特設運送船の勝利
海軍とは軍艦を自由自在に操って、敵から国と国民を守る軍隊であります。
ではありますが、いわゆる軍艦だけではマトモに戦争できないことが多いのは、何処の海軍でも共通の事象でありまして…
特設艦船
近代以前の海軍(スペインやポルトガルやイングランドの帆を上げて戦う軍艦を思い浮かべて下さい)では、「軍艦」と「民間の船」に大きな差はありませんでした。
ですから、イザと言うときには民間の商船などを武装させ、軍艦としたものです。
って言うか、「民間の商船」も軍艦と正面から渡り合えるほどの武装をしてたのであります、普段から。
しかし近代以降現在に至るまで、軍艦が高度に専門化してくると、その構造が特殊化しちゃっいました。そのため、民間船を最前線で軍艦と同じように使うことは難しくなったのです。
それでも戦争で必要なすべてのフネを、普段から揃えて置けるほどタップリの予算を貰ってる海軍なんか、少なくとも地球上には存在していませんでした。
超お金持ち国家アメリカも、海軍の先達イギリスも、地球上に存在する国家である限り、例外ではありませんでした。
しかし戦争がおっ始じまったら、あるいは始まりそうになっただけでも、ちょっとでも早く、たくさんのフネ(戦闘艦艇とは限りません)が必要になります。
結局、商船・貨物船や漁船など民間船を徴用して、必要に応じて武装を施したり改造したりして戦争に使うことになりました。
なかなか「第一線で使う」ってな性能にはならないんですが、これを一般に「特設艦船」と呼んでおります。
Wikiをみると、特設艦船について
「基になる民間船が多種多様であることから、様々な大きさ・性能の特設艦艇がある」
なんて書いてあるんですが、コレは全く逆ですね。
「海軍が特設艦艇を使いたい用途」が多岐にわたり、「様々な大きさ・性能の特設艦艇」が必要だったんです。だから、いろんな大きさのいろんな種類の民間船を徴用したんですよ。
どんな大きさや性能であっても、新たに戦闘艦を建造するってことはお金がかかります。
それよりは「既に海に浮かんで航行してるフネ」を徴用する方が安上がりです。
その上、使い方によっては艤装をマルっと変えちゃうほどの工事も必要ですが、それでも工事期間は一から建造するより短くて済みます。
因みに大日本帝国海軍の場合、徴用解除でフネを船主に返す時は海軍が責任を持って「原状復帰」するのが決まり。
そのために、客船などの調度品は工廠で大切に保管していたそうです。
しかし、特設艦船の大きなお得ポイントはまだありまして。
民間船を徴用しますと、そのフネの船員さんもついでに徴用しちゃえるのであります。
一般船員さんは、乗ってるフネ=職場でありますから徴用して貰わないと失業しちゃいますし、幹部船員さんはそもそも「海軍予備員(=ほぼ予備士官)」です。
ドチラの船員さんも、昨日まで算盤はじいてた事務員さんよりはフネの上では役に立ちますし、海軍は
「なるべく平時の人を減らしといて、浮いたお金で軍艦を作る」
のがサガってモンなのです。
そういうワケで、海軍強国のみなさん(笑)、みんなで民間船を徴用したんですが、とりわけ重用したのが大日本帝国でありまして。
帝国海軍の徴用はカネのため
現代と違って?貧乏で、いつも陸軍と予算の取り合いを繰り広げていた大日本帝国海軍。
お金が足りないのは、身の丈に合わない豪華な装備を欲しがったのが原因のような気が、しないワケでも無いような気がするようなしないような(笑)
でありますので、帝国海軍は民間船を徴用しまくりました。
数え方がいろいろありますので、「一説では」付きでありますが。
大東亜戦争で帝国海軍が徴用した船舶は1373隻にも上るそうです。トン数にすると約242万総トン。
そのうち失われた船舶は836隻・約186万総トンで、生残した船舶はたった374隻・約14万総トンにしか過ぎませんでした。
(計算が合わない163隻・約42万総トンは戦争中に徴用解除ってことになります/この数字は福井静夫氏の著作を参考にしております)
この徴用された「特設艦船」(特設艦船は徴用された船舶のすべてではありません。後ほど説明いたします。)は大きさも用途も様々なモノで、海軍はコレを32種類に分類してるんですが、海軍が使うアリとあらゆる艦種が網羅されています。
