2E型戦時標準船「伊豆丸」の奮戦~目立たない功績6~
戦争で必要なフネは軍艦ばかりではありません。
特に大日本帝国は戦争を続けるために、海を越えて鉄鉱石や石油を運ばなければいけませんでしたから、軍艦だけあっても戦争には勝てないのです。
判らなかったのか?海軍は
大東亜戦争開戦前の海軍は、戦争中の船舶被害見積もりを開戦第一年度:80~100万総トン、 第二年度:60~80万総トン、第三年度以降:40~60万総トンと予測していました。
これに対して開戦当初の船腹が630万総トン、造船能力は 開戦第一年度:45万総トン、第二年度:60万総トン、第三年度:80万総トンと見積もられています。戦争しながら我が国の輸送船は増えていくと思っていたのです。
大日本帝国海軍が海上輸送路確保に全く熱意を持たなかったことは、「海軍は護衛が大嫌い」シリーズで何度も何度も指摘したことですが、この見積もりに当たっても第二年度~第三年度以降へ被害が徐々に減少して行く根拠は示されていません。
減らすための方策も検討された形跡はありません。
このいい加減な見積もりは、戦争を始めてみるとものの見事に外れることになります。
年度 | 隻数 | 船腹量 |
昭和16年度 | 9隻 | 5万総トン |
昭和17年度 | 204隻 | 89万総トン |
昭和18年度 | 426隻 | 167万総トン |
昭和19年度 | 1,009隻 | 369万総トン |
昭和20年度 | 746隻 | 172万総トン |
合計 | 2,394隻隻 | 802万総トン |
現実を突きつけられた海軍は慌てて対策を取る事になりました。
すなわち海軍は輸送船護衛強化策として昭和18年11月に「海上護衛司令部」を新設し、海防艦の緊急建造に乗り出したのです。陸軍も徴用船護衛のために、船舶砲兵隊の強化に乗り出しています。しかし、これらの対策は既に手遅れになっており、輸送船の喪失を食い止めることは出来ませんでした。
あわせて、海軍は輸送船の増勢にも乗り出します。
それがこの記事の主人公の「戦時標準船」です。戦時標準船は第一次から第四次までそれぞれに多くの用途別の型があります。
それぞれを詳述したのではとても煩雑になってしまいますので、時期別に表に取りまとめて、簡単に特徴を書いておきます。
第一次戦時標準設計船
船型
|
船種
|
総トン数 |
主機
|
主缶
|
出力 (HP)
最大 / 経済 |
速力 (kt)
公試 / 航海 |
航続距離
(浬) |
1A
|
貨
|
06400
|
レシプロ
|
2号円缶*3
|
3600 / 000?
|
15.0 / 12.0
|
0000?
|
1B
|
貨
|
04500
|
タービン
|
2号円缶*2
|
2200 / 1800
|
15.5 / 12.3
|
08000
|
1C
|
貨
|
02700
|
レシプロ
|
3号円缶*2
|
2000 / 1500
|
13.8 / 11.0
|
04000
|
1D
|
貨
|
01900
|
レシプロ
|
5号円缶*2
|
1200 / 0900
|
12.2 / 10.0
|
03800
|
1E
|
貨
|
00830
|
ディーゼル
|
–
|
0750 / 000?
|
12.4 / 10.0
|
07200
|
1F
|
貨
|
00490
|
ディーゼル
|
–
|
0600 / 000?
|
12.0 / 10.0
|
0000?
