「機帆船」の戦い2

漁船イラスト

昭和前期の国内輸送に大きな役割を果たした機帆船。
「河山丸」という機帆船も、ついに徴用を受けることになったのですが、機関長は「徴兵」で乗務を続けられません。

機関長は下船したけれど

国民すべてが物資不足に苦しんでいる時、徴用になったんで煙草や金平糖を貰って帰った「河山丸」の一行。

しかし、喜んではいられません。三谷輝男機関長は下船して兵隊さんにならなきゃいけないのです。

フネに帰ると、船長以下全乗組員(って言っても5人だけど)が車座になって協議が始まりました。

同じ船主グループの所有船である「繁栄丸」も徴用船検を受けたのですが、当面の間は国内航路に就くようです。
いっぽう、「河山丸」は南方へ行かねばなりません。

「繁栄丸」の機関長は美々津(幸脇の川向こうの在所)出身の牧野政敏さんですから、船主に頼んで、「河山丸」に来てもらえないだろうか?…というところに衆議は一決したようです。

幸脇の「水沼今泉グループ」の機帆船隊

幸脇の「水沼今泉グループ」の機帆船隊

 

三谷輝男機関長は下船していったん幸脇に帰ることになりました。

このとき、車座になった誰もが口にはしませんでしたが、南方へ行くとは「征く」であり、「生きて帰れない」ことを意味しているのは、いやしくも船員稼業に就いている人なら常識でありました。

しかし船内に悲壮感みたいなモノは無かったそうです。

下船する三谷輝男機関長も
「じゃ、何処に行っても身体だけは大事にな」
ってな軽い挨拶だけで、 幸脇に帰って行きました。
三谷機関長だって、入営したらおそらくは南方でしょう。

他の乗組員だと、「オトヤン」こと村井音蔵さんは62歳を過ぎていたそうです。
水沼勝巳船長は
「オトヤン、あんた60過ぎてんでしょ。徴用免除にして貰って、機関長と一緒に帰ったら?」
と勧めたのですが、オトヤンは
「いや、皆が行くとじゃから、俺も一緒に行く。御国のためじゃ」
と下船を拒んだそうです。

昭和16年建造中の機帆船

昭和16年、建造中の機帆船

 

儂も60過ぎておりまするが、国の危機にあたって、こういうセリフを吐けるじゃろうか?

そしてほどなく後任の機関長牧野政敏さんが繁栄丸から「転勤」してきて、出撃準備完了であります。

フィリピンへ

ココからしばらく「河山丸」の回想がやや混乱しており、かなりの想像も交えてのお話になります。ご承知おきのほどを。

「河山丸」は鹿児島県指宿市の山川港に集合待機を命じられます。
山川港って言ったら、あ~た。
かの大西郷は2回も遠島(島流し)にされてるんですが、2回とも山川港から船出してるんです。
島流しの出発地ではありますが、考えようによっては
「必ず此処に帰ってくる」港なんですね。

ただし、大西郷にも「河山丸」にも「手を振る人」は居なかっただろうし「笑顔で応え」もしなかっただろうけれど。

ごめんなさい、悪ふざけです

ごめんなさい、悪ふざけです

 

さて、と要らんこと書いてしまいました。

「河山丸」は山川港で船団を組みます。船団のリーダー船は「金毘羅丸」という機帆船です。

このフネには美々津出身で、この年(昭和19年)3月に高等小学校を卒業した、橋口捨一君も乗り組んでいたそうです。14歳か15歳ってことですな。

船団の構成は、肝心の機帆船の隻数がはっきりしないのですが、10隻以上だろうと思われます。

護衛には海防艦が一隻と特設海防艦が数隻。

特設海防艦にもいろいろありますが、このときはキヤッチャーボートに野砲を装備したフネだったそうです。対「鉄のクジラ」にはほぼ無力ですな。

現在の山川港

現在の山川港

 

