ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃-第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第1章後編
第1章:老伯爵の夢と挑戦(後編)
前編からの続きです。
目次はこちら。
LZ3によって、航空界のパイオニアとして、或いは国家的な業績を成し遂げた偉人として、社会に認められたツェッペリン伯爵でしたが、それで満足するような人物ではありません。
彼にとってLZ3の成功は、あくまで通過点に過ぎないのです。巨大な軍用飛行船を多数建造し、強力な空中艦隊を築き上げ、ドイツ帝国をして欧州の覇者たらしめること。これこそが老伯爵の夢でした。
そんな折、ツェッペリンの下へ軍から一つの提案が舞い込みます。24時間の耐久飛行を実現すれば、飛行船を正式に採用するというのです。待ちに待った知らせでした。しかし、24時間というのは余りにも高いハードルです。LZ3の能力を超えると判断した伯爵は、より大型の飛行船、LZ4の建造に着手します。1907年11月のことでした。全長136m、直径13m、体積はLZ3の5割増しとなる15,000㎥。機関も更に強力なダイムラー社製105馬力ガソリンエンジンを2機搭載、最高速度は時速60キロ。
ツェッペリンが船体の巨大化に徹頭徹尾こだわったのには合理的な理由があります。飛行船の浮力はガス嚢の体積に比例するので、大きければ大きいほど搭載能力は向上します。しかも、船体を1.5倍にしても、必要な構造材の重量は1.5倍にまではなりません。つまり、搭載能力は1.5倍以上となるのです。LZ4の場合は、この点を活かして多量の燃料を積み込み、飛行時間の飛躍的な延長を図りましたが、伯爵はいずれ数多の兵器を装備する空中戦艦を建造することを目指していました。
《24時間の連続飛行に臨むLZ4 1908年8月4日払暁》
残された資金を含め、伯爵が持てる全てを注ぎ込んだ最後の切り札となる飛行船は、1908年6月に完成しました。陸海軍の代表者立会いの下、6月20日に無事初飛行を完了。
7月1日にはボーデン湖の基地からスイスまで往復380㎞を12時間で飛び、その性能を遺憾なく発揮しました。その2日後にはヴェルテンブルク国王夫妻を乗せて飛行し、世間の話題を呼んでいます。それにしても、初飛行から半月も経たない飛行船に乗り込むとは、この夫婦も余程の変わり者と見えます。
《LZ4に搭乗するヴェルテンブルク国王と妃》
*誰が誰やら
8月4日、LZ4はいよいよ24時間の耐久飛行に出発します。午前6時22分、ツェッペリン以下12名の乗員をのせ、船はボーデン湖を離陸、針路を西へとります。直線距離で約130キロを飛び、バーゼル上空に達すると、今度はライン川に沿って北上を開始しました。眼下にはストラスブルク(現在はフランス領ストラスブール)、マンハイム、ヴォルムスなどのラインラントの地方都市が現れては消えていきます。
大空を悠々と飛ぶ巨大な飛行船の登場に、地上の街々は大騒ぎとなりました。
《バーゼル上空のLZ4》
人々は歓呼の声を挙げながら街路に飛び出し、女性はハンカチを、男性は帽子を、盛んに打ち振ります。聖堂の鐘が鳴り響き、城壁からは間断なく放たれる礼砲の轟音が大地を揺るがしました。
順調に思われたフライトは、午後2時ごろに発生したエンジントラブルにより、暗雲が垂れ込め始めます。速度が低下したLZ4のガス嚢内では、水素が太陽光の熱を吸収して膨張を始め、船は高度1,000メートル付近まで上昇していきました。止む無くガスを放出して上昇を食い止めますが、夕方になると気温が急速に低下、今度は水素が収縮を始めます。このままでは、浮力を失って地上に叩きつけられかねません。ここにツェッペリンは24時間連続飛行の継続を断念し、不時着を決行しました。午後5時20分のことです。バーゼルから北に約400キロ、マインツまであと14キロの地点でした。約11時間、距離にして500キロ強の飛行でした。
