世界一高価な軍艦
我が国の武器輸出が可能になったにも関わらず、依然として大きな商談はまとまりません。
まあ、儲けるだけが目的ではありませんが、せっかくの武器は高く売りつけたいですよね。ってなワケで電脳大本営的に「高く売りつけた」武器の実例を見てみましょう。
第一次大戦前夜
わずか40年ほど前にプロイセンを中心に統一を果たしたドイツ帝国。巨大な植民地を有する大英帝国に「栄光ある孤立」政策を放棄させるほど(見方はいろいろありますけどね)に国力を増しておりました1912年。
このお話の主人公「世界一高価な軍艦」が就役したのであります。
そのフネの名は巡洋戦艦「ゲーベン」。もちろんドイツ帝国海軍の所属であります。艦名はドイツの大艦らしく陸軍(!)軍人で、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベンから採っています。
このクラスのネームシップが大きい方の「モルトケ」で、「ゲーベン」は二番艦ですから理屈はあっています(普仏戦争では「モルトケ」が総司令官、「ゲーベン」はもっとも有能な前線指揮官)。
25,400トン・25.5ノット・50口径28 cm連装砲5基10門・45口径15 cm単装砲12門・45口径8.8 cm単装砲12門。
舷側の装甲厚が最大270mmもある(水線下はぜんぜん薄いけど)のに、甲板の装甲は50mmしか無いって言うのが時代を表してますね。
遠距離からの砲弾は上から落ちてくる、って言う至極当然の事に世界中の海軍関係者が気づくのはもうちょっと後。この記事で扱う第一次大戦のユトランド沖大海戦を待たねばならぬのであります。
ともあれ、「ゲーベン」はブローム・ウント・フォス社のハンブルク造船所で建造され、新たに編成された地中海艦隊の旗艦となります。
付き従うは同じく新鋭のマクデブルク級小型巡洋艦の「ブレスラウ」。
「ブレスラウ」の要目は4,570トン・27.6ノット・ 45口径10.5cm単装速射砲12門・50cm魚雷発射管2門・機雷120個。
Wikiには
『高速性能のために艦首の衝角を廃止して凌波性の良いクリッパー型の艦首に改められる』
とか書いてあるぞ。衝角戦法の無効はとっくの昔に大日本帝国海軍が黄海海戦(日清の方)で証明してるんだけど、電脳大本営的には。
科学帝国ドイツ、研究不足じゃ!っていうかWikiもけっこう良い加減な事書いてあるな(笑)
無駄口ついでに余分な情報を書いておきますと、この「マクデブルク級小型巡洋艦」はブレスラウも含めて4隻が建造され、ネームシップの「マクデブルク」は大戦初期に沈みましたが、残り三隻は生残。
ところがどの艦も「ドイツ以外の国の軍艦」として生涯を終える、という数奇な運命のクラスなんであります。これ以上書くとこの記事のネタバレしちゃいますので、ココまで(笑)
「ゲーベン」と「ブレスラウ」の両艦は1912年11月に本国を出発、完熟訓練を兼ねて地中海までの初航海。
地中海に配備された後は「お披露目」のように地中海を経めぐり、ギリシャ・ブルガリア・イタリア・エジプトなどを歴訪して、1914年5月にはオスマン帝国のイスタンブールを訪れています。
世界大戦始まる
1914年6月28日。オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボで暗殺されます。
犯人はボスニア系セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプ。
オーストリア側は交渉の末に7月28日、セルビアに宣戦布告。どうも懲罰的にセルビアを蹴散らしてやろう、と思っていたみたいです。