「金毘羅丸」船団は奄美大島~沖縄~台湾に寄港しながらフィリピンを目指します。

制空権も制海権も帝国が持ってない海を5~6ノットで、敵の襲撃を警戒しながらの航海です。
船員さんたちは大いに消耗したことでありましょう。

この「金毘羅丸」船団がどんな苦労をしたのか?
ハッキリとは判りませんが、同時期に内地からフィリピンを目指した機帆船の船団などを参考にいたしますと…

沖縄までで、機関の故障や沈没(原因不明)によって船の数は1/3ほど減少。

台湾の華漣港(太平洋側)までにも事故や航行不能になった船が相当あったそうです。
マニラまで辿りつけた船は、出港時の半分ぐらいだったと言います。

「河山丸」も同じような航海だった思われますが、何とかマニラには到着出来ました。
おそらく、20日前後の航海だったのでしょう。

到着したのは昭和19年6月ごろのことで、フィリピンはまだアメリカ軍がレイテ島に上陸する前で、「河山丸」は域内の補給や人員の移動のために走りまわっていました。

「河山丸」が夢中でフィリピン海域を走り回って4ヶ月。
昭和19年10月20日がやってまいります。

午前9時、「河山丸」にとっては突然でありましたが、アメリカ軍の艦載機100機以上がマニラに来襲します。
アメリカ軍機は数にモノを言わせて空を圧します。港内の艦船、市内の各所に対して爆弾の雨を降らせ、午後にも第二波が続きました。

この空襲は3日間続きました。アメリカのフィリピン奪回作戦が始まったのです。

台湾沖航空戦を伝える新聞

台湾沖航空戦の(誇大)戦果を伝える新聞

 

この空襲では、マニラ港に停泊していた艦船の大多数が撃沈されています。
湾内は撃沈破された輸送船が残骸をさらし、陸上でも重要施設の殆どが壊滅。
「河山丸」の得た情報では、我が艦船42隻がマニラ港で撃沈された、とのこと。

この数日前、台湾沖に出現した敵の機動部隊に対し、帝国海軍は航空攻撃を発起。
台風下でも出撃可能!とその練度を豪語する「T部隊」も含めて、乾坤一擲の大勝負でしたが、攻撃はほぼ効無く終わってしまいます。

しかし、帝国海軍は
「敵空母19隻・戦艦4隻・巡洋艦7隻・艦種不明15隻撃沈または撃破」と発表し、陛下にも奏上。

このマニラ空襲の頃は、海軍もこの荒唐無稽な「戦果」の真相に気づいていたものの、陸軍には打ち明けず。
陸軍は当初の防衛計画を変更し、「レイテ決戦」に舵を切ります。

オルモック補給戦

アメリカ軍の方もまるで呼応したかのように、マニラを空爆で叩くと同時に、レイテ島のタクロバンとドウラグに10万の陸兵を上陸させます。
これを迎える我がレイテ島守備隊は増強途上にあり、いまだ僅か2万。

大型輸送船による「多号輸送作戦」(レイテ島オルモック湾への兵員・物資の強行輸送作戦)は何度も実施されますが、とても足りません。

オルモック湾で撃沈寸前の島風

オルモック湾で撃沈される寸前の駆逐艦「島風」

 

急遽、機帆船8隻の輸送船団が編成されることになり、「河山丸」もその一隻に選ばれました。
燃料補給のあと、野砲兵一個大隊が乗船、火器・弾薬・糧秣を満載したそうです。

でもなあ、大隊って言ったら帝国陸軍の場合、定員560名くらいだからな。機帆船一隻ではとてもムリだ(笑)
機帆船8隻に分乗したとしても、一隻当たり70人…食料までは絶対に積めねぇな。

まあ、ともかく「敵の目標になりやすい」ってんで、マストを切り倒しちゃう用心ぶりで、昭和19年11月10日の未明に機帆船団はマニラ港を出撃します。

船団は敵潜水艦の攻撃を警戒し、できるだけ陸岸近くを航行(陸岸方向からの攻撃はほぼありませんから…)、島影を利用しながらレイテ島に向かいます。

陸岸沿いに進みますので、潜水艦の攻撃はありませんが、ゲリラ集団とは戦わなければなりません。

フィリピンは抗日ゲリラが猖獗を極めていました。
このことで、おパヨさんたちは「大日本帝国の占領政策が強圧的だった」などと宣うのですが…

フィリピンは帝国が占領した時点で、すでにアメリカから平和裏に独立する予定でした。

その要因はたくさんあろうかと思いますが、一つだけ挙げろ、と言われたら。
儂は「フィリピンからの輸入果物に高い関税を掛けたかったから」
と答えますね。

オルモック湾で対空戦闘中の若月、この後沈没

オルモック湾で対空戦闘中の防空駆逐艦「若月」
この後沈没

 

つまり、フィリピンには「大日本帝国に占領されたら、ちとマズい」って人が大勢いたし、逆に「アメリカから独立しても、豊かにはなれん。日本に支配してもらった方が良い」って人もまた、一定数いたんです。

「平和に暮らせりゃ、どっちでもええで」って人が、たぶん最大派閥でしょうけれど。
帝国がどんな占領政策を取ったところで、反日・抗日ゲリラは存在したでしょうし、逆に「親日派」ももちろんたくさん居たんです。

