「疾風」と「烈風」5~金星零戦~

海底に眠る零

「疾風と烈風」シリーズも前のシリーズ「紫電と紫電改」に引き続き好評を頂いちゃいまして、ついに5話目に突入です。気づいたら「烈風」のことはほとんど書いてないじゃん!と言うわけで…今回も。

堀越技師は有能だったのか?

「疾風」と同様、迫りくる米軍の大馬力戦闘機群を蹴散らすことを期待されていた、海軍の新型艦上戦闘機「烈風」の設計主務者はご存じ堀越二郎さんでした。

堀越二郎技師は「九六式艦上戦闘機」を設計し、その才能の片鱗を見せつけました。九六式艦戦は世界的に見ても優秀な戦闘機で、特にその格闘性能は「零戦以上」であったとされています。

96式2号艦戦、増槽装備

96式2号艦戦、増槽装備

 

その堀越さんが九六式艦戦に続いて主務者として設計したのが、世界的に有名な「零式艦上戦闘機」です。
堀越二郎技師はその設計者として、コチラも世界的に有名なんです。
しかし電脳大本営が、堀越さんのご著書(共著を含む)を虚心坦懐(?)に読んでみると、大きな疑問点が出てくるんですね。

敢えて私も属する「愛国側」の皆さまのお怒りを承知で書きますが、零戦は超絶的に優秀だった訳じゃあありません。ライバルF4Fとのキルレシオだって、アメリカの公式記録「だけ」だとミッドウェイまでF4F:零戦=1:1.7。

ヘンダーソン飛行場のワイルドキャット

ヘンダーソン飛行場のF4Fワイルドキャット

逆じゃないですからね。ベテランが幅を利かせてる時期でもこんなもんです。もちろん、真実じゃあないでしょう。戦果は過大報告になるもんですから。
まあ、現実的には零戦がちょっと勝ってる、くらいのモノだったんじゃないでしょうか。なにせ、逃げられたらどうしようもありませんし。

それと同じで堀越さんの設計技能って言うのも、ほとんど都市伝説じゃあないのか?って言うのが今回の記事で私が紹介したい視点なんです。

お断りしておきますが、堀越さんが某国の間諜だったとか、技術者として無能だったとか言うテの話にはなりません。

堀越さん(笑)

堀越さん(笑)

零戦は「超絶的に優秀」だったワケじゃないけれど、世界でトップクラスの性能を実現した軽戦闘機だったし、設計者はそれなりの技能を持った技術者であった事は疑いありません。

エンジン換装問題

零戦は大東亜戦争を戦い抜いた名機だけに、その型は沢山あります。ですが、エンジンは中島製の「栄」を使い続けています。
同じ「栄」でも当初の1000馬力から1300馬力まで性能が向上していますが、三菱にとってはライバルのエンジンを使い続けなければならなかったのでした。

昭和17年4月、馬力向上型の「栄二一型」にエンジンを換装して高速化を図る狙いで改良された「零戦32型」。この32型の開発に際し、三菱が自社製の「金星」エンジン(1500馬力級だが、栄より直径が大きい)を零戦に搭載することを提案しました。

32型

零戦32型

 

海軍はこの提案を受けたのですが、栄エンジンの安定した性能に絶大な信頼を寄せていましたし、故障率が低くて整備もしやすい栄エンジンの換装は、実戦部隊での稼働率低下を招くと考えました。

そんなワケで海軍はこの提案を一蹴した…と一般には言われています。金星へのエンジン換装は可能だったが、海軍が断ったのだ、と。

でも、堀越さんはご著書の中でけっこう揺れてるんですよね、記述が。

堀越さんが断った?

川崎航空機の土井武夫技師(堀越さんと大学同期)の証言があるんであります。文林堂の「世界の傑作機・NO.23」に記述されているんですが、

『昭和17年4月、海軍の空技廠が堀越君(零戦設計者)に、非公式ではあるが発動機を金星とした零戦の性能向上機の打診があったとき、堀越君は設計陣容不足のため断ったと聞いている。私は、あの時期にこそ、金星をつけた零戦の性能向上機を考えるべきではなかったかと思う。』(太字は沢渡)

あれっ?堀越さんが断ったんですか。
けっこう部数も出てる本に掲載されてるのに、取り上げる人が居ないんですね。

土井武夫(左)

土井武夫(左)

 

しかし、です。この後で「烈風」の設計を巡って海軍が頑として「誉」エンジン採用を譲らず、堀越さんが拗ねちまう過程を知っていると、なんだかなあ?ではありませんか。

私は「堀越さんが断った説」に間違いないと思いますね。これって、実は堀越さんのご著書にも「そうじゃないかな?」と思わせる個所がいっぱいあるんですよね(笑)

中川良一

「誉エンジン」の設計者中川良一

 

当時の戦闘機の能力向上競争はすなわち馬力向上の競争でした。まだまだ零戦の優位が続き、ベテランパイロット達も健在だった昭和17年の4月に、1000馬力級の栄エンジンから1500馬力の金星エンジンに換装していたら?

