出撃!日本国輸送艦隊その1

LST

大日本帝国は存亡をかけた大戦争に敗北を喫し、日本国と名乗りを変えました。

朝鮮戦争勃発

大日本帝国が嫌々併合してやり、人並みの生活が出来るようにしてやった超汚染半島は、勝手に独立しておりました。

一つではなく、二つであります。二つの超汚染は北緯38度線を境に、敵対しておりました。民度が極端に低いのに独立させてもらった国なんて、こんなモノでありますが…

昭和25(1950)年6月25日の午前4時(Korea時間)、北緯38度線で突如大砲声が響き渡りました。

北朝鮮軍の砲撃が開始されたのです。

砲撃は30分にも及び、その直後に北朝鮮軍10万の兵士が38度線を越えました。

朝鮮戦争が始まったのであります。

この朝鮮戦争によって、日本にいた占領軍は、速やかに国連軍として朝鮮半島に派遣されることになりました(Korea軍の情けない逃走劇などは皆さんご存知と思いますので、割愛)。

下朝鮮軍はソウル市民を見捨て、橋を爆破して逃げた

下朝鮮軍はソウル市民を見捨て、橋を爆破して逃げた

 

国連軍いうても、ほぼアメリカ軍。でありますから、ホンの5年ほど前に、太平洋を東から西へ押し渡った大艦隊で大輸送船団を護衛し、チャチャッと十日十月魚羊半島へ行けば良い。

ってなモンでありますが、アメリカの伝統的な政策として「戦争が終わったらさっさと軍備縮小」と言うやり方が生きておりました。

朝鮮戦争の勃発前夜。アメリカ陸海軍の戦備は、危険なほどの低水準になっていたのです。
もちろん極東のアメリカ海軍も例外ではありません。

占領した日本にいたのは水上部隊だけ、艦艇わずか17隻の「第96任務部隊」が日本を母港としていただけです。

アメリカ海軍の基地(地上施設)としては、横須賀基地に小規模な修理施設と約5,000人の軍人を支援できる能力の補給部、約3,000トンの弾薬を保管している弾薬廠、それに海軍病院があるだけ。

横須賀で補給中のアンティータム(朝鮮戦争時)

糞半島戦争へ出撃のため、横須賀で補給中の空母「アンティータム」

 

佐世保基地に至っては士官5名と下士官100名が配置されてるだけで、兵員を送り出したりそれを護衛したりする能力は記録上では皆無。

海上輸送に対処できる船舶など、極東の米軍には全く無かったのです。

敗戦後の日本海運は

時代を少し遡ります。戦後の日本海運界を説明するのに、ちょっと必要なんで、しばらくのご辛抱。

大日本帝国はブロック化しつつあった世界経済のなかで、生存戦争のやむなきを悟って、「戦時経済体制」への道をたどりました。

国家総動員法などで、経済統制政策が採られたのですが、コレは私に言わせれば
「統制しなきゃ大戦争が出来ないほど、自由な経済活動が行われていた」
証拠であります。

まあ、それはまた別の機会に論ずるとして、海運の分野も例外ではなく「統制された」のです。

昭和14(1939)年4月に海運組合法・昭和15年2月、海運統制令・昭和16年9月、港湾運送業等統制令・大東亜戦争開戦後の昭和17年3月には戦時海運管理令…と統制法が次々と施行されたのであります。

これらの諸法令、とりわけ最後の「戦時海運管理令」の骨子は、「日本籍全船舶の国家使用」
「船員の徴用及びその労務管理」
「船舶運営会による国家使用船の一元的運営」
でありました。

高砂丸

高砂丸
徴用されて病院船になります。

 

大日本帝国に存在する、全ての船舶・船員を一元的に管理し、国が必要とする輸送やそのための配船が出来るように、ってことですな。

帝国政府はこの目的のために、国家総動員法に基づいて全船舶の運用権を取得したうえで「特殊法人・船舶運営会」を作りました。

船舶運営会に船舶を「貸下げ」て、この運営を任せたのです。
お役人サマは偉くて忙しいんだから、実務は民間でやれ、儂らは命令するだけね!…って現代と変わらぬ腐臭もしますけどね。

