重巡「熊野」の最期2
サマール沖で無念にもアメリカ駆逐艦の魚雷を喰らって、空母を追えなくなってしまった重巡「熊野」。
過酷な戦争は、傷ついた彼女をさらに追い詰めてまいります。
応急修理
「熊野」は連合艦隊から「マニラで応急修理を実施し、内地に回航せよ」の命令を受けていました。レイテ湾への突入を躊躇って千載一遇の機会(ホントにそうだったか?議論の余地は一杯ありますが)を逃した大日本帝国海軍には、もう一戦する戦力は残されていませんでした。
それでも戦争は続いていますから、傷ついたとはいえ「熊野」は貴重な戦力だったのです。
「熊野」は艦首を吹き飛ばされていましたので投錨もままならず、特務艦「隠戸」に横付して応急修理をしてもらうことになりました。
目茶苦茶になった艦首をある程度成形し防水処置も行ない、煙突に貰った命中弾でおかしくなっていた8基の罐のうち、4基だけ復旧するという内容でした。
一週間にわたる作業で、速力15ノットが可能となり、マニラ湾内で公試運転を行いました。しかしながら、いったん巡洋艦としての航洋性を喪失している「熊野」の機関が被ったダメージは深刻でした。
内地へ帰って本格修理をしなければ、全力発揮はとても無理。連合艦隊命令も「内地廻航」だったのですが、内地に帰る「熊野」に護衛艦を用意してやる余裕は大日本帝国海軍には残っていませんでした。
昭和19年11月1日の連合艦隊命令で「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航」することになりました。
重巡「青葉」も米潜の雷撃で「熊野」以上に身動きままならない状態だったのです。
ハッキリ言えば「お前ら勝手に帰って来い」という命令です。
それでも捨てる神あれば拾う神あり。たまたま11月5日にマニラを出航する「マタ31」という船団があり、これが護衛艦不足だったのです。マタはマニラと高雄です。「熊野」と「青葉」はこの船団に潜りこんで、じゃない護衛して台湾の高雄まで回航することとなったのです。
マタ31船団は油槽船「辰春丸」「笠置山丸」「道了丸」と小型貨物船(海上トラック)「第32播州丸」「第61播州丸」「第62播州丸」を、海防艦2隻と第二一駆潜隊の駆潜艇の5隻が護衛する予定でした。
これに「青葉」「熊野」の2隻の重巡が参加する訳で、船団としても心強かったに違いありません。ありませんが、当たり前のように「熊野」艦長が船団指揮官になっちゃったのはなんだかなあ。帝国海軍は護衛が大嫌いですから、重巡のような大艦のエリート艦長は船団護衛の訓練なんか受けてませんからねえ。
船団の面倒を見なくても「熊野」には問題が山積だったんです。特に25ミリ機銃の銃弾が不足していたのは大問題。2週間前のサマール沖海戦から、相次ぐ空襲に応戦し続けて弾薬が欠乏してしまったのです。これが「熊野」の死命を制したかも知れない大問題だったのです。
同行する「青葉」から1万発ほど貰ったのですが、30門の25ミリ機銃に分配すれば300発強、一合戦持ちませんね。
ともあれマニラ出航後の航海は平穏で、夕刻にはサンタクルーズに入港できました。船団はここで1泊し翌6日はバシー海峡に向けて出航します。
不死身
船団は11月6日朝7時にサンタクルーズを出航、沿岸ギリギリを北上します。ルソン島西岸は沿岸の近くでも深くなっている海域が多く、1万トンを越える大艦も沿岸沿いに航海できるのです。
こうして岸に沿って航海すれば、敵の潜水艦は沖側からしか攻撃してこれませんので対潜警戒が少し楽になるんです。少しだけ、ですが。
リンガエン湾から北のバシー海峡に至る海域はアメリカ潜水艦の「草刈り場」でした。この当時の大日本帝国の最も重要な航路であり、通商破壊に一番効果的な場所だったのです。
潜水艦3隻程度でグループを作り、合計200万トンの日本船舶を撃沈しています。
マタ31船団もアメリカのウルフ・パックに襲われてしまいました。この時、同海域に潜んでいたのは「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻の潜水艦でした。
4隻は10時10分頃から30分以上に渡って襲撃を繰り返しました(たぶん4波の攻撃)。
「熊野」は魚雷を回避し続ける間に岸から離れてしまい、岸側に回った潜水艦(「レイ」か?)の放った4射線の魚雷のうち、2本をかわすことが出来なかったのです。
最初の1本はまたもや艦首に命中し、今回は第一砲塔から前が吹き飛んでしまいました。もう1発が機械室に命中、一番機械室を破壊して隔壁も吹き飛ばし、二番機械室も水没。残りの三番・四番機械室にも浸水が広がり、ついに「熊野」は航行不能に陥ってしまったのであります。
「熊野」の機関は全て停止し、浸水を食い止める以外に打つ手がありませんでした。幸いなことに、この攻撃の直後にアメリカ潜水艦「レイ」は座礁(直後に離礁成功も損傷あり)してくれたので、とどめを刺されることはありませんでしたが。