堀越さんが認めていますよね、金星への換装はこの時期に可能だった。
可能だからこそ「三菱から提案した」んでしょう。堀越さんはもし金星に変えていたら、として

「…その後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高性能を誇っていたのかも知れない。」
とも仰ってます。
アンタ、自分で断っちまってその言い草はねえだろうがよ。

堀越さんを責めるばかりでもなあ

もちろん、堀越技師には同情できる点があります。世界的に有名な戦闘機設計者をクソミソに言うまえに、ちゃんと彼の置かれていた苦しい立場にも触れておかないと不公平ってモノでしょう。

堀越さんの代表作、零戦のデビュー戦は皆さんご存じのように昭和15年9月13日の重慶上空での空中戦。

進藤三郎ラバウルにて

進藤三郎(ラバウルにて)

 

進藤三郎大尉の率いる13機の零戦がソ連製のI-15、I-16の大編隊33機と対戦して圧勝(進藤大尉報告で27機撃墜、国民党側の記録で被撃墜13機・被撃破11機、我が方被弾3機のみ)したものです。

この時点では、まだまだ20ミリが機動の具合で発射できなかったり、Gを掛けると脚が出ることがあったりと「完成」ではなかったものの、零戦は堀越さんの手を離れたといっても良いでしょう。

ポリカルコフI-16

ポリカルコフI-16

 

大東亜戦争が始まる1年半前のことでありました。で、この頃堀越さんがなにをなさってたか?と申しますと、「一四試局地戦闘機(雷電)」の設計を担当しておられました。
余談ですが、ご著書では雷電は零戦以上の傑作機だとおっしゃってます。私もほぼ賛成ですけどね。

それで、ですね。「雷電」にしろ「零戦」にしろ、堀越さんが一人で何でもカンでも設計するわけじゃありません。いわば堀越チームみたいなのんで設計作業を進めるんですが、「雷電」の設計メンバーはほぼ零戦と同じ。
大三菱には海軍戦闘機を設計するチームが「堀越チーム」しかなかったんです。いや、大日本帝国の民間会社を全部探しても、海軍機を担当する戦闘機設計チームは三菱にしかなくて、それも堀越二郎技師をチーフとする一チームしかなかったんです。

雷電

雷電

 

これは、海軍の指導や発注の問題もあり、三菱の開発に対する姿勢もあり、堀越さんのせいではありませんが、大日本帝国海軍にとっては途轍も無く不幸なことでした。

堀越チームが「雷電」に関わっているうちは、「零戦」の後継となるべき「次期艦戦」にとりかかることは(普通に考えたら)出来ない訳なんです。
実際に海軍は昭和十五年、零戦の後継機として「十六試艦上戦闘機」の開発を内示しているのですが、三菱は設計陣の人手不足で着手することは出来ませんでした(「烈風」は一七試)。

烈風

「烈風」が出来てたら

この事は陸軍戦闘機の開発と比べてみると、なお一層ハッキリとしてきます。
陸軍の戦闘機は上手い事ローテーションを廻してるんですね。
造っている会社は中島と川崎なんですけれど、三菱のライバル中島には小山悌、川崎には先に出てきた土井武夫と言う設計者が居ました。
それぞれ戦闘機に経験が深く、自らの設計チームを上手く率いるリーダーシップにも長けている人でした。

陸軍はこの両社を競わせるように、中島が九一式戦闘機、九二式・九五式戦闘機は川崎が担当。続く九七式・一式(零戦相当ですね)は再び中島が名を成します。

97式戦闘機

九七式戦闘機

二式は局地戦闘機と複座戦闘機の二本立てとなって単戦(局戦)が中島・複戦は川崎の痛み分け。
液冷エンジンの野心作・三式が川崎で、最大傑作となる四式(疾風)は中島。最後となる五式が川崎。まあ、五式は三式の首のすげ替え(の割には優秀だったそうです)ですけども、計ったようにローテーションを組んでるではありませんか。

一社指名ではこれだけの新型戦闘機を切れ目なくデビューさせることはちょっと難しいでしょう。陸軍の方が海軍より遙かに航空機の開発ってモノに理解が深かったと言えるのではないでしょうか。

二式複座戦闘機屠龍

二式複座戦闘機「屠龍」

 