船舶運営会は「逓信省海務院」の代行機関となりました。

海務院が計画・立案した戦時海運管理政策に則って、実務(つまり海上輸送)を掌握する機関だったのです。

余談ですが、船舶運営会は赤字OKの「法人」でした。

国が必要とする輸送を、命令に従って行うんですから、当然っちゃぁ当然ですが、「大赤字垂れ流し放題の国鉄」ってモンを知っている私たち世代にとってはなんだかなぁ…。

まあ、それでですね。大東亜戦争が終わりますと、船舶運営会が運営していた日本の海運界は、目を疑うような損害を被っていました。

100総トン以上の商船(すんごく小さいフネは除く、って意味です)は戦争開始前の610万総トンから120万総トンまで減っていました(戦中の損失船舶は、戦時中に建造した分もありますので、総計で830万総トンにも達しています)。

昭和17)年11月 8日米潜水艦Seawolfの雷撃をうけ炎上する大阪商船慶興丸

昭和17年11月8日、米潜水艦シーウルフの雷撃をうけ炎上する「慶興丸」(大阪商船)/シーウルフ潜望鏡で撮影

 

120万トン残ったといっても、すぐに航行できる船舶の数は658隻、91万5408総トンしかありませんでした。

それだけではありません。
3万人を越える船員さんが船と運命を共にしていたのです。船員さんの戦死率は43%にも達しています。
この戦死率は、陸軍20%・海軍16%(特攻の英霊含む)と比べて異常に高いと思われませんか?

これこそ、私が常日ごろ電脳大本営で主張している「帝国海軍は護衛が大嫌い」の基本的な論拠であります。

戦後日本の海運

モノの面でも人の面でも大きく深い傷を負ってしまった日本海運。
ようやく厳しい戦争が終わったのに、勝者のアメリカが採った占領政策によってさらに追い討ちを掛けられてしまいます。

アメリカ政府から占領司令官のマッカーサーへの指令文書にも

「日本海運に対し、非軍事化の目的を達成するに必要な程度に日本の商船を制限せよ」

という一文がありました。

マッカーサー

マッカーサー

 

そのために、占領軍は昭和20年8月24日の午後6時以降、100総トン以上のすべての日本船舶の移動を禁止しています。

つぎに、9月2日(降伏文書の調印が行われた日)には、GHQの指令第1号により、全船舶の移動禁止命令が出されているのです。

その翌日の9月3日、日本船舶(100総トン以上)はアメリカ太平洋艦隊司令官の指揮監督下に置かれると発表され、船舶の管理はいったんGHQ艦隊連絡部が担当することになりました。

10月10日、GHQの下部組織として「SCAJAP (Naval Shipping Control Authority for Japanese MerchantMarine」という組織が作られます。

「日本商船管理局」って訳せば良いんでしょうか?

日本の船舶の運航・改造・修理や新造・処分を総括的に管理する部署ですな。
ただ、占領軍の軍人さんは威張るのがお仕事でありますから、実務は為さいません。日本のお役人サマと一緒ですわ。

一か月後の11月9日、SCAJAPは日本政府に「CMMC(Civil Merchant Marine Committee:民間商船委員会で良いのかいな?)」という組織を作れ、と命じます。
船主・代理店・港湾荷役業者などの代表者で構成しろ、って事でした。

日本政府は、「特殊法人・船舶運営会」っていう既存の組織があるんだから、それでいいじゃん!って言い返し、珍しくGHQも納得しやがったのであります。

大東亜戦争を遂行するための海運管理機関だった筈の「船舶運営会」を、SCAJAPの下請け機構として「海運の国家管理」を継続したんですな、「海運の非軍事化」を目的として(笑)。

そんな経緯がありまして、敗戦受け入れの直後に「移動禁止」って言われてた日本の船舶は、戦争で受けた傷を癒す間もなく「敗戦処理」に駆り出されちゃったのでした。

GHQの日本海運への要求は、

「占領軍、引揚げ及び国内経済に必要な船腹の確保」
「商船の運航を円滑に行うための適切な港湾サービスの確保」
「海運産業における過度な経済力集中の排除」
船舶運航権の民間企業への返還

