国防婦人会をご存じですか?
左巻きの偏向歴史教育で歪められた戦前の社会は、女性蔑視・抑圧・軽視、いや女性なんぞ仔を産んで家庭を守る機械って社会。ホントにそうなら電脳大本営が扱う事など絶対ありませんね。でも違うんだなあ…
女性には女性の役割がある
女性の戦争貢献と言えば、第二次大戦までならソ連の女性兵士が有名です。かなり宣伝の臭気も漂ってますけどね。北方で対峙したフィンランドのロッタも知られてます。
フィンランドは野蛮なソ連みたいに女性に銃を持たせることはありませんでしたが、負傷兵の搬送や監視任務(防空監視とかじゃなくて、陸戦の、ですよ)に就いていますから、第一線に出てたと言っても間違いありません。
女性が強くなっているこの頃ですから、私も女性の第一線投入を怒る訳には行きません。しかし、このフィンランドのロッタは制服が粗末なワンピースなんですね。これはイカンでしょう。女性だって前線に出ても良いが、スカートはいかんぞ(笑)。絶対ダメじゃ。
そもそも神サマが造ったのかミジンコから進化したのかは知りませんが、人間の男女にはそれぞれ生物としての役割がある筈です。人間の雌の役割は仔を孕み、産み育てること。牡は仔を仕込んで、雌が仔を育てるための環境を作って守る事が生物としての役割です。
牡の場合「仔を育てるための環境を作って守る事」がそのまま所属する社会の生産に貢献することが多いので、雌が社会に進出してない、活躍していない、などと言う妄言が飛び回るわけですわね。
我が国では女性が輝いてないんで、女重役や女議員を政策的に作ろう、って事を本気で考えてるみたい。でもね、これから紹介させて頂く「安田せい」さん、私にはキラキラ輝いて見えるんですけどね。
さて、本題に入りましょう。
出征の見送り
写真や映像で戦地に行く兵士の見送りの光景をご覧になったことはおありになるだろうと存じます。
一応確認のために名作映画をご覧いただきましょう。
1:15から出征兵士の見送りシーン、特にご覧いただきたいのは2:38から5秒間ほどの「服装」であります。
大東亜戦争の時の出征兵士の見送りと言うと、軍人援護・防空訓練など戦争完遂の目的で20歳以上の婦人を強制加入させた「大日本婦人会」と言う組織が有名(左翼君側からの説明)なんですが、この映像では和装の女性(高峰秀子です)が割烹着を付けて「国防婦人会」のタスキをしてますよね。
国防婦人会と言うのは大日本婦人会とは異なる組織で、国や軍が関わることなく、全く自主的に民間で組織されたボランティア団体なんです。後に軍や自治体の援助も受け、軍に(特に陸軍に)対する貢献は大きな物となりました。
それは確かに否定しようがありませんが、国防婦人会はそのほかに注目しなければならない大きな意味があるんです。
国防婦人会の誕生
昭和6(1931)年9月の満州事変に続き翌年1月に上海事変が勃発すると、平穏だった大日本帝国の国内もざわつきが目立ってきます。
大陸へ出征する兵士が多くなってきたからです。大阪はその兵士たちの中継点で、発達した鉄道網を利用して東日本の兵士が集まり、船便に乗り換えたり、鉄道を乗り換えたりして戦場に向かうターミナル・ポイントでした。
特に大阪港は、直接大陸へ向かえる出発点として重視されていました。多くの兵士たちが大阪港を出発して行きますが、地元の兵士たちではないために見送りはそれほど多くはありませんでした。
全国的に見ても、出征兵士の見送りは大東亜戦争の、それも後半に見られるほど賑やか、かつ悲壮感漂うものでは在りませんでしたけれど。
大阪港での出征兵士の見送りは、近所に住む主婦たちがボランティアで行っていたのです。
そのボランティアを積極的に行っていた近所の主婦の安田せいさんが、見送りの人数が余りに少ないのに憤りを感じ、また街頭での「千人針」の求めに応じる女性の数が少ないことを疑問に思ったのです。
「戦場に行ってくれる兵隊さんたちを、もっと暖かく見送ってあげたい」
