

仁川港に、なぜこんなにたくさんの「外国艦」が同時に停泊していたのか?
この現象は日露戦争や当時のKorea半島の情況を良く表しているように思われます。

ちょっと説明させて頂きます。

李氏朝鮮は、長く清朝の冊封体制下にありました。半島の人がどう思ってるかは、私の知るところではありませんが、
「清の皇帝によって、領土を与えられてそこに封じられた存在」
であります。当然、独立国ではありません。

この状況は日清戦争の結果で変更されました。
大日本帝国が、清帝国の軍事力を朝鮮半島から駆逐してしまったので、李氏朝鮮が独立することが出来たのです。

実際のところ、李氏朝鮮は独立することがイヤだったみたいで、大日本帝国が「大韓帝国」って名前を付けてやり、脅したりすかしたり、スッタモンダがありました。

仁川の日本人居留地

 

まあ、でもちゃんと独立してくれないと、大日本帝国の西部と、半島は近いので困るんですよね。
北の方の大勢力の出撃地になったりする恐れが…

ってことで、何とか独立国になった(して貰った)「李氏朝鮮改め大韓帝国」は、開港場を3か所ほど定めておりました。
それぞれ、外国人の居留地付きです。
(実際には李氏朝鮮の「開国」と仁川の居留地設置は1883年ですので、日清戦争前ですけどね)

そのうちの一つが仁川港だったのです。

まあ、そういう事でエゲレスやおフランスやイタ公やロスケ(いにしえの愛情こもった呼び方をしてるだけで、「差別」意識は一切ありませぬ)の居留民(貿易商といえば聞こえが宜しい)が住んでおりました。
最大勢力は大日本帝国の臣民ですけど。

今現在と違って、「判り易き良き世界」であった当時の事でありますので。
この半島みたいに「超汚染」地域であっても、各強国ともに「行くなら自己責任ね」なんてケチ臭い事は言いません。

帝国に併合してもらう前のソウル南大門通り

 

世界の東の涯の超・汚染半島であっても、自国民がいれば実力で保護するんです。実力とは物理的な力って事でっせ、もちろん。

各国の軍艦が仁川港に居たワケですね。

で、このうちの大日本帝国から来ている居留民たちは、大きな不安に襲われていました。明治37(1904)年2月8日の朝の事であります。

ロシア巡洋艦「ヴァリヤーグ」

大韓帝国の支配権を巡って、日露の対立が先鋭化してるって言うのに、港内にいるはずの帝国巡洋艦「千代田」の姿が見えなくなっていたのです。

「千代田」は三等巡洋艦で、2439トンしかありません。
ロシアが仁川港に配置している巡洋艦「ヴァリヤーグ」は6500トンもあるんですが、それでも「千代田」が港内に居るってことは、大きな安心感を与えてくれていたのです。

日本居留民の間では、「ロシア艦隊が攻めてくる」と言う噂も流れたそうです。

日本とロシアはこの時点までに、半年以上も外交交渉を続けていました。
ですがロシアは強硬な姿勢を崩さず、大日本帝国は2月6日に国交断絶を通告していたのです。

1936の南大門通り

帝国の一部にして頂いた後(1936)の南大門通り

 

通告と同時に、連合艦隊は佐世保から出撃。

連合艦隊の主力は旅順に向かいましたが、瓜生外吉中将指揮の第四戦隊(巡洋艦「浪速」「高千穂」「新高」「対馬」+新鋭艦「浅間」+水雷艇8隻)だけは別行動をとります。

第四戦隊は、木越安綱少将率いる第二三旅団の将兵2200名を乗せた輸送船3隻(「大連丸」「小樽丸」「平壌丸」)を護衛し、超・汚染半島に上陸させるために仁川へ向かったのです。