オーストリアと大日本帝国が戦ったお話はコチラ。
セルビアにとっては「融和派」のフェルディナント大公を暗殺しちゃったので、身から出た錆。ですが、各大国の誤算が重なって世界大戦に発展してしまいます。
まず、「セルビア独立」を支持するロシアが総動員を発令。
オーストリアに泣きつかれたドイツがシュリーフェン・プランを発動、ベルギーに「無害通行権」を要求。
フランスは総動員、大政翼賛会(フランス版)結成。イギリスもフランスへの援軍派遣を決定。
巡洋戦艦「ゲーベン」と小型巡洋艦「ブレスラウ」はこの状況を踏まえてアルジェリア沖へと向かいます。
アルジェリアはドイツの主敵フランスの植民地で、戦争が始まれば強大な陸軍がココから本国へ送り込まれると思われていました。
「ゲーベン」と「ブレスラウ」はアルジェリア沿岸を砲撃、フランス陸軍の輸送を妨げようとしています。砲撃は成功したのですが、フランス陸軍がまだ移動準備中で、大した損害は与えられなかったようです。
この攻撃によってドイツ地中海艦隊のお邪魔虫ぶりに感づいた大英帝国は、こちらも地中海艦隊でドイツ艦隊を沈めようとします。
イギリス地中海艦隊は巡洋戦艦3隻・装甲巡洋艦4隻・高速軽巡洋艦4隻の優勢。
ドイツ艦隊は逃げの一手を取るしかなく「ゲーベン追跡戦」として知られる、壮大な鬼ごっこが地中海を舞台に始まるのであります。
第一次大戦の知られざる空の戦いはコチラが詳しいのでどうぞ
ジリ貧のオスマン帝国
一時は中東からヨーロッパまでその領域を広げたイスラム国家の「オスマン帝国」。
陸軍は世界で初めて軍楽隊を随行させた軍隊として知られ、ヨーロッパ諸国に大きな影響を与えました。
ヨーロッパの国々は「とてもオスマンには敵わない、軍楽隊だけでも真似たい」なーんて憧れ半分で軍楽隊を取り入れたほどです。
トルコ行進曲って、ちゃんと軍事的な理由があって「トルコ」なんですよ。
海軍だって陸軍に負けず劣らずの世界最強レベルで、最盛期にはフィリピンまで遠征するほどでした。黒海・エーゲ海は完全にスルタンの浴槽と化し、地中海の制海権もほぼ手にしていたのです。
ところが、どんな大国にも黄昏はやってきます。
さしもの大帝国も少しずつ衰退し、領土は蚕食されて現在のトルコの領域へと追い詰められていました。
海軍も20世紀初めには、年式遅れの装甲艦と小型過ぎて使いでの無い水雷艇しかないような状況でした。これもオスマン帝国にお金が無いからなんですが、ヨーロッパ式の産業技術に対する無理解も大きく影響していたように思われます。
イギリスの支援(金はふんだくられましたが)をうけて整備された造船所も、維持運営の技術も予算も無し。なけなしの艦艇は整備が十分にされていない状態でした。
当時のライバルのギリシャ海軍が、どんどん新鋭艦を購入して増強されていくのですが、対抗できるだけの新鋭艦の購入などはムリな相談なのでした。
こんな海軍の窮状はオスマン帝国国民の心配を呼びました。国民有志によって「オスマン艦隊国民援護協会」が設立され、全国民から海軍整備のための寄付が募られることになったのです。
この募金活動で有力な艦艇がオスマン帝国艦隊のラインアップに加わります。
1910年8月21日、ドイツ帝国海軍の前弩級戦艦ブランデンブルク級4隻のうち「クルフェスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム」と「ヴァイセンブルク」を買い取り、それぞれ「バルバロス・ハイレッディン」と「トゥルグト・レイス」と命名して海軍に寄付。
その後も寄付は集まり続け、ドイツからS165級の大型水雷艇(実質的な駆逐艦)を4隻購入。
