報国丸と愛国丸とコルモラン
大日本帝国は「海運帝国」でもありました。政府の海運増強策と日清・日露の両戦争での特需をきっかけに、早くも明治末から大正初期にかけて、日本の海運業は世界の一流海運国に伍する地位を確立していました。
優秀船舶建造助成施設
我が国の船腹は、第一次大戦中に英米に続く第三位となりました。これほどの海運業の発展は当然のように造船業の飛躍を招きます。軍艦の国産化ともあいまって、大日本帝国の造船産業は欧米列強のキャッチアップを果たしてさらなる進化を窺うまでになっておりました。
しかし、経済は良い時ばかりではありません。昭和4年にアメリカで端を発した世界恐慌は大日本帝国をも襲いました。この後始末(の一つ)として実施されたのが「船舶改善助成施設」と言われる政策で、要はスクラップ&ビルドを条件に新造船に対して巨額の公的助成を行い、海運業界と造船業界を支援しようというモノでした。
これで両業界は再び発展の道を歩き始めるのですが、一方では新たな戦雲が太平洋に広がりつつありました。そこで「船舶改善助成施設」の発展的な継承策として「優秀船舶建造助成施設」が採用されたのです。
従来の対象が貨物船だけだったのを客船にも拡大し、スクラップの条件を撤廃する代わりに、速力19ノット・6000トン以上など大型高速船の建造を促進するモノでした。
その他の条件としては、①船籍を内地・朝鮮・台湾・関東州のいずれかにすること②内地の造船所で建造し、資材・機関・艤装品は原則として国産品を使用すること③設計に際して船体とスクリューの模型による水槽試験を実施すること④外国人船員を乗務させないこと、などでした。
このような施策は我が国のみならず、欧米各国でも大規模な商船隊保護政策が行われています。イギリス・フランス・アメリカ合衆国・イタリアで造船資金の補助や融資ばかりか遠洋航路の運航経費にお金を出したりしているのです。
各国とも、戦時の対応が前提で、当然我が国も非常時には陸海軍が徴用するのが大前提でした。
これによって、続々と優秀な貨客船が我が商船隊のラインアップに登場し、その優秀船たちは戦時に徴用されて護国の鬼となっていったのです。
この項の主人公、報国丸・愛国丸姉妹もそんな「優秀船」の一隻でありました。
南アフリカ航路
報国丸型は大阪商船がアフリカ航路向けに建造した高速貨客船で、「報国丸」「愛国丸」「護国丸」の3隻が優秀船舶建造助成施設の補助を受けて建造されました。護国丸は起工の時は「興国丸」という名前でしたが、長姉の「報国」と間違えやすいので名前を変えています。ちゃんと考えてネーミングしろよな。
「報国丸」の完成が昭和15(1940)年の6月、二番船「愛国丸」は翌昭和16年9月の竣工。「報国丸」は大連への完成披露航海のあと、7月17日には初回の南アフリカ航路についたのでした。
「報国丸」の豪華客船らしい華やかな活動はこれっきりで、後は政府の指導で大連航路に貼りつく事になります。これは開戦時に優秀船が海外の港に取り残されることを嫌ったためと言われています。
一度だけでも本来のアフリカ航路を経験した「報国丸」はまだマシで、「愛国丸」に至っては竣工の翌日に日本海軍に徴用されています。公試運転の時から徴用が決まっていましたので、グレー系統の「軍艦色」で塗装されていたほど。
ただ、徴用後には船体に白塗装と白線、煙突も黒と白の平時塗装が施されました。
続いて「報国丸」も徴用され、2隻は「特設巡洋艦」としての艤装を施されます。この艤装で両艦は15センチ砲8門(後に軽巡用の14センチ砲に換装)と魚雷発射管4基・水上偵察機2基を備えた特設巡洋艦として、第24戦隊(武田盛治少将)を編成、フィジー・サモア方面からインド洋で通商破壊に投入されたのであります。
たかがタンカーに(泣)
第24戦隊は太平洋で3隻、インド洋では第8潜水戦隊の通商破壊潜に補給を行いながら2隻の敵貨物船を拿捕したり、撃沈したり。
商船を装いつつ敵船に近づく、我が海軍としてはいささか「姑息」な襲撃でしたが、これこそ仮装巡洋艦の戦い方。甲板では無精ひげを伸ばした水兵さん達が女装して敵船員を欺いたと言われますが、これは確実な史料が見つかりません。