瓜生司令官は仁川在泊の「千代田」(村上格一艦長)に対して、
「湾外のベーカー島付近で8日午前8時に合流せよ」
と指示しました。

村上艦長はアタマを抱えちゃいます。
狭い港内にはロシアの巡洋艦「ヴァリヤーグ」と砲艦「コレーエツ」が一緒に停泊しているのです。

「千代田」が動き出せば、すぐに気付かれるでしょう。

両艦に悟られないで「千代田」は出港することが出来るのか?
命令するだけの奴は良いよなぁ、と村上艦長が思ったかどうか、定かではありませんが、時間だけは艦長の味方だったようです。

因みに、村上艦長は後に大将まで昇進して、海軍大臣にまでなってますから、ホントはもっと素直だったかも知れません(笑)

村上格一大将

村上格一大将

 

村上艦長は6日のうちに同盟国・大英帝国の巡洋艦「タルボット」の陰に「千代田」を移動させました。

「ヴァリヤーグ」からも「コレーエツ」からも死角になる位置です。
その位置に移動してしばらく。
7日の午後11時30分、音を立てないよう注意しつつ、そっと出港したのです。

「鞭声粛粛夜過河(べんせいしゅくしゅく・よるかわをわたる)」でありますな。いや、「夜出港(よるみなとをでる)」だな(笑)

ただ、これに続くのは「遺恨十年磨一剣・流星光底逸長蛇」なんです。信玄公を取り逃がしちゃうんですね。
しかししかし!なんと第四戦隊と「千代田」は長蛇を逸せず、不識庵(謙信公)以上の「戦功」を収めちゃう事になります。

鞭声粛々

鞭声粛々

 

「千代田」はロシア艦に見つかることなく出港し、瓜生中将の指令どおりの8日午前8時、第四戦隊と合流することに成功します。
村上艦長は、さっそく瓜生司令官に面会し、仁川の状況を報告しました。

「第二三旅団は仁川に上陸可能であります。」

瓜生司令官は第二三旅団を牙山(超・汚染半島の地名)か、牙山がヤバいときは、もっと南の路梁津に上陸させるよう指示されていました。

その状況で、村上艦長は仁川に上陸させるべきである、と進言したのです。
第二三旅団の任務はまず漢城の支配を確立し、大韓帝国の首根っこを押さえちゃう事です。うまく運べば、鴨緑江の線までの制圧。

そのために、漢城から遠い牙山や路梁津ではなく、直近の仁川に上陸した方が好都合です。
ただ、ソコはロシアも警戒しています。警戒のための2隻配置、それも一等巡洋艦ヴァリヤーグです。

大日本帝国はこのために「仁川上陸」を危険とみて諦めていたのですが、村上艦長は、「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長の性格や行動様式をよく観察していました。

時には一席設けて一晩飲み明かしたりして、海の男の友情を育みつつ、「有事に際して、コヤツは積極的に動くか?」などを探っていたのです。

その上で、ルードネフ艦長は大陸国ロシアの人ながら、立派な海軍軍人である、と村上艦長は見抜きました。
立派過ぎて、他国の軍艦も居る港内では戦闘行為に及ぶまい…

こういう所が後輩たる昭和の海軍軍人には欠けていましたね。たいへん残念なことです。

開戦

瓜生外吉少将は、村上艦長の進言で「仁川上陸」を決断します。

瓜生外吉

 

「千代田」を先頭に、「高千穂」「浅間」が進路啓開。
その後を2200名の将兵を乗せた輸送船3隻。輸送船の両脇は8 隻の水雷艇が防御を固め、後衛に瓜生司令官座乗の旗艦「浪速」と「明石」「須磨」が続きます。

第四戦隊の第一の目的は木越旅団の2200名の兵士を無事上陸させること。
そのためには仁川港に在泊するロシアの巡洋艦「ヴァリヤーグ」と砲艦「コレーツ」が邪魔でした。
特に「ヴァリヤーグ」には600人以上の陸兵が乗っており、仁川に停泊しているだけで木越旅団にとっては脅威です。

防護巡洋艦高千穂

防護巡洋艦高千穂

 

ロシアの両艦を撃破することは、瓜生戦隊の隠れた目的でした。第4戦隊参謀を務めていた森田慶三郎中佐(のち海軍中将)は、ある懐旧談のなかで
「我々が最も心配したのはロシアの二隻の軍艦に逃げられるのではないかということだった」
と述べておられます。
明治海軍の軍人も「陸兵の輸送援護」より、海戦での勝利に焦点を当てていたのでしょうか?

