小空母のさだめ1~龍驤の生涯・前編~
大日本帝国海軍は世界初の新造空母「鳳翔」の建造(大正7年計画/大正11年竣工)と運用で経験を積み、当時の小さな航空機でも「空母は最低2万5千トン必要」との所見を得ていました。
軍縮条約の犠牲
それがどうして、1万トンしかない小空母「龍驤」を建造してしまったのでしょうか?
第一次世界大戦で勝ち残った各列強は次なる戦いに備えて軍拡、特に建艦競争に血道を上げることになりました。
大日本帝国は同盟国イギリスの陸兵派遣要請を断って、蜜月関係に僅かなヒビを入れてしまったのが響いてきます。
太平洋をはさんで対峙する経済大国の「ダニエルズ・プラン」に独力で対抗しなければならなかったのです。
大正10(1921)年、イギリスの提案で海軍軍縮会議(ワシントン会議)が開催されると、我が国には実質的に国家財政上の選択の余地はありませんでした。
発効した軍縮条約は、主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有制限と同時に補助艦艇の排水量にも割り当てがありました。
航空母艦も補助艦艇として例外では無く、我が国の1万トン以上の航空母艦の割当て排水量は8万トンとされてしまいました。
大日本帝国海軍は、この条約で廃艦にしなければいけない、建造中の天城型巡洋戦艦2隻(赤城と天城)を空母へ改装することとしました。
この2艦で割り当てのほとんどを使ってしまいます。赤城・天城以外の空母は条約の枠外の一万トン未満としなければならなかったのです。
一方で、海軍は水上機母艦の新造計画がありました。軍令部は水上機母艦を航空母艦に改めるように要求。計画公試排水量9,800トン、搭載機数は24機、速力30ノットの「空母龍驤」の建造が認められたのであります。
これが龍驤建造の経緯とされていますが、良く考えてみて頂きたいのです。
海軍はすでに「鳳翔」を運用して「空母は少なくとも二万五千トン以上」の知見を得ていました。「鳳翔」の建造時より、搭載する飛行機は高性能化・大型化が進んでいますので、小空母にとっての条件は悪化しているのです。
天城(関東大震災で被災して加賀に変更)・赤城以外にも空母が必要なら、この二艦の規模を縮小するなり、研究を重ねて1万トンで可能な空母をあらたに建造すべきでしょう。必要だから計画していた水上機母艦を空母にしちゃう発想がどこから飛び出してくるのか?全く理解できません。
こうして龍驤は生まれる前から「出来損ない」の運命が定められていたのです。
さらに不幸が
昭和4年11月、龍驤の建造は横浜船渠(のち、三菱横浜造船所)で始まりました。しかし翌昭和5(1930)年、ロンドン軍縮条約が締結されます。これはワシントン条約以上に補助艦に制限を掛けるものでした。
1万トン未満の航空母艦も制限の対象となってしまい、龍驤をわざわざ9,800トンで建造する意味がなくなったのです。
そこで欲の深い海軍軍令部は龍驤の設計を見直し、搭載機を増大するように要求したのです。
もともと、かなり無理のある「龍驤計画」なのですが、24機予定の飛行機を倍増(補用12機含む/この12機は分解格納可)しろ、その代り排水量の制限は多少緩めてやる、と言うわけです。
ただ、もう建造が始まっているんですから、艦型を大きくするわけには行きません。設計側はずいぶん抵抗したようですが、ついに龍驤を縦方向に延ばすことにしました。クルマで言えばトールボーイタイプにしようって事でしょうか。フネは女性だからトールガールですけど。
龍驤の格納庫は二段に拡張され、36機+補用12機の航空機が搭載出来ることになりましたが、低い乾舷に巨大な上部構造物を無理やり乗せた龍驤を特徴付けるヘンテコなスタイルになってしまいました。
予備浮力は大きく減少し、そのためバルジが増設されました。武装さえも重量軽減のため12.7㎝高角砲になってしまいました。
世界の航空母艦史上に残る「龍驤」のあのスタイルはこうして決定したのでありました。
龍驤は昭和8年5月9日横須賀海軍工廠で竣工、呉鎮守府所属。