まあ、流石に戦艦はありませんけどね。潜水艦もない。駆逐艦もありません。でも、それ以外はあるんですよ。
直ぐに思いつくのは「巡洋艦」「航空母艦」ですわね。
水上機母艦もあります。
水上機好きの儂としては、実際のところ「航空機運搬艦」としてしか使えない特設空母より、特設水上機母艦の方が船団護衛などには役に立ったんじゃね?と思うんですけど。
水雷母艦とか潜水母艦も、もちろん特設艦が活躍しました。
まあ、水雷の方は軽巡(5500トン級)が母艦兼務みたいになってましたけど、特設潜水母艦の果たした役割は大きいと考えます。
潜水艦は居住性が悪い、ってか「居住性能」はほぼありませんから。出先の港で、潜水母艦で眠るのはドンガメ乗りにとっては、何物にも代えがたいリフレッシュの機会だったでしょう。
あと、艦形は小さくなりますが、砲艦・敷設艦・防潜網艇・掃海艇・駆潜艇…みーんな「特設」があります。
ココまで、特に区別せずに「海軍が民間から徴用したフネ」を書いて参りました。
ところが、ですね。
同じ徴用と言っても、船舶はその徴用のされ方が3種類あったんですね。
航空母艦とか巡洋艦・運送船みたいな「用途」じゃありません。海軍の受け入れ方って言うか扱いって申したら良いのか?の区別であります。
その区別とは「特設艦」「特設船」「一般徴傭船」であります。
特設艦・船は「有事の際に不足する正規の艦船を補う兵力」という位置づけで、ほとんどの場合、特設運送艦・船は補給部隊に編入されていました。
補給部隊は、戦場へ進撃する艦隊にくっついて燃料・弾薬・糧食などを運ぶのが本務の部隊です。
これに対して一般徴傭船とは、正式には
「特設艦船に非らざる一般徴傭船舶等」
と言います。海軍が特設艦船に充当する以外の目的をもって、必要に応じて船主から借り受けたモノ。
「海軍兵力」に組み込まれるわけではなく、戦時編制に船名が掲載されることはありません。「特設艦船部隊令」の適用を受けませんから種別されることも無いんです。
民間のフネを戦争に使うのは変わりない?
うーん、そうですね。運送艦・運送船で考えてみましょう。コレが一番判り易いと思います。
まず、「特設」が付く運送船と、一般徴用の貨物船の違い。
特設運送船・艦であれば、「艦隊」に編入されますから、編成表にも載っています。
どちらも海軍の必要に応じて物資や人の運搬にあたるフネですが、厳然たる違いがあります。
その違いとは、
「その艦船固有の海軍軍人が配置されるか否か」
であります。
そもそも特設艦船といいますのは大正8年(以後逐次改定)の「特設艦船部隊令」に基づいて種別・配置される軍人とその職務が規定されています。
つまり、おフネが海軍に徴用されて「特設艦」になりますと、特設艦長とか航海長とか機関長が乗り込むんですね。
あるいは船長さんとか幹部はそのままに、「監督官」として何人かの海軍士官+下士官が乗る(この差は後述)。
しかし「一般徴傭船」では、そのフネ固有の海軍サンは配置されません。
一般徴傭船にだって軍人が乗船することがありましたけど、その人たちは備砲の操作などのために艦隊や鎮守府から派遣された部隊。
フネ固有の乗員ではないんです。
特設運送船は「特設艦船部隊令」制定当初からある種別でして、徴傭船舶固有の船員と少数の軍人が混乗します。
また用途によって、給兵・給水・給糧・給炭・給炭油・給油・通信・雑用と細分されています(この区分けは内令で明示されています)。
特設運送艦は昭和14年11月に新たに設蹴られた種別です。
「特設艦船部隊令」によって「艦船令」の中の「特務艦」の規定が準用される…となっています。
原則として特務艦長以下の海軍軍人が艦を運航し、軍艦旗を掲げました。
特設運送船のように用途に応じた細分はありません。
「補給部隊編制表」などでは、特設運送艦も運送艦や特設運送船とともに用途を示す種別が掲載されていますが、特設運送船のように内令で決められているワケではありません。
つまり「特設運送艦」と「特設運送船」の違いは「特務艦長が乗艦するか否か」だけ、と言えないこともありません。
やられ役?