の4つでしたが。

具体的に海運界に課せられた「任務」は、まずは国内輸送。
戦前から、我が国内の輸送は海路が主力で、鉄道網がそれに次いでいました。
国内生産を回復し、経済を廻すために、海運のフル稼働が待たれました。
さらに、我が統治の及ばなくなった地域からの邦人引き上げ。半端な人数ではありません。約660万人もの日本人が海外に「置き去り」になっていたのです。

大連の抑留者を乗せる信濃丸

大連の抑留者を乗せる「信濃丸」 老朽船も引き上げに駆り出されました。

 

この人々を国内にお迎えし、経済再建の戦士として再び戦って貰うことも、海運界の重大な任務となりました。

LSTまで

日本政府は船腹を確保しなければなりませんでした。
GHQに対して船舶を供給するように要請し、昭和20年末に「アメリカ政府が日本政府に船舶を貸与すること」になりました。

翌年1月、リバティー型輸送船100隻・LST100隻・病院船6隻・小型補助艦船9隻の合計215隻の船舶が日本政府に貸与されました。

貸与されたLSTは武器・弾薬が撤去されていましたので、人員輸送には好適品。
帰還に便利なように、広い階段や寝床・洗面所・トイレなどを増設し、LST1隻で2,000人あまりも収容することができるよう改装されたのです。
この改造LSTに日本人船員を配し、帰還輸送に使用したワケです。

帰還輸送は昭和21年中には509万人、翌昭和22年には74万人、23年には30万人が引揚げ。これで大部分の日本人が帰還した、とされています(船舶運営会編『調査月報』第42号:1950年3月分34頁による)。

リバティー型

リバティー型急造貨物船

 

このうち「アメリカからの貸与船による帰還輸送」は、昭和21年2月から12月にかけてだけです。

それでも、リバティー型輸送船は延べ493回の航海を実施し151万5,848名を輸送。LSTは587回航海し、70万6,272名を故郷に連れ帰りました。

その後は連合軍の物資輸送用に使われ、不要となった貸与船は順次アメリカへ返還されていきました。

日本海運の民営への移行(元に戻すだけですけど)は昭和25年4月1日に実施され、このとき船舶運営会は名称を「商船管理委員会」と変更しています。

日本の残存商船はそれぞれの船会社に返還されたのですが、アメリカからの貸与船だけは、商船管理委員会の手もとに残されていました。

「船舶運営会すなわち商船管理委員会は、戦時海運管理令に基づく一貫した人格を持ちながら、戦時中、終戦後、民営還元後とその機能は再転、三転し、現在課せられた事務を大別すると、帰還輸送、貸与米船の運航、外航配船管理、MSTSの傭船事務の4つとなる。」(商船管理委員会理事長に就任した有吉義弥の談話)

LST

LST

ってことで、超汚染半島で戦争がおっぱじまったとき、日本には「商船管理委員会(=GHQの下請け組織)が運営権を持つ日本人乗組みのLST」
が存在してたんでありますな。

アメリカ海運の実情

朝鮮戦争開始時の日本海運の実情・極東アメリカ軍の輸送力などを見てきましたが、ではアメリカ全体の「海運力」はどんなものだったんでしょうか?

第二次世界大戦(大西洋を越える必要もありましたからねぇ)では、アメリカも海上輸送に民間商船を使いました。
その商船を管理していた政府機関は4つもあったそうで、お互いに船舶を奪い合って、効率が良くなかったそうです。

その反省から、戦後になって船舶の管理を見直し。
Joint Military Transportation Command(=統合軍事輸送司令部、以下JMTC)という輸送力の一元管理を行う組織を設立しよう!ってことに一旦決まりました。

しかし、実際の手続きが非常に面倒で、十分に機能しないんじゃね?と言う意見が根強く残り、コレが解決できないまま、昭和23年12月になって
「すべての海上輸送は、海軍の指揮下に置く」
ことになっちまいました。

ってワケで49年10月にMSTS(Military Sea Transportation Service:軍事海上輸送部隊)が設立されたんですけど、当初MSTSの使えるフネは輸送船21隻とタンカー16隻だけでした。

MSTSは設立後「全世界的な船舶運航機関」としてロンドン・ニューヨーク・サンフランシスコ・東京に現地司令部を設置します。

西部太平洋地域を担当するのはMSTS WESTPAC(MSTS West Pacific=西部太平洋軍事海上輸送部隊)。昭和25(1950)年1月、司令官代理としてジュンカー大佐が東京に着任、この年7月1日に司令部を開設するための準備を進めていました。

