重巡「熊野」の最期1

重巡熊野の野戦

海軍は大小さまざまな艦艇でその戦力を構成しています。その中でも重巡洋艦に心惹かれるネービーファンは多いでしょう。もっとも均整の取れた美しさの中に秘めた破壊力と耐弾性能。水兵ゴコロを刺激して止みません。

重巡はお好き?

「重巡洋艦」のカテゴリーが確立されたのは、例によって軍縮条約です。
排水量1万トン以下、主砲は8インチ(20センチ)以下と規定され、各国の割り当て排水量が決まっていましたので、隻数もこれによって制限されました。

このカテゴリーが戦艦・巡洋戦艦を意味する「主力艦」に次ぐ戦力を持った艦種でしたが、主砲はいかにも非力です。主力艦の数では英米に見劣りする大日本帝国海軍が、重巡の砲力以外の能力を引き上げようとしたのは当然の成り行きだったと思われます。
つまり水雷兵装で戦艦をも屠りうる実力を与え、速力は戦艦を遥かに上回り、航洋力に優れ、小回りも利く。
案外忘れられているのが、当時としては十分に生残性も考慮されてましたよ、ってことであります。

今回はその粘り強さの証明となる、複雑きわまる最期を遂げた重巡「熊野」のお話をさせていただきましょう。

「重巡洋艦」熊野

「熊野」は最上級重巡洋艦の4番艦として昭和12(1937)年に竣工しました。「最上級」は建造当時は軽巡洋艦カテゴリーの15.5cm砲(3連装×5基)搭載艦(重巡の枠が無かったため)でしたが、昭和14年に主砲を20cm砲連装に換装しました。これで「熊野」は晴れて重巡となったわけですが、海軍の分類上は「二等巡洋艦」(軽巡洋艦)のままでした。

全力公試中の一番艦「最上」193昭和10年

全力公試中の一番艦「最上」193昭和10年

「最上級」の15.5cm砲塔は折から建造中の「大和級戦艦」の副砲塔として利用されることになります。
熊野は「最上級」の同型艦とされていますが、三番艦の「鈴谷」とともに第四艦隊事件で発覚した船体強度の不足を是正していますので、先行の「最上」「鈴谷」とは船体の設計が異なっています。ボイラーも仕様変更され、そのために一番煙突が少し細くなりました。

基準排水量12,000トン、全長200.6メートル・全幅20.2メートル、35.36ノット、20.3センチ(50口径)連装砲5基10門・12.7センチ(40口径)連装高角砲4基8門・61センチ3連装魚雷発射管4基(九三式魚雷24本)など(武装は改装後)

排水量が条約の規定を越えちゃってますが、当然1万トンって発表してるわけで。どこの海軍もやってることで、軍艦の重量なんて実測出来る訳ないですから、別に問題にもなりません。

「熊野」の話をするとミッドウェイでの栗田提督の指揮ぶりから語りたくなりますが、それはまた別の記事といたしましょう。「熊野」は太平洋を暴れまわって、ついに史上最大の海戦に出撃するのであります。

熊野昭和13年

昭和13年撮影の「熊野」

フィリピン攻防

昭和19年10月23日から25日にかけて、フィリピン奪回を目指すアメリカ海軍と、これを阻止しようとする大日本帝国海軍の間で壮大な規模の海戦が生起しました。

大日本帝国側の投入兵力は航空母艦(小型空母含む)4、戦艦9、重巡洋艦13、軽巡洋艦等6、駆逐艦34。
対するアメリカ側はオーストラリア海軍も含めて航空母艦17、護衛空母18、戦艦12、重巡洋艦11、軽巡洋艦15、駆逐艦141。

圧倒的なアメリカ艦隊に対し、戦力的に見劣りする日本側は残されたわずかな機動部隊をおとりに使い、禁断の一手・特攻まで投入して、レイテ湾で揚陸する米輸送艦隊を殲滅することに作戦目標を絞りました。
いや、本当は絞り切れてないんですが、この期に及んでも。それを話しちゃうとこの記事の主題に入れないんで、また後日。