しかし第四戦隊は、山本権兵衛海軍大臣から、
「中立港である仁川港内では国際問題になりかねぬ、攻撃してはならない」
という命令が出されていました。この命令を屁理屈こねずに、ちゃんと守るのが明治海軍の偉いところでして。

第四戦隊の先頭を行く「千代田」が、仁川港の西側13キロにあたる八尾島にさしかかったのは2月8日15:30ごろ。
港内から「コレーエツ」が出てきて「千代田」とすれ違います。

森田参謀が恐れていた「事態」が起きようとしています。

「コレーエツ」の甲板上には、国際儀礼に従い衛兵が整列していました。
「千代田」側も急いで衛兵を甲板に並べます。両艦は100メートルの距離まで接近。

すれ違った所は仁川港内か港外が微妙な場所でした。
「コレーエツ」が八尾島の南を通過し外洋に出た付近で、第4戦隊の水雷艇が取り囲み、行く手を遮りました。

このとき「日露間で最初の交戦」が起きたのです。

どちらが先に発砲したのか?は諸説あり判然としません。が、双方が発砲した事は間違いありません。

隼型

隼型水雷艇
瓜生戦隊に属していたのはこの型

 

ロシアの戦史では日本側がまず砲撃を開始し、「コレーエツ」が応戦したと書いてあるようです(私は一つも直接読んでませんが)。

日本の公式の戦史(「明治 37、8 年海戦史」)には記述がありません。
でも水雷艇隊の指令艇だった「蒼鷹」の機関将校の吉崎徳一郎氏の手記が残っています。
この手記によれば

『4艇これ(コレーエツ)を挟みて逐還せり。この時に当たりて敵はついに砲火を開きたり。これ即ち日露戦争の濫觴なり。時あたかも2月8日午後4時過ぎなり。わが司令艇は未だ戦闘旗を掲げざりしも、ことここに至りてはやむなく帆柱高く戦闘旗を翻し、僚艦これにならい「雁」などから魚雷2発を発射すれど命中せず』

となっていまして、ロシア側が先に発砲した、となっています。

こういう時に参考にすべきは第三者の見解です。
「大英帝国国防委員会戦史部」がロンドンで発行した「公刊日露戦史」には

「コレーエツではいったん浅間に対して礼砲を撃つという命令が出され、それが取り消されたが、取り消し命令が誤解され2発の弾丸が発射された」

との一文がありまして。となれば最初に発砲したのはロシア側。まあ、同盟国ですからねぇ、参考程度にしかなりませんが。

1901デラウェア川のヴァリャーグ

1901のヴァリャーグ
建造されたアメリカ・デラウェア川で撮影

 

砲撃戦は「コレーエツ」が方向転換して仁川港に戻る姿勢をみせたため、すぐに終了。
瓜生艦隊は「コレーエツ」を抱きかかえるように(上述手記の「4艇これを挟みて逐還せり」)して仁川港に入港いたします。8日の17:00でありました。

居留民も協力

2月と言ってもまだ午後5時でありますから、旭日旗を掲げた艦隊の入港は、日本人居留民の目にハッキリと判ったはずです。

なにせ、ロシア艦隊がやってくるという噂が流れたほど、不安に苛まれていたのに、ロシア艦隊の代わりに大日本帝国の艦隊が出現したのです。

瓜生艦隊は港内に入ると「千代田」と「高千穂」を分派して、ピッタリと「ヴァリヤーグ」のそばに停泊させます。
さらにその内側を4隻の水雷艇が取り囲みました。

艦首からヴァリヤーグの艦橋を望む

 

