近衛公、皇国の臣民をなめてはいけませんぞ
昭和12年の8月から、時の近衛文麿内閣は「国民精神総動員」運動を大々的に開始いたします。当時も戦後も今だって、国民受けのしない運動ですね。政府を挙げて推進したのに大きな効果もなく消え去ってしまいました。
自由闊達な戦前社会の証明
「国民精神総動員」の当時の評判が悪いのは、「贅沢は敵だ」みたいな空虚なスローガンを濫発したり、電髪(パーマのこと)禁止とかモンペ推奨とか、女性の美しくありたいって言う本能を逆なでするような政策を無理やり推進したりしたから、だと思われます。
戦後は「国民生活を抑圧して、戦争に加担させるための運動」みたいな評価で、現在でも小馬鹿に皮肉る感じで執拗に取り上げるヤカラがいます。
たとえばこんな本(画像をクリックすると密林へ跳んじゃいますのでご注意)を出してる早川タダノリ氏とか。タダ乗りはChinaでの評判が宜しいようで。
でも、良く考えてみて頂きたいのです。
パヨクの皆さんはことある毎に戦前の社会を「すぐ戦争をする社会」「戦争ばっかりしていて貧しい社会」「自由の無い社会」「女性が抑圧されていた社会」「貧富の差がとても大きな社会」「国民の思いが政策に反映されない社会」「好戦国家」と決めつけて下さいます。
しかし、であります。戦前の大日本帝国が、本当にパヨチン人の言うような社会だったとしたら「国民精神総動員」のような官製運動を展開する必要があったんでしょうか?
昭和12年の8月ですからねぇ、精動が始まったのは。盧溝橋事件が起きたすぐあとです。政府が取った不拡大の方針は、度重なるChinaの挑発や不誠実に蹂躙されてしまいます。
近衛文麿総理大臣がようやく「決断」し、Chinaと決着をつけようとしたとき、帝国の財政状況は大戦争をおっぱじめるのには心もとない有様でした。
そこで国民の理解を得て生活を我慢してもらい、戦争継続に予算を廻そうとしたのが、この「国民精神総動員」運動なのであります。
私は大して頭が良いとは言えませんが、パヨチン人のようにバイアスの掛かった一方的な見方しか出来ないワケではありませんから、以上の簡単な事象を逆側から眺めてみましょう。
すなわち盧溝橋事件のあと、大日本帝国はその国民に対して一大キャンペーンを張って、これから始まる戦争への協力を求めなければならなかった、ということです。
で、先に書きましたようにこのキャンペーンは国民受けせずに、大した成果を生むことはありませんでした。
849の皆さんに伺いたいのですが、「国民に戦争への協力を求め」ないと戦争出来ない「好戦国家」が何処にありましょうや?
「自由の無い社会」なのに、女性のボトムスのカタチ(モンペが強力に推奨されました)や髪型を統一しようとしてるんですが、矛盾してませんか?
女性が「自由」な格好してるから、統一したかったんじゃないんですか?
「精動運動」などというしょうもない運動は、戦前の日本社会が(今とは比べ物にはならないかも知れないけれど)それなりに豊かで、(今とは比べ物にはならないかも知れないけれど)そこそこに自由で、(今とは比べ物にはならないかも知れないけれど)女性もまあまあ尊重され、自分たちの欲求が(今とは比べ物にはならないかも知れないけれど)少しづつ政策に反映される社会だったからこそ、わざわざ展開する必要があったのです。
そう考えれば、拙い・むさくるしい・可愛くない・強圧的な「精動運動」も少し庇ってやりたいと思えてしまいます。
閣議決定までしてやる事かよ
国会図書館の資料に、この運動を実施するための「閣議決定」の記録があります。
「庇ってやりたい」とは言ったモノの、こんなに大仰に、大上段に振りかぶってやることじゃ無いような気が(笑)
『国民精神総動員実施要綱
昭和12年8月24日 閣議決定
一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス
二、名称
「国民精神総動員」
三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト
(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト
(三)指導ノ細目ハ思想戦、宣伝戦、経済戦、国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト
(四)実施ニ当リテハ対象トナルベキ人、時期及地方ノ情況ヲ考慮シ最モ適当ナル実施計画ヲ定ムルコト
四、実施機関
(一)本運動ハ情報委員会、内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト
(二)本運動ノ趣旨達成ヲ図ル為中央ニ民間各方面ノ有力ナル団体ヲ網羅シタル外廓団体ノ結成ヲ図ルコト
(三)道府県ニ於テハ地方長官ヲ中心トシ官民合同ノ地方実行委員会ヲ組織スルコト
(四)市町村二於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更二部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト
五、実施方法
(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト
(二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト
(三)道府県ニ於テハ地方実行委員会ト協力シテ具体的実施計画ヲ樹立実施スルコト
(四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト
(五)諸会社、銀行、工場、商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト
(六)各種言語機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト
(七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト
(八)文芸、音楽、演芸、映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト
六、実施上ノ注意
(一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト
(二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト
(三)社会ノ指導的地位ニ在ル者二対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト』
電脳大本営的に注目したいのは「六、実施上ノ注意」の内の(二)と(三)です。結局、精動はココがネックになったのです。
ポスターを見てみましょう
精動運動は、政府の外郭団体として「国民精神総動員中央連盟」が発足して、実際の活動が始まります。
精動の基本方針たる「挙国一致」・「尽忠報国」・「堅忍持久」の主旨を帝国国民に浸透させるためにポスター制作・レコードの楽曲指導、講演会開催、講師の派遣・斡旋などを行ったのです。
ココではポスター中心に見ていきたいと思いますが、その内容はともかく、デザイン的には良く出来てると思いますね。
これを電脳大本営では「基本のポスター」と判断しています。パヨ思考の持ち主や宣伝に毒されてしまった方たちには、こんなモノが「好戦的」とか「子供にまで軍服を着せて」などと見えてしまうんでしょうね。
この当時も、現在と同じように七五三のお祝いは子供の無事な成長を願う親御さんにとって、大きな行事だったようです。
七五三の衣装として、海軍提督や陸軍の将帥の軍服姿を模した格好は大いに人気がありました。むかしも今も、コスプレ流行りだったのです。
陸海軍も自分たちの軍装には誇りを持っていて(一部陸軍航空兵などでは「海軍航空隊の方がカッコええやん!」ってな意見もあったようですが)、たとえば払い下げの軍服などでも細かな意匠を変更してから市場に出していたモノですが、七五三のコスプレに限っては「ソックリ」でもうるさい事は言わなかったようです。
これは有名な標語です、「ぜいたくは敵だ」。
私どもがまだガキんちょだった頃(昭和40年代前半)は、
『「は」と「敵」の間に「素」を落書きする人がたくさんいました。それは国民が戦争を忌避していた証拠です。』
みたいな近・現代史の授業が行われていました。小学校でも、中学校でもやられたように記憶しています。
中学生の時には「その同じ国民が、数年経っただけで『特攻』に志願するのは変やん。何が起きてん?」と聞いては無視されていましたね。
同じ標語を使ったポスターです。
上記の電脳大本営的注目ポイントをもう一度ご確認下さい。
当時、特に女性の洋装(死語やな)は贅沢な生活の証拠みたいなモノだったんです。実際に今とは違って和服の方が価格も安かったし、中流の家庭では「お出かけの時だけ洋装」って女性が主流だったようです。
考えるべきは、この時だって「美しくありたい(見せたい)」すなわち「おしゃれしたい」とは女性の本能だって言うことで、人間の本能を押さえつけるような政策は決して長続きしません。
「都市ニ於ケル知識階級」や「社会ノ指導的地位ニ在ル者」に浸透しきれ無かったことが、精動失敗の根源(「国民精神総動員中央連盟」は大政翼賛会に包摂される形で消滅しちゃいます)とされるのですが、もっとはっきり言えば、「人間の本能に合致する形でぜいたくを排除すべき」だったんですね。
私なら、アレンジメントが容易な(家庭で裁縫が出来る女性ばかりですからね、この頃は)「洋装」を大量生産して価格を下げて市場に溢れさせますね。
で、何故に「ぜいたくは敵だ」ったのか?それは次のポスターで判明いたします。
「支那事変国債」と申しますのは、支那事変の戦費調達を目的として売り出した国債です。25円・50円・100円・500円、1000円の各額面がありました。のちにはこの5種類に加えて小額面希望者のために10円券も売り出されています。
コチラのポスターで「10円券」の意味が解りますね。子供のお小遣いも国債を買うのに廻して欲しい、って言うことなんでしょう。
さらに小口の投資案件も準備されました。それが「貯蓄債権」と「報国債権」と呼ばれるモノであります。
「貯蓄債券」は、昭和12(1937)年9月に民間の資金を軍事産業に優先的に投入することを目的に制定された「臨時資金調整法」により発行が可能となった債券です。
貯蓄債券は2億円までの発行が可能で、一枚の券面金額は20円以下と定められていました。債券の償還に際しては毎年2回の抽籤で売り出し価格の150倍以内の割増金を付けることが出来ました。