それでも伯爵はさほど悲観的ではありませんでした。船が無事である限り、挑戦は何度でも出来るからです。エンジンの修理が終わると、午後10時にLZ4は再び離陸しました。ガスを放出したことで浮力が減少したため、この時、5人の乗員と不要な装備が降されました。飛行を再開したLZ4は基地があるボーデン湖を目指して南下します。ところが、シュトゥットガルト近辺まで来たところで、より深刻なエンジントラブルが発生、再度の不時着を余儀なくされたのでした。ツェッペリンは、少ない乗員で見事にこれをやってのけます。日付は替わり8月5日の朝になっていました。不時着地は、エヒターディンゲンという田舎町の郊外です。
《シュトゥットガルト上空のLZ4》
エンジンは使用不能の状態でしたが、幸いダイムラー社の工場がシュトゥットガルトに在り、新しい物をここから取り寄せることになりました。水素を補給する手配も整えられました。ツェッペリンがエヒターディンゲンの宿屋で休息を取っている間、近辺の町や村から数万人もの見物人がLZ4を一目見に集まってきました。彼らは銀色に輝く船体を間近から思う存分眺め、好奇心を満たしました。
観衆がLZ4の離陸を見届けてやろうと辺りの野原や畑に居座っていた午後3時頃、予期せぬ一陣の突風が襲いました。このため、船体が押し流されて船首が樹木に衝突し、外皮とガス嚢が破損しました。そして、次の瞬間、凄まじい勢いで炎上し始めたのです。当時、布地同士が擦り合わされると静電気がスパークすることは知られておらず、ガス嚢はゴムで覆われた布で作られていました。これが災いしたのです。
無数の人々があげる叫び声を耳にして宿屋から飛び出した伯爵が目の当たりにしたものは、紅蓮の炎に包まれる断末魔のLZ4の姿でした。ツェッペリンが駆け付けた時には、彼が愛する飛行船が在るべき場所に、醜いアルミの残骸が転がっているばかり。周囲に群がっていた観衆は掛ける言葉もなく、夢の跡形の前に進み出る伯爵に道をあけました。我を忘れたかのように立ち尽くすツェッペリン伯爵は、幸いにも負傷者は出なかったことを聞くと、黙ってその場を去りました。
フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵はこの時、齢70歳。全てを失った今、飛行船開発の夢を断念し、隠遁生活に入る決意をしたとしても、誰がそれを責めることが出来るでしょう。
《残骸と化したLZ4と観衆》
一方、幾万人もの観衆は、ツェッペリンが去った後も、興奮が冷めやらずその場に留まっていました。それから何が起こったのか、今日では正確には分かりません。一説によると一人の男が進み出て、人々に呼びかけたと言われています。「皆で伯爵を助けよう」、と。ツェッペリンをここで終わらせてはならない。それこそは、そこに居合わせた人々に共通する想いでした。伯爵の夢は、今や国民の夢でもあったのです。
かくて人々は声を限りにドイツ国歌を歌い出したのです。数えきれない歌声が、エヒターディンゲンの地にこだましました。
「ドイツよ、ドイツ、全てのものの上にあれ、世界の全ての上にあれ…」
その歌声は、エヒターディンゲンからラインラント地方へ、そしてドイツ全土へと広がり、響き渡りました。
《ポスター「ドイツ国民が敬愛するツェッペリン」》
嵐のようなツェッペリン救済運動が始まりました。新聞はこぞって伯爵への募金の必要性を訴え、あらゆる階層の、あらゆるドイツ国民が続々とお金を送ってきました。その中には激励の手紙が添えられているものも数多くありました。驚くなかれ、一月足らずで集まった寄付金は625万マルク。ツェッペリンを「狂人伯爵」などと嗤う者はもういません。
かくしてツェッペリンの飛行船事業は、それまでのいかなる時期よりも遥かに強固な資金基盤を得たのです。
しかし、どんな高額の寄付金よりもツェッペリンの心を揺り動かしたのは、ある幼い少女から送られた僅か数ペニヒのお金でした。それは、彼女の全財産に他なりません。老いた巨人は再び立ち上がる決心をします。
これが後年「エヒターディンゲンの奇跡」と呼ばれる出来事の顛末です。
《ストラスブルク上空のLZ4をあしらったメダル》
*ツェッペリン救済キャンペーンの一環として、LZ4の残骸から鋳造、販売された。
LZ4の悲劇から間もない1908年9月、伯爵は早くも、飛行船建造を手掛ける「ツェッペリン飛行船有限会社」を設立します。同社はマンツェルから程近いフリードリヒスハーフェンに本社を置き、この地に巨大な格納庫兼工場を建設しました。ここが近い将来、ドイツ軍空中艦隊の一大根拠地に発展するなど、当時の人々は知る由もなかったでしょう。
