出撃!日本輸送艦隊その2

超汚染戦争の戦線は拡大の一途をたどります。
日本国内から戦場への輸送任務を「押しつけ」られたSCAJAPは船舶不足に陥ってしまいました。
「出撃!日本輸送艦隊その1」はコチラ

仁川上陸作戦

開戦からわずかに一か月、国連軍は超汚染半島の南東の角っこに追い詰められました。「釜山橋頭堡」であります。

まあ、ちゃんと評価すれば
「半島に現存する戦力に合わせて戦線を縮小し、反撃の機会を待った」
とも言えますが。

その戦力の内実を見れば、「自由主義圏(Koreaはどうでも宜しいが)、危うし」であります。

予算を削減していたアメリカ軍は、陸軍兵士の素質(訓練が未成だったり…)も低劣に過ぎて、兵力も過少。
本国からの増援を受けるまでは守備的に戦う以外の選択肢は無かったんです。
たとえば兵士の命も装備も救うために、釜山を放棄して日本列島に逃げ込むことも選択できそうです。
が、そのために動き出したら素人兵はパニックを起こしちゃったでしょうね。

ともあれ、北〇鮮軍の快進撃は釜山橋頭堡でいったん食い止められてしまいました。

仁川と釜山

仁川と釜山

 

北〇鮮の指導者金日成(北豚のクソ祖父ちゃん)は、
「大日本帝国からの解放記念日(なんと醜悪な表現でしょうね)たる8月15日までに南朝〇を解放!」
とか考えてたらしいのですが、コレでアテが外れることに…。

昭和25年秋になると、アメリカ軍の態勢がようやく整い、北〇鮮軍への反撃が企図されるようになります。

いくつかの反撃案が提出されましたが、マッカーサーが選んだのは「仁川上陸作戦」でありました。

占領されたまんまの南朝〇の首都ソウルに近く、揚陸の容易(そこそこの港湾施設がある)な場所、として選択されたんでしょうが、もちろん敵前上陸になります。

危険な敵前上陸でありますのに、この戦争には「全く関係ない」筈の「日本輸送艦隊」を平気で投入する気なんです、マッカーサーの奴。コレは「国連軍だから」出来たことでしょうか?

もちろん、この時の日本は国連未加盟でありますけどね。

仁川上陸作戦を打ち合わせるマッカーサーと艦兵隊幹部

仁川上陸作戦を打ち合わせるマッカーサーと艦兵隊幹部

 

日本国内で、8月下旬には「仁川上陸作戦」に向けた準備が開始されています。
上陸予定日は9月15日に設定されました。

9月15日の朝に仁川沖に到着するためには、LSTは9月10日・貨物船は9月12日までに、神戸港を出港する必要がありました。

上陸部隊を武器弾薬を含めて乗船させるには、1週間程度かかりそうですので、遅くても9月初めには積込みを開始しなきゃいけなかったんです。

第1海兵師団の主力は神戸港で、第7歩兵師団は横浜港で、搭載作業を開始。
輸送部隊を護衛して行って、艦砲射撃で上陸支援もする第7艦隊の主力の方は佐世保に集結して最後の準備を整えていました。

ところが神戸港での準備は、9月3日に神戸付近にジェーン台風が来襲したことによって、大きな遅れが出てしまいました。
台風で海上クレーンが損傷を受け、積み上げて置いた物資も散乱して、埠頭地区は大混乱に陥っちゃったのです。

そのうえ大東亜戦争では、経験を積んだ荷役作業員さんたちも大勢が戦死していました。
つまりこの時、積み込み作業に就いていた人たちは、荷物の取扱いについて十分な経験を持っていなかったのです。

急遽、日本全国から「荷役作業員」が神戸に集められ、LSTや貨物船はなんとか仁川上陸に間に合ったのでした。

仁川上陸の様子

仁川上陸の様子

 

