巡洋艦ケーニヒスブルクの粘り強き戦い・その後

「ケルン」

第一次大戦に敗れたドイツは、ヴェルサイユ条約を強要されて軍備にさまざまな制約を受けることになってしまいました。巡洋艦の排水量を6000トン以下に制限されたのもその一つです。

伝統の艦名「エムデン」

第一次大戦後、ドイツ海軍が初めて建造した巡洋艦は1925年に就役した「エムデン」5300トンです。
29.5ノット、45口径15センチ速射砲単装8門、45口径8.8センチ高角砲単装3門、50センチ連装魚雷発射管2基。ボイラー+タービン2基2軸。ただしボイラーは石炭専焼+石油専焼の構成。

エムデン(3代目)

エムデン(3代目)

船体「シア」がほとんどなく、我が帝国海軍の優美なシアを見慣れた目には「直線で構成したんかい!」と映ってしまいます。本国の沿岸警備が目的ならこんなモンでしょうけど。
「シア」と言いますのは、特に艦首部分の舷側が外側に向かって反りかえっている部分を指し、これが有ると無いでは凌波性能に大きな差が出ます。

船体を造るに当たっては、ドイツらしく新技術の電気溶接を多用して軽量化するなどの工夫が見られるものの、至って標準的な造りと言って過言ではないでしょう。
「標準的」はしかし、その軍艦の能力が低いという評価とは違います。第一次大戦で勇名を馳せた前代「エムデン」の名前を引き継いだだけのことはある、実戦向けの軍艦でした。

初代エムデン

初代エムデン

それは、「エムデン」が練習艦として東洋の島帝国を訪れたときの高評価が証明しています。
昭和6(1931)年の来日に際し、大日本帝国海軍はこの「エムデン」の建造技術に着目して古鷹型の新鋭重巡「加古」との交換見学会をドイツ側に申し込みました。

交換見学会

「加古」が交換見学の対象に選ばれたのは、「エムデン」と同時期の竣工だから、という理由だったようです。

「加古」の方が規模としては2割がた大きいですし、海軍としての世界的な地位も大日本帝国の方がはるかに上。造艦技術においても、イギリスの影響を脱して世界一の評価すら一部に出始めている大日本帝国海軍が、申し込んでいるんです。

横浜に入港した「エムデン」に日本の海軍から10名の士官が乗艦して艦内を見学しています。
我が5500トン級の軽巡とほぼ同規模ながら、艦内に余裕がある構造に、我が海軍の士官たちは痛く感動したようで「羨望の限り」なんて感想を漏らしています。

竣工当日の加古、出港準備中

竣工当日の「加古」、出港準備中

我が5500トン級軽巡だって平賀流が台頭してくる前の設計で、ムリをしない「良い艦」なんですけど。

長々と「エムデン」について書きましたが、彼女はこの話の主人公ではありません。WW1後のドイツ海軍が、真っ当な技術力を持っていたとお判り頂きたくて登場してもらったんです。

軽巡「エムデン」は実験艦の色合いもあり、同型艦が建造されることはありませんでした。
新生ドイツ海軍が「次の戦争」のために「エムデン」の経験を踏まえて産み出した軽巡洋艦こそ、世にも珍らしい「変態巡洋艦」となるのであります。

ケーニヒスブルク級

2代目の「エムデン」に代ってドイツ軽巡の主力となったのは、やはり前大戦の名巡洋艦の名前を受け継いだ「ケーニヒスブルク」級でありました。
WW1の「ケーニヒスブルク」はコチラの記事でどうぞ。

第一次大戦で活躍した「ケーニヒスブルク」

第一次大戦で活躍した「ケーニヒスブルク」

 

ネームシップ「ケーニヒスブルク」に続いて「カールスルーエ」「ケルン」が建造されましたので「K級」とも呼ばれます。

ケーニヒスブルク級は「エムデン」と同様にヴェルサイユ条約を守らなければいけませんでした。
ドイツに許された巡洋艦は排水量6000トン以内ですから、艦体の軽量化に意が用いられ、軽合金が多用されています。船体の85%以上が最新技術の電気溶接で組み立てられたのも「エムデン」と同様です。

第二次大戦の「ケーニヒスブルク」級

第二次大戦の「ケーニヒスブルク」級

 

6000トン・32ノット・60口径15cm速射砲三連装3基9門・45口径8.8cm単装高角砲2基・50cm三連装魚雷発射管4基

これをわが5500トン級と比べてみましょうか。

5500トン・36ノット・50口径14cm砲単装7基・40口径8cm単装高角砲2基・53cm連装魚雷発射管4基

5500トン級(球磨型)の4番艦「大井」

5500トン級(球磨型)の4番艦「大井」

 