では海軍としてはどうすれば良かったのか?ともかく惜しまれるのは、なぜか三菱だけに戦闘機の試作を集中してしまったということ。

十二試艦戦(零戦)の競争試作のとき辞退した中島や、小型高速水上機を造った川西など、もっと活用出来たのではないかと思うんですね。

海軍の戦闘機は「艦上」が前提。つまり空母から発艦してまた空母に戻らなければなりません。空母へ戻ることは「コントロールされた墜落」と言われるほど衝撃が大きな物ですし、250メートル×30メートル(「赤城」の飛行甲板)ほどのところへ、それも長さ方向は半分までしか使えない所へ、ピンポイントで降りなければなりません。

それだけ頑丈(=重くなる)で小回りが利く(=低翼面加重=スピードが出ない)、戦闘機とは相反する性格を持つ飛行機になりますから、このバランスを取って優秀な戦闘機を設計するのは、いわば「特殊技能」ともいうべき能力なんです。

長門と並ぶ赤城

「長門」と並ぶ「赤城」
降りるとなるとちっせえ。

 

ですから、せっかく育てた三菱の「堀越チーム」は艦上戦闘機に専念させて、「雷電」のような局地戦闘機は中島にやらせ、陸軍の二式戦(鍾馗)と共同開発狙い。
堀越さんの多忙の一因となった零戦の改良各型は川西に(強風~紫電~紫電改で改良はお手の物、全く違う機になっちゃったかも知れませんけどww)任せれば良かったんですよ。

十四試(雷電)の時点で三菱の堀越チームが零戦後継の艦上戦闘機に取り組んでいたら?

アメリカのグラマン社のように、九六式艦戦・零式艦戦と立て続けにクリーンヒットを飛ばした「三菱海軍向け戦闘機チーム」にも艦上戦闘機用の特殊なノウハウが蓄積されていて、逆に言うと陸上運用の戦闘機のノウハウはそれほど持っていなかったんじゃねえの?と考える次第であります。

以上、堀越さんの肩を持ってみました。堀越さんファンの方、これで良いでしょうか?後はクソミソですよ。これも正しく「戦訓」を汲むためと思って、しばしのご容赦を。

堀越さんに思想はあったのか?

ありとあらゆる兵器がそうなんですが、特にこの当時の戦闘機は各種の性能のバランスで成り立っています。

国家の持つ最先端の技術を投入して、非常に高度な性能を実現した上で、どの性能を重視し、どこは少し我慢するのか?を決め、それを生産性や整備性を考慮しながら現実の機体に落とし込む作業こそが「設計」であります。

紫電改

紫電改

 

設計の前に「要求」というモノがあります。「速度はこれくらい、航続距離はどれほど、旋回性能はナニ以上、武装はこれこれ」などと用兵者側の意見を聞いて造兵者が「要求性能」をつくり、設計者と実現性を詰めていくわけです。

初期の競争試作の時代なら、各社の試作機から要求性能を満たしたモノを選べばよかったんですが、もうこの頃は一社指名です。
ですから「要求性能」を巡っての造兵者(軍側)と設計者(制作会社側)のやり取りは非常に大切になります。
つまり設計者は用兵者以上に「空戦の様相」を理解して、「次世代戦闘機」とは何か?どんな戦闘の様相になるのか?という見識を持っているべきです。

隼と零戦

隼と零戦

 

堀越技師は「零戦」の試作指示に際して「速度・運動性能・航続距離などの要求仕様に矛盾がある」と言って、優先事項を明確にしてくれ、と造兵者側に求めています。これは烈風の時も同様でした。

技術者としては当然と思いがちなんですが、本当にそうでしょうか?

たとえば「烈風」の開発開始にあたって、「零戦」以上の高速と「零戦」並みかそれ以上の運動性を要求されるワケですが、堀越さんは「そんなことは実現不可能なんでどれかを緩和してくれ」と反論なさるわけです。
飛行機の性能なんて、使えるエンジンの能力が決まってたら、設計だけでそんなに画期的に向上するモノでもありません。どれかを突出した性能にする、って事は「どれか(の性能)を」諦めるしかありません。

堀越さんはそれを仰ってるんですから、それでいいじゃん、と思えるのでありますが。そんな事は全然ありません。

ちょっと前に書きましたように設計者は『用兵者以上に「空戦の様相」を理解して、「次世代戦闘機」とは何か?どんな戦闘の様相になるのか?という見識を持っているべき』です。
堀越さんの
「(どれでも良いから)どれか緩和してくんないと設計出来ないも~ん」
という態度からはとてもそんな見識なり、空戦思想をお持ちだったようには思えないではありませんか?