一旦シンガポールへ引き上げて整備・補給を行って、報国丸と愛国丸は昭和17年11月1日、再び通商破壊を行うためスンダ海峡を抜けてインド洋に出たのでありました。
11月11日、「報国丸」はインド植民地海軍(イギリス)の掃海艇「ベンガル」とオランダの油槽船「オンディナ」に遭遇しました。愛国丸はやや離れて索敵中のことです。
報国丸は停船命令を発しながら接近しました。「ベンガル」は75ミリ単装砲1基に機銃の軽武装ながらさすがに「軍艦」でした。
「オンディナ」を逃がそうと前に出ると抵抗を開始。「オンディナ」も逃走しつつたった一門の10センチ砲を発射したのです。「オンディナ」の10センチ砲は船尾に隠すように搭載しており、報国丸は不用意に接近しすぎてしまったようです。
「オンディナ」の砲撃は正確で、報国丸に数発が命中します。この被弾によって報国丸の後部船体で火災が発生、火災は瞬く間に広がり魚雷発射管内の魚雷と搭載した水上機にも延焼、誘爆も始まってしまいました。
徴用を前提に造られたとはいえ、ダメージコントロールまでは注意が払われていなかった「報国丸」は、こうなるとひとたまりもありませんでした。
このころ、連絡を受けて駆け付けた「愛国丸」が現場に到着しましたが長姉を助ける事は出来ませんでした。「ベンガル」を追い払い、「オンディナ」を砲撃で撃破して「報国丸」の乗員を救助したのでありました。
「オンディナ」は一旦乗組員が避難するほどの損害でしたが、この海戦が終わってから乗組員たちがフネに戻り、自力で港に戻ってしまいました。
特設輸送艦に
この「報国丸」喪失をわざわざ取り上げたのは、大日本帝国海軍がこの「事件」で特設巡洋艦(仮装巡洋艦)による通商破壊を諦めてしまったからです。もともと通商破壊に熱心でなかった(裏返しに通称保護にも無関心でした)のですから仕方ありませんが、とても残念なことだと思います。
残された「愛国丸」は魚雷などを下して「特設輸送艦」に変身し、南方での苦しい輸送任務に従事します。時には敵潜に襲われながら、特設巡洋艦時代から残っていた水上機で反撃して窮地を脱したりしています。
地道に頑張った「愛国丸」でしたが、昭和19年2月にトラック泊地で荷役中にミッチャー中将指揮の第58任務部隊艦載機による波状攻撃を受けました。
第一波の攻撃で爆弾一発命中。これは烹炊所で爆発し応急修理も、第二波攻撃で船体前部に直撃弾があり、搭載していた弾薬が大爆発を起こして沈没してしまいました。
「愛国丸」の最後はともかく「報国丸」は、大日本帝国海軍ともあろうものが、なんとも惨めな油断(それまでの通商破壊戦が勇敢であっただけに、余計に惜しまれますね)としか言いようがありません。
でもね、第二次大戦中にはもっともっとお間抜けな油断をした巡洋艦があるのです、もちろん敵側です。
初代はあの有名な
オーストラリア海軍に「シドニー」という軽巡洋艦がありました。オーストラリア海軍としてはかなりの「名跡」で現代まで代を重ねること4代(現在「シドニー」は在籍してないようですが)。
それもその筈で、初代の「シドニー」は第一次大戦のときに活躍した軽巡で、かの有名な通商破壊艦「エムデン」を討ち取った殊勲艦なのです。5400トン、石炭混焼で25.5ノット。
問題の2代目は6980トン、32.5ノット、15.2cm砲連装4基8門、10.2㎝高角砲4門、魚雷発射管2基。イングランドで建造されているところを買い取られた一流の巡洋艦です。
第二次大戦が始まってから地中海やその奥深くエーゲ海に踏み込み、ロイヤル・ネービーの一員として戦っていた2代目「シドニー」でしたが、昭和16(1941)年になると本国オーストラリアに舞い戻りました。
本国の近くもキナ臭くなり、インド洋にもドイツの通商破壊艦が出没するようになってきたためでしょう。11月までインド洋の船団護衛に従事していた「シドニー」は運命の11月19日、オーストラリア西部シャーク湾沖170カイリに差し掛かったのであります。
オランダ商船?