|
1K
|
鉱
|
05300
|
レシプロ
|
2号円缶*2
|
2400 / 1600
|
14.2 / 10.5
|
07500
|
1TL
|
油
|
10000
|
タービン
|
21号水管缶*2
|
8600 / 6500
|
18.2 / 15.0
|
10000
|
1TM
|
油
|
05200
|
タービン
|
2号円缶*2
|
3300 / 2500
|
15.3 / 12.5
|
06700
|
1TS
|
油
|
01010
|
レシプロ
|
7号円缶*2
|
1050 / 0800
|
12.0 / 10.0
|
0000
|
第一次戦時標準船のうち、AからFタイプまでは昭和15(1940)年に船舶改善協会の手で策定された平時標準船そのままでありました。
鉱石運搬船(1K)・油槽船(1TL/1TM/1TS)は当時建造中だった「続行船」から適当なものを選んで僅かな改設計をしたものに過ぎなかったのです。
材料・補機部品の規格が統一されたり、若干の工事の簡易化が行われたりと一定の配慮が払われたのですが、大東亜戦争後を睨んで優秀な性能も与えられていました。
ですから、第一次戦時標準船は開戦前の甘い見通しを引きずっており、大量建造に適した船型ではなかったのです。
第二次戦時標準設計船
第一次戦時標準船の量産効果は大してありませんでしたが、一方で開戦第一年度の商船被害は約90万トンで、海軍の予想した範囲内に収まりました。
これは米潜水艦の魚雷の性能に問題があったのが主因でした。
魚雷が修正された昭和17年になると、商船の被害は倍近い178万トンに達してしまいます。
海軍が「小手先の策では役に立たない」と悟ったのは昭和17(1942)年も末のこと。この時点で「第二次戦時標準船」の設計を開始し、翌年6月からこの規格の船の建造が行われるようになりました。
アメリカをみると、1941年の1月から本格的な工期短縮を目指した「リバティー型貨物船」の建造計画を開始しており、大日本帝国の通商破壊に対する見通しの甘さが際立ちます。
第二次戦時標準設計船
船型
|
船種
|
総トン数 |
主機
|
主缶
|
出力 (HP)
最大 / 経済 |
速力 (kt)
公試 / 航海 |
航続距離
(浬) |
2A
|
貨
|
06600
|
甲25型タービン
|
2号円缶*2
又は22号円缶*2 |
2500 / 1800
|
13.1 / 10.0
|
10500(重油)
04000(石炭) |
2D
|
貨
|
02300
|
レシプロ
|
2号円缶*1
|
1100 / 0900
|
11.5 / 09.5
|
4000
|
2ERS
|
貨
|
00870
|
レシプロ
|
7号円缶*1
|
0450 / 0330
|
08.8 / 07.5
|
2000
|
2ED
|
貨
|
00870
|
ディーゼル
又は焼玉機関 |
-
|
0400 / 0320
|
09.6 / 07.0
|
2560
|
2TL
|
油
|
10000
|
甲50型タービン
|
改21号水管缶*2
|
5000 / 4000
|
14.6 / 13.0
|
9000
|
2TM
|
油
|
02850
|
甲12型タービン
|
3号円缶*2
|
1200 / 1000
|
11.9 / 09.5
|
5000
|
2ET
|
油
|
00870
|
ディーゼル
|
-
|
0420 / 0330
|
09.6 / 07.0
|
4000
|
第二次戦時標準船は貨物船と油槽船の併せて6つの規格にまとめられ、ブロック建造方式や電気溶接が本格的に導入されています。
この結果、戦争終盤には「TL型油槽船」は3ヶ月で建造出来るようになっていました。
建造期間だけを比べるとアメリカの「リバティー型貨物船(7197トン)」約3ヶ月、イギリスの「エンパイア型貨物船(7100トン)」は約4ヶ月ですから、わが国の第二次戦時標準船は優秀であった、と言えます。
しかし第二次戦時標準船の性能は「劣悪」と言わざるを得ないモノでした。
外観上の大きな変化として、丸みを帯びた船体構造は取りやめられ、船首は直線だけで構成されています。
簡略化はなされたものの、そのために推進効率は大きく低下。不足していた鋼材も大幅に節約したために耐久性・耐用年数が犠牲になりました。
特に問題になったのが「二重底」の廃止でした。「二重底」は座礁した時などに船体を保護し沈没を防ぐための基本的な構造です。
海軍の示した二重底全廃方針に対し、各海運会社は大いに反対したのですが、結局第二次標準船はすべて二重底がありませんでした。
また熟練工が出征して、工作技術未熟な工員が作業に当たったため、各所に不具合が発生するのが常態となってしまいました。
就役後に船の乗組員が洋上で修繕工事をするのが当たり前だったのです。
そんなこんなで「第二次戦時標準船」の運用効率はあまり良いものではなかったようです。
速力だって出ませんから、南方資源地帯との交通には第一次や戦前からの船が優先的に送られたのです。
そのため敗戦時には、国内に留め置かれていた第二次戦時標準船が多く健在だったのですが、安全性が国際標準を満たさず、外国航路に就役して国外の港に入港するためには大規模な改造を必要としてしまいました。
つまり戦後の復員船として、急場には間に合わなかったのです。
第三次戦時標準船
第三次戦時標準船は、船型・艤装などは第二次と同程度の簡易なもののまま、機関出力を増大させて速力を向上させ、隔壁も増やして生残性を高めたフネです。優速となった上に第二次戦時標準船と同様の量産性を持っていたのですが、耐用年数は切りつめられたままでした。
第二次戦時標準船に引き続き、国を挙げて建造を進めたものの、資材の枯渇と人材不足により各型とも数隻が完成しただけでした。
第三次戦時標準船
船型
|
船種
|
総トン数
(トン) |
主機
|
主缶
|
出力 (HP)
最大 / 経済 |
速力 (kt)
公試 / 航海 |
航続距離
(浬) |
3A
|
貨
|
07200
|
甲50型タービン
|
22号円缶*3
|
05000 / 4000
|
14.0 / 12.0
|
4000
|
3B
|
貨
|
05100
|
甲50型タービン
|
22号円缶*3
|
05000 / 4000
|
16.0 / 14.0
|
4000
|
3D
|
貨
|
03000
|
甲25型タービン
|
22号円缶*2
|
02500 / 1800
|
15.0 / 12.0
|
4000
|
3ERS
|
貨
|
00875
|
レシプロ
|
5号円缶*1
|
00580 / 0400
|
10.0 / 07.5
|
2000
|
3ED
|
貨
|
00880
|
ディーゼル
|
-
|
00600 / 0500
|
10.0 / 08.0
|
3500
|
3TL
|
油
|
10200
|
タービン
|
21号水管缶*2
|
10000 / 8000
|
19.0 / 16.0
|
8000
|
3ET
|
油
|
00870
|
ディーゼル
|
-
|
0000? / 000?