さらに、ややこしいことに特設運送船には「甲」と「乙」の区別があるんですね。
「特設運送船(甲)ハ監督官ヲ置クヲ例トスルモノ」
「同(乙)ハ状況ニ依リ兵装ノ一部又ハ全部ヲ省略シ竝ニ監督官ヲ置カズ特務士官、准士官又ハ下士官連絡員ノミヲ配置スルコトアルモノ」
つまり、甲の方は特設運送艦で言う「艦長」以下の代わりに「監督官」が乗船するんですね。乙は兵装と監督官を省略可(笑)
実に、海軍の「本音」はココに現れている、と儂は思うのであります。
戦いが我に有利に展開しているときは、艦隊に組み入れられて行動する事が多いので、特設運送船も安全ですが。
逆に敵有利な状況だと、武装も貧弱、装甲も無いんじゃ「やられ放題」ですやんか。
やられ放題のフネでも指揮をとるのが「いちおう」海軍士官であれば、国際法上でも「軍艦」であります。
といっても、乗員の全員が海軍軍人とは限らない事は前述の通り。弱っちいフネの上に、能力の劣る(と信じていたんですよ、海軍サンは)乗員じゃあ、艦長やってもねぇ。
やられ放題の攻撃力なんかほぼ無い「軍艦」の艦長なんか、帝国海軍の士官なら、務めたくはないですよね。
でもね、数多い特設運送船の中には、意外な?奮闘を魅せてくれたフネもありまして。
そのフネを紹介させて頂いて、ちょっとだけ留飲を下げようじゃありませんか。
そのフネとは、「特設運送船(甲)・鹿野丸」と申します。
鹿野丸は、もともと国際汽船がニューヨーク航路用として建造した基準排水量8572トンの客船です。
昭和7年に第一次「船舶改善助成施設」の適用を受けて起工、9年竣工。
ってことは、鹿野丸とは有事には海軍の徴用を受けることが前提で、海軍の要求する性能を持たせたフネだって事でありますね。
大東亜戦争に備えて、昭和16年の7月に徴用を受けるんですけど、それまでに若干の改造をしてるようです(登録された喫水などが変更されてますので)。
武器の搭載などに3か月を掛けて、10月1日に呉鎮守府所管の特設運送船となります。
因みに、その武装は「四一式40口径8センチ単装砲」×2門を前後部に、13ミリ機銃を艦橋上に設置しただけの弱っちぃモノであります。
監督官は海軍大佐・三浦友三郎、船長が海軍嘱託・前田耕作と記録されていますので、「特設運送船(甲)」でんな(笑)
第五艦隊所属
「鹿野丸」は大東亜戦争開戦時には「連合艦隊所属・南方部隊菲島(フィリピンの事でっせ)部隊」に編入されて南方作戦に従事しています。
南方をウロウロしてるうちに、第一段作戦は一段落。この半年にも満たない間に「監督官」が3代も変わり、4代目の相浦誠一大佐が17年4月26日に着任。
一線級の駆逐艦なんかでも、1年経たずに艦長交替!って愚策をやってる(それも戦時に、ですよ)大日本帝国海軍ではありますが、コレはちょっと酷かろうと思いますね。
2ヶ月にも満たない乗艦では、「相方」の船長はともかく、幹部船員の気性やクセすら摑めないママでありましょう。フネの操船特性ももちろんね。
こんな監督官(各監督官の能力云々の問題ではありませんよ)なんぞ要る?「乙」でええやん。
こうしてリーダーが目まぐるしく替る中、鹿野丸は配属も変更になります。昭和17年6月のミッドウェイ海戦の後からは第五艦隊司令長官の指揮下に入っています。
この当時、第五艦隊は日本列島東方海面と北方が作戦区域です。
ドーリットル空襲部隊を発見した、「黒潮部隊」こと第22戦隊の特設監視艇(徴用された漁船)多数も第五艦隊の所属でしたね。
ミッドウェイ作戦の陽動でアリューシャン攻略作戦が発動され、アッツ島・キスカ島を占領すると、第五艦隊は軸足を北方に移します。
