日独海軍比べ ドイツ海軍の負けっぷり~プリンツ・オイゲンの栄光~
日独の幸運艦
大日本帝國海軍の幸運艦と言えば、皆さんご存知の駆逐艦「雪風」は外しがたいところですね。
大東亜戦争勃発から太平洋狭しと暴れまわって、幾多の海戦を駆け巡り、苦難の防戦を強いられてなお沈まず。
ついに生き延びて、中華民国(台湾)艦隊の旗艦として迎えられ、台湾海峡の守護神となった優秀艦でした。
同盟国独逸に目を向ければ、「雪風」に匹敵する幸運艦は重巡「プリンツ・オイゲン」でしょうか。
独逸海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」はアドミラル・ヒッパー級3番艦として1938年進水・40年就役、基準 15,000トン・満載 18,400トン、33,5ノット、20,3センチ砲8門。(画像集があります)
日本の巡洋艦と異なり、通商破壊や陸上支援を主に狙った艦だと思います。
幸運艦の形容詞とは裏腹に就役ひと月前に英軍の爆撃で損傷、その後も大小の損害を受けながら帰還し、修理しては出撃していきます。
1941年5月、「ライン演習作戦」で大戦艦ビスマルクとともに大西洋へ出撃。
追いかけて来た英艦隊との間で砲撃戦となり、ビスマルクは英巡洋戦艦「フッド」を一撃で轟沈、プリンツ・オイゲンも新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」との皇子対決で一弾を浴びせました。
1942年2月、ヒトラーの指導によって「ツェルベルス作戦」が発動されました。
この作戦は仏蘭西のブレスト軍港に逼塞していた、シャルンホルスト・グナイゼナウの2戦艦とプリンツ・オイゲンを敵の眼の前のドーバー海峡を突破して本国に帰還させようと言うもので、珍しく海空軍の連携がうまく行き、大成功を収めました。
その後、プリンツ・オイゲンはノルウェイに行こうとしたり、バルト海で活動しながらちょこちょこと損害を受け、ときには大破されたりしますが、そのたびに復活。
その間、陸地では連合軍の反撃は激しくなってきており、プリンツ・オイゲンは1944年に重巡洋艦リュッツオウ(元のポケット戦艦「ドイッチュラント」、艦名と類別変更)と駆逐艦数隻とともに「ティーレ任務部隊」を結成して東部戦線で地上軍の支援にあたることになるのですが…
10月には軽巡洋艦ライプツィヒと衝突、危うく相手を沈めてしまいかねない大事故を起こしました。
あんまり冴え無い戦績の幸運艦でしたが、「プリンツ・オイゲン」が真の実力を発揮しひかり輝くのは第三帝国の最後も近い此処からでした。
動画をご覧いただきましょう。
東西から迫る敵
紫のフィンランドとバルト海を挟んだ対岸に、青い(なんでやねん)ソ連圏に呑みこまれそうになりながら残る、「陸の孤島」。
1944年の10月には完全に孤立してしまいます。
此処が東プロイセンで、「プリンツ・オイゲン」と第三帝国国防軍が最後の栄光を獲得した場所でもあります。
もともと独逸本土とは地続きの領土だったのですが、第一次大戦後に西側がポーランド領(ポーランド回廊/ポーランドの海への出口)とされ、「飛び地」となってしまいました。
そこを、ヒトラーが返還を求め、第二次大戦の開戦要因の一つになった土地でした。
ソ連に捕まれば
西部戦線の相手は英米なので、降伏したり捕まったりしても余程のことがないかぎり虐殺される事はありません。
しかし東部戦線のソ連軍は、略奪暴行狼藉・虐殺等はあたり前でした。昭和20年の満州国や樺太南部侵攻など、我が国でもおなじみですけど。
そこでドイツ国民はどうせ国が負けて滅ぶなら、ソ連軍に捕まるよりも米英軍側に捕まろうと必死で西に移動したものでした。
ところが、東プロイセンは孤立。ドイツの陸軍だけでなく民間人200万人が進撃してくるソ連軍に包囲されて陸路での脱出は不可能となってしまいました。
東プロイセン防衛部隊はケーニヒスベルクを巡る戦いなどで、必死の遅滞戦闘を繰り広げますが、人々がソ連軍に捕まるのも時間の問題となっていました。
海軍、立つ
