ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃‐第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』‐ 第1章前篇

加筆・修正の上、遂に書籍化!

 

第1章:老伯爵の夢と挑戦(前篇)

「-鳥のように大空を自由に飛び回りたい-」、それは人々が遥かな昔から抱いてきた夢でした。レオナルド・ダビンチから、モンゴルフィエ兄弟に至るまで、幾百年もの間、数多の先駆者たちがこの夢に挑戦し、その実現を見ることなく世を去っていきました。
しかし、19世紀に入るとテクノロジーの飛躍的進歩と産業革命の進展により、飛行機械の開発は、単なる夢想ではなくなります。
1852年、人類は遂に、史上初の動力飛行を実現させました。フランス人技術者のアンリ・ジファールが3馬力の蒸気機関を搭載した気球を製作し、同年9月24日、パリの上空を時速10㎞弱で飛ぶことに成功したのです。この日の飛行距離は27㎞、高度は1,800mに達し、方向舵の効きも良好でした。飛行の途上で風に煽られて操縦不能になり、最後は不時着を余儀なくされるというトラブルに見舞われはしたものの、この出来事が航空科学史に燦然と輝く偉大な足跡となったことは言うまでもありません。これが、飛行船誕生の瞬間です。

《ジファールの飛行船》

ジファールの快挙に触発され、以後多くの発明家や山っ気のある技術者達がより優れた飛行船の開発に取り組み始めます。
その中でも特筆すべき人物として、ブラジル出身のサントス・デュモンを挙げることが出来るでしょう。コーヒー農場主の息子であったデュモンは、青年期に父の祖国フランスへ渡り、パリ大学で機械工学を学びました。卒業後、豊かな資金力を活かし1898年頃から飛行船の設計・製造を始め、1901年にはヨーロッパ中を驚かす成果を残すのです。
彼は自動車用の水冷20馬力のエンジンを搭載した飛行船を用い、パリ郊外のサン・クルー公園を飛び立ち、直線距離で7㎞離れたエッフェル塔を周回、出発から30分で正確に離陸地点に船を降下させたのです。離着陸に要する時間も含めて、平均速度は約30㎞。ここに、飛行船は思い通りに操縦可能な「乗り物」として完成され得ることが証明されたのです。デュモンの大胆な試みを、固唾をのんで見守っていたパリの市民は熱狂しました。彼らは、20世紀という新しい科学の時代の到来を目の当たりにしたと言っても過言ではありません。

《エッフェル塔を周回するデュモンの飛行船》

しかしながら、飛行船はその特性に由来する深刻な欠点を抱えており、ジファールの時代から50年近くを経てもなお、商用・軍用とも実用化のめどが立たない代物でもありました。その欠点とは、比重が空気より軽いため、ちょっとした風が吹いただけで簡単に流されてしまうというものです。更に、布で出来た気嚢はどうしても風船のようなずんぐりとした形状になってしまうため、横風を受けやすいばかりでなく、前進する際の空気抵抗も大きく、強度の点から大型化にも限界がありました。
そのため、飛行船は飽くまで冒険的発明家のための記録づくりの玩具の域を出ず、政府機関等による組織的・継続的な研究は殆ど行われていませんでした。
そんな時代にあって、一人のドイツ人軍人貴族が革新的なアイデアと共に、偉大な挑戦をしようとしていました。彼の名は、フェルディナント・フォン・ツェッペリン。彼が望むのは個人的名声や、いずれは塗り替えられる飛行記録などではありません。飛行船の力で、祖国ドイツの栄光を一層高からしめること、これこそがツェッペリンを突き動かす激しい情熱の源だったのです。

ツェッペリンは、1838年、プロイセンの衛星国であるヴェルテンブルク王国の版図に属するボーデン湖畔のインゼルに生まれました。生家は由緒正しい伯爵家で、当時のドイツの貴族階級に属する男子の常として、若き日の彼もまた軍務に就く道を選びます。士官学校を卒業すると、ツェッペリンはいささか時代遅れながら依然として軍の花形であった騎兵隊の将校に着任しました。

《青年将校時代のツェッペリン》
*これでも20代です。

1863年、ヴェルテンブルク国王派遣の観戦武官に選抜され、南北戦争さなかの米国に渡ったことで、彼の運命は一つの転機を迎えました。ミシシッピ河畔の前線で、北軍の観測気球に乗り込み、高度600メートルから軍事偵察を行うという貴重な経験を得たのです。
偵察は当時、騎兵の重要な役割の一つでしたが、少数で敵陣に肉薄する必要があるため、非常な危険を伴い、また敵軍が地形を生かして巧妙な戦力配置を行っていた場合には、労ばかり多く、益が少ないこともしばしばでした。
しかし、空から見下ろせば全てが一目瞭然です。このことが若き日のツェッペリンに非常に強い印象を残したことは、言うまでもありません。

