黒潮部隊は太平洋に消えた~皇国の盾たらん~
1942年2月25日の事でありました。
前年の12月初旬にはるか太平洋のハワイを攻撃されたアメリカ軍は、東洋の黄色いサルどもが組織した海軍に手も足も出ずに敗退を繰り返していた時期であります。
ロッキー山脈で防衛?
国内の孤立主義(と言うよりは不干渉主義ですね)者たちの思いを振り切って、大日本帝国を挑発して攻撃を誘発したのに、有効な反撃も出来ない軍部に、アメリカ国内でも不満と不安がくすぶっていた時期でもありました。
ハワイ真珠湾の攻撃には大日本帝国海軍の誇る空母機動部隊ばかりだけではなく、潜水艦も警戒部隊として参加していました。これらの潜水艦は機動部隊に随伴して帰国することなく、さらに太平洋を押し渡りアメリカ本国西海岸近くまで進出したのです。伊9・伊10・伊15・伊17・伊19・伊21・伊23・伊25・伊26の9隻(10隻かも)であります。
9隻の潜水艦はここで通商破壊戦を展開します。僅かな期間で10隻もの貨物船、タンカーを血祭りにあげ、中には海岸から数キロ沖で住民の目の前で撃沈したり、白昼浮上砲撃によって貨物船を屠ったり、その行動は大胆を極めていましたが米軍は全く対応できませんでした。
潜水艦は大日本帝国が独自に開発・運用を行っていた「巡潜型」と呼ばれる大型潜水艦で、偵察機(零式小型水上偵察機)を搭載していたのです。この偵察機を使って西海岸の米軍基地を偵察しても、海軍も陸軍も高射砲さえ撃てず。1942年2月24日には伊17(西野耕三中佐)がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊に接近して砲撃を行い、石油精製施設を破壊してしまいました。
アメリカはこれまで本土を攻撃された経験がありません。大日本帝国によるこの一連の攻撃はアメリカ政府と国民に大きな衝撃を与えたのでした。ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断したのか、陸軍にロッキー山脈で日本軍を阻止する作戦を立案するように指示しています。
2月25日になってすぐの午前1時44分でありました。ロサンゼルス市の陸軍防空レーダーが飛行物体を捉えました。
西方洋上120マイルから接近してきます。これは日本軍の空襲だ!って言うわけでこの情報はただちに各方面に伝達され、対空砲の準備が進められるとともに陸軍航空隊もスクランブル態勢を取ったのであります。
レーダーが捕らえた敵機は25機(9隻の潜水艦の搭載機数を上回っています)でした。午前3時に至るとサンタモニカ上空に時速300キロほどで動き回る赤く光る「飛行物体」が出現。
多数の市民だけではなく兵士もこの「日本軍機」を目撃していました。これまで下手を撃ち続けた陸軍は本土防衛の実力を見せなければなりません。第37沿岸砲兵旅団はサーチライトで「日本軍機」を照射すると勇躍対空射撃を開始したのでありました。
ロサンゼルスの戦い
米軍のサーチライトは見事に敵機を捉えました。「日本軍機」はロサンゼルスの沿岸から内陸へと照射されながら飛行しています。
第37沿岸砲兵旅団が高射砲の射撃を開始したのとほぼ同時刻に、陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機も迎撃のために発進しました。
午前4時過ぎまでの約1時間で沿岸砲兵旅団は約1500発の高射砲弾を発射したものの、命中弾を得ることは出来ません。P-40戦闘機も迎撃どころか会敵すら出来ないお粗末ぶり。
日本軍機はサンタモニカからロングビーチの間の太平洋岸を悠然と飛行し、やがて目視からもレーダーからも消え去っていったのでありました。
「日本軍機」からの攻撃行動はありませんでした。ある筈がありませんね、日本軍などいなかったんですから。ただ、ロサンゼルス市内では発射された高射砲弾の破片が落下・散乱していました。破片で住宅や自家用車が被害を受けただけでなく、市民3人が破片に当たって死亡しました。3名の他に「日本軍機襲来」の報せと砲撃音にビックリした市民3人が心臓麻痺で亡くなってしまったのでありました。