捷一号作戦の海戦図

捷一号作戦の海戦図

重巡「熊野」は栗田艦隊(第一遊撃部隊=1YB)の一隻として、シブヤン海の空襲を無事に切り抜け、小沢艦隊に北へと釣り出されたハルゼー艦隊の隙を突いてレイテ湾に迫りました。

この時点の栗田艦隊の戦力は戦艦4、重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦11です。
戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15を誇った艦隊も、大戦艦武蔵がシブヤン海で潰され(駆逐艦2が支援のため分離)た他に重巡「摩耶」「愛宕」が潜水艦の雷撃で沈み、重巡「高雄」も雷撃で大破して駆逐艦「朝霜」「長波」の2隻の護衛で離脱。
重巡「妙高」もシブヤン海の空襲で魚雷1発を貰ってブルネイへ帰投していました。ここまで「熊野」は爆弾一発を貰っていますが、幸いにも不発。

10月25日の06:45、戦艦大和(矢矧の説もあり)の見張り員が距離35キロにマストを発見します。C・スプレイグ少将指揮の護衛空母群(タフィ3)でありました。
栗田は直ちに攻撃を下令、太平洋海戦史上唯一の戦艦対空母の対戦が始まったのです。

被雷

優勢なアメリカも、ここサマール島沖で接近戦に持ち込まれるとスプレイグ艦隊は圧倒的に不利でした。

タフィ3の戦力は護衛空母「ファンショー・ベイ」(旗艦)「セント・ロー」「ホワイト・プレインズ」「カリニン・ベイ」「キトカン・ベイ」「ガンビア・ベイ」の6隻を中心に、駆逐艦「ホーエル」「ヒーアマン」「ジョンストン」、護衛駆逐艦「デニス」「ジョン・C・バトラー」「レイモンド」「サミュエル・B・ロバーツ」

米海軍の護衛空母のコードは、正規空母の「CV」にEscort(護衛)を付けた「CVE」ですが、水兵さんからは燃え易い(Combustible)、壊れ易い(Vulnerable)、消耗品(Expendable)の空母だと言われていました。

カサブランカ級護衛空母

カサブランカ級護衛空母

別名をジープ空母ともベビー空母とも呼ばれた、低速低性能の「空母」だったのです。栗田艦隊にはそんな事は知る由もありません。ここまで恨み重なる敵正規空母!とばかりに大戦艦「大和」を筆頭に突撃します。何しろ、搭乗員以外に敵空母をその目で見る機会なんてまずありませんからね。

おそらく、ですがこの誤認の原因はアメリカの護衛空母のカタチにあると思います。小さいくせにアイランド型、つまり甲板上に艦橋があるからだと推測しています。我が国の軽空母は平甲板ですから。

サマール島沖で砲撃を受ける空母ガンビア・ベイ

サマール島沖で砲撃を受ける空母ガンビア・ベイ

アメリカの駆逐艦・護衛駆逐艦も見上げたモノで、我が巨艦群の突撃にもひるまず、護衛空母を守ろうと果敢な反撃を試みます。タフィ3の進行方向にはスコールがあり、ベビー空母たちをこの中に逃げ込ませて煙幕を展張して栗田艦隊から隠そうとしたのです。

サマール沖で煙幕を展張する護衛駆逐艦

サマール沖で煙幕を展張する護衛駆逐艦

フレッチャー級駆逐艦の「ジョンストン」はその煙幕から飛び出し、日本の重巡部隊(第七戦隊/白石万隆少将・「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」)に挑戦しました。突撃をかけてくる日本巡洋艦群に対して、体を張って阻止を試みたのです。

フレッチャー級ジョンストン

フレッチャー級「ジョンストン」

日本艦隊に反航しながら5門の主砲射撃を開始、さらに5連装発射管2基から10本の魚雷を発射。その距離9000メートル、取りあえず撃てるモノは全部撃っちゃえ、って感じですね。
この時、「熊野」は不運にも護衛空母群から緊急発進したアベンジャー雷撃機の攻撃を受けて魚雷回避。回避した先に「ジョンストン」が放った魚雷が迫っていたのです。

