赤城と加賀1
日本の空母と言えばやっぱり「赤城」と「加賀」だ!って方も多いんじゃないでしょうか?「赤城」と「加賀」のことなら知らぬことなど無いよ、とおっしゃらずに誕生の経緯をもう一度確認してみませんか?
八八八艦隊ついに成る!(予算だけですけど)
大正九(1920)年、第四三帝国議会において海軍待望の八八八艦隊予算が通過いたしました。八八艦隊じゃないのかよ、と仰いますよね、電脳大本営の愛読者の皆さまなら。でも、二重の意味で八八八艦隊なんです。
戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を主力とする大艦隊の建造が、計画された明治40(1907)年から13年もの年月を経てようやく承認されたのですが、この主力艦16隻は「艦齢8年以内」という条件付きでした。すなわち、常に新鋭艦で八八艦隊を構成しておこうという計画なのでありました。
八八艦隊がやっと完成したと思ったら、その後毎年2隻づつ戦艦か巡洋戦艦を更新していくことが、当時の大日本帝国の経済力で可能だったのか?って事は置いとくとして、八八八艦隊その意気や良し、ではありませぬか。
この大正九年の「八八艦隊完成計画」の成立に先立って、大正七年には国防方針の第一次改訂が行なわれています。
この改訂で国防に要する海軍兵力として、今までの八八艦隊計画に加えて主力艦(戦艦と巡洋戦艦)計八隻を基幹とする艦隊を一個増備する事とされたのです。二重の意味での八八八艦隊計画、という意味がお判りいただける事と思います。
そして、この「八八八艦隊計画」には航空母艦二隻もちゃんと計画されていたのであります(それも「翔鶴」って名前も決まってました、小さいけど)。あっ、皆さんご存知の「八八艦隊」の新造艦ばっかりって言う意味の「八八八艦隊」の方ね。
もう一艦隊作る方の「八八八艦隊計画」にはさらに+2隻の空母が計画されていたのです。
八八艦隊、謎の空母計画
大正九年に日本海軍が長年熱望していた八八艦隊の予算が成立したわけですが、この中に二隻の航空母艦が含まれていたのです。
八六艦隊計画で建造が決まっていた「鳳翔」につづく、二隻目と三隻目の航空母艦です。つまり日本海軍は八八艦隊計画で「鳳翔」を含めて三隻の空母を艦隊に配備するつもりだったのです。
たぶんに実験艦の色彩の濃い「鳳翔」に対して、十分に建造・運用の経験を積んだ上で就役し、すぐさま戦力化することが期待できました。二隻は同型で、一番艦は「翔鶴」と命名されていましたが、二番艦は艦名はまだ具体化していませんでした。
この「翔鶴型」は、常備排水量12,500トン、搭載機24機、12センチ高角砲装備の計画だったと推測されます(自信があるのは排水量のみです)。八八艦隊の成立予算では「翔鶴」は大正十~十二年度、二番艦は大正十三~十五年度でそれぞれ建造の予定とされていたようです。
さらに拡大される八八八艦隊では航空母艦四隻の配備が計画とされていまして、八八艦隊の三隻にくわえて新たに「翔鶴型」一隻を計画していたと考えられます。この艦は大正十六年度(昭和二年度)末までに完成させる構想でした。
この「翔鶴型」計画ははっきりとした記録が見つかっておらず、ここまで、主に予算と「鳳翔」の実績から推測しております。
ワシントン条約と関東大震災
ココに述べた「翔鶴型」は、すべて起工前にワシントン海軍軍縮条約が成立して建造中止となり、ついに幻の空母となってしまいました。
大正十一年2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約は主力艦の各国保有量と新造艦のトン数および主砲口径の上限を定めると同時に、まだ実戦に参加したことのない航空母艦についても規定を設けたのであります。
1.航空母艦はもっぱら航空機を搭載する目的で設計され、航空機が発着し得る構造を持つ基準排水量1万トンを超える軍艦を言う。
2.各国の保有し得る航空母艦の総トン数は、日本8万1千トン・米国13万5千トン・英国13万5千トン・フランス6万トン、イタリア6万トン(比率3:5:5:1.75:1.75)とする。
3.単艦の基準排水量は、1万トン以上2万7千トン以下。ただし、合計トン数の範囲内で3万2千トン以内の艦を二隻まで建造可、1万トン以下の艦は規制対象外。
4.航空母艦の備砲の口径・門数を制限する。8インチ以下10門以内など。
5.現存艦は3千トン以内の増加で水平・空中防御力を強化することができる。
6.艦齢は二十年として、これを過ぎたら代艦の建造が可能。
この条約のため、八八艦隊計画は全面的な見直しを余儀なくされました。主力艦だけではなく、空母の計画も変更せざるを得ません。海軍は検討を重ねて妙案をひねり出したのです。