仁川上陸作戦のために、第90任務部隊の用兵指揮下に組み入れられた(9月14日~25日)日本の商船を「太平洋艦隊中間評価報告」から判るだけ上げますと、
福寿丸(Fukuju Maru)・松南丸(Shonan Maru)・Fuju Maru(富士丸?)・海光丸(Kaiko Maru)・第十五日の丸(#15 Hino Maru)・扇洋丸(Senyo Maru)*漢字は〈たぶん〉ですからね、念の為*
となります。

これらの貨物船を含めて、日本船籍と日本人乗組員のLSTなどを合わせると66隻が、超汚染半島で北に反撃するための兵員・資材を満載して仁川に向かいました。
9月15日の早朝に、仁川沖に集結した艦船は、アメリカ・イギリス・フランス・カナダ・オーストラリアに南○鮮の艦艇も居ましたので、260隻余り。

その中の66隻ですからね、南朝○はすくなくとも日本の海員さんたちに感謝しなければいけません。
いや、必要ないな。関わりたくないんだもん…

輸送量は同じく「太平洋艦隊中間評価報告」では、人員7万9,003名と貨物15万9,687トンにも達するものでした。

この「ほぼアメリカ軍」の兵員と膨大な物資によって、国連軍の反撃が始まったのであります。

元山上陸作戦・興南撤収作戦

仁川上陸後、国連軍は反攻を開始し、昭和25(1950)年9月25日にはソウルを奪還いたします。

10月1日。南○鮮軍が勝手に調子に乗って38度線を越え、マッカーサーは北朝鮮軍に対し降伏を勧告、とうぜん北朝鮮軍の反応はナシ。

国連の安全保障理事会において、「国連軍」の38度線突破が承認されたのは10月7日。
もっとも戦争職人のマッカーサーさんは、9月末には第8軍・第10軍団・極東海軍・極東空軍の各司令官あてに「元山上陸作戦」を実施する旨伝えていましたけどね。

ただ仁川上陸以来、半島の東岸では北超汚染による機雷の脅威が大きくなっていました。
この掃海作業に我が国の「特別掃海隊」(掃海艇19隻と掃海母船1隻)が派遣されて活躍したことは、皆さんよくご存知だと思います。隊員お一人が「戦死」なさっていることも…

あっ、キミらの感謝も供養も必要ないからね、十日十月魚羊の人たち。私たちはキミらとは一切関わりたくないんで。

「元山上陸作戦」では、アメリカ海軍第90任務部隊の隷下にアメリカ軍のLST13隻の他、日本の商船管理委員会のLST23隻が配属されていることが確認できます。

仁川市内で作戦中の海兵隊員

仁川市内で作戦中の海兵隊員

 

1950(昭和25)年11月24日。
国連軍は「クリスマス攻勢」を開始しました。
追い詰めた北○鮮軍を鴨緑江に蹴落とし、超汚染地域での汚らわしい戦争に決着を付けよう!と言う攻勢であります。

アメリカ第一海兵師団は、金日成をChinaと超汚染半島の国境に近くの江介と言う町まで追い込みます。江介は北○鮮の臨時首都となっていたのです。

クリスマス攻勢はこのように順調に進展していたのですが、突然虫凶軍が介入してきます。
「死んじゃっても構わない(もちろん、マオ側からの評価で)兵隊さんの多さ」を武器とした、人間世界とは異質な虫凶軍の激しい反撃が始まりました。

第一海兵師団は江介に連なる、長津湖付近で虫凶人民解放(なんと実態を表さない名称ですこと)軍7個師団・12万人もの兵力に包囲され、過酷な突破戦を戦って、興南まで脱出してきます。

虫凶軍は文字通り虫の数ほどの兵隊さんを取り揃え、その命に五分の魂ほどの重みも認めません。
さしものアメリカ軍海兵隊も、この世のモノならぬ軍隊の攻撃には手を焼き、興南から海路脱出して体制を立て直すことになりました。

