小空母のさだめ3~最後の機動部隊旗艦「龍鳳」~
昭和5(1930)年4月、年初から大英帝国の首都で開催されていた海軍の軍縮会議がついに決着致しました。「ロンドン軍縮条約」の発効であります。
ポッポのお爺ちゃんはやっぱり売国奴だった?
ロンドン軍縮条約は、ワシントン条約で取り残された補助艦艇の規制を主眼にしたモノです。海軍は対英米7割の兵力量を熱望しましたが、濱口雄幸内閣は逼迫する財政のために英米に妥協する道を選びました。
とは言っても、粘り強い交渉で対英米6.975割を確保して海軍の大勢(条約派)も「条約容認」でありました。しかし、艦隊派と呼ばれる一派は大いに反対します。ちなみに山本五十六元帥もこの時は最強硬の艦隊派であります。
この「ロンドン軍縮条約」を巡る確執が小空母「龍鳳」の誕生と運命に大きく関わって参ります。が、そのあたりは本文でコッテリ書きますので、ここではロンドン軍縮条約のちょっとナナメな見方と意味をご検討いただきたいと存じます。
この時、世界は大恐慌で英米も軍縮の必要に迫られていました。我が国はアメ公に比べると影響も少なく、最も早く恐慌から脱出した国の一つなのです。
そのこともあり、アメリカは我が国の1.5倍弱の補助艦枠を持ちながら、それを現実に活用するのは1940年になってからなのです(もっとも、その後は一年で我が連合艦隊1個分建艦する、とかしますけど)。
つまり、対米7割だろうが6割だろうが、どうでも良かったって事。向こうは制限いっぱいまでフネを造らねえんだから。
結果論ですけどね。
実は大日本帝国でこのロンドン軍縮条約の調印を最も喜んだのは、一部マスゴミや野党の立憲政友会なのであります。もちろん、国の財政を憂えてではありません。
立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎(アホポッポのじじい)や、枢密院の伊東巳代治・金子堅太郎などは、政府を攻撃する屁理屈を思い付いたんであります。
すなわち
「ロンドン軍縮条約における海軍兵力量の制限は統帥事項である。大日本帝国憲法第11条には『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とあり、政府が兵力量を大元帥陛下の承諾なく決定したのは憲法違反である」
と政府批判の大キャンペーンを張ったのでした。
濱口内閣の与党民政党は衆議院で多数党でしたので、条約の批准は無事にできたのでありますが、犬養毅や鳩山一郎(ポッポの祖父)が節操も熟慮もなく天皇陛下の「統帥大権」を政争の具にしてしまった(統帥権干犯問題)がために、後々いわゆる「軍部の暴走」に歯止めが掛からなくなってしまいます。
電脳大本営は大東亜戦争の原因は「軍部の暴走」なんかじゃないと考えていますが、「軍部」が憎くてしょうがないパヨクの皆さんも、ポッポの爺や犬養毅をもっともっと批判すべきでありましょう。
まあ、奴らは歴史を全く知りませんから、無理な注文ですね。
大日本帝国海軍はこんな事もあって、まっとうに条約を守る、または誰でもやる程度の違反で済ませる事では満足できなくなってしまいました。
改装空母用補助艦艇
ロンドン条約の主なポイントを上げておきましょう。
①1万トン以下の航空母艦についても規制の対象とする
②巡洋艦は重巡(対米6割)軽巡(対米7割)のカテゴリー別とした
③駆逐艦は1500トン以上の大型について厳しく制限(駆逐艦の中で16%以内、我が特型対策)
④排水量1万トン以下かつ速力20ノット以下の特務艦・排水量2000トン以下かつ速力20ノット以下で備砲6.1インチ砲4門以下の艦・および排水量600トン以下の艦は無制限
と言ったところですね。潜水艦にも保有制限があります(アメリカ有利でした)。