なお「青葉」は「熊野」より不利な状況でしたが全攻撃を回避し、戦闘終了後に「ワレ曳航能力ナシ、 オ先ニ失礼 」と信号して去っていったのです。
しかし「熊野」はめげませんでした。「熊野」は、夕方に至るまで浸水を防ぎながら漂流していました。この間に何とか機関を復旧させて1.5ノットが可能となり、翌7日の15時、サンタクルーズ港に戻ることができたのです。
「熊野」の敵は潜水艦だけではありません。入港後の11月9日には台風が襲ってきます。「熊野」は艦首を失っていますから、錨がありません。ロープで岸やたまたま在泊していた掃海艇と結んで固定して何とかしのぎました。
11月12日に救難艦「慶州丸」がサンタクルーズに到着、マニラの第103工作部の作業員も到着し、復旧作業が開始されました。
作業の内容は罐と機械(海軍用語でタービンのこと)をそれぞれ1基だけ復旧させ、自力で航行できるようにすることです。大型艦を曳航するには、それなりの大きなフネが必要ですし、曳航状態で「魔のバシー海峡」を突破するって言うのは現実的ではありませんから。
ただ、米軍も放っておいてはくれません。19日からアメリカ艦載機が空襲を掛けてきます。
空襲を仕掛けてくるのは護衛空母搭載のF4Fが中心で、機銃掃射を受ける程度ではありましたが、それでも戦死者が続出し、近接防空戦闘に必要な機銃弾が急速に欠乏し始めます。
空襲を受けながらの困難な修理作業で、11月21日には八号罐と四番タービンが復旧。「熊野」は6ノットで自力航行が可能になったのですが、あちこちで蒸気漏れが放置されていて、覆水機(タービンを回した蒸気を冷却して回収する装置)も破壊されたままなので、高雄にたどり着くためには500トンの真水を追加搭載しなければなりませんでした。
マニラからは22日になって機帆船が到着し、機銃弾4500発と応急資材・食糧・軽油の補給を受けることができました。
11月25日朝、出港準備を完成しつつあった「熊野」に米軍艦載機が来襲します。
この空襲では「熊野」に大きな被害は無かったものの、またまた機銃弾を消耗し、残弾は全艦で3000発程度となります。機銃一門あたり100発、これ以上の機銃弾はついに「熊野」の最後まで補給されることはなかったのです。
11月25日14:30、またまた米軍機が来襲。空母「タイコンデロガ」の搭載機だと思われ、雷爆連合のSB2Cが20機以上。回避運動もマトモにできない「熊野」をあざ笑うかのように次々と爆弾を命中させます。
艦橋後部に1発、「熊野」は弾薬庫に注水。艦橋後部右舷に2本の魚雷が連続して命中、続けて一番砲塔左舷と飛行甲板左舷にも1本命中。爆弾も二番砲塔左舷などに命中、結局戦闘詳報によると魚雷4本と爆弾4発が命中したようです。
「熊野」は左舷に大きく傾斜するとそのまま転覆、艦長以下400名の水兵さんと一緒に沈んでいったのでありました。昭和19年11月25日15時30分。
熊野は最後の1ヶ月間に魚雷6本~8本、爆弾7発~10発が命中するという戦艦が轟沈してもおかしくない大損害を受けながら、粘り強く本土帰還を目指していました。
乗員たちは対空戦闘に応急修理にと奮闘を続けましたが、ついに再び日本の景色を目にすることはありませんでした。
生き延びた水兵さんは貴重な戦力だったのに
「熊野」沈没時のアメリカ機の機銃掃射を逃れて、海岸にたどり着けた乗員は約600名でした。このうち、負傷したり転属命令が出て内地へ帰った乗員が100名ほどいます。その後を追って輸送船「明隆丸」で内地を目指したグループは、北サンフェルナンドでの空襲で乗艦が沈没、そのまま海没(約50名)。
残りの450名は、マニラに集合の上で陸戦隊に臨時編成されました。150名ほどがコレヒドール島に送られ全員玉砕。最後がどのような状況かよく判りません。
マニラ海軍防衛隊に編入されたものが約250名で最大グループです。
装備は重機2丁、軽機が各小隊に1丁ずつ、小銃が二人に1丁、残りは爆雷や竹槍で武装し、マニラ市内パコ駅近くの小学校を兵舎にしていました。
この部隊も昭和20年2月7~13日の「マニラ攻防戦」に投入されて壊滅してしまいました。
「熊野」の最後まで艦とともに奮闘した水兵さんの経験は、海軍にとって超貴重なもののはずでした。旧海軍にはもうその経験を活かすだけのフネは残っていませんでしたが、大日本帝国は(名前を変えてでも)生き抜いていかねばなりません。
内陸国ではないのですから、新生日本国には必ず海軍が復活するのです。敗北に瀕した海軍首脳部にはもうそういった冷静な判断をするだけの思考力すら残っていなかったのでしょう。また、「負け方」を全く考えていなかったと考えることもできます。
貴重そのものの「経験を積んだ水兵さん」たちは陸上で散華してしまったのでありました。せっかく「熊野」が粘ってねばって水兵さんたちの命を助けたのにね。