独逸海軍の水上艦隊は、第二次大戦の間、さしたる活躍がありませんでした。特に後半はフリート・ビーイング(艦隊保全)に徹した感があり、日本の艦隊に比べて消極的過ぎると見る人は多くいらっしゃいます。
海軍司令官デーニッツ(ヒトラー自殺後は指名により「独逸大統領」)は東プロイセンからの国民救出を「ハンニバル作戦」と名付け、敗残の独逸海軍の、いえドイツに残された全ての船舶を使った大救出作戦を敢行したのです。
ドイツ海軍は最後の難局にあたり、数少ない艦艇を有効に使用するため、敵に損害を与えるよりも自国民を一人でも多く救出する事を最優先としました。
ソ連軍の進撃を遅らせるため、プリンツ・オイゲンはリュッツオウとともにバルト海から東部戦線のソ連側の前線に対し果敢に長距離砲撃を何度も試みます。
また、陸軍部隊も国民の脱出橋頭保確保のために反撃に出ます。
この援護の下で駆逐艦から潜水艦・小艦艇・ヨットや艀(はしけ)や民間商船まで数百隻を動員して、海軍の全力を傾注して避難民を本国へと運んだのです。
ある駆逐艦は乗員300人のところ、着たきりの避難民を2000名以上を乗せたそうです。
また、ソ連軍の迫る岸壁から避難民が小さな艀に駆け込み超満員となった時には、一人の老人が遠慮しました。これを見た水兵が海に飛び込みながら岸辺の老人に「乗り移れ!早く!」
老人は穏やかに首を横に振り、泳ぎ着いた水兵とともにソ連軍を遅らせるために地上戦に参加した・・・
この救出活動はドイツ降伏後も暫く続き、ソ連軍と撃ち合いも演じています。
大脱出をソ連が指を咥えて見ている訳はありません。
潜水艦などを使って妨害します。もちろん輸送船ばかり狙って民間人の被害は1万人以上。
これも我が国も経験したことですね。
作戦は成功したのか?
結果を見てみましょう。残念ながら動画を紹介しました1944年11月は手持ちのデータがありません。
独海軍のバルト海沿岸地域からの救出人員数(船に収容した日と人数なので、独逸本国に無事到着した人数、日取りとは一致しません)
1945年 1月後半219,210人
2月前半247,248人 2月後半228,240人
3月前半246,759人 3月後半295,184人
4月前半276,335人 4月後半244,225人
そして驚くなかれ、1945年 5月1日~5月9日 200,699人
敗戦確定の時期、たった9日間で、碌な輸送船もなく、圧倒的に優勢な敵に圧迫されながら、しかも訓練を受けていない民間人を20万人も救出。
私はこれこそ「第三帝国」が成し遂げた最大の作戦、最高の成果ではないかと思います。
最期の船団は5月8日深夜(日付は9日)にヘラ半島、リエパヤ、ベントスピルスから出航した集団だと思われますが、この船団すら翌9日20;00にソ連の魚雷艇と交戦してソ連側魚雷艇を撃退しています。 10日正午にキールに到着。
海路脱出のための橋頭堡を最後まで確保し続けたドイツ陸軍約20万人は5月8日の終戦でソ連軍の捕虜となりました。
プリンツ・オイゲンは?
最後まで陸軍部隊を支援して橋頭保を支えたプリンツ・オイゲンでしたが、僚艦リュッツオウは英軍の爆撃によって沈められてしまいます。
大半の民間人の脱出を見送った幸運艦は単艦脱出に成功、みごと第二次大戦を生き抜いたのです。
と言っても、待っていたのは水爆実験艦の運命。
ビキニ環礁では、盟邦の大戦艦長門とともに過酷な実験に立ち向かい、二度の爆発に耐えましたが、調査のための曳航中についに転覆、沈没しました。
真摯な反省を
独逸海軍が残された僅かな力を振り絞って、同胞を救いだしている時、その時点でも世界第三位の艦艇を持つ大日本帝國海軍は何をしていたのか?
敗戦時に、無法な侵略を仕掛けてきたソ連に、敵わぬながら立ち向かって日本人を逃がそうとしたのが陸軍部隊だけだったことなど。
電脳大本営を覗いて下さる皆さまなら、とっくにご存知であろうと思います。
北方領土や満洲や糞半島での悲劇を知っている我々にとって、
「あの時に海軍が動いていたら・・・」
と考えてみることは、将来のために大切なことだと思います。
軍隊は「負け方」も国民のためにカッコ良くなければいけないのです。
戦後70年の談話に「反省」を求めるなら、この点以外にはないでしょう。