最初の発注は、ツェッペリンの長年の夢であったドイツ陸軍からもたらされます。かくしてLZ4の姉妹艦であるLZ5が建造され、1909年に軍に引き渡されました。LZ5はその年、早くも30時間という滞空記録を打ち立てます。これは動力飛行の世界最長滞空記録を大きく塗り替えるものでした。姉が果たせなかった夢を、LZ5は見事成し遂げたのです。
しかし、陸軍のLZ5に対する評価は芳しいものではありませんでした。否、正しい評価を陸軍は下せずにいました。彼らが飛行船に求めていたのは、飽くまで戦術的な偵察能力と、対地支援攻撃能力であり、ツェッペリン飛行船が有する並外れた航続力と搭載能力は明らかにオーバースペックだったのです。陸軍が考える用途には、小型の軟式飛行船を量産する方がコストパフォーマンスで優位にあることは明らかです。一方、伯爵が夢想する空中艦隊の一員としては、LZ5の能力は余りにも未熟でした。正に、帯に短し襷に長し、といった状態です。
1910年、LZ5は事故により喪われます。以後、陸軍は硬式飛行船の採用を中止し、第一次大戦の直前に至るまで、発注は行われなくなります。また、ドイツ海軍ではLZ4の事故以来、テルピッツ海軍大臣その人が硬式飛行船に不信感を抱き、導入を阻止していました。
ここに、軍用飛行船の建造で会社を維持していく見込みは全く失われたのです。もはや「お約束」の感がありますが、ツェッペリン伯爵はまたもや壁にぶち当ったのです。
《事故で失われたLZ5》
《フリードリヒスハーフェンの格納庫兼工場》
*1908年に建設
《海軍大臣テルピッツ》
止む無く、ツェッペリン伯爵は当面の間、民間航空に活路を求めることを決断し、1909年、「ドイツ飛行船運輸会社」(Deutsche Luftschiffahrts-Aktiengesellschaft, 略称DELAG社)を設立します。この会社が、単なる遊覧飛行から出発して、数年のうちにドイツの主要都市間を結ぶ複数の航路を持つ世界唯一の旅客航空会社になるとは、誰が予想しえたでしょうか。しかし、その道のりもまた、平坦さとは程遠いものでした。
DELAG社の事業は、陸軍が受領を拒否したLZ6を引き取り、細々とした遊覧飛行と郵便輸送を行うことからスタートしました。
今一つ冴えない経歴のLZ6ですが、航空史上の画期となる新機軸が投入されています。飛行機械としては世界で初めて無線通信機が装備され、航行中、地上と定期交信を行うことが可能となったのです。
《LZ6》
*LZ4、LZ5の姉妹船。姉たちとの違いは、機関がダイムラー製115馬力エンジン2基に強化されたこと(LZ4とLZ5は105馬力2基)。
《LZ6の搭乗員と地上整備員》
《水素ガスの補給を受けるLZ6》
1910年6月、DELAG社待望の本格的旅客船が就役します。LZ7「ドイッチェラント」です。全長148m、直径14m、体積19,000㎥。これまでにない破格の大きさですが、強力なダイムラー社製120馬力エンジンを3基搭載し、最高速度は時速60キロを誇りました。
特筆すべきは、旅客船として相応しい30人乗りの船室を備えていたことです。DELAG社は、この船を使ってドイツの主要都市の間に航路を開設しようと企てていました。
《LZ7「ドイッチェラント」》
《LZ7の船室》
《乗客を乗せた初の飛行に出発するLZ7》
*中央に見える船窓が並ぶ部分が旅客用船室
ツェッペリン伯爵もまた、祖国の名を冠したこの船により、かつて自分を破滅の淵から救ってくれたドイツ国民の負託に応えようと決意していました。
1910年6月28日、23名のジャーナリストを船客として招待し、LZ7は処女航海へと出発します。シャンパンとキャビアを大量に積み込み、目指すは風光明媚なヴェッペル渓谷。この飛行で彼らを大いにもてなし、空の旅の豪華さと快適さを宣伝してもらおうというのが、DELAG社運行部長フーゴー・エッケナーの考えでした。
華麗なデビューとなる筈だったこの航海は、しかし惨めな結末に終わる運命にありました。
強風とエンジン故障のため、森林地帯への強行着陸を余儀なくされ、船体が甚大な損傷を受けたのです。乗員一人が軽いけがを負っただけで済んだのが、不幸中の幸いでした。