さらにイギリスのヴィッカーズ社との交渉により34.3cm砲10門を持つ超弩級戦艦(後に「エリン」と命名されてイギリス海軍所属/金剛型の設計のもとになった艦)と、ブラジルが注文したものの金が払えず建造停止となっていた30.5cm砲14門の弩級戦艦(後の「エジンコート」)を購入する事になっていました。
オスマン帝国国民は初の超弩級戦艦に大きな憧れと期待を持って両艦の完成を待ちわびていたのです。
両艦が完成し代金も支払い、乗員の訓練がはじまったころ、第一次大戦が勃発。
イギリスは海軍力増強のために、チャーチル海軍卿の指示で一方的にオスマン帝国の戦艦2隻を接収してしまったのです。
この行為はオスマン帝国の世論を激昂させました。オスマン帝国国内ではイギリスへの強い不信感が募り、反英感情が国民に芽生えてきたのです。
第一次世界大戦がはじまった当初は中立だったオスマン帝国ですが、このような国内事情もあり、実権を握っていた「青年トルコ党」が元々親独政策を取っていた事もあって、「三国協商」側に傾いていきます。
この状況下で、地中海を舞台にした「鬼ごっこ」が繰り広げられていたのであります。
ゲーベン追撃戦
前述のように、大英帝国ははるかに優勢な戦力を持って「ゲーベン」と「ブレスラウ」を追い回しました。「ゲーベン」のボイラーは損傷していて、速力が24ノットしか出ません。
それでも英軍(特にチャーチル)の「ドイツ艦隊は西へ向かい、大西洋への脱出を目指す」という強い思い込みに助けられて、ドイツ艦隊は逃げ回りました。
表面的には涼し気に、スマートに逃げ回ったように見えるのですが、ボイラーを全力で炊き続ける「ゲーベン」の機関員が、4人も過労で「戦死」するほどの壮絶な闘争劇でもありました。
8月10日、ドイツ地中海艦隊の2隻はついにダーダネルス海峡へ到達。この時点でオスマン帝国はまだ参戦していません。
「ゲーベン」と「ブレスラウ」はオスマン政府に水先案内人を求め、その要請にオスマン海軍の水雷艇が応じています。
8月16日には両艦がイスタンブールに到着、オスマン帝国の歓迎を受けます。ところが追ってきた大英帝国側の軽巡ウェイマスからのダーダネルス海峡通航要求は拒否されてしまいます。
それどころか、通常は中立国の港に交戦国の軍艦が入ると行われる武装解除も退去要請も実施されず、あろうことか「ゲーベン」と「ブレスラウ」をドイツから買い取る交渉が始まるのであります。
艦長以下乗員付きで
上述のように、大英帝国の身勝手な行動に反発が強まっていたオスマン帝国。いわゆる愛国者層ほどその空気は強かったようです。
そんな中で海の王者に敢然と挑み、その艦隊を翻弄しつつ逃げ込んできた最新鋭の巡洋戦艦と軽巡洋艦。
オスマン帝国が庇わずには居られないシチュエーションとなってしまったのでした。
大英帝国政府は硬軟の態度を取り混ぜ、イスタンブール水域からのドイツ地中海艦隊の退去を求めますが、国民の反英感情を知るオスマン政府は両艦を自国の海軍に編入する、として退去要求を拒絶。
こうして老大帝国はドイツに急速に接近していくのです。それでも、オスマン帝国は「負け側」に付いたら国が立ちゆかなくなることは認識していました。
そう簡単には「ドイツ側に立って参戦」などとは行きませんでした。
その状況で大きな手を打ったのがドイツ帝国でした。
なんと、「ゲーベン」と「ブレスラウ」両艦を無償でオスマン帝国に譲ってしまおう、というのです。最新鋭の巡洋戦艦と小型巡洋艦を、タダです。
それも、すぐさま戦力となるように、両艦の乗員を乗せたままで譲ろうと言うのでした。
お金を払ってでも2隻を救ってやろう、としていたオスマン帝国海軍がこの話に飛びつかないワケがありません。