彼女はこれを夫の安田久吉氏に相談しました。久吉氏は妻の義憤をそのままにすることなく、積極的に解決するようにアドバイスしました。
夫妻は近くに住む三谷英子さんや山中とみさんに声をかけ、昭和7(1932)年3月18日「大阪国防婦人会」が誕生したのでした。
生まれたばかりの「大阪国防婦人会」は大阪防空献金運動に参加することからその活動を始めたのですが、その時の「ユニフォーム」が「国防婦人会」の活動を特徴付けることになってまいります。
結成の三日後の3月21日から、国防婦人会は阪急百貨店の前に数名ずつ交代で立ち、献金を訴えました。白い割烹着に「大阪国防婦人会」と染め抜いた(?)タスキ姿の女性が人目を引きました。
「空の護りにご献金を願います」
とメガホンを通して女性の声が響き、見ると小さな高射砲のようなものが置いてあるのです。人々は物珍しげに「高射砲」を眺めその砲口から銅貨を入れてくれました。
「高射砲型募金筒」は安田せいの夫、久吉氏が考案・製作したモノだそうです。この人気に力を得た国防婦人会は会員総動員(と言ってもこの時点では40名以下)で大丸百貨店前・満蒙博前・九条花園前にも進出して募金活動を繰り広げました。
国防婦人会の創設者、安田せいさんは夫久吉氏の高射砲型募金筒のアイデアをずっと自慢の種としていたそうですが、このときは「兵隊おばさん」と揶揄される存在でありました。
軍の支援
国防婦人会と名乗るだけに、彼女たちの活動は国防全般に及びました。
出征兵士の見送り・留守家族の支援・傷病兵や遺骨の出迎え・慰問袋の調達と発送・兵営や陸軍病院での洗濯・防空演習への参加促進などなど。
その幅広い活動が陸軍の注目を集めたのです。結成半年後の昭和7(1932)年10月には、陸軍後援のもと全国的な「大日本国防婦人会」が結成されることになります。
陸軍での最大の大日本国防婦人会の庇護者は、敗戦時の第32師団長石井嘉穂中将でした。
昭和8(1933)年5月6日には荒木貞夫陸相の臨席のもとに第一回総会を開く事になります。
開会には中山マサ(戦後ですが、女性初の厚生大臣)が立ち、「主人が留守をしたら、戸締りをするのは女の役目です」と挨拶して荒木陸相が大いに感心したそうです。
ここから、国防婦人会の幹部たちは組織拡大路線を走ります。地域集団や職域集団に手当たりしだいに働きかけ、芸者さんや女給さんの集団まで参加させていくことになったのです。
しかしながら、国防婦人会の急拡大は「手当たりしだいの働きかけ」だけが要因ではありません。すでに書きましたように、国防婦人会にはユニフォームがありました。「白い割烹着にたすき掛け」が国防婦人会の会服だったのです。
会の制服を「白い割烹着にたすき掛け」という活動の容易なモノに統一したのは創設者安田せいさんの夫、久吉氏の発案だったと言われています。
会服は参加者の自腹ですが、白い割烹着なら多くの貧しい家庭婦人も、お水系の仕事に勤しむ女性たちにも比較的容易に準備できる服装でした。
つまり白い割烹着は新規参加を容易にしていたのですが、それ以上の効果を大日本国防婦人会にもたらしました。
女性たちの集団の中での「着物競争」を防ぎ、会員相互の平等感も増して会員の結束を強めるのに役立ったのです。
対立組織
国防婦人会の目的は国防に対する貢献なのであります。ですから、当時の大日本帝国の社会が左巻きの言うように「軍国主義」の世であるなら、誰からも文句が出るはずの無い急拡大なのですが、実際にはこの急拡大を苦々しく見つめている組織がありました。
愛国婦人会(略称愛婦)と大日本連合婦人会(略称連婦)であります。大日本連合婦人会は文部省の管轄下にあった団体です。文部省の資料には何度か登場してくるのですが、活動の実態が良く判りませんので、ここでは愛国婦人会と国防婦人会に絞って見ていきましょう。
愛婦は内務省の後援を得ていた組織で、その歴史は古いものでした。