特に注目頂きたいのは④です。
600トン以下の艦は無制限ですから、ギリギリ600トンの艦に思いっきり重武装させて駆逐艦の代わりをさせよう、ってのが大日本帝国海軍の新カテゴリー「水雷艇」で、大日本帝国海軍の欠陥軍艦「トップヘビー」の代名詞となってしまうのであります。
さらに海軍は「排水量1万トン以下かつ速力20ノット以下の特務艦」に目を付けます。
この無制限条項を活かし、有事の際には航空母艦へ変身出来るフネをぎょうさん造っとこう!と考えたのでありました。
その第一号として企画されたのが潜水母艦「大鯨」、後の航空母艦「龍鳳」なのであります。
潜水母艦
潜水艦は艦内の容積が小さくて、大量の飲料水や食料が積み込めません。
それだけではなく、水兵さんたちの居住環境も劣悪にならざるを得ません。
現在の自衛隊の潜水艦なら一人に一つのベッドもありますが(そのベッドだけが個人のスペース)、大日本帝国の潜水艦には一人に一つのハンモックすらありませんでした。
閉鎖空間の艦内は湿度が高く、風呂もシャワーも使えず。
帝国海軍の精鋭とは言っても、血気盛んな兄ちゃんやおっさん達でありますから、くっさい体臭に加齢臭に屁の香り、つまりは得体の知れぬ悪臭が艦内に充満いたします。
「ドンガメ乗りなら当然」とは言え、こういう環境は優秀な水兵さんの能力を大きく削ってしまいます。
大日本帝国海軍はそのことが良く判っていましたから、潜水艦を本国から遠く離れた海域で活動させるに当たって潜水母艦を用意することにしたのです。
潜水母艦は燃料・武器・食料・飲料水などの補給や簡単な艦の整備が出来るだけでなく、潜水艦乗員の休養施設を持っているのが一つのキモなのです。
よく勘違いされますが、洋上での補給ではなく停泊しての支援なのです。が、港湾施設の整っていない環礁などでも支援、特に乗員の休養が可能になるメリットは大きいのであります。
大日本帝国海軍初めての潜水母艦は、日露戦争での拿捕商船を改造した「韓崎(からさき)」で、客船としての居住性の良さを生かしたモノでした。
続いて「駒橋」が運送船として建造中に改造されました。
「正規(その目的で企画・設計段階から計画された艦を指します)潜水母艦」としては八八艦隊計画で建造された迅鯨型2隻(迅鯨・長鯨)があります。
実験艦
迅鯨・長鯨が支援を行うと想定していたのは「呂号潜水艦」です。
呂号潜水艦は500トン以上1000トン未満の艦で、その後の潜水艦の大型化で支援に支障が出るようになり、新たな潜水母艦が必要になりました。
それで企画されたのが「大鯨」であります。
「大鯨」にとって不幸なことにその時期がロンドン条約後となったため、前述のように「空母への改造」が前提となってしまいました。
そのような性格を持った艦の建造は初めてでした。
海軍は事のついでに、と考えたのか「大鯨」に空母改造以外にも本邦初の企画をたっぷりと盛り込むことにしたのでありました。
まず設計そのものが当然、改造前提です。
有事には3か月で潜水母艦から航空母艦へと改造できるように、言うのが設計陣に課せられた大命題。
そのため、フネの上部構造物はなるべく平らにしています。
画像をご覧いただいて、邪魔なデカい煙突はダミーです。空母への改造時はこの部分の内部を格納庫とし、天井は飛行甲板になるようにしてあります。
さらに水上機用としてエレベーターを艦の後方に装備しており、そのまま利用できます。
艦橋(の一部)はそのまま空母になっても艦橋として使用(龍鳳は平甲板型)できるように設計されていたのです。
潜水母艦の特質である、潜水艦乗員用の休養施設はそのまま搭乗員の生活スペースに転用できますし、補充用兵器のスペースも転用可、整備用の施設もほぼそのまま使えますので、潜水母艦は航空母艦に変身しやすいって言えば、まあその通りなんです。