これがアメリカ合衆国史上、空前絶後の「外敵との本土での戦闘」である「ロサンゼルスの戦い」の顛末です。
戦争の前途が不安で
アメリカの国内には大きな恐怖が垂れこめていました。
貴重な税金を投入して大拡張した海軍(軍縮条約の失効後、1年で我が連合艦隊一個分なんて建艦ぶりであります)も、大英帝国の東洋艦隊も黄色いサルの軍隊に対抗できないのです。陸軍も植民地フィリピンも守れず後退を続けています。
政府はこの国民の不安を一掃する必要に迫られていたのです。
もっとも効果のある方法は、やられたお返しでしょう。できれば敵の首都に一撃を加える事が出来れば…幸い大日本帝国の帝都は太平洋に面しています。しかし、アメリカ海軍は日本のように大型で航空機を搭載できる潜水艦は持っていませんでした。
真珠湾で無事だった空母を向かわせて空襲するにも、艦載機の足は短く、敵本土に接近しなければなりません。貴重な空母を危険にさらせる時期ではないのです。
そこで目を付けられたのが陸軍の持つ長距離爆撃機B25ミッチェルでありました。指揮官は冒険飛行家としても有名なジミー・ドーリットル中佐に白羽の矢が立ちます。
空母に陸軍の大型爆撃機を積んで遠距離から発進させ、東京を爆撃して支那大陸の蒋介石支配地域に逃げ込もう、って言う無茶苦茶な作戦に相応しい人選と言うべきだったのでしょう。
準備万端?黒潮部隊
一方、大日本帝国海軍は攻勢にのめり込んでばかりではありませんでした。ちゃんと足元も固める手を打っていたのです。それが黒潮部隊であります。
「黒潮部隊」とは第五艦隊第二二戦隊の秘匿名称です。海軍は対米開戦にあたって太平洋正面(東方)からの本土攻撃を心配していました。そのため開戦直前の昭和16(1941)年の末に116隻もの漁船を、漁船員もろとも民間から徴用して第一、第二、第三監視艇隊を編成、合わせて第二二戦隊としたのです。
徴用された漁船は、底曳き網漁やカツオ・マグロ漁などの遠洋漁業に従事していた約100トンくらい、大きくても200トン程度の小船。若干の武装(多くは12.7ミリ機銃を一丁)を施され、数名の海軍士官(と言っても予備士官、兵学校出の正規将校は皆無)か下士官が乗り込み、従う「水兵」さんは漁師さんでした。
監視艇「隊」とは名ばかりで、まとまって行動することはまずありませんでした。遠く東方洋上(約1000キロ)に散開して米艦隊の接近を監視するのが彼らの任務だったのです。
黒潮部隊の「創設」には連合艦隊司令長官・山本五十六の憂慮が大きな影響を与えていた、と言われています。山本は日露戦争における上村彦之丞提督への大きな批判(ウラジオ艦隊をなかなか捕らえられず、家に投石される)のようなことが自分の身に起きることを心配していた、と言うのです。
この辺りの真偽は、私はあまり興味がありません。
しかし、向こうから本土に接近してくれるなら「返り討ち」の大チャンスでもありますから、漁船を徴用してでも監視しておくことは理に適っております。問題はその後なのです。
黒潮部隊(第二二戦隊)の第二監視艇隊に「第二十三日東丸」という漁船、じゃない特設監視艇が配属されておりました(昭和16年12月1日に徴用)。
日東漁業の底曳網漁船で、小さな黒潮部隊のなかでも僅か90トンのチビッ子でした。焼き玉エンジンを積んで速力は7ノットか8ノット、武装は7.7ミリ2丁。別に水兵さんが持つ小銃が2丁あったそうです。武装には異説もありますが、いずれにせよ戦闘が出来るようなフネではありません。
身は千尋の海に沈みつつ、なお皇国の盾たらん
我が国をはるかに離れ、東方洋上での監視任務に就いていた第二十三日東丸は、定められた監視期間が終了、僚船に任務を引き継いで帰港の途上にありました。