「報国債券」は昭和15(1940)年3月に、「臨時資金調整法」を改正して発行を可能とした債券であります。
報国債券は5億円まで発行可能ですが、一枚の券面金額は10円以下とされ、債券の利息は無利子とされました。そのかわり債券の償還時には、毎年行われている抽籤で割増金を付けることが可能であるとされています。
どちらも「元本保証の宝くじ」みたいなモノであります(笑)。
内需拡大による経済成長を図るべき
この当時、世界は「ブロック経済」化していました。第一次世界大戦が終ると、日本と世界は一時的な落ち込みはありましたが、経済的な繁栄を謳歌していた事になっています。
しかし(経済学的に言っちゃえば)永遠に続く好況なんてものはあり得ません。
1920年代の終わりにはアメリカ発の大不況が世界を覆います。このとき、主要国が取った政策・対策は「ブロック経済」化でありました。
この当時の主要国は「植民地」を持っていましたから、自国と植民地で経済ブロックを作り、貴重な需要が自分のブロックから他所へ漏れちゃわない様にしたのですね。
大日本帝国が満洲国や南洋諸島と「円ブロック」なら大英帝国はその巨大な植民地を「ポンド(またはスターリング)ブロック」に。
フランスも「フランブロック」を形成するって具合であります。
ブロック全体の経済力を見ると、やっぱり大日本帝国は見劣りしますよね。そして植民地が無くなった「マルクブロック」も苦しい。世界恐慌→ブロック経済が第二次大戦の誘因だ、という見方が出来る所以でありますね。
このあたりを詳しく見ていくと凄く面白いですよ。たとえば、当時の大日本帝国の繊維産業は「ポンドブロック」を価格だけじゃなくて品質でも軽く凌駕していたんです。ちょっと意外でしょ(笑)
その秘密は、昨年(2018シーズン)トップリーグ(ラグビーですよ!)から落っこちちゃった「あのチーム」。儂が応援してるからな、一年での復帰、待ってるぜよ。
ラグビーの話、お終い。
と、思ったけれど衝撃的なニュースが飛び込んじゃいましたね。水泳の池江選手の白血病。
まだ幼い(失礼かもしれぬが、まだ高校生と聞くので)のに、なんと強靭な心の持ち主だろうか?
池江さんの様な強くて美しい心のありようが、わが国の若い世代の標準なら、私の願って止まぬ「パックス・ジャポニカ」が実現する日も近いぞ。
で、ラグビー界の「白血病から復帰した選手」。豊田自動織機に居るから、写真だけ紹介しておきます。
まがいモンじゃないからね、ワラビーズ(オーストラリア代表)のキャップも二桁持ってるし、儂の見るところ視野の広さは世界のトップ15に余裕で入る。
この程度の選手では、池江さんの参考にはならんかも知れぬが(彼女はトップ15どころか、ぶっちぎりのナンバー1だからな)、一年で復帰したからね、リアリーファノは…
がんばれ、池江、でもムリするなよ。無理だけはしないでがんばれ。
これで脱線は終了。
大日本帝国は大恐慌からの立ち直りは他のブロックよりも早かったのですが、大消費地としても資源の供給地としてもブロックに組み込みたい支那大陸が色々と問題を抱えていました。
さて、ここで考えて頂きたいのです。現代の熾烈な経済戦争を戦い抜いている、読者の皆様に。
「国民精神総動員」による「節約生活のススメ」と「国債投資」って、経済の好循環の礎であるはずの「需要」を毀損しちゃうんじゃないですか?
グローバルな貿易は減退して、ブロック内での貿易で成長しなければいけない時期ですよ。ブロック内でもっとも経済力のある「内地」で需要を喚起するのが「戦費調達」の早道だったんじゃないでしょうか?
まあ、景気の気は気分の気ですからねぇ、どうなったかは判んないんですが、女性たちに
「パーマ当ててキレイになって、贅沢なお洒落して戦士を送り出そう」
って運動をした方が、当時も後世も評判が良かったことは間違いないでしょう。儂はストレートの黒髪が好きだけど。
精動推進の近衛公は右からさえも評判の良くない人ですが、こんな政策を推進したんじゃ、それも仕方無いでしょう。
最後に、精動のもう一つ(儂、初めて知ったときは若干の衝撃を受けましたぞ)の運動を紹介させて頂きましょう。
それは「国旗」の取り扱いであります。
首都圏で「旗日」に国旗を掲げている家が少ない事を憂えた国民精神総動員中央連盟は「旗日には国旗を掲げよう」ってな運動もやりまして、これは一定の成果を収めたようです。
が、同時に「国旗に文字を書くな!」って事も言い出しまして。確かに、神聖な日の丸に悪戯に字だろうが模様だろうが、余計なモノを書き加えるのは宜しくはありません。
しかし、それも時と場合に拠ります。大日本帝国の国民が、コチラの方は全く近衛文麿の意見などを聞き入れなかった事は皆さんご存じの通りであります。
祖国の危機となったとき、その「言うことを聞かない国民」こそが、わが身を捨てて皇国の盾たらん、としたこともまた皆さまよくご存じのところ。
私たちのご先祖は自由で幸せな生活を送っていた、大切な祖国を護るために、奮闘下さったのであります。
近衛文麿さんの出自がお公家さんでなかったら、帝国臣民の「国家を思う心」を正しく理解出来ていたんでしょうか?アホな政策を展開しなかったでしょうか?
それは何とも言いようがありませんが、自らの命と引き換えに国を守ろうとする人間が出現するのは大日本帝国だけの現象ではありません(帝国はその人数が途轍もなく多かった、のは特筆されるべき事実ですが)事も、最後に申し上げておきたいと存じます。