ただ、20ノットの速度制限は大きな障害です。
空母としては最低30ノットは欲しいですからね。そこで、大型艦としては日本海軍初のディーゼル駆動を採用しています。
ドイツの装甲艦ドイッチュラント級(ポケット戦艦)が採用・成功しているくらいで、大変先進的な取り組みです。
これは条約の規制を守り速力20ノットに制限するため、2台ずつのエンジンで1軸を回してやる「速度抑制策」の一面もあったのです。
さらに大きなチャレンジは、これも大型艦としては初の電気溶接の採用。
全船体を溶接で作るのは世界初挑戦とも言われています。
溶接技術を持った職人さんがその辺に転がっている時代ではありません。大量の溶接工をわざわざ養成しながらの建造となりました。
こうして「実験艦大鯨」は昭和8年(1933年)4月12日、横須賀海軍工廠で起工されたのであります。
空母へ
さてさて「実験艦大鯨」は建造で苦労して誕生することになったのですが、そこまで書いちゃうと脱線が過ぎますね。
今回は脱線しかしていませんが、電脳大本営は小さくても頑張ったフネと複雑な事情を持ってるフネが大好きなのでご容赦を。
潜水母艦としての苦労と活躍は飛ばします。たぶん、そのうち記事にすると思います。
昭和16年12月8日、大日本帝国はついに強敵に挑戦状を叩きつけます。
それと同時に潜水母艦「大鯨」は予定どうり空母に改造されることになりました。この年の12月20日、故郷の横須賀工廠へ入渠して工事が始まります。
当初計画のとうりなら速力33ノットの、十分に艦隊随伴の出来る小型空母が3か月で出現するはずでした。
ところが、友鶴・第四艦隊事件の影響などで排水量が増え、ディーゼルエンジンも不調つづき。
計画はどんどん後退し、速力は27ノットも出ず。
艦載機の発艦が難しいとされて(カタパルトはありません)予定の飛行甲板を延長しなければならないことになっていました。
また、改造に要する期間も3か月の筈だったのにおおよそ1年も掛かってしまいます。
これはドーリットル空襲で損害を受けてしまった事もありますが、ディーゼルを諦めてタービンに換装したことが大きかったようです。
改造が完了したのが昭和17年11月、この遅延は大きく「龍鳳」の生涯から晴れの舞台を奪ってしまうことになりました。
また、予定よりもはるかに低速となったこともご記憶頂きたいと思います。
それはともあれ「大鯨」は「龍鳳」と名前を改め、大日本帝国艦隊の機動部隊に加わったのでありました。
基準排水量13360トン、速力26.5 ノット、武装12.7cm連装対空砲x4、
マリアナ沖海戦
「龍鳳」が加わった艦隊はすでに「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛竜」の主力4空母を失っていました。
大日本帝国海軍は反撃のために空母部隊として新たに第三艦隊を編成し、「龍鳳」もこの第三艦隊に編入されました。
第三艦隊に編入、といっても龍鳳の任務は飛行機輸送任務でした。それも陸軍機。九九式双発軽爆撃機をトラック島まで輸送する任務でした。
「九九双軽」は軽快な傑作機ですが、初めての搭載機が陸軍機(当然発艦も着艦も出来ません)と言うのが、そのまま「龍鳳」の人生を象徴していたように思われます。
その初任務でさえ、八丈島近海でアメリカ潜水艦の雷撃を受け(昭和17年12月12日)て損傷、横須賀へ引き返さなければいけませんでした。
「龍鳳」はそのまま昭和18年2月までドック入り。修理完了後は内海(瀬戸内海のことです)で消耗しつくした搭乗員養成のための訓練艦となります。その後は輸送任務にも就きます。
やがて「龍鳳」にも表舞台に立つチャンスが巡ってきます。昭和19年5月、タウイタウイに進出した「龍鳳」は商船改装の準正規空母「隼鷹」「飛鷹」とともに第二航空戦隊を編成したのです。