鹿野丸もそれまでとは打って変わって、冷たい海で活動することになったのです。
アメリカ潜水艦「グラニオン」
その狩野丸の好敵手となったのが、アメリカ潜水艦「グラニオン」であります。
グラニオンは憎んでも憎み切れない、あのガトー級潜水艦の5番艦。
ガトー級が如何に大日本帝国を苦しめやがったか?
電脳大本営は、優秀な兵器(お茶目な兵器も)と勇敢な兵隊さんの前では、国籍も人種も信じる神さえ超越して「ともかく称える」って姿勢を堅持しておりますが(笑)こればっかりは、ちょっとムカつく。
ガトー級にやられた、我が艦艇を列挙しておきましょうかね。
航空母艦:大鳳・翔鶴・雲鷹・大鷹、巡洋艦:愛宕・摩耶・天龍・長良・大井、駆逐艦:数知れず(書くのが腹立ってきた)…
さて、アメリカ海軍のエライところは、このガトー級をはじめとする、大量に建造しやがった潜水艦に、ちゃんと名前を付けてやってる所だと思うんですね。
何しろね、ガトー級だけで77隻も作ってるんですよ、アメ公(ヘイトじゃないからな!親愛の情を込めて、ニックネームで呼んでるんだ)の奴。
ウチの貧乏海軍が必死コイて造った「松型駆逐艦」が32隻(ほぼ同型の橘型含む)なんですけど。
「一字の植物名」って決まりが守り切れずに「初桜」(もちろん「桜」もあり)「雄竹」(「竹」あり)「初梅」(「梅」あり)…貧乏海軍なんだから、知恵絞ってウィット効かせろよな。
駆逐艦より小さい海防艦とか輸送艦になると、名前つけて貰えずに、番号で呼ばれたフネがほとんどなのに。
それに対してアメリカの潜水艦ったら、クソみたいに次から次からヒリ出したクセに、ちゃんと「魚の名前」ってruleを守りやがってます。
で「グラニオン」なんですけど、イワシの仲間らしいですね。儂、魚より肉が好きなんだけど。
このグラニオンってヤツ、ちょっと変わってて、夜になると砂浜にやってきて産卵するんだとか。
ソコを狙えば取り放題らしい。イエね、ほら「名は体を表す」とか言うでしょ(笑)。
潜水艦「グラニオン」の就役は昭和17(1942)年4月11日。太平洋艦隊潜水部隊に編入の後、6月20日に真珠湾に到着。
6月30日に真珠湾を出航し、ミッドウェー島を根拠地にアリューシャン方面への哨戒活動に従事。
哨戒って言いましても、大日本帝国海軍の潜水艦とは違って、「ドコソコのポイントを中心に…」とかはナシ。
大まかな海域を指定されて、そこで貨物船を狙い、あわよくば戦闘艦艇も、ってな「哨戒」であります。
大日本帝国と違って、「定時連絡」の厳格な決まりもナシだったようで、最初にグラニオンが送った通信は
「キスカ島北部を哨戒中、日本軍の駆逐艦に遭遇し魚雷を3本を発射したものの命中しなかった」
と言う報告で、7月15日の送信。
その報告を送ったあと(同日)、グラニオンはキスカ湾外で対潜掃討中の第十三駆潜隊を発見・攻撃しやがります。
グラニオンは魚雷を発射し、「第25号駆潜艇」と「第27号駆潜艇」の一本ずつ命中。両艇は一瞬で轟沈。
「第26号駆潜艇」にも魚雷が向かってきましたが、乗員が気付いてあわやのところで回避成功。覚えといてくださいね、第26号ですよ。
これで「アメリカ潜水艦がキスカ湾に居る!」と判断できた第十三駆潜隊は対潜活動を強化します。
この結果、7月30日にはグラニオンから
「キスカ沖は濃密な対潜警戒が実施されている。なお本艦残存魚雷数10本」
との通信が行われ、「ダッチハーバーへ帰還せよ」との指示が送られています。
帰還命令を受けたグラニオンの艦長マナート・エベール少佐ですが、どうも功を焦ったようです。即座に帰還せず、もう一日だけ、と思ったかどうか?