それから7年が過ぎた1870年、ドイツの国運を賭けた普仏戦争が勃発します。騎兵大尉として従軍した彼は、ここでも気球が戦争に活用されるのを目にしました。プロイセンが率いるドイツ諸邦連合軍に包囲されたパリからは、頻繁に気球が飛び立ち、風に乗ってドイツ軍の頭上を悠々と通過、後方と連絡を取っていたのです。ツェッペリンにとって、近い将来、「空」が戦場になることはもはや明らかでした。

《ドイツ皇帝に即位するプロイセン王ヴィルヘルム1世》
*ドイツ軍の占領下に置かれていたヴェルサイユ宮殿で行われた式典の一幕

普仏戦争がドイツ側の勝利に終わり、統一国家としてのドイツ帝国が成立すると、ツェッペリンは軍のエリートコースに乗って順調に出世していきます。1882年には騎兵連隊長に任命され、2年後には大佐に昇進。しかし、彼の望みは、もはや騎兵隊の指揮官としての栄達ではありませんでした。
戦争が終わって間もないころから、彼は独自の飛行船のプランを練り始めます。1874年に作成された飛行船の見取り図は、この熱意溢れるアマチュア研究家の非凡な発想力と先見性を如実に示して余りあるものでした。彼の構想する飛行船は、なだらかに湾曲する水平方向の梁材を幾本も船首から放射状に展張、船尾で収束させていました。垂直向に並ぶリング構造がこれらの梁材を固定して葉巻型の船体を形成し、内部には複数の独立した気嚢が並んでいます。これにより、ツェッペリンの飛行船は従来の単一の気嚢からなる飛行船とは比較にならない大きさ、すなわち外洋客船にも匹敵する2万立方メートルに達する体積を有するとされていたのです。
構造材の使用により空気抵抗の少ない流線型の船体形状と、複数の気嚢から成る巨大な体積を実現し、優れた航行性能と積載能力を獲得する-これこそは、「硬式飛行船」の概念そのものに他なりません。
ここに、従来の単一の気嚢からなる「軟式飛行船」が抱えていた諸々の限界、すなわちずんぐりした気嚢が生み出す空気抵抗や横風への脆弱性、気嚢が一つしかないことによる積載能力の乏しさなどを克服する理論的方向性が明確に示されたのです。

《硬式飛行船(LZ120)の内部》
*縦横に走る構造材が見てとれる。中央部に垂れ下がる袋状のものはガスを抜かれた気嚢。

《硬式飛行船(LZ127)の構造》
*流線型の長大な船体の中に複数の気嚢(ピンク色)が配置されている。

1885年、ツェッペリンはヴェルテンブルク王国のベルリン大使館駐在武官に任命されます。ドイツは統一後も諸邦の連合体という形をとっていたため、形式的に首都ベルリンにその大使館が設けられていたのです。これを好機と見た彼はドイツ帝国政府高官に硬式飛行船建造の必要性を熱心に説いて回りますが、反応は芳しいものではありませんでした。外洋船と同等の全長・体積を有する飛行船など、当時の人々にとっては誇大妄想も同じだったのです。
1890年、業を煮やしたツェッペリンは時の皇帝ウィルヘルム2世に直訴しますが、結果は空振りに終わります。
ツェッペリンの忍耐は限界に近づいていました。彼の下には、普仏戦争の雪辱を誓う宿敵フランスが、軍用飛行船の研究を急速に進めているという情報が届いていたのです。このまま独仏再戦となれば、ドイツは一方的に空からの攻撃に晒されることになる。政府の理解が得られないのなら、独力で自らの構想を実現するまでだ。こう考えたツェッペリンは、1891年、騎兵旅団長の地位を手放し、陸軍少将で軍を退役、私財をなげうって飛行船建造事業に乗り出すのです。
時に、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵、52歳。並みのエリートであれば手にした地位と人脈でわが世の春を謳歌するであろうまさにその時期に、たった一人で未知の領域へと果敢に踏み込んだのでした。