こうしてLZ7は僅か一月の短い生涯を閉じたのです。
それから幾月も経たない1910年9月、LZ6がハンガー内での整備中に失火による火災で喪われます。ここに、DELAG社の稼働可能な飛行船はゼロとなったのです。まさに踏んだり蹴ったりですが、同社の不運はこれに終わりません。
1911年の春に完成したLZ8「ドイッチェラントⅡ世」までもが、就役後まもなく強風による事故のため破壊されたのです。
《事故で破壊されたLZ8》
このときも負傷者は出なかったとはいえ、相次ぐ醜態はDELAG社に大きなダメージを与えました。国民世論は依然として同社に好意的でしたが、専門家の間では飛行船に対する懐疑論が息を吹き返し、社内からは事業の採算性について悲観的な声が上がるようになります。
このとき、伯爵を支え、DELAG社未曾有の危機に立ち向かったのが、運行部長フーゴー・エッケナーです。LZ8の船長も兼任していた彼は、飛行船の運用上の欠陥を誰よりも知悉していました。DELAG社再生のため、彼は矢継ぎ早に対策を打ちます。
LZ2以来の遭難事故の殆どは、天候不順とエンジントラブルの二つが原因であることを、エッケナーは見抜いていました。そこでまず彼が行ったのは、自社の気象観測所を各地に設置し、精度の高い天気予報を入手する仕組みを作ることでした。続いて、発動機の生産者をダイムラー社からマイバッハ社へと切り替えます。自動車メーカーであるダイムラー社にとって、年に何基も需要がない飛行船用エンジンの生産は重荷になりつつありました。回されてくる技師も職人も二流となれば、当然製品に信頼性は望めません。そんな中、ツェッペリン伯爵の途方もない夢に魅せられたエンジン設計の権威、カール・マイバッハがダイムラー社を出奔、飛行船用エンジンの開発・生産に専念すべく会社を立ち上げていました。新しい飛行船には、このマイバッハの製品が採用されることとなったのです。
さらに、エッケナーは船長としての自分の経験を活かし、クルーの教育を徹底します。
かくしてDELAG社の存廃を懸け、新造旅客船LZ10「シュワーベン」が就役したのは、1911年7月のことでした。全長140m、直径14m、体積17,800㎥。「ドイッチェラント」よりは幾分小ぶりですが、より強力なマイバッハ製145馬力エンジンを3機搭載し、最高速度は時速77キロにまで向上していました。
乗客は20名。エッケナーが自ら船長として指揮を執り、ドイツ各地で小規模な遊覧飛行を繰り返します。地道な信頼回復の中にこそ、死中に活を求める途があると、エッケナーは考えていたのです。
《LZ10「シュワーベン」》
《LZ10船上のツェッペリンとエッケナー》
《LZ10に搭載されたマイバッハ製エンジン》
結局、エッケナーは見事に賭けに勝ちました。1911年7月から1912年末にかけ、LZ10は218回の遊覧飛行を成功させ、1,533人の観客が空の旅を楽しみました。その中にはドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンも、その名を連ねています。彼は妃と侍従たちを旅客用キャビンに乗せ、自らは吹き曝しのブリッジに立ったのでした。
かくして運用ノウハウを確立したDELAG社は都市間の航路網構築に乗り出します。各地に空港が整備され、新たに3隻の旅客飛行船(「ヴィクトリア・ルイゼ」、「ハンザ」、「ザクセン」)が建造されました。同社の収益は黒字へと劇的な転換を果たし、第一次大戦の勃発までに通算1,588回の飛行を行い、34,228人もの乗客を輸送したのでした。
いうまでもなく、これは第一次大戦前に行われた唯一の本格的な商業航空事業であり、その成功はドイツ国民を熱狂させました。彼らは、飛行船による航路網の実現を自国が科学力で他の列強から一歩抜きんでていることの証左と受け取ったのです。
また、特筆すべきは、民間航空での飛行船運用が軌道に乗ったことにより、人材・技術・設備などのリソーセスの蓄積が飛躍的に充実したことでしょう。このような層の厚い基盤があって初めて、第一次大戦においてただドイツだけが硬式飛行船を大規模に軍事利用することが出来たのです。