これは「隼鷹」「飛鷹」と「龍鳳」の速度性能が近かったからではないか?と私は考えています。
艦の規模からいえば第三航空戦隊(空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」)の方がふさわしいのですが、こちらの速力は29ノット出ますから。
龍鳳は第二航空戦隊の一艦として表舞台、マリアナ沖海戦に臨むことになります。
昭和19年6月18日。連合艦隊はその総力を挙げてアメリカ艦隊を迎え撃つのでありますが…機動部隊指揮官は南雲忠一から小沢治三郎に代っていました。
偵察は南雲時代とは様変わりした入念さで、常にアメリカ艦隊の先手を取りますが、航空機を砲弾と同様に片道一回だけの攻撃手段とみなす思想は全く変わらず。
まだ未熟だった日本の新規搭乗員たちは長距離攻撃に疲弊し、迎撃態勢を整えたアメリカ艦載機に迎え撃たれ、対空射撃に翻弄されてしまうのです。
大日本帝国の希望を担った小沢機動部隊は艦載機の9割を失い、9隻の大小の空母のうち3隻を撃沈され、4隻が中破。
航空機の喪失は基地航空隊を含めると500機弱にもなってしまいました。
航空機の最大の損害は帰途の方角を失い、不時着した機であるとも考えられます。一概に近接信管の効果(七面鳥撃ち)とも言い切れないのです。
同数の熟練(長距離航法は出来なくても、母艦に発着艦出来るのは大変な技量なのです)パイロットも同時に失ったことになります。
さらに、沈められた空母のうち2隻は潜水艦によるモノ。何とも言えない厭な幕切れではありませんか。
「龍鳳」もこの戦いで爆弾一発を喰らい、本土へ帰ることになりました。
空母なのに
国内に帰還した「龍鳳」はマリアナ沖での傷を癒し、輸送任務に就きます。
呉工廠で損傷個所を修理するのと同時に、噴進砲(対空ロケット砲)を追加するなどの対空兵装を強化。
高角砲の射撃範囲を広げるために高角砲廻りに切り欠きを設けています。
電探も装備し飛行甲板は前部を延長するなどで戦闘力を強化したのでした。
しかし、大日本帝国海軍の航空部隊はマリアナでの大損害に加え、10月12日から16日に行われた台湾沖航空戦に空母の搭載機まで投入して、またまた300機以上を喪失。
ついに壊滅状態に陥ります。
アメリカ軍のフィリピン上陸が迫っていましたが、日本海軍機動部隊には空母は残されていても、肝心の艦載機と錬成済みのパイロットは払底してしまっていたのです。
連合艦隊はやっと本来の砲撃戦に目覚めることになりました。
いや、砲撃戦しか残された方法がなくなっていたのです。
歴戦の正規空母「瑞鶴」、姉妹艦の「千歳」「千代田」、龍鳳の同形艦(とされる/実際は異なります)「瑞鳳」の四空母は、小沢治三郎統率のもと、わずかに残った艦載機を搭載して囮として出撃したのです。
電脳大本営的には、何故この後に及んでも空母を「艦隊防空艦」として使わなかったのか?不思議でなりませんけれど。
ともあれ出撃した四隻の空母は、定数の搭載もしていないスカスカの状態でした。艦載機とパイロットはそれほど不足していたのです。
積み込む飛行機が無いんですから「龍鳳」の残留はしかたの無い事ではありましたが、「龍鳳」が残留して「瑞鳳」が出撃となった理由はやはり「速力」の問題だったと思われます。
昭和19年10月23日に始まったレイテ沖海戦は囮作戦が当たったものの、主力(第一遊撃部隊/1YB)の指揮官の選択に(またもや)失敗したこともあって大惨敗に終わります。
参加した全空母四隻と戦艦三隻、重巡六隻、軽巡四隻などの水上戦闘艦艇と貴重な水兵さんを失い、大日本帝国海軍は組織的な抵抗能力をなくしてしまったのであります。
