ウォレアイ島の悲劇
「ウォレアイ環礁」。東京から南南東へ約3700キロ。北緯7度22分東経143度54分、カロリン諸島、ミクロネシア連邦のヤップ州にある22の小島。島々は東西8km、南北5kmの環礁のなかに点在しており、各島の海抜は1mから3mしかありません。
この「ウォレアイ環礁」で大日本帝国陸海軍は大きな悲劇に見舞われる事となります。
住人は120人
日本海軍はこの島に滑走路を造り、陸軍部隊も上陸して守備に就いたのであります。
ウォレアイ環礁で一番大きなフララップ島には、海軍のつくった滑走路が現在もそのまま残っていて、軽飛行機の離発着に使用されているそうです。写真にはフララップ島の向こう側にマレヨン、タガイラップ、スリアップの各島が見えています。
この環礁の島々は大東亜戦争中、なぜかまとめて「メレヨン島」と呼ばれていました。
南太平洋の激闘に敗れ、戦線を縮小して「絶対国防圏」の防御に賭けた大日本帝国軍はマリアナ諸島での戦いに備えます。昭和19(1944)年2月29日に海軍の第68警備隊・第49防空隊と第4施設部が輸送船「新興丸」でメレヨン島に到着、飛行場の建設を始めたのです。これらの部隊は司令宮田嘉信海軍中佐のもとに海軍第四四警備隊になります。
4月になると陸軍の「メレヨン守備隊」がさんざんな苦労の末に到着(松江丸・木津川丸・新玉丸の輸送船3隻のうち一隻喪失、一隻大破)、他部隊も合流して「独立混成第五十旅団」(北村勝三少将)と改称して防衛体制が確立しました。
米軍の来襲を慮り、守備隊は当時島にいた住民約120人を環礁の南西端のフラリス島に集めました。もちろん戦いに巻き込むことを避けるためであります。
メレヨン島はサンゴ礁の島ですから、農耕には向きません。全島合わせても200人以上の生命維持は不可能だったと思われます。実際に独立混成第五十旅団は大発を使用してフラリス島に集めた住民に対して食料を供給していたほどです。
メレヨン島(ウォレアイ環礁)防衛隊は、陸軍が北村勝三少将を長とする独立混成第五〇旅団の3205人、海軍が宮田嘉信大佐が司令を兼ねた第44警備隊を中心に3221人、合計6426人を数えたのであります。
フララップ島には独立混成第五十旅団(通称:胆兵団)司令部と海軍司令部が置かれ、1100人以上の陸軍将兵、海軍警備隊・工作隊(詳細な人数は不明ながら1000名強)と滑走路建設のための労働者(軍属)がいました。
マレヨン島には陸軍歩兵第335大隊と砲兵隊の内各1コ中隊と旅団診療所があり(海軍の詳細は不明)、スリアップ島には独立歩兵第331大隊550人あまりと工兵隊の一部100人前後が分駐しました。
サイパン失陥
日本軍守備隊の上陸は、すぐさまアメリカ軍に察知されたようです。上陸直後から激しい爆撃と艦砲射撃に見舞われました。せっかく作った飛行場にも飛来する味方機はなく、守備隊は掩体を築く間もなく食料を喪失してしまいます。
昭和19年7月中旬にはサイパン島の日本軍守備隊が米軍の猛攻の前に玉砕、在島の民間人も多数が犠牲となってしまいました。次なる米軍の目標か、と身構えたメレヨン島の日本軍守備隊でしたが、アメリカ軍はメレヨン島を素通りしてしまったのです。
ただ周辺海域の制海権は完全にアメリカ軍に抑えられ、とても海上・空中から連絡を付けられる状況にはなりませんでした。連絡さえできませんから食糧の補給も途絶えて、日本軍守備隊は現地自活をせざるを得なくなってしまったのです。
隊員たちはトカゲ、ネズミはもちろん草の根も食べ尽してしまいます。小隊ごとにサンゴ礁を砕いて芋やカボチャを植え、爆薬を海に放り込んで魚を採るなど必死の努力続けたのですが、食糧は大いに不足。栄養不良からくる体の失調は風土病・伝染病を呼び寄せ、兵隊さんたちは次々に倒れて行ったのであります。