友鶴事件
龍驤が就役して1年も経たない昭和9年3月12日、海軍を震撼させる大事件が起こりました。
佐世保港外で荒天下、夜間襲撃訓練を繰り広げていた水雷戦隊の一艦「水雷艇友鶴」が転覆したのです。水雷艇といっても、「友鶴」は「龍驤」と同様に軍縮条約に対応した実質的な「小型駆逐艦」で重武装を誇っていました。それなりの航洋性を持ち、復元力も110°の傾斜まで回復可能な設計になっていたのです。
それなのに「友鶴」はたった40°傾斜しただけで転覆してしまったのです。
事故後の詳細な調査で過大な武装や工作技術の未熟による重量超過によって、「友鶴」がトップヘビーになっていた事が判明しました。
これは、「不譲」と言われるほどに艦のバランスを重視して、用兵者との妥協を嫌った平賀譲を、事実上の更迭処分にしたことが根本的な原因でしょう。
平賀の後任の藤本喜久雄造船少将は平賀のライバルであり、新機軸に積極的にチャレンジすることが信条でした。
ですから、軍縮条約で排水量他に制限を受けた用兵者側が「海軍の総意」として平賀を追放し、藤本に過剰な兵曹を要求して無茶な設計を強いたと考えられます。
設計者の藤本喜久雄造船少将は責任を取らされる形で謹慎処分となり、過大な武装を要求した側にはなんの処分もありませんでした。
藤本に責任を押し付けた「重武装海軍」は先に石持て追い払った平賀を再び担ぎ出して、すべての艦のバランスを検討することになってしまうのです。
海軍の、特に新造艦は復元性能が見直されることになりました。「龍驤」は事件で損害があったワケではありませんが、当然のように改善工事が行われました。
バルジをより大型のものに変え、550トンに及ぶ艦底バラストを搭載したり、煙突の突出位置を変更したほか、上部格納庫の防火扉を(軽量化のために)防火カーテンに取り換えたり、格納庫の消火装置を撤去したりといささかセコくてダメコン上どうなのよ?と言いたいようなことを恥ずかし気もなく実施しています。
こうして、荒天下の作戦にも(軍令部だけは)自信をもって当たれるように改正された「龍驤」でありましたが、実は重量(排水量)は増大してしまっていました。当然もともと大してなかった「龍驤」の乾舷と予備浮力はさらに低下していたのです。
この状態でさらなる不幸が「龍驤」を襲うのであります。
第四艦隊事件
その不幸とは第四艦隊事件であります。事件は友鶴事件に続いて大日本帝国海軍を恐怖に陥れたのですが、「龍驤」は今度は直接の被害をこうむってしまいます。
飛行甲板の真下の前面にあった艦橋が波に叩かれて大破、装備していた1.5m測距儀も流失。舷外通路も波で破損し、後甲板から浸入した海水が格納庫後端の扉を破壊して船内に流れ込み、沈没の危機を迎えてしまったのであります。
すべて復元性能改善工事で元々少ない船体の乾舷が減少していたのが原因だと思われます。(平賀さん、手ぇ抜いたな!)
「龍驤」は損害復旧とともに、またしても性能改善工事を実施することになってしまいました。昭和10(1935)年10月11日から翌年5月31日まで呉海軍工廠で実施されています。
艦首の甲板を1層積み上げ、艦橋前壁は垂直にして構造を頑丈にし、かつ丸みを持たせて波を舷側に流すようにしています。
舷外通路も波浪に強い形状に改め、格納庫後端の上甲板扉は廃止(閉鎖)しています。
こうして「龍驤」は誕生してから3年ほどの間に2度にわたる大改装を経験し、ようやく外洋に出て活躍できるフネとなったのであります。
とは言っても不安定な艦であることに変わりはなく、全速で回頭すると転覆せんばかりに傾き、格納庫からエレベーターの開口部を通じて海面が見えた、と言われています。
開戦
ようやく外洋に出ることが出来るようになった「龍驤」の初陣は昭和12(1937)年8月の支那事変でした。加賀、鳳翔、龍驤(赤城は改装工事中)の活躍は世界に伝えられています。
この時期の「龍驤」は大空母「赤城」「加賀」の予備艦扱いでした。両艦どちらかがドック入りすると、代わりに第一航空戦隊や第二航空戦隊に編入されて行動していました。