昭和17年4月18日02:10のことです。ドーリットル隊を乗せたハルゼー提督指揮下の空母2、重巡4、軽巡1、駆逐艦8の大艦隊。空母エンタープライズのレーダーに二つの輝点が現れてしまいました。
10時間ほど後に「ドーリットル空襲」のためのB25発進を控えていたハルゼー艦隊は緊張に包まれます。艦隊は大日本帝国の哨戒線を越えていたのです。ハルゼーはすぐさまSBDドーントレス爆撃機に発進を命じました。索敵のためであります。
ドーントレスは北緯36度4分・東経153度10分の地点で第二十三日東丸を発見します。第二十三日東丸がこの時点で触接に気づいていたかは不明ですが、米艦隊は進撃を続けており、06:44には艦隊も第二十三日東丸を視認。流石にこの時は第二十三日東丸も気づきました。
日東丸は6:30には「敵艦上機ラシキ機体三機見ユ針路南西」6:45「敵空母一隻見ユ」6:50「敵空母二、駆逐艦三見ユ北緯三十六度東経一五二…」と続けざまに打電。
一方のハルゼー艦隊は発見されたと観念し、予定(日本各地を夜間爆撃)を早めてB25を発艦させます。07:20から始めましたが、大型機のため全機発進まで1時間ほどかかっています。ハルゼー艦隊は並行して第二十三日東丸への攻撃のために軽巡ナッシュビルを分派し、F4Fを発進させています。
7:50には「ナッシュビル」が第二十三日東丸に対して砲撃を開始。7分後には艦載機の攻撃も始まりました。
第二十三日東丸は巧みな操船でこの攻撃をかわしつつ反撃に移ります。日本の漁船を舐めるんじゃねえ!
米軍の記録ではナッシュビルが発射した砲弾は計915発!しかもドーントレス1機が撃墜されているのです。第二十三日東丸は逃げ切ることも生き延びることも諦め、ナッシュビルに向かって突撃したようです。
やがて一弾が第二十三日東丸を捉えました。無装甲の90トンの小船ですから、砲弾は爆発しないで貫通したと思われます。しかし、船体に穴が開いてしまった事は間違いありません。日東丸はたちまち操船の自由を失い、命中弾が続出。命中弾を貰ってから僅かに数分で沈没してしまいました。
しかしながら、ナッシュビルの砲撃開始から30分以上に渡る抵抗はハルゼーのドギモを抜くのに十分であったこと、間違いないと私は信じています。
しかも海面に浮いた第二十三日東丸の乗員たちは、米軍の救助を拒否。全員が太平洋に沈んでしまったのです。「身は千尋の海に沈みつつ、なお皇国の盾たらん」
無駄だったのか?
第二十三日東丸の電文は確かに海軍に届いたようです。しかし、海軍の想像力は私たちの想像をはるかに越えるお粗末さ加減でした。まさか長距離を飛べる大型爆撃機を積んでいるとも、支那大陸に着陸するとも思わなかったのです。
艦載機を発進させて本土を攻撃してくるには距離が遠すぎる、と有効な迎撃手段を取りませんでした。おかげでドーリットル隊は昼間爆撃に変更されても妨害無しで投弾に成功します。大日本帝国に45名死亡、53名重傷(民間人ばかり)と言う損害を与えたのでありました。
ハルゼー艦隊そのものもあっさりと取り逃がし、なんのための監視艇群(第二十三日東丸周辺の12隻の特設監視艇が攻撃され、4隻が撃沈されています)だったのでしょうか。
その上「東京初空襲」が、大東亜戦争最初の大敗戦となったミッドウェイの大きな誘因と言われます。
特設監視艇は立派に任務を果たしましたが、その「戦果」を有効に使わなかったのは大日本帝国海軍の中心で威張っていた人たち(山本五十六だけ、ではありません)です。
黒潮部隊の最後
黒潮部隊の活躍は、第二十三日東丸だけではありません。
サイパン失陥後昭和19年8月1日、第二二戦隊は連合艦隊直属部隊とされました。マリアナ諸島から日本本土へ来襲する米軍に備え、黒潮部隊は南方での監視任務に就くこととなったのです。哨戒線は鳥島と小笠原諸島との間でした。
米軍は日本海軍が漁船を監視艇として利用している事をすでに知っていましたから、監視艇は航空機や潜水艦からの攻撃を受けるようになっていました。