飢餓の島
防衛庁戦史室の調査に基づく数字を上げますと、配備された将兵計6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、死没したもの4800名(陸軍2419名・海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名・海軍840名)。
喪失率75%ですが、恐るべきはその内情であります。空襲による、つまり「米軍との戦闘」による戦死者は307人であったのに対し、栄養失調や伝染病等に倒れた死者は、4493人にも達しているのです。メレヨン島での戦没者のうち、実に97%が飢餓によるもの。
メレヨン島に上陸した日本兵のうち、7割がお腹を空かし体調を崩して敵兵と銃火を交えることもなく異郷の島(当時は日本の委任統治領でしたが)に散って行ったのです。
昭和20年9月17日、ようやくメレヨン島守備隊の1年半にわたる飢餓地獄に終止符が打たれました。アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着したのです。「高砂丸」は全ての生存者を収容して9月20日、メレヨン島を出発、9月25日の夕方に大分県別府市に入港し翌日全員が本土に帰還したのでありました。
日本へ生還できた守備隊員の内訳は、
陸軍では
将校188人中、戦死5人・戦病死57人・生還者126人=死亡率32.9%。
下士官554人中、戦死20人・戦病死319人・生還者215人=死亡率61.1%。
兵2463人中、戦死107人・戦病死2018人・生還者445人=死亡率86.2%。
海軍の数字が今一つはっきりしませんが、陸軍の場合と大差ないものと考えても良いと思われます。
つまり、メレヨン島では軍隊内のヒエラルキーによって明らかな死亡率の違いがあったのです。その原因は、もちろん士官・下士官・兵の間にあった「配給量の差」です。
士官に多く、兵に薄く分配された食糧は一見不公平であり、非民主的です。
また、島内では他の隊の畑を荒らしたり、食糧を独り占めしたと噂の将校を襲ったり、といった「犯罪」を裁判抜きで銃殺する「事件」もありました。
しかし非常に少ない食糧を「なるべく長期間戦力を保持できるように、公平に分配する」とすれば、メレヨン島の司令官たちがやった方法しか無いのです。
例えば壮健な兵だけを選んで十分に食わせるとすると、誰がだれを選抜しても不公平感が残りますし、士官が弱るとともに部隊の統制が取れなくなってしまいます。
「事件」の発生と現実になってしまった士官の死亡率の低さなどをもって「敗戦寸前に追い込まれた帝国陸海軍は士気も規律も低劣になっていた」などと大日本帝国をdisる人たちが、敗戦後すぐから現在に至るまで湧きつづけていますが、本当に腹立たしい事です。
文部大臣安倍能成
メレヨン島の飢えた兵士たちが、それぞれの郷里にやっとの思いで帰り着いた頃、時の幣原喜重郎内閣の文部大臣・安倍能成(あべ・よししげ)が雑誌『世界』の昭和21年2月号に「メレヨン島の悲劇」と題する一文を寄稿しました。
メレヨン島生き残りの兵士からの手紙を紹介する形でこの「不公平な生き残り」を大批判したのです。
安倍能成は戦前から自由主義的教育者・文学者として知られた人物です。京城帝大の教授として朝鮮人蔑視を戒めたり、一高校長として高等学校教育の年限短縮に反対したりと「戦争中は憲兵隊にマークされていた」との記述がWikiにもあります。