創設者の経歴を見て頂くと、その性格の一端がお判りいただけるかも知れません。Wikiより借りてみましょう(文中の改行は沢渡)
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職・奥村了寛で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。
奥村さん、維新エリートの出なんですね。けっこうキツイ性格の女性のようにも思えます。
愛国婦人会は皇族を総裁に迎え、華族・陸海軍将官・地方長官の夫人など上・中流の女性を組織していたのです。
日露戦争の時には、出征兵士の送迎・傷兵や遺族の慰問を行っており、会の活動は国防婦人会と被っています。この時点での会員数は46万を超え、最盛期の会員数は300万人を超えました。満州事変の時点での会員は150万人とされています。
ただ、上流・中流以上の女性を対象にしていたために会員数の広がりには欠けるところがあり、出征兵士の送迎にしても「お高くとまった感」がありました。肝心の兵士たちにはあまり評判が良くなかったのです。
兵隊さんにとって見たら、晴れ着に身を包んだ愛国婦人会の見送りなどよりも、懐かしいお袋さんかお姉ちゃんのように、割烹着に身を包んで白湯や番茶を薬缶に入れ、かいがいしく世話を焼いてくれる国防婦人会が見送ってくれた方が嬉しいに決まっています。
もっとも兵士たちの感想として「芸者なり、女給なりに来てもらって騒いで送られるほうが楽しい」なんて不埒なものも残っていますけどね。
ともあれ愛国婦人会はもともと「会費という形で寄付を集める団体」であって、その資金を軍事の後援と軍事関連から派生した社会事業に使うのが本務でした。会費を出せなければ愛国婦人会には入れないのです。
愛国婦人会は「日本赤十字社」の姉妹団体でしたので、業務の在り方も似たモノだったのかもしれません。さらに言えば、愛国婦人会は上流婦人の社交の場ともなってしまい、当時の会報(機関誌かな?)である「愛国婦人読本」に次のような自省が掲載されているほどなのです。
①愛国婦人会は一部上流婦人や有産婦人の会合である。
②白襟紋付でなければ出られない会である。
③一般会員から金を集めるばかりで何もしない会である。
発展
国民から遊離した愛国婦人会の姿が良く分かりますね。
そうした中で、白い割烹着にタスキ掛けで街頭に出た「国防婦人会」の姿と行動が、多くの庶民の心をつかんでいくのは当然であったでしょう。
国防婦人会(略称国婦)は基本的に会費は無料(発祥の大阪など、一部は安価な会費が必要でした)で、活動のための資金を募金に頼っていました。廃品回収で運営費を捻出する分会もあったそうです。
また、しつこく書いてきましたように、その制服はだれでも準備できる「白い割烹着にタスキ」で、参加障壁をなるべく低くしていたのです。国婦には「国防は台所から」というスローガンがありました。
国婦活動の初期には、軍とは直接のつながりのない一般の女性たちが台所の割烹着のまま街頭に繰り出し、さまざまな国防活動を進めたのです。
当然、愛国婦人会側には改革の動きが起こり会員拡大の運動を進めることになります。昭和10(1935年)末には新会員103万人を獲得し、会員総数225万人になりましたが、国防婦人会はこの時点で255万人の会員を擁して愛国婦人会を追い抜いていたのです。
愛国婦人会は「皇室を中心とする全国婦人の結束!一千万人会員獲得!」をスローガンに掲げて懸命な会員獲得活動を行いました。
愛国婦人会は大衆運動のために別組織「愛国子女団」を組織し、千人針や慰問袋を送るなどで巻き返しを図るのですが、出征兵士の一人一人に薬缶を持って接待をする、などという親身なサービスは上流婦人たちにはとても出来ないものでした。
国防婦人会の会員増の勢いはとどまるところを知らず、5年後には900万人を超えました。