残りの「浪速」などの艦隊主力は、港内を一周する示威行動のあと、八尾島の西に停泊。ロシア艦が逃げだせないどころか、身動きも取らせない態勢です。

そうした処置の後、3隻の輸送船は「ヴァリヤーグ」の横を通って岸壁に接近。
輸送船には、港で上陸できないことを勘案して、それぞれ平底の大型ボートが5隻ずつ積んであります。

岸壁から100メートルほどで停止すると、すぐにそのボートを使って木越旅団の上陸が始まりました。
あたりは暗くなりかけていましたので、居留民たちは総出で篝火を焚いて上陸を支援します。

それでも2200名の全員が上陸し終えたのは、日が変わって9日の午前3時。
この間、「ヴァリヤーグ」の乗組員たちは甲板から唖然と見守るばかりだったのです。

ロシア側の事情

日本では新聞で「見事な敵前上陸」などと評されるのでありますが、別にロシア軍が陸上で待ち構えていたワケではありません。

石炭搭載作業

ヴァリヤーグへの石炭搭載作業

 

ロシア皇帝ニコライⅡ世は
「日本兵が北緯38度線の北に上陸する場合は徹底的に攻撃せよ。南側だったら抵抗するな」
との方針を示していたのです。

この訓令を受けた極東総督のアレクセーエフは、38度線の南の仁川に停泊する「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長に対し、
「日本が兵を上陸させても妨害してはならない」
と命令していました。

そればかりではありません。

巡洋艦「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長は、フランス・イタリア・イギリス各国の艦長から、「日露国交断絶」の情報を聞きだしていました。
6日には駐韓のパブロフ公使と会って大日本帝国の巡洋艦「千代田」が出港準備をしていることを報告。
バレてたんですね(笑)

艦長は「ヴァリヤーグ」と「コレーエツ」を仁川から退避させるように提案しました。
しかしパブロフ公使は「国家の威信にかかわる」として反対しています。

いったん艦に戻ったルードネフ艦長でありますが、翌日には
「スピードが早いヴァリヤーグは日本艦に対抗できますが、コレーエツには無理なので退避させるべきです。」
とふたたびパブロフ公使に進言します。パブロフ公使も
「ヴァリヤーグが残るなら」
と今度は了承。

そこでルードネフ艦長は「コレーエツ」を旅順めがけて出港させたのでした。
「コレーエツ」にとって不幸なことに、港外に出るか出ないかで瓜生艦隊に遭遇してしまい、前述の経過となったモノだったのです。

外交と嘘

港内に戻った「コレーエツ」のベリヤーエフ艦長は直ちにルードネフ艦長に戻ってきたいきさつを報告。
ルードネフ艦長は各国軍艦の艦長に、日本へ抗議するよう要請します。

イギリスなど4国の艦長は集まって相談し、最先任の英国艦「タルボット」のベイリー艦長を代表として「高千穂」の毛利一兵衛艦長を訪問。

防護巡洋艦タルボット

大英帝国海軍防護巡洋艦「タルボット」

 

さきに登場願った森山慶三郎少佐の懐旧録によると、以下のような会話が交わされたことになっています。

「ここは中立港である。われわれ第三者に損害を与えるような行動はなさらぬように。」
「私は『陸兵を無事上陸させろ』という命令は受けていますが、『敵対行動を取れ』という命令は受けていませんよ。そんなことをするはずがありません。」
「コレーエツに対する行為をどのように説明されるのか?」
「何もしていません。砲撃した?そんなことは知りません。」

「砲撃」は「高千穂」と「コレーエツ」がすれ違ってから後の出来事ですからね、毛利艦長が知らないと言い張っても通ったんです。
しかし、ホンマに知らなかったら、外国艦と戦闘行為に及んだのに、報告しない、と言うそれこそ近代国家の軍隊としてはあり得ぬ事態です。