この話にはちゃんとドイツ帝国の企みが仕込んであったのですが、それも予測できる範囲の事なんですが、いったんのめり込んじゃったオスマン帝国は止まりませんでした。
ドイツ帝国の巡洋戦艦「ゲーベン」は「ヤウズ・スルタン・セリム」となり、小型巡洋艦「ブレスラウ」は「ミディリ」と名乗りを変えてオスマン帝国の艦艇となったのでありました。
もちろん乗組員はそのまま。両艦は引き続きドイツ人将兵の手によって運用されました。
オスマン・トルコ参戦す
1914年10月29日から「ヤウズ・スルタン・セリム」は駆逐艦2隻を伴ってロシア帝国領のセヴァストーポリへの砲撃を実施します。
帰路のついでにロシアの機雷敷設艦「プルート」を撃沈、駆逐艦「レイテナーント・プーシチン」も撃破。「プーチン」だったら面白かったのに。
当然、「ヤウズ・スルタン・セリム」乗り組みの元ドイツ海軍の将兵たちによる暴走です。純オスマン帝国海軍の首脳部も止めませんでしたけどね。
この段階でもまだ、オスマン帝国は公式には第一次大戦に参加してはいません。
しかしながら、この「無法攻撃」はロシアの怒りを招き、ついにロシアはオスマン帝国に宣戦を布告。ここにオスマン帝国は第一次世界大戦に参戦することになったのです。
オスマン帝国はどこでも負け続けてしまうんですが、唯一連合軍の「ガリポリ上陸作戦」では果敢な抵抗を繰り広げ、ついに連合軍の撃退に成功します。
ドイツ帝国が無償で「ゲーベン」と「ブレスラウ」を譲り渡したことは、オスマン帝国を味方に引き寄せた、ドイツは巡洋戦艦と小型巡洋艦を帝国一つの値段で売り渡した、と言われる所以であります。
その後
第一次世界大戦が終わり、オスマン帝国は倒れてトルコ共和国が成立すると、オスマン帝国海軍の艦船は新生トルコ海軍の所属となりました。
大戦を生き延びた「ヤウズ・スルタン・セリム」は単に「ヤウズ」と名前が縮まり、近代化改装を受けています。ボイラーを石炭・重油混焼罐へ改修し、射撃指揮装置を乗せ換え、魚雷防御も向上、防空兵装も搭載されました。
1938年には「トルコ建国の父」ケマル・アタテュルクの遺骸をイスタンブールからイズミットまで運び、1941年には第二次近代化改装を受けます。
この改装では対空射撃の障害となっていた後檣が無くなり、その姿で二度目の世界大戦を迎えました。
トルコが第二次大戦に「参戦」したのは昭和20年の4月ですから、「ヤウズ」は出撃することもなく戦争を過ごします。
「ヤウズ」は既に戦力ではなく象徴になっていたのです。大日本帝国で言えば記念艦「三笠」みたいなモノですね。
それなのに1952年にはNATOの艦番号として370番を貰ったりしています。とすると、一応戦力?となればラグビー界のレジェンド大野均かトンプソン・ルークに例えた方が良いかも(笑)
1954年、「ヤウズ」ついに退役。
何故か西ドイツ政府から「買い戻したい」との申し入れがあったのですがトルコ政府が拒否。
1966年には逆にトルコから西ドイツへ売却話が持ちかけられたのですが、お話は流れてしまいました。
タダで貰ったモノを買い戻せって言うトルコか、一つの帝国を味方に付ける代償にたかが軍艦2隻で済ませたドイツか、どっちが醜いのでしょうか(笑)
我が国の優秀な武器・兵器もこうして高く売りつけたいものであります。
なお、実際のオスマントルコ帝国の第一次大戦への参戦事情は、巡洋戦艦と小型巡洋艦のミニ艦隊の動向で説明しきれるモノではありません。
こんな見方も出来るよ、ってお話であります。
えっ、「そんなことは判ってるよ、陰謀論者の単純アタマと一緒にするな!」と申されますか(笑)
それは大変失礼いたしました。以上、第一次大戦のお話でありました。