スピード以外は「ケーニヒスブルク」の圧勝ですね。ところが実績は5500トン級が圧倒しているんです。もちろん5500トン級は14隻もいるのに対して、ケーニヒスブルク級は3隻、改良型の「ライプツィヒ級軽巡洋艦」を合わせても5隻だけ。ただ、それを勘案してもあまりな大差が出来てしまっています。

戦績

我が5500トン級軽巡の活躍ぶりは皆さん良くご存じでありましょう。電脳大本営でも、いくつかの記事にさせていただいて居ります。

それとの比較のために、「ケーニヒスブルク級」3隻の戦績をざっと見てみましょう。

ケーニヒスブルク級後方より、主砲塔の配置に注意

ケーニヒスブルク級を後方より
主砲塔の配置にご注目

 

まずはネームシップから。第二次世界大戦が始まると「ケーニヒスブルク」は駆逐艦などと一緒に北海で機雷敷設の任務に当っていました。

1940年4月「ヴェーザー演習作戦(ノルウェー侵攻)」が発動され、「ケーニヒスブルク」もベルゲン攻略のために出撃します。
ケーニヒスブルクとともにベルゲン占領に投入されたのは同型の軽巡洋艦「ケルン」・砲術練習艦「ブレムゼ」・水雷艇「レオパルト」「ヴォルフ」・Sボート母艦「カール・ペーターズ」にSボート5隻など。

「ケーニヒスブルク」「ケルン」「ブレムゼ」は上陸部隊を乗せて「輸送艦兼務」の出撃でした。
「ケーニヒスブルク」艦隊は4月9日の早朝ベルゲンに接近、ノルウェー軍は砲撃でお迎えします。「ケーニヒスブルク」は2~3発の命中弾を貰ってしまいました。
ドイツ軍はこの日のうちにベルゲン市街を占領するのでありますから、大した損害はなかったように思えるのですが。

翌日の朝、応急修理中の「ケーニヒスブルク」はイギリス軍のスクア急降下爆撃機に急襲されます。「ケーニヒスブルク」には3発以上の爆弾が命中、転覆沈没してしまいました。

ブラックバーン「スクア」急降下爆撃機

ブラックバーン「スクア」急降下爆撃機

 

「ケーニヒスブルク」に同行した3番艦「ケルン」は「ヴェーザー演習作戦」を生き延びます。「ケルン」は4月11日にドイツに戻り、1941年の初めまで改装工事。

新装なった「ケルン」は1941年9月、戦艦「ティルピッツ」とともにソ連艦隊の出撃阻止のためにバルト海へ出撃。

10月にはヒーウマー島攻略にも参加してソ連潜水艦に雷撃されたりしてますが、操船よろしく見事に回避。

翌年には再び改装されてノルウェー北部へ。しかし、この年の12月にはバレンツ海海戦が生起します。ヒトラー総統はこの戦いでの大型艦のブザマな戦績に激怒、大型水上艦すべての解体を決断します。

この決定はレーダー提督の説得で実行されませんでしたが、「ケルン」はいったん退役と言う事になってしまったのでした。

1944年に入って陸上の戦況は大きく悪化。海上においても、劣勢を隠すことは出来無くなりました。このあおりで、老兵「ケルン」も4月1日に再就役させられることに。
と言っても彼女に出番は廻ってこず、オスロフィヨルドに潜んでいるだけでした。じっとしていても、英軍にとっては有力艦艇は目の上のタンコブですので、英軍が航空機で付け狙うことになります。

12月13日、「ケルン」は爆撃を受けて多数の至近弾により損傷。12月31日にも再び至近弾で損傷。
「ケルン」はオスロで修理して貰ったのですが、修復は完全ではありませんでした。そこで危険を冒してヴィルヘルムスハーフェンに移動して修理を受けることにしたのですが、1945年3月30日にまたまた爆撃を受けて大破着底しました。

敗戦時のケルン

敗戦時の「ケルン」

 

ただ、「ケルン」は浮き砲台として、いや「浮いてない砲台」として、残された一か月を戦い続けました。

真ん中の2番艦「カールスルーエ」はスペイン内戦に派遣されたのが戦場デビュー。

ノルウェー侵攻作戦では姉妹とは別行動となり、「カールスルーエ」はクリスチャンセンとアーレンダールの攻略に当たりました。

上陸部隊を搭乗させた「カールスルーエ」は1940年4月9日の朝、濃い霧と要塞からの砲撃の中をフィヨルドへ侵入。
陸上部隊の上陸と支援砲撃は順調に行われクリスチャンセンの占領に成功したのでありましたが。