アメリカ軍が慌ててドイル少将の指揮する第90任務部隊の隷下に、第90.21任務輸送隊を編成したとき、どうやら軍隊の脱出だけを考えていたように見えます。

長津湖包囲網を突破中の米海兵隊員

長津湖で包囲網を突破するアメリカ海兵隊

 

揚陸艦・輸送艦のほかに「MSTS」がチャーターした船舶のほか、アメリカ軍のLST12隻・商船管理委員会のLST27隻の加えて日本商船7隻が90.21任務輸送隊に配属されていました。

日本船7隻の船名は、Fentris Malay Maru(不明)・Senzan Maru(千山丸)・Shinano Maru(信濃丸)・Tobato Maru(戸畑丸?)・Yone Yama Maru(米山丸)しか判りません。残る1隻は不明。

この作戦では興南港から10万5,000名の国連軍及び韓国軍人、9万1,000名の亡命者、35万トンの貨物、1万7,500台の車両を運び出しました。

問題は「亡命者」でして、共産主義者を嫌って南へ行こう!って難民なのでありますが、此奴らのおかげで船舶への収容は混乱してしまいました。

そのせいとは申しませんが、我が国の貨物船「千山丸」が興南港沖で機雷に接触してしまいます。
「千山丸」はアメリカ陸軍第10軍団に補給する小麦粉を積んで、福岡から興南港に向かったのですが、昭和25(1950)年12月6日の0305、興南港の東約6.5キロで触雷したのです。

興南からLSTで脱出を待つ市民?スパイ?

興南からLSTで脱出を待つ市民?スパイ?

 

幸いにも水深が浅かったために沈没は逃れました。
アメリカ海軍が救助活動を行い、損傷も応急処置でカバーして12月21日に門司港に帰港出来ました。人的被害については、アメリカ軍の記録には記載されていないようです。

この2日後の1950年12月23日の事ですが、「メロディス・ビクトリー号」(所属不明)が興南から脱出します。この時は避難民が船に殺到。

船長のレナード・ラルーさんは、船に積まれていた武器を全部捨て、避難民をできるだけ多く乗せるよう命令。
わずか7600トン・乗員60名の貨物船に1万4000人を乗せたのです。

この1万4000人の中には、共産主義者のスパイがワンサカ紛れ込んでいたようで、そのうちの一組の夫婦が「南」で一人の糞男児を産みくさるのであります。

この糞ガキが後の売国大酋長・文在寅であります。

脱出後、興南港は破壊された

脱出後、興南港は破壊されました

 

レナード・ラルー船長!好意から出た行動とはいえ、貴方のしょうもない人情が、後世に多大な迷惑をもたらした責任は負わねばならんぞ(笑)

なんで日本人が?

超汚染半島防衛のための輸送に協力したのは、LSTや貨物船ばかりではありません。

「機帆船」と呼ばれるチンケなフネも、国連軍協力に駆り出されています。

コレは「東西汽船」という船会社の創業者、北村正則さんの証言によるモノで、裏付けとしてアメリカ軍の公文書もあります。
文書は「JLC(Japan Logistical Command:在日兵站司令部、で良いよね?)」の活動報告書であります。

昭和25年9月2日、東西汽船とJLCの間で機帆船120隻・母船1隻・修理船1隻の傭船契約が結ばれました。

契約では、機帆船は9月18日までに門司港に集結し、水と燃料は米国政府が供給することになっていました。

戦時標準船(木造機帆船)松鷹丸戦後撮影

戦時標準船(木造機帆船)松鷹丸戦後撮影

 

その結果、機帆船は横浜・大阪・神戸・呉などの諸港で整備点検を受けたうえで、9月18日門司港に集結。
23日に釜山に到着したのですが、そこで行き先が仁川であると告げられます。

何隻か(の船長・船員)は「契約違反だ」と騒ぎ、危険が迫っていると認識されていた仁川行きを拒否しました。
どんな契約だったのか?興味沸きますよね(笑)