そして、それをもたらしたのは、軍や政府などではなく、ツェッペリン伯爵というある種エキセントリックなカリスマに他なりません。彼が進むべき道を示し、それに魅せられたデュールやエッケナー、マイバッハといった各分野の専門家たちが自発的に事業に参加し、これを成就させたのです。幾度となく挫折が襲いくるたび、ツェッペリンは彼らの精神的支柱となり、優れたリーダーシップで乗り越えて見せました。真に偉大な事業は、偉大な個人によって初めてなされる―ツェッペリン飛行船の事例は、このことを如実に示して余りあるように思われます。
もう一つ、忘れてはならないのは、LZ1の初飛行以来、ツェッペリンの名において行われた実験飛行と旅客飛行において、死者が一人も出ていないという事実です。命知らずの冒険野郎の独壇場だった黎明期の航空業界において、極めて特異なことだと言わざるを得ません。もちろんこれは偶然などでは無く、ツェッペリン自身が安全の重要性を強く認識していたことによるものなのです。初期の実験飛行において、彼は危険を察すると躊躇なく不時着その他の安全策を取っています。企画においては無謀とも言えるほど大胆だが、実行に際しては慎重に慎重を期す。この姿勢が、死亡事故を防止し、結果として王族から民衆に至るまでの幅広い社会的信頼と応援を勝ち得たのでした。安全性重視の発想が無ければ、ツェッペリンの夢と挑戦は、必ずや潰えていたでしょう。この点でも、彼は近代航空のパイオニアだったのです。
《DELAG社の航路図》
《LZ11「ヴィクトリア・ルイゼ」》
*DELAG社の旅客飛行船
《LZ11に乗り込む旅客》
《LZ13「ハンザ」》
*DELAG社の旅客飛行船。主にハンブルグ-ポツダム間の航路で活躍。
《LZ13「ハンザ」の船室》
*DELAG社の客船は、豪華な内装と贅沢な食事で世間の話題を集めた。
《LZ17「ザクセン」》
*大戦前に建造された最後の民間船。1913年就役。
全長142m、直径14.8m、体積19,500㎥。かつてない大型船だった。
《DELAG社の客船から撮影されたベルリン中心街》
≪「ツェッペリン・メール」≫
*DELAG社は航空郵便事業も営んでおり、庶民でも手の届く価格でエア・メールを送ることが出来たため、国民的ブームとなった。
一握りの富裕層だけでなく、社会全体と共にあろうとするツェッペリン伯の経営哲学を垣間見ることが出来る。
DELAG社の事業が軌道に乗り始めたころ、欧州の政治情勢はいよいよ緊迫の度合いを増していました。海洋進出を志向するドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、大洋艦隊の急速な拡張に邁進し、海軍覇権国家である大英帝国との間に一大建艦競争を惹起するに至ります。一方、普仏戦争の雪辱を誓うフランスはロシアとの間に同盟を締結、両国の連携は年を追って緊密化し、ドイツ陸軍は二正面作戦のリスクに直面しました。これに対し、ドイツ陸軍参謀本部はベルギーを突破してフランス北部を席巻し、迅速にパリを占領することを企図した従来からの「シュリーフェンプラン」をより攻撃的に磨きあげ、極力短期間でフランスを撃破し、返す刀でロシアを打ち破るという戦略を採用します。
かくして陸海双方で数的劣勢に立たされたドイツ軍は、その絶対的な戦力差を少しでも補うべく、従来の発想に囚われない新兵器の採用を真剣に検討せざるを得ない状況に置かれたのです。
その候補の一つとして、飛行船が浮上してきたのは、ごく自然な成り行きと言えましょう。軍部は既にツェッペリンとDELAG社の成功を目の当たりにしていましたし、1912年の伊土戦争でイタリア王国軍が飛行船を用いてトルコ軍を爆撃した事実も知れ渡っていました。
《空中と海中のパイオニア:ツェッペリンと輸送用Uボート艦隊指揮官Paul König》
*イギリス海軍の洋上封鎖を突破して米国と交易をおこなった輸送用Uボート(Merchant submarine)については機会を改めて触れたい。
《イタリア王国軍の軟式飛行船》
*同時期のDELAG社の旅客船より遥かに粗末な代物であったが、1912年3月にトルコ軍を爆撃してそれなりの戦果を挙げた。