「同島将校は食糧を独占してほぼ全員復員した」など、アタマから否定することが難しい、巧妙なる捏造。政府の公式見解ではないという逃げ道を用意しつつ、文部大臣の地位と権威を利用して「雑誌の記事」で日本軍をdisる。
今のパヨチンどもの幼稚なやりくちと同じ事でしたが、敗戦の反動もあって反軍思想に染まりつつあった日本のメディアは、この「自由主義者」の告発に善悪の見境なく飛びつきました。
次々に拡散される雑誌・新聞の報道で国民の怒りは生き残り将校たち、とりわけ海軍の司令・宮田嘉信大佐と陸軍の旅団長・北村勝三少将に向けられたのです。
沸き立つ国民の怒りに政府も放置は出来ず、ついに復員局法務調査部が調査に乗り出す事態となります。慎重な聞き取り調査の結果、
「メレヨン島守備隊が置かれた状況からすれば、食糧統制を乱す行為に対する処罰やむなし、将校の責任を問う根拠なし、食糧分配の方法に違法性なし」
つまりメレヨン島での「不公平」は法的には全く問題ない、との結論を得たのであります。
「自由主義者」に踏みにじられた
しかし、この結論は遅すぎました。この年(昭和21年)の7月18日、残務整理を終えた海軍側の司令・宮田嘉信海軍大佐は割腹自決してしまいます。
安倍能成はこの事態を受け、2日後の「時事新報」に「メレヨンの悲劇について」を寄稿して逃げを図ります。
大臣としての見解ではなく、またしても雑誌へ投稿。それもある士官の「兵は唯己一人のみを考へればよかったが、将校には部下があり、任務があって良心的将校は絶えず部下のこと、任務等が念頭を離れなかった」と言う言葉に対して「そういふこともあらう。」と完全に上から目線。
申し訳ない、なんて気持ちはこれっぽっちも感じられないこの投稿で、メレヨン島守備隊には「劣化大日本帝国軍」のレッテルが決定的に張り付けられることになってしまいました。
この騒然たる状況を横目に、メレヨン島での最高位者だった陸軍の北村勝三少将は亡くなった部下の遺族を訪ね、全国を巡ること2年。昭和22年の敗戦記念日を待ってコチラも割腹自決をなさったのでありました。
もちろん、メレヨン島での食料分配には批判があると思われます。私も、もう少しやり方があったのではないか?いくらなんでも士官の生存率は高過ぎるのではないか?という疑念は捨てることができません。
しかし大日本帝国の陸海軍として、「規律が守られていなかった」とか「統制が取れていなかった」とか「士気はすっかり崩壊していた」とか言った評価には全く同意できません。
何故かと言えば、メレヨン島ではこの凄惨な飢餓状態にも関わらず人肉食の報告は全くないからです。メレヨン島の大日本帝国の兵隊さんたちはどんなに苦しくても、人間としての一線だけは越えていません。
さらに驚くべきことは、環礁南西端のフラリス島に集めた約120人の住民からは餓死者が出ていない事実です。大日本帝国の軍人たちはどれほど飢えても、原住民の食糧にまで手を出したりしなかったのです。
それどころか、島民と乏しい食糧を分かちあっている隊もありました。
このために、訪れる遺骨収集団は住民の人たちからの手助けを受けやすいそうです。
安倍能成は文部大臣退任後に長く学習院院長を務める(つまり今上陛下の恩師)など、世間的には認められた存在ではあります。しかし、ついに自分が火をつけたメレヨン島守備隊への誹謗中傷を修正することはありませんでした。
メレヨン島への布陣を命じ、十分な補給も出来ず、米軍への投降も命じなかった大本営なり陸海軍大臣なりを批判するなら判ります。しかし事情を(おそらく)知りながら、短絡的な「不公平」批判をすることなどは許されてよい事でしょうか?