《壮年期のツェッペリン》

《普仏戦争で失われた領土の奪還を生徒に説くフランスの教師》

《フランス陸軍が1884年に建造した軍用飛行船「ラ・フランス」》
*全長52m、体積1,900㎥

それからの10年は、ツェッペリンにとって雌伏の時でした。飛行船を建造するために必要となる、あらゆるものを揃える必要があったのです。
まずは資金が無い事にはお話になりません。伯爵は、もとより先祖伝来の領地を含む全財産の一切を惜しげもなく手放す覚悟でしたが、それでも必要額には達しませんでした。そのため、彼は政府の援助を恃み、詳細な飛行船の設計プランを陸軍省に提出します。しかし官僚的な軍当局は煮え切らない態度のまま結論をいつまでも先延ばしするという有様。1893年、痺れを切らしたツェッペリンは皇帝に陳情までしましたが、結果的に軍は彼の提案を受け入れることはありませんでした。こうなれば民間から資金を募るしかありません。彼は東奔西走し、出資者を一人、また一人と獲得していき、1898年、遂に資金の確保に成功したのです。総額80万マルクの内、ツェッペリン個人の出資が40万マルク、残りが協力者の資金でした。

次は人材です。ツェッペリン伯爵自身、1年間軍務を離れてチュービンゲン大学で工学を学ぶなど、技術的素養を身に着け、深めることを決して怠りませんでしたが、それでも、否、それ故にこそ、若く才能のある専門家の必要性を痛感していました。1892年、彼は気球会社からコーベルという27歳の技術者を招聘しています。彼はツェッペリンの初期の研究に決定的に重要な役割を果たしました。
また、ツェッペリンはドイツ技術者協会(VDI)に参加し、有力な専門家たちとの間に確固たるコネクションを築き上げ、1893年には「飛行船航空振興協会」を設立、システマティックな人材のプールを図ります。
時代は下り、1900年、21歳の若き天才技師が開発チームに加わります。彼の名はルートビッヒ・デュール。後にツェッペリンのもとで118隻もの飛行船を設計し、名実ともにドイツの飛行船設計の第一人者となる人物です。

《ルートビッヒ・デュール》
*これでも20代です。

続いては、飛行船建造に必要な諸々の構成品です。とりわけ重要なのは、軽くて頑丈な構造材と、小型で大出力の機関の二つでした。前者には、アルミニウムが採用されました。産業革命の進展を背景に、大量生産が可能になったばかりの最新にして最高品質の素材です。1898年、ツェッペリンはベルク社と契約、アルミニウムの確保に成功します。
機関については、1889年に近代的なガソリンエンジンを開発したダイムラー社が協力に名乗りを挙げました。従来の蒸気機関とはケタ違いの出力を有するこの新式内燃機関無くしては、ツェッペリンの計画も夢想のうちに終わったかもしれません。

《初のツェッペリン飛行船に搭載されたダイムラーエンジン》

最後は、飛行船開発・建造のための拠点の確保でした。ツェッペリンは、穏やかな湖の水面に浮きドック式の工場兼ハンガーを設けようと考えていました。その理由として、風向きに合わせて移動させられるため、飛行船の発着に有利であること、降下に際して水面の方が船体を痛めるリスクが小さいこと、着水後は船で容易にハンガーまで曳航できること、などが挙げられます。
彼の希望は、ヴェルテンブルク王が直々にボーデン湖畔のマンツェルという村の近郊に土地を下賜したことで叶えられました。

かくして、1898年、ツェッペリン伯爵は80万マルクの資本を元手に「飛行船輸送開発合資会社」を設立、ボーデン湖に水上工場を建設すると、念願の飛行船建造に着手したのです。

《ボーデン湖上の水上工場と、初のツェッペリン飛行船(LZ1)》

1900年7月、多くの苦難の末、遂に初の飛行船が完成、LZ1と命名されました。LZ1のLはLuftschiff (飛行船)の頭文字、ZはZeppelin(ツェッペリン)のそれです。全長128メートル、体積11,300㎥。ダイムラー社製15馬力エンジンを2機搭載したその船は、試験機とはいいながらも、破格の巨躯を有していました。まさに硬式飛行船の面目躍如と言ったところです。
ツェッペリン伯爵はこのとき61歳。老境を迎えた彼にとって、長年の夢は手を伸ばせばすぐ届く所にあると思われたかもしれません。

《ツェッペリン伯爵 1900年》

初飛行は7月2日。事前に新聞で報道がなされていたため、ボーデン湖畔には多数の見物人が押しかけていました。水上にも観衆が鈴なりになった遊覧船が何隻も遊弋しています。折からの風が収まった午後7時30分、LZ1がハンガーから姿を現しました。その巨体を目にした群衆からどよめきが生じます。