搭載機は九〇式艦上戦闘機12機、一三式艦上攻撃機6機、九〇式二号艦上偵察機6機から始まり、偵察機にかえて九四式艦上爆撃機6機を搭載したり、九五式艦上戦闘機や九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機に更新しています。
艦の基本性能が低劣であっただけに、水兵さんの訓練は非常に厳しかったそうで、「赤鬼・青鬼でさえ後ずさりする」ほどだったそうです。
猛烈な訓練ゆえに搭乗員からは毎月のように殉職者がでたほど、と言う話も伝えられています。
操船の方の訓練も過酷を極め、結果「龍驤」は赤城や加賀と並んで行動できるようになって行きました。
おかげで昭和16年4月に第四航空戦隊に編入されると、「小型ナルモ搭載機数ハ多クシテ使ヒ勝手良シ」と評価されるほどになったのです。
「龍驤」はこの第四航空戦隊の旗艦として大東亜戦争に臨みました。司令官は猛将角田覚治少将、従うは空母「大鷹」駆逐艦「汐風」。
「大鷹」は商船からの改装空母で、艦型は2万トンもあったものの速度が遅く、戦闘行動には向きませんでしたので12月いっぱいで第四航空戦隊から外れています。
また、鍛え上げた熟練搭乗員たちも第一航空戦隊と第二航空戦隊に引き抜かれ、搭載戦闘機は零戦の配備が追い付かずに九六式艦戦のまま。九六式艦戦は優秀な戦闘機でしたが、この当時は戦闘機の性能進化がケタ違いに早い時期でしたので、いささか力不足を否めません。
「龍驤」は常にハンディを背負って戦う運命のもとに生まれたのでしょう。
角田覚治少将はそんなハンディにも気が付かぬかのように蘭印攻略戦で「龍驤」を使い倒すのでありました。
都合の悪い経験はすぐ忘れる
大日本帝国は第一段作戦(南方作戦)を大過なく終了しました。戦争の主な目的の南方資源地帯占領は想定より早く終了し、普通に考えればこの資源を国内に安全に輸送するルートを確立するのが第二段作戦となる筈でありました。
ところが現実には、セイロン島を占領しインドを攻略、ドイツ・イタリアとの連携(西亜打通作戦)を目指す陸軍側とオーストラリア大陸かサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側が大風呂敷競争を繰り広げ、方針が決まらない状態だったのです。
この「空白期間」に搭乗員のさらなる錬成や艦艇の整備など、やるべきことは山ほどあったでしょうに。海軍は「陸軍の主張するインド洋方面なら文句ねえだろ」とばかりに南雲機動部隊(第一航空艦隊基幹)をインド洋に進出させたのであります。まあ、いったん叩き潰したイギリス東洋艦隊が戦力を回復しつつあったので、全く間違った判断とも言い難いのですが。
実はこの派遣で生起したセイロン沖海戦で、のちのミッドウェイ海戦の悲劇を予感させる事象が起きています。
トリンコマリー基地への攻撃から第一次攻撃隊が帰還し、この部隊を空母「ハーミーズ」攻撃に向かわせる為の補給と魚雷への換装の真っ最中に、イギリス空軍のヴィッカース・ウェリントン爆撃機9機が南雲機動部隊を奇襲攻撃してきたのです。
南雲艦隊はイギリス機に全く気付かず。イギリス軍は悠然と旗艦「赤城」を狙って爆弾を投下、幸い挟叉しただけで命中しなかったのです。爆撃後に直掩の零戦が爆撃機5機を撃墜したのですが、もはや手遅れですね。
南雲司令部にごく普通の注意力や恐怖心や謙譲の心があれば、ミッドウェイの惨劇は防げた筈なのです。きついことを言うようですが、何発か命中していた方が良かったのかも知れません。
活躍
「龍驤」の第四航空戦隊が所属する第一南遣艦隊(馬来部隊/指揮官小沢治三郎中将)は南雲艦隊とは別に、通商破壊を目的にベンガル湾へ侵入します。カルカッタを経由する通商路を攻撃する事でビルマ方面の連合軍を牽制し、ひいては援蒋ルートを脅かそうというものでした。
小沢艦隊は北方隊・中央隊・南方隊の3隊に別れて英国商船を襲ったのであります。「龍驤」は中央隊の旗艦としてその生涯で最高の大活躍を見せます。
以下、ちょっと珍しい写真をたっぷり挿入した後編に続きます。