翌7月31日の早朝、エベール少佐は「獲物」を発見したのでした。
なめんなよ、雑魚!
特設運送船「鹿野丸」は補給任務のため、7月30日の正午にはキスカ湾外に到着しました。
前述の事情でアメリカの潜水艦を警戒し、第26号駆潜艇と合流して、その護衛を受けながら湾内に入る予定だったのですが、折からの
濃霧で第26号駆潜艇を確認することが出来ません。
やむなく霧が晴れるのを待って漂泊。その間の15時30分、故障を起こして不時着水していた二式水上戦闘機を揚収します。
30日は結局霧が晴れませんでした。
一夜明けて31日の5時すぎ、ようやく濃霧は薄れ始め「鹿野丸」は駆潜艇を待たずに単独で入港することに。
事前に打ち合わせしてあった予定航路を、これまた予定通りの15ノットで湾内に向かっていた5時47分。
この「予定通り」やりたがるのは、帝国海軍のみならず日本人全体の「悪癖」かも知れませんが。
グラニオン艦長がこの「予定」を読んでいたかどうか?までは判断できません。
突如、鹿野丸は2本の魚雷を右舷前方に発見。1本は回避したのですが、もう1本は右舷中央やや後ろに命中。
この魚雷が機械室を破壊してしまい、発電機と通信機、後部8センチ砲が使用不能となり、鹿野丸は航行不能となります。
まだ鹿野丸の行き足が完全に止まらず、被害報告が船内を飛び交っている時でした。
見張り員が船尾の海面に、右舷側から左舷方向に移動する潜望鏡を発見したのです。
即座に8センチ砲とブリッジ上の機銃が火を噴き、潜望鏡が動いているあたりを攻撃したのですが、命中弾は得られませんでした。
5時57分、鹿野丸は2度目の雷撃を受けました。
しかし、この魚雷は深度調定を誤ったのか、幸いにも鹿野丸の船底を通過してしまいます。
続いて6時7分には3度目の雷撃。
今度はグラニオンの奴、ケチケチせずに3本まとめて魚雷発射。うち2本が鹿野丸に命中。
しかししかし、またしても天は鹿野丸の味方。
この2本の魚雷はドチラも爆発しなかったのです。
この時、マナート・エベール艦長には選択肢が3つありました。
グラニオンの残魚雷は4本です。
ダッチハーバーまでの帰途に、どんな獲物または難敵が現れるか?判りませんから、後生大事に4本抱えて帰る、ってのが一つ。
この場合、鹿野丸は見捨てることになりますね。まあ、「貨物船大破」って戦果を加えて満足するか。
後の事より目の前の、それも停止してる獲物だぜぇ!とばかりに残った魚雷を撃っちゃう、って選択ももちろん「アリ」でしょう。
最後に、魚雷を残しておきたいし、貨物船にはトドメを刺したいし…って時は「浮上砲戦」って選択もアリでしょう。
エベール艦長の判断までの経緯は、今となってはもう永遠の秘密。
ただ、情況を見ると「欲を掻いた」と申し上げても、それほど恨まれることはありますまい。
エベール艦長は周囲に敵がいないことを(たぶん)確認し、グラニオンを停止した鹿野丸に接近させます。その距離わずか400メートル。
「浮上砲戦」ってのは、この時期の潜水艦にとって、それほど意外な戦法ではありません。
特に長期間にわたって「通商破壊」を行う任務に就いた潜水艦にとっては。