レイテ沖海戦にあたって開始された「特別攻撃」すなわち体当たり攻撃は、命令こそ陸・海軍が出すものの、既に「統帥の外道」と自らも認識するような「作戦」でありました。
特攻は英霊の勇気と克己心と愛国心にだけ依拠した陸海軍上層部の姑息な延命策です(レイテ時なら、まだ「作戦」の範疇と言えるかも)。「大日本帝国の延命策」ではありません。
粛々と国に殉じた英霊の行動は讃えても讃えても足りませんが、命令を下した側は墓場を掘り返してでも断罪しなければなりません。
また、怒りに任せて脱線してしまいました。レイテ沖海戦の惨敗で戦争が終わったわけではありません。
一瞬の(実質無き)栄光
昭和19年11月7日、「龍鳳」は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)の旗艦となります。
実験艦として企画され(?)潜水母艦として誕生・活躍し、航空母艦に変身した「龍鳳」が大日本帝国海軍の戦闘艦艇を率いる地位にまで上り詰めた瞬間でありました。
この時、大日本帝国海軍の勢力はトン数だけなら世界第三位の地位を維持しています。
「龍鳳」の栄光の日々は長くはありませんでした。
僅か一週間後の11月15日には第一機動艦隊及び第三艦隊は解散となってしまい、「龍鳳」の旗艦任務も終わったのでありました。
それでも、「龍鳳」が大日本帝国海軍の「空母機動艦隊最後の旗艦」であった事実は永遠に残るのであります。
旗艦任務を解かれた「龍鳳」は輸送任務を遂行し続けました。
この年の年末には特攻兵器「桜花」輸送のため内海を出撃します。この時、「龍鳳」は駆逐艦4隻(「時雨」「旗風」「磯風」「濱風」)と海防艦多数の護衛を受けた「ヒ87船団」と行動を共にしました。
「ヒ」は門司とシンガポールを結ぶ船団です。ところが台湾で米第38任務部隊の空襲を受けて航行を断念。
ヒ87船団も大損害を受けたため、「龍鳳」は翌年1月18日に呉に帰投しました。
この出撃が大日本帝国海軍の航空母艦の「最後の戦闘任務での外洋航海」でありました。
「龍鳳」は昭和20年3月19日には停泊中の呉で米機動部隊艦載機に発見され、爆弾三発、ロケット弾二発を受けて大破炎上してしまいます。
幸い?搭載機が無かったため火災は直ぐに消し止められましたが、ボイラーが全壊。ついに「龍鳳」は空母として生命を喪失し、甲板に明けられた穴を塞いだだけで、戦艦「榛名」の前方に係留されました。
「龍鳳」の甲板上の対空兵器は健在でしたので、「榛名」を守る盾とされたのです。
これこそが(艦載戦闘機を積んで、ですが)電脳大本営的な「小空母の理想的な使い方」なんですが。
それはともあれ、「龍鳳」はこの状態で敗戦を迎えることになりました。機関が損傷していたので復員輸送にも使われることなく、昭和21年9月25日に解体されてしまいました。
「龍鳳」の生涯にはタイミングの悪さが付きまとっています。
設計時の軍縮条約、大鯨時代の船体強度不足・機関の不調、空母への改装工事中の爆撃被害。
もし、これらの要素がなければ太平洋戦争緒戦から軽空母として就役していた可能性が高いのです。
「龍鳳」がこうした不運に付きまとわれてしまった最大の原因は、軍縮条約のあら捜しをして無理な設計を強要した「大日本帝国海軍の在り方」そのものであったような気がしてなりません。
国防のために航空母艦戦力の増強は必要でしたが、潜水母艦は必要なかったのか?
直接戦力の増強以外に、国防上必要な他の施策にも目を向けなければいけなかったのではないでしょうか。
それでも、潜水母艦「大鯨」と航空母艦「龍鳳」の建造や改造で得られた貴重な経験は、戦時の急速艦艇建造や改造工事に生かされる事になりました。
さらに戦後は造船技術の確立に大いに貢献したと言えるのではないでしょうか。
やはり、「大鯨」「龍鳳」は実験艦でした。実験母艦「龍鳳」ご記憶頂けるでしょうか?