|
000? / 08.0
|
000?
|
第四次戦時標準船
海上輸送には、封鎖海面を高速で突破する輸送船が要望されるようになってしまいました。
船型
|
船種
|
総トン数
(トン) |
主機
|
主缶
|
出力 (HP)
最大 / 経済 |
速力 (kt)
公試 / 航海 |
航続距離
(浬) |
4B
|
貨
|
03400
|
1段減速タービン
|
艦本式ロ号缶*2
|
09500 / 08000
|
000? / 18.0
|
8500
|
4TM
|
油
|
03400
|
1段減速タービン
|
艦本式ロ号缶*2
|
09500 / 08000
|
000? / 18.0
|
8500
|
4ET
|
油
|
01150
|
甲12型タービン
|
5号円缶*2
又は4号円缶*2 |
01200 / 00750
|
13.0 / 10.0
|
2000
|
4TL
|
油
|
09600
|
タービン*2
|
21号水管缶*4
|
20000 / 18000
|
22.0 / 19.0
|
8000
|
「伊豆丸」の突進
やっとこの記事のヒーロー、「伊豆丸」の出番です(笑)
「伊豆丸」は日本郵船に割り当てられた、第二次戦時標準船のうちの2E型と呼ばれるもっとも小さなタイプの貨物船です。
総トン数870トン、全長60.44m、焼玉エンジン1基で380馬力、7ノット(時速約13km)。
戦前から本土内や朝鮮半島辺りまでの運輸に重宝された「海上トラック」と呼ばれた、小回りの利く生活密着型貨物船の流れを汲むフネであります。
世界的な大海運会社の日本郵船にもこんな小型の戦時標準船が配船されたりしてたのです。
何もかもケチって簡素に建造された輸送船で、船員用の船室は狭苦しく、通信室と食堂と事務室は狭い一つの部屋を兼用していました。
甲板の板張りも隙間だらけで、夜に船内から天井を見上げると月が見えたそうです。
石炭を満載して航行中に海が時化ると甲板まで波にさらされ、船内が水浸しになるようなフネでした。
「伊豆丸」は昭和18年(1943年)12月29日に川南工業深掘造船所で竣工した後、3ヶ月にわたって佐世保と大阪の往復輸送任務に就きました。
太平洋の戦勢は日に日に我に利あらず、南方資源輸送航路が壊滅してしまいます。
燃料資源は満州からの石炭に頼るしかなくなり、伊豆丸は大連と北九州の石炭輸送任務に付くことになります。
小さな船体に毎回1,400トンもの石炭を積み込み、ひたすら東シナ海を渡ったのでした。
昭和20(1945)年2月のある日、「伊豆丸」はまたしても石炭を受け取りに大連へ向っておりました。
もうこの頃は米軍はやりたい放題で、艦載機の攻撃さえ恐れなければなりませんでしたから、当然夜間航行です。
なお、このもう少し後の日本海の海運については大日本帝国海軍最後の栄光でも触れています。
朝鮮半島の群山沖に差し掛かった時でありました。
夜とはいえ、決して油断しなかった「伊豆丸」の見張りが、前方に潜水艦らしき艦影を発見しました。友軍情報では当夜に味方潜水艦の活動予定はありません。
そうこうするうちに、お互いの距離は近づき、潜水艦の司令塔や大砲まで視認できるようになってきました。
潜水艦は浮上攻撃を狙っているように思えました。以前の航海で、「伊豆丸」は僚船が魚雷攻撃で撃沈されるのを目撃していたのです。
伊豆丸の速力は7ノット、エンジンがぶっ壊れるほど回しても9ノットはとても無理でしょう。この潜水艦が米軍の主力である「ガトー級」なら、水中でもそれ位は出るのです。
浮上していたら20ノット近くは出しますから、無武装の伊豆丸には逃れる術はありません。
船長以下の乗組員たちは覚悟を決めました。
一方的に沈められる位なら、敵わぬまでも体当たりして刺違えてやろうじゃないか!