主力艦の制限によって建造中止となった主力艦群のうち比較的工事の進んでいる二隻の船体を活用し、大型空母に設計変更のうえ完成しようというわけです。
ワシントン条約で空母の単艦排水量を2万7千トンに制限した理由は良く判りません。さるものの本では、各国が廃棄や建造中止となる自国の主力艦・超大型巡洋艦(って書いてあったんだもん)を空母化する場合の予想トン数を上限とするよう主張したため、なんだそうですが、どうだかなあ。
この時期、空母に設計変更して完成させるのに適した工事の進捗状態の艦は、巡洋戦艦「天城」「赤城」戦艦「加賀」「土佐」の四隻でした。ですからこのトン数制限は日本海軍にとって都合の悪いものではありません。困難な問題はあっても、建造中止、廃棄しなければならない八八艦隊計画の主力艦を空母化できることになったからです。
海軍は大正七年に「空母の速力には30ノットが必要」との考えを確立していましたので、計画速力が30ノットで船体の長さも大きい巡洋戦艦「天城型」の方が、進水済みの戦艦「加賀型」(速力26.5ノット)より空母に適していることは明白です。
ここに、巡洋戦艦「天城」と「赤城」の航空母艦への改造が決定したのでありました。ところが大正十二年9月1日の関東大震災によって、横須賀海軍工廠で空母への改造工事直前だった「天城」の船体に大きな歪みが生じてしまいました。
このために「天城」の空母改造は断念され解体することになりました。代艦として既に進水していた戦艦「加賀」を充てることになり、後の連合艦隊を象徴する大空母「赤城」「加賀」の二空母が誕生することとなったのであります。
空母の運用は難しいのだ
「赤城」と「加賀」の空母への改造に際して、軍令部が出した要求事項は現在のところ明らかになっていません。ただ「飛行機が発着艦し易いこと」は重要視されていたようです。
これを現実化したのが他に例を見ない三層の飛行甲板であり、さらに最上層の飛行甲板上には艦橋構造物を設けずクリアな平甲板型としたのであります。
最上層の飛行甲板(長さ190メートル、幅30.5メートル)は着艦専用とし、中層飛行甲板を小型機(艦戦)の発艦用、下層飛行甲板を大型機(艦攻)発艦用と機能を分離して効率よく飛行作業を行える筈でした。
格納庫(整備区域兼用)も三段ありました。一番上の格納庫は中段飛行甲板の後方にあり、戦時格納庫とよばれていました。周囲は密閉せずにアメリカ式空母のように開放式になっています。その下の格納庫は密閉されていて下段飛行甲板の後方にあり、さらにその下方にも短い格納庫が配置されていました。
後の改装の歴史が示しているように、多段式空母は結果的には失敗でした。これは急速な飛行機の進歩で重量が増大し、発艦距離が長くなったのが主因とされます。
電脳大本営的にはもう一つ、「兵科同士の無理解」を上げておきたいと存じます。航空母艦は「軍艦」としての運用の他に「航空機」の運用についても考えなければなりません。それぞれ兵科が違い、兵科同士の力関係があって、理想どうりにはとても行かないのでありました。
「赤城」と「加賀」の3段飛行甲板を失敗作としたのは、実は「艦橋」なのです。当初、両艦の艦橋については上部の戦時格納庫の前端右舷寄りに設け、左舷側に簡単な見張所を置く予定でした。
しかし「赤城」の艤装中に艤装委員長(就役後に艦長)海津良太郎大佐から「このような構造では大艦の艦橋として位置が低すぎ、上空も見えず、かつ左右に分かれていてはとても操艦できない。」と強硬な意見具申がなされたのです。
この意見具申は艤装委員長の意見から航海科全体の意見となり、ついに戦時格納庫前に艦の全幅にわたる広大な艦橋を設ける事となったのです。さらに両側に張り出し部を設けて上空見張所とするなどの大改正が実施されました。もちろん「加賀」も右にならえ。
つまり、「赤城」「加賀」の新造時から上段格納庫と中層飛行甲板は艦橋によって分断されてしまっていました。中層飛行甲板は上層飛行甲板に着艦した戦闘機をエレベーターで降ろし、上段格納庫で整備してそのまま前方に移動させて発艦させるものですから、これが分断されてしまえば全くの用無しです。
こうして兵科間の無理解によって3段飛行甲板は完成前から使い物にならなくされていたのであります。空母全般の艦橋についてはコチラの記事で考察しています。
空母の運用にはもう一つ重要な問題がありました。煙突であります。煙突からの高熱の排煙は飛行機の着艦に悪影響をあたえる気流が生ずると信じられていました。