《LZ1の初飛行》

午後8時、LZ1は静かに浮上を始めました。高度400メートル付近で船体を水平に安定させ、ツェッペリン自らが舵を取ります。15分ほど湖の上空を飛びまわったところで、深刻なトラブルが生じました。姿勢制御のためのバラスト移動装置が故障して船体が折れ曲がり、墜落に近い形で湖面への緊急着水を余儀なくされたのです。
幸い5名の乗員に負傷者は出ませんでしたが、観衆の多くは落胆して家路につきました。
歴史的な飛行であったにも拘わらず、世間の反応は冷ややかでした。大新聞の一つ、フランクフルター・ツァイトゥング紙は、翌日の記事で次のように断じます。動力飛行船には実用的な価値が全くないことが明らかとなった、と。人々はツェッペリンを「狂人伯爵」と呼んであざ嗤いました。

それでも伯爵はあきらめません。2か月をかけて修理と改良を施した後、10月17日の2回目の飛行では1時間30分の滞空時間を記録し、3日後の3回目の飛行では時速24.7㎞のスピードを出すことに成功しました。こうしてツェッペリンは自らの信念の正しさを示しましたが、その功績は社会的には全く認められませんでした。

当時のドイツ皇帝と軍が、ツェッペリンをどう見ていたかを端的に物語るエピソードが遺されています。
「カイザーがあるとき軍の飛行船部門の将校たちと飛行船の様々な方式について議論をしていたとき、たまたまカイザーがツェッペリン伯爵についてふれ、彼らの意見をきこうとした。カイザーはバイエルン出の率直な将校に喋らせようとした。すると、その将校は少しの間考えこんでいたが、意を決したようにこういい放ったという。『陛下、あれは、まったくくだらない代物ですよ!』」
(天沼春樹「飛行船ものがたり」 NTT出版 1995年)

資金は既に底をついていました。国家の支援が得られないと分かった今、ツェッペリン伯爵にできることは会社を清算することだけでした。LZ1も、ハンガーも解体されました。
1903年、伯爵は再起を期して国民に寄付を呼び掛けます。しかし、集まったのはたったの8,000マルク。ドイツ技術者協会のある会員は、伯爵に向かって、巨大飛行船が空を飛ぶことは二度とないだろうと言い捨てました。

細々と研究を続けていたツェッペリンの窮状を救ったのは、ヴェルテンブルク国王でした。伯爵の熱意に惚れ込み、妃とともにLZ1の3回目の飛行を直々に視察した国王は、1904年、12万4,000マルクの資金を提供したのです。ドイツ中央政府も、機密費から5万マルクを捻出しました。それでも、2隻目の飛行船を建造するには足りません。このとき、伯爵の妻、イザベラが持参金である故郷の所領を抵当に入れてまで不足額を補ってくれたのです。当時の貴族階級の夫人にとって、持参金は命の次に大切なものでした。夫と離婚や死別をしたとき、或いは夫が見込みのない事業にのめり込んで財産を使い果たしてしまったとき、貴族としての矜持を保つための最後の命綱だったのです。イザベラ夫人はこのお金に手を付けました。「狂人伯爵」は決して孤独ではなかったのです。

《イザベラ夫人》

《ヴェルテンブルク王ヴィルヘルム2世》
*同名のドイツ皇帝とは別人

資金の目途が立ったツェッペリンは、マンツェルに水上ハンガーを再建、技師ルートビッヒ・デュールとともにLZ2の設計・建造に取り掛かります。このとき、開発チームには新しい有力なメンバーが加わっていました。かつてLZ1の初飛行をこき下ろしたフランクフルター・ツァイトゥング紙で通信員をしていた、フーゴー・エッケナーです。哲学と経済学の学位を持つ、学者肌の人物でしたが、ツェッペリンのもとで有能な飛行船船長として、また同時に事業のマネジメントと宣伝活動のブレーンとして頭角を現してくることでしょう。

《フーゴー・エッケナー》

LZ2は、大きさこそ先代とほぼ同じでしたが、その失敗を踏まえて数々の改良が加えられていました。特に、最初のフライトでトラブルを引き起こした姿勢制御用の移動式バラストは廃止され、替わって船体の前後・左右にデュールが考案した昇降舵が取り付けられました。また、機関は先代より遥かに強力なダイムラー社製の85馬力エンジン2基を搭載。この他、重量を増すことなく船体構造を強化する工夫もなされていました。