ミッドウェイで被弾したTBFアベンジャー

TBFアベンジャー(ミッドウェイで被弾した機体)

07:25。「熊野」見張り員は左舷に突進してくる3本の雷跡を発見、ただちに回頭したものの、1本を避けることが出来ずに左舷艦首一番砲塔直前に命中、大音響とともに艦首錨孔より前を吹き飛ばされてしまいました。

「ジョンストン」はこの戦果にも満足することなく戦い続け、2時間もの間、戦艦「榛名」や駆逐艦多数の攻撃を一身に引き受け、ついに撃沈されました。

「熊野」は味方が敵空母を追い詰めつつある洋上に停止してしまいます。吹っ飛ばされた艦首の応急防水処置が開始されました。同時に第七戦隊司令部の移乗もおこなわれ、戦隊司令部は前方1キロほどを微速で進んでいる「鈴谷」にカッターで移乗していきました。
残された(見捨てられた?)「熊野」では応急作業が実を結びなんとか12ノット発揮が可能になっていました。

誤爆

「熊野」はほとんど戦闘能力を失った状態となり、戦場を離脱する以外にありませんでした。栗田艦隊は乱戦の真っ最中で、傷ついて逃げ帰ろうとする巡洋艦に駆逐艦を付けてくれるわけもありません。「熊野」は12ノットという速度で米軍航空機が飛び回る戦場から単艦で逃れることになったのです。

たった1艦で西に向かっていた「熊野」は、友軍機に出会います。水上偵察・爆撃機「瑞雲」が3機と艦上攻撃機「天山」1機。

愛知航空機瑞雲

「瑞雲」愛知航空機の傑作

友軍機は次々と「熊野」に襲い掛かかってきました。幸いにも命中弾はなかったものの、敵味方の識別も出来ない搭乗員に「熊野」乗組員達は絶望を感じたのではないでしょうか。

17:15、今度は本物の敵機が襲い掛かってきました。雷爆混成の35機。「熊野」は防空戦闘を開始。行き足が落ちている「熊野」でしたが的確な運動で魚雷と爆弾を全て回避、30分に渡る空襲を一発の被弾もなく切り抜けたのでした。

翌日(10月26日)の08:05、ミンドロ島の南まで移動してきた「熊野」に、アメリカ艦載機が襲ってきました。今度は雷・爆に戦闘機も加えて30機。
そのうち爆撃機3機が朝日をバックに急降下してきました。3発の小型爆弾が艦橋左舷の基部と一番煙突に命中。三番砲塔横の25ミリ機銃群が全滅、艦橋左舷の高射器・高角測距儀も全壊。
煙突の方は罐室にまで被害を及ぼし、「熊野」は航行不能に陥って1時間以上の漂流を余儀なくされます。

「熊野」が停止するとすぐにアベンジャー雷撃機が15機襲いかかってきます。「熊野」は主砲と高角砲の照準を雷撃運動を開始したアベンジャーの鼻先に集め、雷撃の照準を狂わせることに成功。停止したままで窮地を脱したのであります。

重巡「足柄」

重巡「足柄」

10時過ぎには応急作業が終了して、10ノット程の速力を出るようになりました。「熊野」はのろのろとコロン湾にむかって進みます。途中でレイテから後退してきた重巡「足柄」・駆逐艦「霞」と会同しその援護を受けてコロン水道を突破し16:00コロン湾に入港。
ここで燃料補給を受けてその日のうちに出港、10月28日06:00にマニラにたどり着くことが出来ました。

マニラにはたどり着いたものの「熊野」は既に満身創痍です。米軍は迫ってきます。果たして「熊野」は逃げ切れるのでしょうか?
ってもう結果はご存じですよね。でもね、「熊野」の粘りも大したもの、重巡「熊野」の最後2に続きます。

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