最終的には97隻の機帆船と母船1隻(第3東西丸)、修理船1隻(三保丸)が9月26日に釜山を出港して仁川に向かいました。

この「機帆船隊」は10月2日から4日にかけて仁川に到着した後、軍需物資から日用品まで、あらゆる物資を米軍の輸送船から揚陸する作業にあたり、「国連軍」の攻勢を支えたのです。

さらに仁川以外でも、群山・海州・鎮南浦などでも揚陸に貢献しました。
ただ、国連軍の扱いは丁寧なモノでは無かったようで、12月の中旬、激浪のため船団のなかの日栄丸が遭難・沈没しています。

超汚染戦争のロジスティクスを支えたのはLSTや商船の船員だけではありません。
機帆船の船員や港湾労働者の活動も、子孫として忘れてはならない、と電脳大本営は考えます。
コレも大東亜戦争に負けちゃったから、と言う事なんでしょうか?

1945.7.15八戸で空襲される機帆船

昭和20..7.15八戸で空襲される機帆船

 

それでは超汚染戦争で、海上輸送に携わった日本人はどれくらいの人数なんでしょうか。

まず商船管理委員会は昭和27年3月には、船員2000人を抱えていました。

これは、LSTの乗組員が約52~53人で、LSTを39隻保有していたことからしますと妥当な数字です。
ただ、LST以外に6隻の船舶も保有していましたので、実際の船員はさらに数百人多かったかも。

機帆船の船員は約1300人、昭和25年10月頃に仁川に派遣された港湾労働者が約1000人。LR(Labor Required)船員が約2000~3000人と推定されます。

掃海作業に携わった「日本特別掃海隊」の隊員は約1200人。
これらを合計して8000人前後の日本国民が、超汚染戦争の海上輸送に従事したであろう、と推定できるのです。

ただし、この数値は単純に「概数を加算」しただけで、重複や時期の違いなどは一切考慮していないことも、申し上げておきます。

犠牲

8000人もの民間人が「協力」した超汚染戦争。

カッコよく言えば「自由世界」の防衛戦ですが、実態は「てめえの国土も実力で守れないクッソ情けねえKorea国」を共産支配から「解放」してやった戦争であります。

激戦が続くソウル市街

激戦が続くソウル市街

 

日本にとって、まったく関わりたくもない糞戦争に、8000人もの日本人が従軍すれば、犠牲者が出たんじゃねえか?
と考えるのが普通であります。

絶対に居られるはずなのです、糞Koreaを共産主義者から解放してやる戦いで犠牲になった日本人が。
だって、先述しましたように「日本特別掃海隊」が、10月17日の元山沖での掃海活動中に死者1名・負傷者18名の損害を出しているんですからね。

輸送中に犠牲が出てないワケが無いんです。
が、パヨ珍や捏造が大好きなメディアはいっこうにこの犠牲について触れません。

ならば、ココは一つ電脳大本営が調べてやろうじゃん。
っても、難しい調査は専門家に任せる。
儂はご先祖の奮闘ぶりをちゃんと褒め称えたいだけの一般爺じゃからな(笑)

幸いなことに、特別調達庁が実施した集計が残されているんですな。ただし、朝鮮戦争が始まって半年だけですけど。

このデータを引用して済ませちゃうことにしよう。

たった半年間で「特殊港湾荷役者」の業務上死亡が1名・業務上疾病が79名・その他 21名(うち死亡者3名を含む)、計101名。

「特殊船員」の業務上死亡が22名・業務上疾病が20名・私傷死が4名・私傷病が208名、計254名。

北朝鮮による侵攻から逃れる韓国の避難民(Wikipediaより)

上朝鮮の侵攻から逃れる下朝鮮の避難民(Wikipediaより)

 

その他にも「朝鮮海域等で特殊輸送業務に従事しているとき」死亡した者が26名(港湾荷役者4名、船員22名)。

これらの死亡者のうち、昭和25年11月15日に、元山沖を航行中の「LT(大型曳船)636号」が触雷・沈没した「事故」では乗組んでいた日本人船員27人のうち22名が死亡しています。