Fw190

Fw190 これも「戦場に軍馬を」って先見の産物

 

私なら、「一七試艦戦(烈風)」の要求性能を見た時、次のように答えます。
『「零戦」の運動性能は「F4Fワイルドキャット」に対してはるかに優っている。敵の後継機(F6Fヘルキャット、F4Uコルセア)はさらに高速化することが予想され、高速化すれば、その運動性能は低下する道理である。したがって、「烈風」の運動性能が「零戦」よりも相当程度低下し、たとえ「F4F」よりも多少劣ったとしても、速度性能を向上させれば、「F4F」とその後継機に総合力で勝つことが出来る。』

F4Uコルセア発艦準備

F4Uコルセア

 

堀越技師には、あるべき戦闘機の未来像とか理想とするものとか、敵の指向する性能と戦法とかの考察がありません。
俺が設計した戦闘機を操って、こういう風に戦ってくれ!この戦法を取ってくれ!と言うアツいモノが何処にもないのです。

そのためでしょうか、「烈風」は空戦性能を重視(=低翼面加重=主翼面積増大)しながら、速度性能も無視できず(空力重視=相対的に細身に=胴体の長大化)と最後まで揺れ動いて機体は肥大化してしまい、ついに戦力化されることなく終わりました。

たしかに、堀越さんには要求されたスペックをそこそこ実現する綿密な設計能力が備わっていました。名機「零戦」の設計主務をこなしたことで、十分に証明されていると言って良いでしょう。

しかし堀越技師はご自分の専門とする戦闘機の性能やその戦い方については、極近未来の推察すらお持ちでは無かったのです。堀越技師はもしご自分の見立てがあれば、それを主張しないような消極的な方ではありません。

「金星エンジン零戦」の可能性

くどいようですが、電脳大本営的な堀越二郎技師の評価を書いておきます。堀越さんは設計テクニックは素晴らしいのですが、戦闘機の設計思想はほとんどお持ちじゃない方だったと思われます。

つまり戦闘機のあり方に対するご自身の見識が無く、与えられた条件を何とか実現しようと努力する「設計技能者」でいらっしゃいました。
だからこそ、実現可能なレベルまで「どれか」の条件を下げてくれ、などと言うお話になるのです。

堀越二郎

堀越二郎

 

悪い事ではありません。一介の「設計技能者」であったならば。しかし堀越さんにとって不幸な事に、堀越さんは「設計主務」だったのです。それも海軍戦闘機にとってはたった一人の。

この「戦闘機の設計思想」や「戦闘機のあり方に対するご自身の見識」が無かったこととその弊害を「金星エンジン零戦」の可能性を考えながら考察してみましょう。

川崎の土井技師の記述と堀越さんご自身の著書からの推察で、海軍は昭和17年の4月には「金星エンジン」を零戦に搭載することを提案しています。
これを、堀越さんが「人手が足らないから」断ってしまったのでした。

金星エンジン搭載の零戦と言うのは昭和20年になって零戦52型(丙)のエンジンを換装した64型(試作機は54型とされています)として実現して、この年の7月から生産が開始されています。

元山空の52型

元山空の52型

 

昭和20年7月からの量産では、戦局に大きな影響を与えることは出来ませんが、昭和17年4月に「金星」を決断していたらどうなっていたんでしょうか?

零戦は最後まで海軍の主力であり続けたのですが、最多生産型は52型(A6M5)で、量産開始が昭和18年8月。金星搭載型の零戦は、堀越さんの「妨害」さえなければ、もっと早く量産にかかれた公算が大きいと思います。
零戦52型(甲・乙・丙)は32型系列よりも推力式単排気管の採用などで最高速が20キロほど(540キロ→560キロ)改善しているんですが、64型はさらに10キロほど上昇しています。

ただ、私がココで言いたいのはその程度の性能向上ではなくて登場時期のはやさです。

ミッドウェーで回避運動中の蒼龍

ミッドウェーで回避運動中の蒼龍

最速で金星零戦を造っても、ミッドウェイには間に合いません。でも、ソロモンを巡る海空戦には間に合っていた可能性は高いのです。
もちろん、相当に航続距離が落ちます(32型で2560キロメートル+全速30分→64型2000キロメートル+全速30分)から、ラバウルを発進してガダルカナル島上空で空戦することは不可能だったでしょう。

ただ、ガ島を諦めることによって多数のベテラン搭乗員が生き残ります。彼らが手にするのは敵の新鋭戦闘機「F6Fヘルキャット」より3~40キロ最高速が遅いだけの「金星零戦」。
この速度差はベテラン搭乗員にとって、零戦の格闘能力を活かして十分に逆転可能だったでしょう。