《LZ2》
*船体に取り付けられた昇降舵が特徴的

1905年11月、ツェッペリン伯爵以下開発陣の期待を一身に背負い、LZ2は完成しました。しかし、その運命はあまりにも惨めなものでした。
気候が不安定な冬期に飛行テストを強行しようとしたところ、ハンガーから引き出す際に強風にあおられ、船体がハンガーの壁面に衝突、2か月の修理を余儀なくされます。なんと幸先の悪い出だしでしょう。
年が明けた1906年の1月17日、ようやく初飛行にこぎ着けたものの、離陸後まもなく激しいピッチングに見舞われ、肝心の昇降舵が故障して船体が傾斜してしまいます。これが原因となって燃料供給に異常が生じ、エンジンまで停止するという事態に立ち至りました。ツェッペリンは巧みに気嚢からガスを抜きとり、何とか不時着を成功させますが、夜の間に襲い来た暴風のため、平地にその身を横たえていたLZ2は跡形もなく破壊されてしまったのでした。

全ては水泡に帰しました。ツェッペリンやデュールの努力、妻イザベラの献身、ヴェルテンブルク国王の好意。何もかもが、実を結ぶことなく終わるかに見えました。
それでも、65歳の老伯爵の胸中に燃える情熱の炎が、消えることはありませんでした。デュールも殆ど無一文となった伯爵の下に残り、わずかな報酬に耐えるばかりか、私費を投じてまで風洞実験設備を造り、研究を続けます。
これを見たドイツ皇帝、ウィルヘルム2世は、遂に重い腰を挙げます。国庫から10万マルクの資金を下賜するとともに、宝くじの収益金25万マルクを拠出したのです。
伯爵の不屈の闘志が、強引に3度目のチャンスをもたらしたといっても過言では無いでしょう。

《ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世》
*サルバドール・ダリではない。

1906年10月に完成したLZ3は、LZ2と殆ど同じ構造でした。唯一の、そして決定的な違いは、船尾に取り付けられた水平安定板にあります。これは、どん底の日々に、デュールが自作の風洞実験設備を用いてLZ2が直面した激しいピッチングを再現し、かつこれを克服する方法を徹底的に検討し尽くした結果、生み出された物でした。
10月9日、LZ3は、いよいよ初飛行の日を迎えます。

《LZ3》
*船尾の水平安定板が明瞭に見て取れる。

《LZ3に乗り込むツェッペリン伯爵(右端)》
*伯爵の背後に立っている長身の人物は、ルートビッヒ・デュール

LZ3のテストフライトは、素晴らしいものでした。11名の乗員をのせて2時間17分に渡り自在に飛び回り、時速39.4キロの最高速度をマークしさえしました。
しかし、これは始まりに過ぎません。LZ3はその後、2年と2か月ほどの期間に、実に45回ものフライトを無事にこなし、その過程で8時間という滞空記録を叩きだしたのです。この時、LZ3は354キロもの長距離飛行を成し遂げました。
1907年10月2日には、なんとヴェルテンブルク国王夫妻を乗せて飛行を行っています。ヴェルテンブルクはドイツ帝国を構成する形ばかりの領邦とは言え、紛れもない王族が夫婦そろって発展途上の危険極まりない飛行機械に乗った事実は、社会的に大きな意味を持っていました。LZ2の建造に資金援助を惜しまなかった国王ですが、LZ3への乗船はそれ以上にツェッペリンの事業を後押しすることになります。ここに、国王と伯爵の深い信頼関係を見ることが出来るでしょう。
幸運はまだ続きます。ヴェルテンブルク国王夫妻に触発されたのか、ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンその人が乗船を打診してきたのです。ツェッペリン伯爵がこれを快諾したのは言うまでもありません。10月8日、皇太子はLZ3に乗り込み、短時間の飛行を楽しみました。
かくして11月、ツェッペリン伯爵はドイツ帝国の最高勲章である黒鷲勲章(Order of the Black Eagle)を授与されたのでした。伯爵の挑戦は、遂に国家に認められたのです。
LZ3は1908年に改装を施され、翌1909年に研究および練習用飛行船としてドイツ軍に買い取られました。その後、約4年の間事故ひとつ起こさずに軍務を全うし、旧式化に伴い1913年に退役、栄光の生涯を閉じました。
画期的性能を有する最新の船が10年も経たずに時代遅れになる。LZ3以降の飛行船の発展は、それほど急速だったのです。そして、その発展の先導者こそ、ツェッペリン伯爵に他なりませんでした。

《ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン》

第1章:老伯爵の夢と挑戦(後編)に続きます。

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