特別調達庁が書いてるんだからな「事故」って。
もう生きてないだろうけど、コレ書いたお役人に聞くぞ。

「貴官は、日露戦争の緒戦期、旅順港閉塞作戦に従事していた戦艦・初瀬が二度にわたりロシア海軍の機雷に接触し、沈没、副長有森元吉中佐以下490名が英霊となられたが、コレをも事故と書かれるのか?」

って言っても、貴官の責任じゃあないだろうな。何らかの事情で、「日本人の戦死」を公文書に書けなかったんだろうね。
問題はこの「事情」なんだけど、今さら真実を追い求めるのは不可能に近い。
まして、儂のようなたかが戦争好きの爺には無理じゃ。

以下は全て、事実・公的な記録に依拠するけれど、儂の推測が大きく入ってることもご承知おき下され。

なぜ隠蔽したのか

昭和62(1987)年2月21日の事であります。

折から開会中の「第108回通常国会」で、共産党の参議院議員・吉岡吉典がある質問を致します(「朝鮮戦争への日本人のかかわりに関する質問主意書」を提出)。

共産党参議院議員・吉岡吉典

共産党参議院議員・故吉岡吉典
なんと、亡くなったのは下朝鮮…俺の税金から貰った歳費返せ!

 

この中で吉岡議員は
「多数の日本人が直接戦場に派遣させられ朝鮮戦争に協力させられて、すくなからぬ犠牲者も出ている。」

「日本の掃海部隊は同年十二月十五日まで朝鮮戦争に参戦したと記録されている。」

「朝鮮海域において勤務する船員や特殊港湾荷役等に従事する者に対しては、勤務の特殊性、危険性にてらして、SPA(特別調達庁のこと)は連合国軍関係船員給与規程の外に新たに連合国関係特殊港湾荷役者等給与規程を制定し、昭和二十五年七月二日以降従来の給与のほかに特別の手当を支給した」

「『占領軍調達史』によれば、わずか半年間にPD関係だけでも五十二名の戦死者があつた。朝鮮戦争全期間中のPD関係以外も含めた日本人の戦死傷者はどれだけになるのか、またその弔慰金の支払い状況はどうなつているのか全貌をあきらかにされたい。」

などとして、「日本人の参戦状況」を厳しく質問いたします。

時の総理大臣中曽根康弘氏の回答(参院議長に答弁書を提出)は、かいつまんで言っちゃうと
「朝鮮海域における米軍の輸送に日本人船員が従事していたかどうかについては、確認し得ない。」

「既に相当の時日が経過していることもあり、正確な事実関係を確認することは困難である。」
って事に尽きます。

凶産党員の吉岡が「国家のために奮戦して亡くなった方への補償」を求めたのは、なんだか悪い冗談のようでありますが。

中曽根康弘

中曽根康弘

 

これは、戦死者への思いやりなんかじゃなくて、「9条下」にある日本人が、他国の戦争に参加したことを政局にしようとする、小汚い企みであることは、議論の余地はありますまい。

流石に元海軍将校の中曽根氏は
「そんな古い事判らん、以上。」
と素晴らしい回答。

って申しますか。
運送船や荷役作業者、掃海作業などの大切さを熟知している筈の元海軍将校でさえ、「朝鮮戦争の輸送・掃海作業従軍者」の功績を「知らん」「判らん」としか言えない状況に、我が日本の社会状況が変わってしまっていたのです。

時を遡りまして、昭和25年8月19日に外務省が表明した
「朝鮮の動乱とわれらの立場」
と言う文章には、
「朝鮮における民主主義のための戦いは、とりもなおさず日本の民主主義を守る戦いである。
朝鮮の自主と独立を守るために闘っている国際連合軍に許されるかぎりの協力を行わずして、どうして日本の安全を守ることができようか。」
と書かれています。
「国連軍に対する許される限りの協力」でっせ。