作戦成功に浮かれてしまったのか?帰投の途中にイギリス潜水艦「トルーアント」に発見され、4本の魚雷を発射されます。うち1本が右舷に命中しました。1本だけでしたが、損害は大きく復旧はすぐに断念されます。

T級トライデント

イギリスT級「トライデント」トルーアントと同型

 

「カールスルーエ」はそれでもなかなか沈まず、随伴していた魚雷艇「グライフ」によって処分されてしまったのでした。

以上、後向きに強い軽巡洋艦姉妹の戦績でした。

武装配置

私みたいな日本の小艦艇フリークからすると、「軽巡洋艦」って言うのは水雷戦隊の旗艦として「単縦陣」の先頭に立ち、強力な敵艦隊に突っ込んでいく役割なワケですよ。

あるいは潜水戦隊旗艦としてドンガメ乗りの休養所兼策源地として敵前に展開する。

1935頃の「多摩」 指揮下の潜水戦隊が航跡に乗って入港準備に入っている

1935頃の「多摩」
指揮下の潜水戦隊が航跡に乗って入港準備に入っている

 

我が5500トン級だと、これらのほかに苦しい輸送にも投入され、防空巡にも改造され、主力艦の護衛も務めて八面六臂。

それがどうです、ドイツ「K級軽巡」たち。やったのは「陸兵輸送」。だけかよ?実質的には。
沈んだところが港だったんで、辛うじて「ケルン」だけ最後まで主砲を撃ち続けたけれど、華々しい戦闘は一切なしであっさりと…

萱場式射出機を装備した鬼怒

萱場式射出機(バネ式カタパルト)を装備した鬼怒

 

この違いは日独海軍の「造兵思想」とか「海軍戦略」から理由付けできると思うのでありますね。

それが「ケーニヒスブルク」級の武装配置に如実に表れているのであります。

軽巡「ケーニヒスブルク」級艦形図左下には主砲の射界を示す

軽巡「ケーニヒスブルク」級艦形図。左下には主砲の射界を示す
Wikiから無断転載

なんとも見にくい図面で申し訳ないのですが、3連装主砲塔が艦尾に2基、艦首に1基配置されているのはお判りいただけると思います。
誤植でもタイプミスでも沢渡の錯乱でも無いですからね。

「ケーニヒスブルク」級は「後向きの砲力を重視した軽巡洋艦」なんですよ(笑)。実際に「撤退時の砲力を重視した設計」なんて解説も読んだことがありまして。

ケーニヒスブルク級2番砲塔と8.8cm高角砲

ケーニヒスブルク級2番砲塔と8.8cm高角砲

さすがにドイツ海軍の人たちだって、軍人としての良心を大量に持ってる人が居られるワケで、いやそういう人の方が多いでしょう。
たぶんその人たちの気持ちが「後向きの主砲塔」をオフセット配置にしたんでしょう。こうすることで、B砲塔(2番砲塔)・C砲塔の射角が広がりを見せます。

広がりを見せた、って言っても艦首方向には3門だけじゃ(笑)
ドイツ人よ、我が大日本帝国の誇る海軍軍人の至言を教えておいてやろう。

「艦首方向の砲は強力でなければならぬ。」

仰ったのは東郷平八郎元帥であるぞよ。

更に魚雷発射管も3連装×4基も積んでるんだけれど、一番煙突・二番煙突の両側に2基づつ装備したもんだから、片舷には結局半分の6門しか向けられないのね(爆)

盛りすぎ

「ケーニヒスブルク」級がこのような変態艦になってしまったワケは、ハッキリ言って判りません。ドイツ語で資料を探せば出てくるかも知れないんですが、私の語学力は「アイン・ツバイ・ドライ・プロジ~~ット」どまりでしてね、申し訳ありません。

電脳大本営的には、ドイツが課せられた厳しい軍備制限が根本的な原因になったのでは?と考えています。

順に説明させていただきましょう。

ヴェルサイユ条約下のドイツ海軍は戦艦(と言っても準ド級)8隻、巡洋艦8隻、駆逐艦16隻、水雷艇16隻しか保有を許されませんでした。ドイツお得意の潜水艦はナシ。
戦闘艦の新造は出来ず、戦艦・巡洋艦が20年の艦齢に達すると(駆逐艦・水雷艇は15年)代艦が建造できるだけ。その時でも戦艦1万トン、巡洋艦6000トンの制限付き。