毛利艦長の嘘つき(笑)。
ってか、なんで司令官じゃなくて「高千穂」艦長を訪ねるか?そりゃ、あなた。同盟国ですから。

いや、国家の都合のために適当な嘘をつくのは、軍人の任務のウチです。適度な嘘ならね。相手もそのつもりだし。

私たちは近隣3ヶ国の「超絶嘘つき」に慣れ過ぎてしまって、「嘘つき=悪」と思い込みがちですが、毛利艦長程度の嘘は外交では常識であります。

1900建造中のヴァリャーグ

アメリカで建造中のヴァリャーグ

 

って言いますか、こういう「多少の嘘」はちゃんと織り込んで交渉をしなきゃいけません。
この時だって、英国艦「タルボット」のベイリー艦長は「騙されてる」ことは(喜んで)百も承知だったことでしょう。

砲撃の件はこのままウヤムヤになってしまいました。

「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長は大陸国ロシアの軍人のくせして、「良き海の男」過ぎたのでしょう。
大英帝国が「母国の敵国」の同盟国であることや、英国艦の艦長が在泊艦の中で最先任であることを忘れてたんでしょうか?

ともあれ、仁川に上陸した木越旅団2200名は、大韓帝国政府を日本側に立たせることに役立ち、鴨緑江まで北上する展望を開いていくのですが、海上でも…。

瓜生外吉司令官は、木越旅団の全員が上陸し、日本の輸送船が全て港外に出たのを見届けると、やおら「ヴァリヤーグ」への最後通告を書き始めました。

覚悟

「日本とロシアは事実上交戦状態になっています。貴官は麾下の軍艦を率いて2月9日正午までに仁川港を出港されよ。
港を出て来ない場合においては、中立港内ではあっても、その位置に攻撃を加えることになります」

という内容。

同時に、各国の艦長あてに「ヴァリヤーグ」への通告の概要を知らせる書面も作ります。このあたり、流石に明治海軍で艦隊司令官にもなる人は抜かりがありませんね。
さらに
「ロシア艦への攻撃は午後4時以降とするので、中立国の軍艦は安全な錨地に移動してもらいたい」
との勧告状も添付。

砲艦「コレーエツ」1904年撮影

 

瓜生司令官はアメリカのアナポリス海軍兵学校に留学していましたから、英語で書くのに苦労は無かったでしょう。
書き上げた書面は、自分で持って行ったりはしません。加藤本四郎領事に、午前7時までにロシアと各国の軍艦に届けるよう依頼します。

この最後通告は加藤領事→各国領事館→各国軍艦と言うルートで送達されたようです。

「ヴァリヤーグ」のルードネフ艦長は、午前11時にロシア領事館から通告を受領。
コレを受けて各国軍艦の艦長に
「出港にあたり、ロシア艦と同道してもらいたい」
と要請します。他国の軍艦と一緒なら日本艦隊は攻撃できないだろうと考えたんですね。

しかし各艦長は
「交戦国の一方(ロシア)に加担すれば、もう一方(大日本帝国)から敵対行為とみなされて攻撃される恐れがある。」
としてルードネフ艦長の要請を断り、
「ココは日本に降伏した方が良い。」と勧めたりします。

ルードネフ艦長には、もちろん降伏と言う手はありました。
しかし、何度も書きましたように、艦長は「善き海の男」だったのです。男過ぎるくらい、誇りと愛国心に満ちた軍人だったのです。

部下を集めると
「武人として降伏はできない。敵は絶対多数だが、我らは誇りを持ち、打って出る」
と宣言し、戦闘準備を命じたのです。

一等巡洋艦「ヴァリヤーグ」は1901年に就役したばかりの新鋭艦です。
速力24ノット・152ミリ砲12門・75ミリ砲も12門・47ミリ砲8
門・37ミリ砲2門・魚雷発射管6基。