覚悟を決めた乗組員たちのたぎる闘志を乗せて「伊豆丸」は潜水艦へ向けて突進したのであります。自転車のごときスピード、たった7ノット(時速約13km)でしたけど。
船内に武器などはありませんから、船員さんたちはスパナやハンマーなどの工具を握りしめて潜水艦を睨み倒しておりました。
どんどん接近し、潜水艦の姿がはっきりしてきました。
何だか米軍の潜水艦とは艦影が違うようですが、乗組員たちにもう冷静な判断力はありません。
普通の貨物船には(たった900トン弱の小船だって)ある筈の「二重底」が自分のフネには無い事もすっかり忘れているほどでありました。
潜水艦は「伊豆丸」の接近に気づきません。その隙に伊豆丸はみごと体当たりに成功したのです。
潜水艦の艦内からは慌てた「敵兵」が飛び出してきます。
「何事だあ!」「貴様ら、何をするか!」
聞こえる言葉は紛れもない日本語でありました。
潜水艦は大日本帝国陸軍の輸送専用潜水艦「まるゆ(〇の中にゆを表記)3001」すなわち「三式潜航輸送艇」だったのです。
油断しすぎでしょう
「伊豆丸」が空船で軽かったためもあって、「まるゆ」は沈没することはありませんでした。もっとも、船体に歪みが出て二度と潜航できなかったそうですが。
「伊豆丸」も、船底に穴が開くこともなく無事でした。
つまりは、同士討ちも不幸中の幸いにも大損害はナシ、って事なんですが、注目すべきは「伊豆丸」乗組員の勇気と咄嗟の正確な判断・・・だけでしょうか?
「まるゆ」、少し油断しすぎじゃないでしょうか?
「伊豆丸」は焼玉エンジン、すなわち「ポンポン船」です。何度も触れたように速度は遅いし、音も大きい。
こんなフネが民間船員に操られて接近してくるのに気付かない。
戦時ですよ。しかも、「まるゆ」の存在が敵の制海権下を密かに突破するためのモノ(「まるゆ」についてはそのうち詳しく描きます)。
乗員は海軍ではなくても、専門の教育を受けた「水兵さん」であることに間違いありません。
普通なら「伊豆丸」が接近できるなど、ありうる筈がないのです。
まあ、ともあれ伊豆丸はこの後半年間、生き残って敗戦を迎えました。
敗戦後も「伊豆丸」は石炭運搬船として働き続けます。
頑張ったご褒美に、昭和23(1948)年には生まれついての焼玉エンジンをディーゼルエンジン(たぶん)へと換装して貰っています。
その後も日本の復興期に、日本郵船所属の貨物船として国内の海上輸送業務に従事し続け、昭和27(1952)年12月、大洋汽船へと売却されたのでありました。
その後の「伊豆丸」の運命については電脳大本営は把握しておりません。
他の生き残り戦時標準船たちも、少し触れましたように船の基本構造が国際基準に達せず、他国では入港さえ拒否されてしまいます。
このため、敗戦後の貴重な工業力を割いて二重底を付けるなどの改修が行われ、帝国復興のために奮闘したのでありました。
小さな粗末なフネだって、立派にお国に貢献したのであります。
若狭湾にて2018年、潜水艦n呂500の探索をしていました浦と申します。そのとき、福井県沖合のしんやまという魚礁(沈没船)を調査しました。これは、サイドスキャンソナーの画像をよく見て、また情報を集めると、戦時標準船の「樫丸」ではないかと思われます。そこで、戦時標準船の図面をさがしていたところ、このページにいたりました。シンヤマの沈没船を紹介するときに、2Eの図面を利用いたしたいのですが、いかがでしょうか。よろしくご許可くださるようお願いいたします。