国婦発祥の地・大阪では自分たちの手で婦人活動の拠点を造ろう、と言うことになって醵金を募り、昭和12(1937)年3月1日に「大日本国防婦人会館関西本部会館」の落成式をとりおこなうほどになったのでありました。
この建物は敗戦後、進駐軍に接収されましたが返還され「財団法人大阪府婦人会館」となり、1960年代には大阪府が借り上げて「大阪府婦人会館」(1982年に「大阪府立婦人会館」に改称)として長く運用されました。
陸軍は歓迎ばかりじゃなかった
軍(特に陸軍)は女性たちの協力をいったんは喜びました。国防婦人会の大阪から全国への展開は陸軍のバックアップがあってこそでしたし、陸軍も社会一般の支持を得ることが必須と考えていたのです。
ただ陸軍の方では、国防婦人会を必要としながらも、彼女らが家庭を顧みなくなるほどの活動は歓迎していたわけでは無かったようです。女性には台所(家庭)をしっかり守ることを期待していたフシがたぶんにあります。
やがて戦争が本格化すると「秘密保持のため」などとして出征兵士の見送りも制限されるようになります。
防空演習・労力奉仕などでは白い割烹着姿が「非活動的だ」と批判をうけるようにもなります。
最終的には白の割烹着はモンペに変わり、昭和17年、国防婦人会は愛国婦人会・大日本連合婦人会と統合されて「大日本婦人会」となったのであります。
国防婦人会から戦前の自由社会が見えてくる
国防婦人会活動の当初、陸軍は民間から自発的に沸き起こった「援軍」を大歓迎しました。それだけ、上海事変あたりの国内は「軍国」とか「総動員」などと言う状況とは程遠いモノだったのです。
国防婦人会に参加する家庭の女性たちは、それまで家に縛りつけられて自由な外出もままならなかったのですが「出征兵士のため」と家庭外での活動が可能になりました。
また、女性労働者であっても遊郭の女性であっても、白い割烹着とタスキを身につければ上流の婦人と平等に扱われることが出来ました。
国防婦人会は一般女性を家庭から「解放」する役割を果たしたのだ、と言ったら言い過ぎでしょうか?(電脳大本営は戦前の社会は左巻きが喧伝するほど抑圧された社会じゃない、って主張ですから、ちょっとナニな表現ではあります)
国防婦人会が大日本婦人会へと変わっていった数年後には、徴兵過多からくる人手不足で、女性の社会進出が否応なく進んでいきます。このスムースな「男性から女性への社会の担い手の変換」は、国防婦人会が果たした「婦人解放」が大きく貢献していたに違いありません。
いや、戦前の大日本帝国の社会は女性の社会進出を、こうしたきっかけさえあれば容認するだけの自由闊達な社会であったのです。
現代とは自由さも解放の度合いも違いますけどね。時代なりの自由さはちゃんと持っていたのです。
最後に言い訳しときます
文章の勢いで「人間の雌の役割は仔を孕み、産み育てること。」って書いちゃいましたけど、本気でそう思ってます。ただ、それだけだとも思ってません。
愛国婦人会をdisるつもりは全くありません。競争相手が悪かったので、悪役のようになっちゃいました。でも、愛国婦人会だって日露戦争の時なんて英霊の遺族を見舞って回ったり、慰問袋を大量に用意したり。
そもそも、中・上流の女性たちの方が女性の解放って意味ではかなり前の方を、大きな勇気を持って走っていた、と言うことも言えるワケで。
たとえば昭和13年、政府は戦時下に相応しい国民の服装は何か?何ぞと言うお節介をやらかします。「服装改善委員会」と言う物を作って官民57名もの委員で国民に「服装指針」を示そうとしたのです。
この委員会の結果で女性にモンペをお薦めすることになるのですが、その議論の中で「中流以上の女性の服装を改めるのは困難だ」なんて意見が大方の支持を集めたりするんであります。
まあ、この記事で申し上げたいことは「大日本帝国の社会は私たちが(左巻きに)教えられてきたほど暗くないし、自由が無かったわけでもないよ」って事なんであります。