何せ、魚雷はデカくて重くて、たくさん積めるモノではありませんから、大砲で沈められるなら、その方が良いんです。
グラニオンも浮上砲戦で鹿野丸を始末しようとしたのでしょう。
しかし、この判断が拙かったんです。
機関を破壊されて動けない鹿野丸だって、まだ沈んだワケじゃありません。
味方もすぐ近くに居る筈ですし(昨日揚収した二式水戦を飛ばして、援助要請しようとしたのですが、エンジンが掛かりませんでした)、船員さんたちは、生き残るために必死で水面を見つめています。
そんな鹿野丸の鼻先に、ノコノコ浮上するグラニオン。
鹿野丸はもちろん泡立つ海面を確認。
すぐさま「潜水艦が浮上してくる」と認識して、前部の8センチ砲で小波だっている辺りを集中的に砲撃。
それでもグラニオンは浮上を継続。ってか、急には止まりませんわな。
ついにセイルが海面に出てしまいます。時に6時10分。
鹿野丸に二度目の魚雷が命中(不発)してから、たった3分です。
鹿野丸の砲撃は続いていて、艦橋部と思われる部分についに命中。射撃を開始してから、撃ちも撃ったりなんと84発目。
露頂した艦橋はすぐに海面下に隠れてしまったのですが、同時に水煙も噴出。
わずかに遅れて水中爆発音が聞こえ、海面には油が浮かび上がってきました。
6時35分、水偵3機がやって来ました。また「敷設艇浮島」と「第26号駆潜艇」もやって来ます。
第26号駆潜艇、何処で何やってたんでしょうね。キミの仕事だろうが、グラニオンを殺るのは(笑)
死力を尽くしてやりあえば
これで鹿野丸は救われることになったのですが…鹿野丸は
海軍の手配によって特設運送艦「菊川丸」に曳航して貰い、8月2日にキスカに入港して修理開始。
キスカ島では設備がマトモに無いので、修理は長引いてしまいます。修理の続いていた昭和17年9月15日、B-24爆撃機・P-38戦闘機・P-39戦闘機の戦爆連合の空襲を受けて、歴戦の鹿野丸もついに浸水着底。
鹿野丸の奮戦後にノコノコやって来た(3隻の駆潜艇中、ただ一隻グラニオンの攻撃をかわした、とも言います)第26駆潜艇は、昭和20年7月30日、朝鮮半島の鎮海沖で、アメリカ艦載機の攻撃により沈没。
グラニオンの艦長だったマナート・エベール少佐には3人の御子息がありました。
三男のジョンはビジネスマンとして大成功(ボストン・サイエンティフィックの創業者)を収め、二人の兄とともに、父親の指揮していた潜水艦の発見に情熱を燃やしました。
もちろん、日本側にも協力要請がありました。
監督官の相浦誠一大佐の記述(戦史叢書にも収録)など、資料も豊富にあり、2006年に「艦橋と潜望鏡」らしい物体が探査船によって撮影され、2007年の継続調査でも確認。
この結果を2008年にはアメリカ海軍も「グラニオン」であると認定しました。
私は生まれつき口が悪いので、大日本帝国に仇なす敵国軍人はケチョンケチョンに罵りたくなるのですが、見方を変えれば、彼らも「国の為に戦った」ことは間違いありません。
死力を尽くした戦いの後に来るのは、お互いの尊敬でありましょう。