1912年、ドイツ陸軍参謀総長の小モルトケは、3年以内を目途に20隻以上のツェッペリン飛行船を導入することを提案します。しかも、注目すべきは、飛行船は単なる偵察の道具ではなく、大規模な先制攻撃の担い手として位置付けられていたことでしょう。これを皮切りに、陸軍は飛行船の本格的運用に踏み切ります。
ドイツ海軍もこれに続きました。かつて飛行船導入に反対していたテルピッツ海軍大臣は5年間で10隻のツェッペリン飛行船を配備する計画を作成、1913年1月に皇帝ウィルヘルム2世の裁可を得たのです。
ツェッペリン伯爵40年来の夢が、とうとう実現する時が来ました。1912年以降、「ツェッペリン飛行船有限会社」には軍からの受注が次々と舞い込みます。
これに応えるべく、同社は迅速に量産体制の整備を進めました。また、デュール技師は初の軍用量産規格であるH級を設計します。本艦級は全長142m、直径14.8m、体積19,500㎥。マイバッハ製180馬力エンジン3基を搭載し、最高速度は時速76キロでした。H級は6隻が完成し、うち4隻が陸軍、1隻が海軍に、残り1隻がDELAG社(「ザクセン」)に受領されています。このうち、海軍に配備された1隻と陸軍の2隻が開戦前に事故で喪われますが、残った陸軍の2隻は偵察及び訓練に用いられました。
《H級1番艦LZ14 海軍名L1》
*1912年7月初飛行
次にデュールが設計したのが、はじめての本格的な戦闘艦であるM級です。本艦級は全長158m、直径14.8m、体積は実に22,500㎥。巨大な船体が生み出す浮力により、高度3,000メートルまで上昇することが可能でした。機関はマイバッハ製210馬力エンジン3基を搭載、最高速度は時速83キロに達します。爆弾搭載量は0.5トン(英国まで往復可能な3.4トンの燃料を積んだ場合)を超えており、これは当時の飛行機とはケタ違いの攻撃能力と言えるでしょう。
M級は開戦前に2隻、開戦後に10隻の計12隻が建造され、6隻ずつが陸軍と海軍に受領されています。
同級は開戦初期の主戦力として、英国本土爆撃を含む重要な戦闘任務に投入されました。
《M級1番艦LZ24 海軍名L3》
*1914年5月初飛行
こうしてドイツ軍による飛行船戦力の整備が緒に就いたところで、運命の開戦を迎えたのです。1914年8月のことでした。
以後、ツェッペリン空中艦隊は国家の総力を挙げて建設され、熾烈な戦いに投じられていくのです。
《M級ツェッペリンのブリッジ》
《ツェッペリン艦から捉えられた空爆下のロンドン》
分類 | 初飛行 | 全長(m) | 直径(m) | 体積(㎥) | エンジン | スピード(㎞/h) | |
LZ1 | 実験船 | 1900年7月 | 128.0 | 11.7 | 11,300 | 15馬力2基 | 27 |
LZ3 | 実験船 | 1906年10月 | 126.2 | 11.7 | 11,430 | 85馬力2基 | 40 |
LZ4 | 実験船 | 1908年6月 | 136.0 | 13.0 | 15,000 | 105馬力2基 | 48 |
LZ10「シュワーベン」 | 旅客船 | 1911年5月 | 140.0 | 14.0 | 17,800 | 145馬力3基 | 77 |
LZ14(H級) | 戦闘艦 | 1912年7月 | 142.0 | 14.8 | 19,500 | 180馬力3基 | 76 |
LZ24(M級) | 戦闘艦 | 1914年5月 | 158.0 | 14.8 | 22,500 | 210馬力3基 | 83 |
《飛行船の大型化と速力向上》
1909年 | 1910年 | 1911年 | 1912年 | 1913年 | 1914年 (開戦前) | ||
民間用 | 1 | 1 | 3 | 1 | 1 | 0 | |
軍用 | 1 | 0 | 1 | 2 | 6 | 4 | |
陸軍 | 1 | 0 | 1 | 1 | 5 | 3 | |
海軍 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | |
合計 | 2 | 1 | 4 | 3 | 7 | 4 | |
民間船比率 | 50% | 100% | 75% | 33% | 14% | 0% |
《ツェッペリン飛行船有限会社の建造実績》
つづきはこちら。