と言いましても、同じ年の7月17日の「第8回国会衆議院会議」では内閣総理大臣兼外務大臣の吉田茂が
「国連のこのたびの世界平和擁護のためにする行動に対しては満腔の敬意を表すとともに、国民として、なし得べくんばこれに協力する機会を得たい、こういう精神的の希望を申し述ぶる以上に、何ら具体的に、こうする、ああするということを言明する立場におらないことを御承知願いたいと思います。」

李承晩(左)

李承晩(左)
コヤツの罪は重いぞ

 

と発言しておりまして、「戦争協力」に否定的・拒否的な世論の存在が窺えます。

つまり、大東亜戦争の敗戦から5年にして、日本人の心は「国際連合(=アメリカ軍)への協力が必要である」と思いつつも、一方で「従軍は嫌や!」とも考えていたのです。

一方で朝鮮戦争によって製造業界は「特需」という空前の好景気を迎え、大東亜戦争による国土破壊からの立ち直りが軌道に乗っています。
さらに船舶業界は「徴用」による「民間シーラインの壊滅」状態から、民業へと回帰する途上で「アメリカ軍による傭船」で多大な恩恵を享受することになりました。

今も昔も心無いパヨチンが、徹底的に「戦争反対!アメリカ軍の輸送に従事するな!」とは叫び難い状況でもあったのです。

このような社会情勢の中で、「掃海艇派遣」についての議論がほとんど為されなかったように、海上輸送への協力に関しても議論は避けられてしまいました。

朝鮮戦争がリアルにドンパチやってる時から、日本政府は
「海上輸送は会社とGHQとの契約に基づく行為であり、政府は全く関与していない」
と言い続けていたのです。

貢献

こうして、日本国的には公式に「忘れられた従軍輸送」でありますが、船員さんや荷揚げ作業員さんたちが、命をマトにして国に貢献してくれたことまで忘れちゃっても良いモノでしょうか?

日本で忘れられたなら、アメリカはどのように思ってるんでしょうか?

商船管理委員会の理事長だった有吉義弥さんは、ご著書『海運五十年』のなかに次のように書き残しておられます。

LST848

LST848

 

「朝鮮事変の全期間を通じて、商船管理委員会のLSTは終始大活躍でした。これはLSTが大型の軍需品の輸送や、僻地海岸の揚陸に適した船型だったこともありますが、日本の船長さんたちが朝鮮沿岸の地形に、米人よりよく精通していたからです。(中略)
米軍の下部機構としての商船管理委員会の活躍ぶりは、各方面で十分評価されていたと思います。とくに朝鮮事変での貢献は大変な評判でした。
本部や各船もそのつど感状をもらったり、おほめの手紙もきました」

「おほめの手紙」を出したアメリカ側では、C. T. ジョイ極東海軍司令官が、アメリカ海軍作戦部長宛に提出した報告書で次のような評価を残しています。

「LSTは、恐らく朝鮮戦争における国連軍の成功に最も大きな貢献をした。もしもLSTを十分保有していたならば、それ以上の努力が可能となり、早い段階で我々は勝利を勝ち得ていたと思われる。
さらに、SCAJAP所属のLSTが日本に無かったならば、我々は釜山を維持することができなかっただろう。」

太平洋艦隊の中間評価報告では、

「SCAJAPのLSTによる輸送は、戦争の初期段階にこの地域で米商船が十分に得られなかったこと、また多くの場合、岸壁やはしけを必要とせずLSTが浜辺に接岸することができたことを考慮すれば、非常に重要なものであった。」

となっています。

アメリカ側からの評価は非常に高いのです。

大東亜戦争では陸海の軍人さんより高い「戦死率」を記録した日本の船員さんたち。

糞半島戦争では従軍そのものを「無視」されてしまうのでしょうか?

アメリカ軍に無理強い(金も貰ってましたが)されたとはいえ、国の為にカラダを張ったのは間違いないのに。

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