サウスダコタ

海軍は戦艦や空母だけで戦うんじゃないぞ。
画像は戦艦「サウスダコダ」

 

といっても、MSTS WESTPACの保有船は25隻しかありませんでした。
それも業務に適した船ではありませんでしたし、司令部の人員だって軍人50名と民間人72名という体制でして、とても大量の海上輸送に対応できるほどの部隊ではありません。

事務が電子化されてる時代じゃないしねぇ。

それでなくてもSCAJAPだぁ、MSTS WESTPACだぁ、とワケわかめでありまして、「結局、何処が海上輸送するねん?」って話ですね。

結局、十日十月魚羊戦争への国連軍輸送は、MSTS WESTPACのジュンカー大佐がお取りになった…ようです(笑)

ただ、MSTS WESTPAC司令官代理として着任したばかりのジュンカー大佐には、その手段として多くの選択肢が与えられていたワケではありませんでした。

兵員や物資を緊急・大量に輸送する手段として大佐に選択できたのは、MSTS WESTPACが保有していた艦船・SCAJAP所属の船舶・極東地域に到着した他地域のMSTS所属艦船・チャーターした日本商船の4種類の艦船だけだったのです。

開戦当時の派遣輸送

北朝〇軍は圧倒的な戦力で南下しました。南〇鮮国の首都であるソウルも6月28日には陥落。
38度線に近すぎるオマヌケ首都とはいえ、侵攻を受けて3日しか保たないというダメっぷりであります。仮にも「首都」でっせ(笑)

日本統治後のソウル全景

日本統治後のソウル

 

在日アメリカ軍司令官として、慌てて29日に前線視察を行ったマッカーサーからの要請をうけ、トルーマン大統領は30日早朝、まず1個連隊戦闘団の使用を許可します。

大統領の決定で、ウォーカー第8軍司令官は、福岡県小倉市(今とは行政区画が違うな)に司令部があった第24歩兵師団に出動を命じました。
第24歩兵師団は第21歩兵連隊の第1大隊を中心とする「スミス支隊」を7月1日福岡の板付基地から空路で釜山へ送りました。

さらに佐世保市駐留の第34歩兵連隊と第21歩兵連隊の主力、福岡県春日市に駐留していた第24歩兵師団の野戦砲兵大隊が、佐世保基地から釜山へ、コチラはもちろん海路であります。

朝鮮戦争の開戦時、日本人が乗組んでアメリカ軍の統制下に運航されていたSCAJAPの船舶は、在日アメリカ海軍部隊としての編成では、第96.3任務群という呼称を与えられていたのですが、内実はムッチャしょぼいものでした。

LSTが39隻と、12隻の貨物船(日本船6隻を含む)だけだったのですが、南超汚染を救援するための最初期の部隊は、このしょぼい輸送艦隊(SCAJAPの船舶)で朝鮮半島まで輸送されたのでした。

派遣部隊と装備を積んで朝鮮へ航海した最初のSCAJAPの船舶は、戦車と他の車両を積んだ「LST649」・2,500人の部隊を乗せた「高砂丸」・3,500トンの補給品を積んだ貨物船「Pembina」の3隻でした。

昭和25(1950)年7月10日の時点になると、日本船舶のチャーター隻数は29隻(7万4,000トン)でしたが、5日後には40隻にまで増加していたのであります。

併合前のソウル全景

併合前のソウル/このままにして置けば良かったのじゃ。

 

超汚染半島は、もう大日本帝国の支配下にあるワケではありません。
Korea的に言えば、独立国になっているのであります。

帝国に併合していただき、自分では出来なかった「文明化」をして貰い、様々なインフラや教育システムまで整備して貰ったくせに、「戦争に負けた」瞬間に、勝手に出て行ったのであります。

こんな国?のために、なんで日本人が輸送任務に就かなきゃいけないんでしょうか?

って申しますか、この日本人船員さん達って、立派な「超汚染戦争従軍」じゃないんでしょうか。
Koreaはもとより、我が日本国内でも、この立派な「従軍」はあまりにも認識されていないような気がいたします。

次回、仁川上陸作戦を中心にお送りいたします。

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