最後の補給
メレヨン島(ウォレアイ環礁)には、一度も補給が無かったわけではありません。海上を移動する貨物船や輸送艦では警戒網を突破することはおぼつかない為、海軍が開発した「潜輸大型」潜水艦(丁型とも)を5隻投入し、4回の輸送に成功しているのです。
伊362:昭和20年1月1日に 横須賀を出港してメレヨン島へ。1月18日、カロリン諸島東方沖合で米護衛駆逐艦「フレミング」の攻撃を受け沈没。
伊363:昭和19年10月9日横須賀出港、トラック経由メレヨンへの輸送任務成功。
伊366:昭和20年1月29日横須賀出港、トラック経由メレヨンへの輸送任務成功。
伊369:昭和20年4月16日横須賀出港、トラック経由メレヨンへの輸送。帰途、軍属の一部・不時着した2式大艇乗員を乗艦させて無事帰国。
伊371:昭和19年12月30日横須賀出港、トラック経由メレヨンへの輸送任務成功。昭和20年1月18日トラック着、25日メレヨン着。1月31日メレヨン発、以降消息不明。
潜輸大型は基準排水量1440トン(水中2200トン)、乗員55名。水中での行動時間が40時間もありましたが、その貨物の搭載量は90トン(他に艦外に20トン)だけ。すべて食糧を積んでも6500名の待つメレヨン島には焼け石に水ではありましたが、乗員たちは米軍の攻囲網を必死の思いでくぐり抜けて環礁を目指したのでした。
大東亜戦争中に最後にメレヨン島に食糧を届けたのは、上記のように伊369潜でありました。
伊369潜は環礁内に碇泊して揚陸するのは危険性が高いこと、点在する各島へなるべく近い位置を取る、という二つの理由から環礁北側の外洋に漂泊しながら揚陸作業を行いました。
メレヨン島北側は、西行していた南北の両太平洋海流が反転・合流して赤道反流となる海域に当たっています。潮の流れは複雑となり、漂泊するにも艦位の保持が大変だったと思われますが、クルーは希少な食糧を効率的に守備隊に届けるべく奮闘いたしました。
横須賀出撃から3週間、さしものサブマリナーも疲弊していた筈ですが、メレヨン島の兵員の衰弱ぶりはそれ以上。やむなく守備隊の大発に潜水艦側が乗せ換えてやることになります。
伊369潜は定員55名、載せてきた食糧は60トン。一人1トン以上を米軍機の飛んでこない夜間に揚陸し、発見される前に潜航しなければなりません。
しかも伊369潜には特別任務がありました。特別攻撃隊「梓隊」の先導を務めた二式大艇が不時着水しており、このクルーを内地に連れ戻すことが一つ。その上にメレヨン島にいる軍属をなるべく多く同行させる事でありました。
軍属のうち収容すべき候補者の選定もまた艦側に一任されました。時間も無い事でしたので、体力測定を行い健康そうな者を三十名選んで収容することにしたのでした。それでも骸骨に人間の皮を被せたような人ばかり。
帰国の途についた伊369潜でしたが、大災難がおそいました。
メレヨンで収容した軍属が、乗員の制止を振り切って非常食の乾パン(乾面皰)を大量に食べてしまったのです。栄養失調の軍属たちはたちどころに全員下痢に。
もともと少ない潜水艦のトイレは即満員、とても待ち切れない者たちは通路でも居住区でもあたり一面垂れ流しとなってしまいました。
密閉空間の艦内には悪臭とメレヨン島の風土病であるアメーバ赤痢の病原菌が漂ってしまったのです。
元気のよい者だけ選んだと言っても、既に完全な栄養失調に陥っていた便乗者たち。その上の下痢で2人の軍属が命を落とす事になってしまいました。飢餓地獄から運よく脱出できたのに、空腹を満たしたことで祖国前に自ら命を縮めるとは。
軍艦で「戦死」したものは水葬とするのが習い。遺体を毛布でくるんで海に流すのですが、栄養不良の身体はあまりに軽すぎました。毛布のわずかな浮力に支えられて遺骸は一向に沈みません。
日本に帰りたい!という執念で浮いているように見えるその毛布のまわりを、伊369はいつまでも離れることができなかったそうです。
離島は守らなければならないのか?
メレヨン島は大日本帝国にも米軍にも放置され、ただただ兵隊さんが飢えるだけの「戦場」になってしまいました。
もし米軍が上陸してきたとしても、これを拒止するどころか6000名以上の損害を与えられたとは思えません。
大東亜戦争の敗因を「離島に貴重な戦力を分散配置した」事に求めるご意見も根強いですし、現在の国防を考えても「離島の防衛」は大きな問題です。
しかし私は不利になるからと言って、離島の防衛を放棄することには絶対反対です。日本軍(自衛隊と仮称中)が考えているように、一旦占領させて取り返すことも良くはありません。
何故かと言えば、離島にも日本人が暮らしていてその人々の暮ら生活と財産があるからです。軍隊の任務は「国民の生命・財産を守ること」しかありませんから。
でも、その有効な方策は?第二のメレヨン島を出さない戦法は?
私には未だに判りません。
皆様のご意見をお待ちいたします。
下士官や兵を減らさないのが将校の役割でしょう。それを飢えさせては自分達が生き長らえてどうする。帝国軍人の風上にも置けぬ。