瓜生艦隊の巡洋艦で「ヴァリヤーグ」に単艦で対抗できるのは「浅間」だけでしょう、それも辛うじて。

ルードネフ艦長としては瓜生艦隊の封鎖線を強行突破できる、と思っていたのかも知れません。

「ヴァリヤーグ」と「コレーエツ」は机・椅子など戦闘の邪魔になるものや、燃えやすいものを大量に海に投棄して戦闘準備を進めます。

乗組員たちは家族へ、最後となるかもしれない手紙を書き、英国艦「タルボット」に託しました。

フセヴォロド・ルードネフ(ヴァリヤーグ艦長)

フセヴォロド・ルードネフ(ヴァリヤーグ艦長)

 

仁川の居留地には「日露の海戦」が始まるという情報が流れました。
仁川神社や西公園などの高台には見物人で人垣が出現し、居留民の家の屋根にも大勢の人が登って状況を見守ります。

「ヴァリヤーグ」と「コレーエツ」は9日の正午前、静かに動き出しました。

「ヴァリヤーグ」の甲板では、軍楽隊がロシア国歌を演奏し、整列した乗組員たちが声高らかに合唱しています。

「ヴァリヤーグ」が各国軍艦の横を通過するときには、英・米・仏・伊それぞれの国歌に切り替えて演奏、水兵さんたちは、別れを惜しむかのように「ウラー」と歓声を上げています。

各国の軍艦の乗組員は「帽振れ」で見送ります。
海軍に奉職した以上、何時かは自分たちにも巡ってくるかも知れない運命に、雄々しく立ち向かう仲間たちを…

イギリス艦「タルボット」のベイリー艦長が書き残した航海日誌に、次のような記述があります。

『694人のロシア将兵が、ほとんど確実ともいうべき死出の出撃を行っている。
それなのに彼らは軍楽隊を演奏させ、我々のために万歳をしてくれている。
彼らの万歳に対して、我が艦に乗り組む400余のイギリス将兵たちは、心からお返しの万歳を送ってやった。
イギリス将兵たちは彼らを非常に気の毒に思い、闘いを挑むその負けじ魂を尊敬した。』

戦闘

ロシアの2艦の出撃は、大日本帝国の居留民の目にも「英雄的」と映っていたようです。

居留民の一人の中村忠吉氏が「戦況目撃実記」を残しておられます。
『進退窮まれる露艦二隻、進むも亡び退くもまた亡ぶ。進んで亡ぶにしかずと健気にも覚悟を定めし二隻はこの日午前十一時半、月尾島外より錨を抜き、ワリヤーグが進みコレーツこれに従えり。

見よ憐れむべき二艦は自ら死地に赴きつつあるにあらずや。
居留地七千の眼はいまや一斉に二艦の上に注がれつつあり。』

装甲巡洋艦浅間

装甲巡洋艦「浅間」

 

瓜生艦隊はもっとも戦力的に頼りになる「浅間」を、仁川港に最も近い位置に配置していました。
「浅間」は大日本帝国海軍で初めての装甲巡洋艦です。
イギリスのアームストロング社エルジック造船所で建造されました。

排水量9500トン・最高速力20.45ノットですから、スピードでは「ヴァリヤーグ」には劣りますが、45口径20センチの巨砲4門を搭載しています。
(浅間の搭載砲に誤りがありましたが、あるフェイスブック・グループの主宰・O氏にご指摘頂いて訂正いたしました。謹んでお礼申し上げます。)

大海原に出してしまうと、追いつけないかも?ってんで、「浅間」が港口の近くに配置されたんでしょう。

午後0時10分過ぎ、「浅間」からロシア艦が近づいてきた、という信号が発せられ、瓜生司令官はついに戦闘開始を命じました。

強大な大日本帝国艦隊に立ち向かう、実質的には一隻だけの巡洋艦「ヴァリヤーグ」の運命は…

ロシアの英雄艦2に続きます。

 

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