この煙突の排気法として、右舷側外側に向けて湾曲煙突を設け海面に向けて排気。さらに海水シャワーを設けて冷やしてやる、という実に効果的な方法が考案されていました。もし「天城」が破損したりせずに空母になっていたら、「赤城」と同様にこの方法が取られていた事でしょう。
なおこの煙突、湾曲した上部には開閉できる蓋が付けてあり、艦が傾斜して本来の開口部が水没しても排気可能になっています。
「赤城」と「加賀」では出自が異なります。空母としての設計は別個に為されました。そこで比較のために、それぞれまったく異なった方式の煙突が設置されることになったのです。「赤城」は上述のような方式となったのに対し、加賀は英空母「アーガス」方式を試しました。
ボイラーからの排煙を二つに分け、飛行甲板の両舷直下に煙路を作って艦尾まで誘導して斜め外側に開口させる、という方法でありました。
加賀、ワリを喰う
「巡洋戦艦赤城」のスペックは常備排水量41,200トン、40cm砲10門、出力131,200馬力の機関で30ノット。
「戦艦加賀」は常備排水量39,900トン、40cm砲10門、91,000馬力で速力26.5ノット。赤城とともに長門型戦艦を上回る大きさと性能を目指していました。
戦艦と巡洋戦艦の違いは速力にあり、高速を得るためのバーターとして巡洋戦艦は装甲をかなり薄くするものなんです。ただそれだけではなく、艦体の形も違っています。推進力が同じなら、艦体が細く長いほど速力は早くなりますからね。「戦艦」加賀は「巡洋戦艦」赤城と比べて排水量では大差ないのですが、全長は22.7メートルも短く、最大幅は(わずかですが)56センチ大きくなっています。
この速力の差が「加賀」には不利に働きます。本格的な航空母艦を建造した経験など、世界中のどこの海軍も持っていない時代であります。二隻の空母を建造する予算の見積もりがかなり大雑把というか、まあハッキリ言えば全然足りなかったのです。
そこで、何でも誤魔化す海軍が取った方策が「加賀の予算を赤城に回しちゃえ」策でした。なんで赤城を優先したかって言うと、やっぱり速力なんですね。
「加賀」は「赤城」(昭和二年3月25日)の一年後、昭和三年3月31日に引き渡しを終えたことになっているのですが、ただちに第四予備艦とされて未済の工事を続行しています。
予算が「赤城」に取られて無くなってしまい、工事が予定どうりに進められなかったのです。この年の12月4日の特別観艦式に参加するために、9月から公試に入り、排水量33,700トン・速力約27.5ノットの成績でした(トン数オーバーじゃん)。
特別観艦式に参加した加賀は完成状態に見えたのですが、航空艤装は未完了のままで、20センチ連装砲(対巡洋艦用)も未搭載。昭和四年になっても加賀の工事は続きました。
同年12月6日、搭載機の発着艦試験を兼ねて横須賀航空隊から艦攻・戦闘機など28機を収容し、ここにようやく完成となったのでありました。
一応の完成を見た航空母艦「加賀」ではありましたけれども、実際の運用をしてみると予期できない不具合が沢山出てきます。予算が無くて先延ばしていたモノもありますけどね。
昭和五年末には佐世保工廠で飛行甲板の制動装置をフランスより購入した「フェー式制動装置」に換装(それまでは縦索式)。昭和八年、右舷主砲指揮所の前方に小型の艦橋を仮設。その他に対空機銃の増設工事なども行っており、上海事変への出動は改良工事の合間を縫って、という感じなのであります。
加賀、先に直してもらう
加賀は1932年(昭和7年)1月に初陣を果たします。第一次上海事変が勃発したためで、これは世界史上初の空母の実戦参加でした。それも小空母「鳳翔」を引き連れ、軽巡洋艦「那珂」「阿武隈」「由良」駆逐艦「沖風」「峯風」「沢風」「矢風」に廻りを固めさせた「空母任務部隊」、連合艦隊風に表現すれば「機動部隊」ですね。これも当然世界初。
2月5日には加賀飛行隊の三式艦戦6機・一三式艦攻4機が支那軍のO2Uコルセア観測機4機と日支戦争初の空中戦を行いましたが損害なしで引き分け。
2月22日には、加賀飛行隊の三式艦戦3機・一三式艦攻3機の編隊がアメリカ人ロバート・ショート中尉(義勇軍)操縦のボーイング218と対戦し撃墜。これが日本陸海軍で初の敵機撃墜となりました。
「加賀機動部隊」の活躍は国内だけでなく、海外メディアでも大きく報じられ「加賀」と「鳳翔」は一気に国民のアイドルとなりおおせました。ただ、3段飛行甲板での活躍はこれっきりだったのです。
「加賀」はこの年3月、母国に帰投すると、10月には第二予備艦となり佐世保工廠で大改装工事に着手するところとなったのです。加賀が現役に就いていたのはわずか四年。大日本帝国海軍の誇る大空母、国民のアイドルは早くも大改装に着手する事になったのでした。
つづきます。