監視艇の被害が大きくなり、この頃から二隻1組で行動するようになり、武装も教化されるようになっていましたが、自衛用としても余りに非力、速力も最大で8ノット程度で逃げることも不可能でした。
昭和19年も秋になると、マリアナ諸島にB-29の配備が始まりました。11月1日の偵察飛行に続く5日の侵入を黒潮部隊が探知、本土の防空部隊に通報しています。
昭和20年に入ると艦載機による本土空襲も実施されるようになります。このためにまず黒潮部隊への攻撃が行われました。
米海軍第58機動部隊は2月16日と17日に関東・東海地方への空襲を行い、上陸戦支援のために硫黄島へ向かいました。この時、第58機動部隊は艦載機で黒潮部隊を攻撃したのです。
このとき現場海域にいたのは第一・第三監視艇隊でしたが、11隻の監視艇が沈没または行方不明となり、5隻が大損害を受けてしまいました。
第58機動部隊は2月21日夕刻、特別攻撃隊「第二御盾隊」の突入に対する報復のために日本本土へ向かいます。
第一監視艇隊の第五千秋丸はこの機動部隊を発見して通報、日本側は翌日の空襲に備えることが出来ましたが、米艦隊への接触を続けた監視艇隊は5隻が撃沈されてしまいます。
2月26日未明。硫黄島へ帰ろうとしていた第58機動部隊は小型艦が波浪で損傷するほどの荒天に見舞われました。
午前3時、米艦隊はその巨大な波に隠れるように船団の中に潜り込んでいる2隻の監視艇を発見しました。直ちに米駆逐艦から5インチ砲と40ミリ機関砲が火を噴きます。
しかし2隻は一向にひるまず、さらに米艦隊に接近、小口径砲で応戦してきます。うち1隻は駆逐艦ポーターフィールドの艦橋付近に1発を命中させて3名を死傷させています。
さらにもう1隻は軽巡洋艦パサディナになんと13発を命中させて2名を負傷させました。
しかし黒潮部隊2隻の反撃もここまででした。2隻は間もなく撃沈されてしまいました。生存者はありませんし、船名も判りません。
硫黄島で皇国陸軍と一部海軍部隊が激しい抵抗を繰り広げているとき、その近海でも徴用された漁船員たちが圧倒的な米軍に対して絶望的な戦いを続けていたのです。
徴用されたと申しましたが、このように勇気ある抵抗は愛国心なくしてできるものではありません。愛国心は無理強いされた徴用船員には沸いてこないモノであります。彼らは自ら望んで監視任務に自らを捧げた英霊なのであります。
3月下旬には米軍の機雷封鎖作戦、「飢餓作戦」がはじまります。黒潮部隊の一部は瀬戸内海で機雷の監視と掃海に従事します。木造船ですから磁気機雷に反応しないことが幸いとなりました。
日本の沿岸部や主要港湾に対する機雷の投下は続けられて、沿岸での海上輸送すら危険な状態になったため、黒潮部隊は輸送まで任されるようになります。
7月中旬には青函連絡船が空襲で失われて本州と北海道の連絡が途絶。黒潮部隊が缶詰などを積んで函館と大湊の間を往復しました。
この輸送任務が黒潮部隊の最後の戦いでありました。
黒潮部隊には最大時には約6000人の軍人・軍属が投入されました。徴用された漁船は400隻に上りうち半数が沈没し、7割が被害を受けています。
戦没者は沈没数などから推定して最低でも千数百名、数千名は間違いありません。
特攻隊の英霊と並び称されても、何ら不思議はないと電脳大本営は考えております。
不思議なのは、一般的に良く言われる「戦前の日本社会」でしょう。自由は抑圧され、経済的格差が巨大で貧しい人々は一生貧しいまま。
そんな社会の住人がここまで愛国心を発揮して、「皇国の盾」たらんとするものでしょうか?
今より貧しかった、技術も遅れていた、女性も抑圧されていたんでしょう。それを全面否定するつもりはありませんが、大日本帝国の国民は現代で想像するよりもはるかに幸福な満足すべき生活を送っていた、と考えなければ辻褄が合わぬ。
そんな思いにもかられる「黒潮部隊」の活躍でございました。