「シドニー」は一隻のオランダ船を発見しました。この船、実はオーストラリアのパースの港口に機雷を敷設しようと航行中だった、ドイツの仮装巡洋艦コルモラン(15cm砲6門他)でした。コルモランはオランダ商船旗を掲げて偽装していたのです。
コルモランは16:00頃、相手より先にシドニーを発見していました。仮装巡洋艦は商船を攻撃するのが仕事です。まともに武装した軍艦相手では完全に不利(装甲がありませんから)なので、西に進路を変更し逆光に紛れて発見されない様にしていました。
最高速で逃げ切ろうとしたのですが、ピストンロッドが破損していて14ノットしか出せなかったのです。
シドニーの甲板には非番らしい乗員があちらこちらにたむろしていたようです。
ようです、というのはシドニーの戦闘詳報は残っておらず、戦闘の模様を証言する生き残りもいないからです。いけね、ネタバレしちまった(笑)。
それでもシドニーはなんとかコルモランを発見し、とりあえず「オランダ商船」を誰何することにいたしました。船籍その他を尋ねられたコルモランはオランダ商船「ストラートマラッカ」である、と信号旗で主張。その信号旗もシドニーからは煙突の陰になるところに揚げたりして90分もの時間を稼ぎました。
コルモランの前身の貨客船「シュタイエルマルク(銀英伝に出てきますな)」は、典型的な三島型の船型です。武装はちょっと見ただけでは判らないように偽装されていました。逆に言えば、偽装しているカバーを外さないと(機械力で出来るようになってたようです)戦えませんので、時間が必要だったのです。
戦端開く
17:00になると、シドニーはコルモランの右舷に1.3キロまで接近しました。コルモランの戦備も整い、そのチンケな砲力でも充分に威力が発揮できる距離にまで迫ってきたのです。「コルモラン」の主砲は45口径の15cm単装砲6門。射程19,600m、発射速度は毎分5~7発。
それでもコルモランは逃げ切りを図りました。「不審船発見」と無線で発信したのです。これは「不審なドイツ艦艇だ、襲撃されそうだ」というメッセージです。これをわざと「シドニー」に受信さて「コルモラン」が連合国側の商船であると思わせようとしたのです。
「コルモラン」からは「シドニー」の艦上で偵察機の射出準備をしている様子も発見されていましたが、射出は行われなかったようです。これは報国丸とも共通する大油断です。
艦載機の射出はパイロットの負担や回収の時間を考えると、やりたくない気持ちは判りますけどね、上空からだと、見たくなくても見えるだろって事ですよ。
「シドニー」は目的地を無線で問い合わせて来たので「コルモラン」はバタヴィア(現ジャカルタ)と返信します。続いてシドニーは「IK」という二文字だけを送信してきました。
これは連合国の取り決めでして、各船舶には4文字の秘密コールサインがあったのです。船名確認のために、誰何する側は真ん中2文字を送り、誰何される方は4文字すべてを返すシステムです。オランダ船「ストラートマラッカ」には「IIKP」があてがわれていました。
本物の「ストラートマラッカ」なら「IIKP」と返信しなければいけないのですが「コルモラン」には判る筈もありません。
ここに至り、「コルモラン」はついに戦闘モードに突入するのであります。17:30、ついにオランダ国旗を降ろし、ドイツ海軍旗を揚げて15cm砲や魚雷発射管を隠していたフラップを解放、対空砲座もせり上げて戦端を開いたのであります。
その時「シドニー」の主砲は「コルモラン」を指向していたのですが、未だに総員配置は命じられていなかったようで、非番らしい乗員が甲板でウロウロしたままでした。
「コルモラン」の方は緊張感たっぷりで照準を合わせていますから、攻撃開始からすぐに、放った砲弾がシドニーの艦橋や発射管周辺に着弾。砲撃指揮装置を破壊してしまいます。魚雷も「シドニー」の1番砲塔と2番砲塔の中間に命中。
油断しまくっていた「シドニー」もようやく反撃し、「コルモラン」の機関室に火災を発生させます。
「コルモラン」の15cm砲は550発(一門あたり100発弱)も発射し、そのほとんどが「シドニー」の各部に命中し、火災も拡がってやがて全火砲が沈黙しました。
「コルモラン」の方も消火設備が破壊されてしまって役に立たたなくなっていました。
「シドニー」は軽巡らしく鋭く旋回し、衝突するコースに乗せてきましたが「コルモラン」は巧みな操艦で逃れます。距離が離れるとシドニーは魚雷を4発放ちますが命中せず、「シドニー」は全艦炎上しつつ南南東にゆっくりと消えて行ったのでありました。
相打ち
ドイツの仮装巡洋艦「コルモラン」の方も機関室の火災が機雷庫にまで及び、ついに艦長が総員退去を命令します。やがて機雷が誘爆し始め、11月20日00:30に沈没してしまいました。
393人の乗員は80名が死亡か行方不明になったものの、残り300名以上がボート・救命筏などでオーストラリアの西海岸に到着し、捕虜となったのでした。
オーストラリア海軍はこの「コルモラン」乗員の証言で「シドニー」の捜索を開始したのですが時すでに遅く、「コルモラン」の取り残された乗員を救助しただけに終ってしまいました。シドニーは645人の全乗員と共に姿を消してしまったのです。
戦闘の様相はドイツ人の捕虜の話から聞くしかなく、なぜ戦闘力の高い軽巡洋艦の「シドニー」が仮装巡洋艦ごときの攻撃でやられてしまったのか、オーストラリア人には納得出来かねる事態だったようです。
日本の潜水艦が潜んでいて、魚雷で「シドニー」を沈めたと言う説がまことしやかに語られたりしているのです。
オーストラリア人よ、悔しくても恥ずかしくても、ご先祖が遺してくれた戦訓は正面から受け止め、消化し、考えなくてはならんぞ。
それは私ども日本人もやらねばならぬことだけどな。