F6Fヘルキャット

F6F「ヘルキャット」

 

如何です?昭和20年にやっとこさ「金星零戦」が登場するのと、52型、いや32型の登場時期に代わりの「金星零戦」が登場したのでは意味が全く違う事がお判りじゃないでしょうか?
二年半の遅れは決定的でした。これを考えると、私は昭和17年4月に「金星零戦」を潰したのは誰か?は大きな問題だと思うのです。

もちろん昭和18年の早い時期に「金星零戦」が登場していたら、大東亜戦争の勝敗が逆転してた、とかそういう話じゃないですからね。

土井武夫技師はこの時点で「零戦の性能向上」が戦局に与え得る重要性が判ってましたよね。
堀越さんには判らなかったんです。これが『用兵者以上に「空戦の様相」を理解して、「次世代戦闘機」とは何か?どんな戦闘の様相になるのか?という見識を持っている』かどうか?の違いなんです。

言い訳ばっかりじゃん

「金星零戦」ついて堀越さんはどのようにおっしゃてるか、と言いますと
「昭和十七年、私は永野治航空部員の私的打診に応ずることができず」とお書きの上で、次のように続けておられます。

「その幾多の改造が顕著な実効を挙げ得なかったのは、使用者側指導層の技術上の問題や戦局に関する初期の見通しが甘かったせいだと思われる点が多い。なぜなら、開戦当初から日本海軍の戦闘機特に零戦の重大な役割と零戦に要求される改善を予見できたにもかかわらず、機種に応じた重点的人員配置などが適当でなく、担当者としては人手のいることには消極的とならざるを得なかったからである。

もしこの点に対する判断処置さえよかったなら、最後型となった五四型丙は二年も早く生まれ、恐らくはその後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高め性能を誇っていたかも知れない。

さらに堀越さんの「金星零戦」を潰した言い訳は続きます。

これには大きな理由があったのである。これを一口にいえば、日本の産業の規模が全般的には世界第一流の水準から遠い状態にあったということである。こういう規模の小さい産業に支えられる航空機工業では、経験ある技術者の過少とも重なって、着想から実験、設計、試作、実用に至るまでに非常に時間がかかった。

もっとあるんですけどね、あんまりな事ばかり書いてやがって、腹が立ってきたので、引用はココまでにしておきます。

要は日本の産業構造や、それに適切な指導を行わない「軍部」の技術行政に対する批判ばっかりです。

「全ては大日本帝国の産業構造が先進的じゃないことと、海軍の技術に対する考え方がなってない(これは一理ありますけどね)からだ!」

って事ですね。
貴方、どこの国で生まれて育って大学で技術を身に付けたんですか?
大日本帝国でしょうが!あんまりにも身勝手じゃないですか?

大日本帝国の産業構造なんて、十分に理解できてる筈じゃないですか。世界中どこの国の軍用機設計者だって、産業構造かどうか知りませんけど、何らかの外的要因で制約を受けながら戦闘機を造ってるんですよ。

世界って言わんでも同じ大日本帝国で、ライバル中島の小山悌技師は貴公と同じエンジンを与えられて「疾風」を前線に送り出してますよ。

土井武夫技師は、液冷エンジンから空冷エンジンって言う極度に困難なエンジン換装作業をサラッとこなしてますけどね。
もちろん大日本帝国の「世界第一流の水準から遠い状態にあった」産業構造に支えられてね。

少なくとも、海軍から打診された「金星零戦」を潰したことを反省してから、文句垂れ流しても遅くないんじゃないですか?堀越さん。

そういえば堀越さんったら、エンジン換装作業をやってましたよね。ご自分の「名誉」の為なら出来るんだ。だったら、育ててくれたお国の為ならもっと素早くできたでしょうに、零戦のエンジンを金星エンジンに換装するくらいなら。

次回は「烈風の誉エンジン」を自社のに換装した問題を追及してやるからな、堀越さん。

Follow me!

「疾風」と「烈風」5~金星零戦~” に対して1件のコメントがあります。

  1. 白髪 より:

    昭和17年半ばで零戦金星換装は有り得ないでしょう。翌年には雷電が登場予定なのですから。あわせて三菱での零戦製造が終了する計画の中で、そんなこと考えるでしょうか。栄も過給機の改良で1400馬力程度狙ってましたし。
    土井技師も零戦の金星換装の重要性を理解していたということは、零戦後継機の開発が失敗するということも見通していたことになり、おかしな話ですよね。戦後語られた話だけで論じると、ことの本質が分からないです。

白髪 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA