空母の艦橋はなぜ右舷だったのか?
赤城と飛龍は航空母艦としてはかなり特殊な「変態艦」でありました。どこが変態かって?艦橋です。赤城と飛龍は艦橋が左舷にありました。これはもう世界的に見ても全く変態的な位置なのであります。
なお、この記事では大日本帝国海軍の小型空母に多かった「平甲板型」すなわち、艦上に突出した艦橋を持たない空母には触れない予定。
島型空母について語られることの少ない、基礎中の基礎知識編をお楽しみいただく予定です。
まず、接岸から
聞きなれない言葉ですが、船の右舷側をスターボードサイド、左舷をポートサイドというのをご存知でしょうか?
スターボードサイドと言っても星を観測するわけではありません。「ステアリングボード(steering board=舵取り板)サイド」が訛って「スターボードサイド」になったと考えられています。
昔は舵を取るための板が船尾の右舷側についていました。右利きの人が力を入れ易いように左より右に置いたようです。その習慣が、船が大型化しても引き継がれて、右舷はスターボードサイドなのです。
左舷には舵がありませんので、港に入港して接岸するのに都合が良い側でした。人や積み荷の出し入れ口は左舷に作ったのです。それで左舷をポートサイド(port=港)と呼ぶようになったそうです。現在も、多くの船が左舷で接岸していますし、左舷=ポートサイドの考え方は現代の旅客機にも取り入れられ、出入り口は機体の左側にありますよね。
ちなみに、大日本帝国海軍では「ひだりげん」「みぎげん」と呼んでいましたので、たぶん現在の日本海軍(海上自衛隊と仮称中)も継承していると思います。
空母の話じゃねえのかよ?ですって。いやいや、ココから空母の特性が関係してくるんですよ。
大日本帝国海軍は新しい艦種である航空母艦を手探りで作り上げるとき、非常に日本人らしく細かい工夫にこだわりました。
例えば煙突です。煙突からのばい煙は視界を遮るばかりでなく、高熱を持っていますから強力な上昇気流となり着艦する飛行機の姿勢を乱す、と考えていろいろと工夫をしたのです。
世界初の新造空母「鳳翔」の例など良く知られていますね。「鳳翔」の新造時の煙突はなんと可倒式になっていました。艦載機が着艦してくるときに、邪魔にならないように海面方向に倒していたんですね。
本格(改装)空母赤城・加賀になりますと、煙突が巨大になって動かすことはとても出来そうもありませんでした。そこで二つの方式を試してみることにしました。
「赤城」では煙突を下に向けることに。右舷から出して海面に向けて湾曲させています。煙突を下に向けただけでは煙が上がってきますから、排気口に海水シャワーを設置、飛行機が着艦する時にこのシャワーを作動させて排気を冷却すると同時にばい煙を洗い流してやるのです。
これが大成功を収め、我が国空母の煙突は「赤城方式」にいったん収斂するのであります。
一方の「加賀」は機関室から両舷沿いに艦尾まで排煙を導き、艦の後ろに排気してやる方式となりました。これはこれで飛行機の着艦には良かったのですが、煙路沿いの居住区域が摂氏50度のサウナ状態となってしまい、改装の際に赤城方式に改められたのでありました。
赤城方式とポートサイドが艦橋と関係あるのか
さてさて何時になったら「空母の艦橋が右舷にある」話になるんでしょうね(笑)。煙突じゃなくてさ。
一般の(飛行甲板を持たない)軍艦を想像してみて下さい。煙突は艦の前後方向、横方向ともにほぼ艦体の中央にありますよね(正確には罐の上、なんでしょうが此処は流しといてください)。
次に航空母艦の煙突です。仮に左舷の前後方向中央(重量バランスからしても、罐の位置からしても中央には論理的な正当性が有りそうです)に煙突が出ているとご想像ください。
その艦が呉でも佐世保でも横須賀でも舞鶴でも良いのですが、苦戦の末に敵を撃破して母港に帰って来たとしましょう。事の顛末は国内で大きく報じられています。
一般の(飛行甲板を持たない)軍艦なら、岸壁に出迎える海軍のエライさんや軍港には必ずあった飲み屋さんや今は懐かしいRed lineのお姉さま方が、満面の笑みで手を振っているのが見えますよね。まあ、家族も来てるでしょうね、見えちゃいます。
次は左舷中央に煙突を突き出した空母です。皆さんはもうご存知の筈です。船は左舷で接岸しますから、家族もお姉さんもキレイ処もばい煙で見えやしません。エライさんが見えないのは、それはそれで結構なことですが…逆に岸壁の方から見ると、家族もお姉さんもキレイ処も煤だらけ。せっかくの商売用晴れ着と厚化粧がぁ~。
しかし、大日本帝国海軍の「赤城方式」には海水シャワーって奥の手があるって?接岸時に盛大にシャワーを出したら排煙だけじゃなくて、出迎えの人たちまでビショビショになっちゃうでしょうが。
まあ、「水」商売の人たちは我慢してくれるかも知れません(真水じゃないから許してくれぬかも)が、エライ人は絶対に許してくれないと思いますよ。
と言うわけ(だけではありませんが)で「空母の左舷煙突」は却下であります。煙突は空母の右舷、スターボードサイドに設置するという全世界的な原則が、こうして確立したのであります。
すべての煙突は艦橋に通ず
すみません、煙突の位置じゃありませんでしたね。しかし、煙突は艦橋と並んで重量の嵩む艦上構造物です。しかも、艦橋と並んで背が高い方が艦内環境には良いと来ています。
つまり軍艦の設計にあたっては、煙突と艦橋の位置関係はそのフネの安定性や運動性を左右する大切な要素なのです。
そう、もうお判りでありましょう。重量バランスからすれば、空母の艦橋は煙突の反対舷の左舷にあるべきなのです。左舷にあった方が接岸の時に操船指示を出しやすいですしね。レクサスなんかのデカい車でも、左寄せより右寄せの方がやり易いでしょ?
さらに右舷の煙突の上に艦橋を建てると、暑くってちゃんとした指揮が取れなくなる可能性もありますからね。
これを実行したのが「赤城」であり「飛龍」なのであります。
大日本帝国海軍の建艦担当者は、運用にあたって非常に細かい気配りをするのが通例ですから、それぞれの艦橋設置にあたっては風洞実験も行い「問題なし」の結論を得て「左舷艦橋」を実施したのでありました。
ところが、実際に運用してみると様々な弊害が出てきてしまったのであります。そのために他の空母では世界標準通りに右舷艦橋となりました。その弊害とはなんだったか?が判れば「何故空母の艦橋は左舷なのか」がわかって来ると思います。
風洞実験したのに
赤城は誕生したときは三段飛行甲板を有する空母で、中段の中央に艦橋がありました。この艦橋は塔のように甲板上に立つものではなく「操船指揮所」と考えた方が良いものです。
しかしながら上甲板の下に艦橋があったのでは見通しは悪く、操船に差し障りもあったようです。そこで改装中の加賀から小型の艦橋を譲り受け、右舷側に設置されました。赤城はいったんは普通の右艦橋の空母(ただしこの時はまだ三段飛行甲板)になったのです。
しかし赤城は右舷側に巨大な煙突があり、重量バランスと艦橋に流れ込むばい煙に悩まされたことで、飛行甲板を一段に改修する時に左舷中央に移設してしまったのです。
飛龍の場合は設計当初から左艦橋でした。これは海軍航空本部長から艦政本部長あての『航空母艦艤装に関する件照会』(昭和10年)にある、「赤城の大改装および、飛龍以後の新造艦からはできるかぎり艦橋と煙突はそれぞれ両舷に分けて設置し、煙突は艦後方、艦橋は艦の中央付近に設置する」と言う決定に従ったものだと思われます。
この決定の理由として、同文書は船体が左右均等に近くなる(造艦・操船・安定に有利)、士官室からの艦橋への交通が便利、格納庫の形状が良好となる、などを挙げています。
左艦橋の「赤城」「飛龍」が連合艦隊で活躍するようになると、ある意外な問題が提起されました。
航空隊のベテランたちから「発艦も着艦もやりにくい、赤城も飛龍もヤダ!」って声が上がるようになったのです。風洞実験までやって大丈夫と言う結論を出したのにどういうことなんでしょうか?
どうやら風洞実験では問題のなかった乱気流が発生して、発艦・着艦の障害になっていたようなのです。これは艦橋による風の巻き込みと煙突からの排煙流が複雑に作用したのだ、と言われていますが電脳大本営は少し懐疑的です。
だって、そういうことを発見するための風洞実験じゃないですか?この時代にコンピューター解析ができる訳じゃありませんし、今ほど流体力学の知見が積まれていた訳ではないでしょう。それでも、艦橋と煙突が両側に立つから、その影響を調べたんですよ。これじゃあ、日本の造艦技術者はバカばっかりってことになってしまいます。
日本の造艦技術者は世界一優秀なんですから、こんな見落としをするとは考えられないのです。ベテラン搭乗員たちが左艦橋を嫌ったのには、気流以外の理由がちゃんとあったのです。本人達が気づいていなかったかもしれませんけれど。
電脳大本営が考える「左艦橋がダメ」な最大の理由は搭乗員たちの心理なのです。
プロペラは右回り
この当時の艦載機はすべてプロペラ機です、当然ですが。プロペラ機はレシプロエンジンのパワーをプロペラに伝えてこれをブン回して推進力を得ています。
通常、このプロペラは操縦席から見て右に回っているのです。
大日本帝国の軍用機は例外なく右回りで、世界的に見てもほとんど右回り。電脳大本営が知る限り(ちゃんと調べてない、って言う意味です)英国機に少し例外がある程度です。
1000馬力近い大馬力で直径3メートル以上もあるプロペラを右回りに廻してやれば、反動で機体は左に寄って行くのが道理なのであります。
そう、発艦のときも艦載機は左に寄ろう、左に寄ろうとしながら狭い飛行甲板を滑走するのであります。飛行甲板の幅は赤城30.48メートル、飛龍27.4メートルです。零式艦上戦闘機の全幅12.0メートル(二一型)、九七式艦上攻撃機15.518m(一二型)、九九式艦上爆撃機10.185m(一一型)。
パイロットは操縦桿などを通じて、いや座席のケツのあたりからも、左へ行こう左へ行こうとする乗機の「意思」は判る筈です。12メートル幅の主翼の翼端を考えると、左側に聳える艦橋の存在は大変な心理的な圧迫だったと思います。って言うか一般的にそういうことになってます。
しかししかしですよ。飛行機の設計者だってそんなことは判っていますよね。トルク対策(飛行機を左方向に偏向させるのはトルクの他にプロペラ後流の尾翼などへの当たり方も考えられますが、電脳大本営の能力を超えます。どなたか宜しく。特にラジコン機飛ばしてる貴方、お願いいたします)はちゃんとやっています。
例えば、盟邦ドイツの主力戦闘機Bf109だと垂直尾翼の断面型を左右で変えています。左方向への揚力を発生させて偏向を防いでいるんですね。
WW2の最高傑作戦闘機とも時折呼ばれる、アメリカ陸軍のP-51マスタングは垂直尾翼の取り付け角度を左にずらしています。
イタ公はもっとやり方が極端で、マッキMc202だと主翼の左右の長さを変えちゃっています。揚力をアンバランスにしてエンジン(プロペラかな?文系の電脳大本営のこと、許されたい)トルクに対抗させようとしたんですね。
以上はいろんな本や文書から探してきた「トルク対策」をまとめてみたものです。
実際どうなのよ
各国それぞれ、独自の工夫をしてエンジン(プロペラ)の回転トルクの影響から機体の動きを守ろうとしていたんですね。
これなら、我が国も何らかの対策を実施してたと思って間違いないでしょう。
どんな対策か、電脳大本営には資料がないんですけどね。でありますから、左舷艦橋がダメの「最大の理由は搭乗員たちの心理」だと申し上げたのであります。
実際にはフットバーを一蹴りして微調整してやればすんなり離着艦出来るんだけれど、やっぱり機が行こうとする方に大きな艦橋があると圧迫感が~ってことだと思うのです。
ただ、ここに一つ問題が。垂直尾翼をオフセットしたり、発生する揚力を変化させたりしちゃったら、スロットルに関係無しで飛行風を偏向させちゃいますよね。それって機体に変なクセが出るってことを意味するんじゃないでしょうか?
たとえば、時速500キロで水平直進する飛行機のプロペラ後流はやっぱり500キロですよね。このペラの回転のトルクに見合うだけのオフセットを、尾翼に施した機があるとします。
この飛行機がエンジンを止めて、降下して500キロのスピードを維持したとしましょう。左に行こうとするトルクはありませんよね。でも、尾翼のオフセットはそのままですから、何もしてやらなければ機体は右旋回しちゃいます。これって、ダメ飛行機でしょ。
実際に各国の戦闘機が上に書いたような処理をしていたモノか、私には検証のしようがありませんが、まあ、ネット上も含めて大方の「トルク対策」の説明はこんな所なのであります。
電脳大本営にはちゃんと確実にトルクを相殺するアイディアがあるもんね。エンジンそのものをオフセットしてやる(プロペラがついてる先端を少しだけ右に向ける。たぶんちょっと下にも向けると良いと思います)のが正解じゃないかな?と思うのであります。
脱線は電脳大本営の悪癖ですね
大きく脱線してしまいました。元々空母の艦橋が右舷にあるのは何故?と言う話の筈だったのに、申し訳ありません。
とりとめがなくなってしまいましたので、簡単にまとめてしまうと、空母の煙突は右舷一択ですが、艦橋は左舷・右舷どっちでも可なのであります。特に日本空母の特徴たる湾曲煙突(赤城方式)なら、飛行甲板に出っ張りがありませんからね。
ただし、現場の搭乗員には不評で「飛龍」以降は右舷に統一されています。で、これは物理的な裏付けのない、搭乗員心理によるものである確率が高い、と。
なお、煙突の出し方の研究はこの後も続けられました。大東亜戦争が始まっても続き、客船改造の「準正規空母」で新しい試みが行われたのであります。
それが「隼鷹」「飛鷹」姉妹の「艦橋一体型傾斜煙突」であります。艦橋内の温度は大丈夫なのかよ!って聞きたくなるところではありますが、これが大成功となったのであります。配置はもちろん右舷です。
どれくらい成功かって申しますと。戦後になってアメリカは原子力空母を制海権保持の最大のパワーとしていくわけですが、通常動力型で最後の空母となった「ジョン・F・ケネディ」に飛鷹型の「艦橋一体型傾斜煙突」をパクっているのです。
さらに、近年では強襲揚陸艦に「艦橋一体型傾斜煙突」を採用しているほどなのであります。大日本帝国海軍の技術力、見くびったらあきませんよ。
アメ公、アイディア料払えよ(笑)