つまり、隻数も大きさも極端な制限を付けられていたんです。ですから、たまに巡ってくる代艦建造の機会には「個艦優秀主義」を取らざるを得ませんでした。

軍縮条約下の我が海軍の建艦思想も、ほぼ「個艦優秀主義」ですけどね。第四艦隊事件や友鶴事件が引き起こされた事は、皆さんご存知の通りであります。

軍艦というモノは武装があってこそなんですが、その武装のほとんどは甲板上に設置されますからトップヘビーが宿命です。
「個艦優秀」と言ったところで、結局は「小型・強武装」になってしまいますから、トップヘビーはますます増幅されちゃうのであります。

「ケーニヒスブルク」級も電気溶接を多用したり、軽合金を艦上構造物に使ったり軽量化の努力はやっていますが、トップヘビーに間違いないと思います。

それでも、艦尾側の砲力が強いのは理解できないんですけどね。2番砲塔を前に移して、艦橋・煙突とその下のボイラー/タービンをその分だけ艦尾側に下げるだけの話なんですから(笑)

で、ケーニヒスブルク級にトップヘビーの障害は出てないのか?と申しますと、やはりそんな事はないんでありまして。

水雷艇「友鶴」改善後の公試

水雷艇「友鶴」改善後の公試

 

申しあげたように、日本語で見られる資料では詳細な障害の記述がありません。で、Wikiで判る「艦歴」から駄目っぷりを探ってみましょう。

このクラスは、艦の規模と建造国の工業力を考えますと、進水してから就役までの期間が結構掛かっています。

ネームシップ「ケーニヒスブルク」がまる2年と10日。2番艦「カールスルーエ」2年2ヶ月。3番艦「ケルン」1年8か月。

因みに、「ケーニヒスブルク」級とほぼ同規模の我が5500トン級だと「長良」がちょうど1年。一番最初の「球磨」でも1年1か月です。

フネ(軍艦も)は基本的には船体を造り、機関を積んで進水します。

進水から竣工・就役までは兵装の据え付けや船内装備(航法装置や兵員室などの設備)の設置をしなければいけません(これが艤装です)が、一番デカい主砲塔も含めて、事前に準備してありますから、文字通り「載せるだけ」です。普通ならね(笑)

戦艦「扶桑」の進水直後

戦艦「扶桑」の進水直後

 

造船については世界的に一流の技術力を持っていた大日本帝国ではありましたが、基礎工業力やインフラを含めると「敗戦国」のドイツにもかなり劣っていたと考えて良いでしょう。悔しいですが、現実・史実は正面から見据えなければなりません。

そのわが国で1年で出来る艤装工事が、倍以上掛かる。それも姉妹艦3隻とも、と言うのは相当な問題が噴出していた事を示しています。
もちろん、上部構造物が軽合金を多用しているためもありますが、これは設計段階から判っていた事です。

進水台上の5500トン級軽巡「名取」

進水台上の5500トン級軽巡「名取」

 

つまり設計時には想定できなかった問題が次々に起こってしまった、と想像出来るのです。

ちゃんとWikiに書いてあるじゃん

ここまで書きましてWikiの記述を確認してみると、あらビックリ。

いや、ココまで「軽巡ケーニヒスブルク」「カールスルーエ」「ケルン」って検索してみてきたんですけど、「ケーニヒスブルク級」(Wikiでは「ケーニヒスベルク」って表記ですけど)ってのが別項であるじゃないですか。

「ケーニヒスベルク級」の項には次のような記述があります。

無理な軽量化と主砲配置を行ったために長期の巡航に溶接が耐えられず船体が割れる問題が生じた。一隻は巡航を中断してサンディエゴで修理を行わなければならなかった。加えて本級はその構造上安定性を欠き、外洋での行動が制限されたため第二次世界大戦においては北海およびバルト海だけで活動し、通商破壊に参加することはできない戦略上の弊害が出た。

電気溶接で造った船体の強度が不足していたんですね。

その手直しに時間を取られた、って事でしょう。アメリカ方面に航海してるのは2番艦の「カールスルーエ」で、それも1931~1932、1933~1934、1934~1935、1935~1936と4回も行ってやがるんです。

まあ、初回に船体が割れたと思って間違いないでしょう。「その構造上安定性を欠き、外洋での行動が制限された」って言うのがトップヘビーで転覆の恐れがあった、と見て間違いないでしょう。

でもなあ、スペイン沖を遊弋したりアメリカ・東南アジアへ行ったりしたのなら、大西洋で通商破壊が出来ぬわけでも無いと思うんだけど、通商破壊作戦中に横波受けて沈!じゃあ目も当てられんしなあ(笑)

まあ、働きが悪かったのは、フネの出来が悪かった、と言うよりドイツ海軍の使い方が間違ってたんじゃないんですかね。

いささか勇ましくないお話になってしまいましたけれど、巡洋艦「ケーニヒスブルク」の後日譚、これでお終いであります。

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