また横道に逸れちまいました。

ゲリラ以外にも、航海中に大嵐に遭遇するは、僚船が座礁するはの苦労をしつつ、「河山丸」は出港して6日目、無事レイテ島西岸のオルモックの砂浜に乗り上げたのでした。

無事って言っても、乗せた砲兵隊員の一人が海中に転落する事故もあったそうですが…

アメリカ軍の攻撃を受けつつあるレイテ島ですから、揚陸施設が無事に残ってる筈もなく、ましてアメリカ軍の上陸地点の反対側に着けたのですから、着岸できる岸壁すらありません。

砂浜に乗り上げられたのは、まだ運が良かったのかもしれません。

明治末期の石炭荷役

機帆船の荷役作業
ただし、明治末期

 

しかし「河山丸」はマストを切り落してしまいましたので、「揚げ荷」は全て人力です。
そいつは大変な重労働だったと思います。

それでも乗組員たちは夜を徹し、兵隊さんの協力も得て砲・火器の陸揚げに成功。
わが陸軍の増援部隊は、「怨敵撃滅」の意気も高らかに、タクロバン方面へと前進していったのでありました。

脱出を図る

前線の大日本帝国陸軍は善戦しているそうですが、 兵力不足・弾薬不足は否めません。

「河山丸」にもその情報は伝えられました。危険地帯に長居は無用であります。
タイミング良く11月17日はお昼に満潮でした。コレを利用して砂浜を離れ、少し沖に錨を入れて夜を待ちます。

日が落ちると、待ちかねたように焼玉を焼きます。
錨を揚げ、エンジンは全速一杯で危険水域からの脱出を企図したのですが…。

しかし回転数を上げ過ぎた為でしょうか?
「河山丸」の煙突からは、黒煙とともに火の粉が盛大に噴出。
それが目立ったのか、敵潜に補足されてしまったようです。「河山丸」の後ろを敵(と思われる)潜水艦が浮上して追従してくるのが望見されました。

アメリカ潜水艦と思われるフネは徐々に迫って来ます。

慌てた「河山丸」は最後の手段に出ます。

ワフーの潜望鏡で撮影した貨物船撃沈の様子

アメリカ潜水艦「ワフー」の潜望鏡で撮影した帝国貨物船撃沈の様子

火の粉を噴き上げる焼玉エンジンの出力をさらに上げるため、飲用に積載している清水をエンジンに吸引させて過熱を防ぐのです。

操舵室でエンジンハンドルを一杯に上げると、「河山丸」の船体が大きく震え、 煙突からの煙が真っ赤に見えるほどの火の粉が混じります。

それでも「河山丸」の船足は遅いまま。

敵潜水艦の正体は判りませんがガトー級でしょう。
水上速力が20ノットは出ますから、5~6ノットの機帆船が逃げ切れるワケが無いのです。
水中でも8ノットだからな、電池の容量を気にしなきゃ潜ったままでも捕捉されちゃう。

船長は全乗組員と船舶砲兵を船橋に集めます。元が民間船ですから、危機に当たっては「協議」であります。

「追いつかれるのは時間の問題だ。これ以上エンジンは上げられん。」

衆議は素早く一決します。
「逃げて沈められるより、反撃じゃ。敵わぬときは体当たり」
「河山丸」は大きく反転、決死の覚悟で敵潜に対峙します。

コッド(ガトー級13番艦)

ガトー級13番艦「コッド」
こんなのが追いかけてきたら怖いよね

 

向かい合って接近すれば、相対速度は25ノットに近いはず。すなわち時速50キロほどで見る間に距離は縮まるのです。
船舶砲兵は「ほぼ気休め」みたいな機銃座につきます。

ところがなぜか敵潜水艦が潜航し、「河山丸」からは見えなくなってしまいました。

積極的に距離を詰める機帆船に、潜水艦が恐れをなしたのでしょうか?

船員さんたちは「機帆船が潜水艦に勝った!」と全員で万歳を三唱したそうです。

別に勝ったわけじゃないけどな、迫力で優っていたことは間違いない。精神力で戦争に勝つのは、あながち非科学的とばかりも言えませんね。

ただし、「だけ」では勝てぬぞ。
選び抜き研究しつくした機材と、練りに練った兵隊さんあってこそじゃ。

最後

精神力で敵潜を追い払った「河山丸」でしたが、昼間の航行は危険です。潜水艦だけじゃなく、敵機も跳梁するフィリピンですからね。

「河山丸」の回想記では「オルモック港」とあるのですが、どこかは不明の港に、フネは投錨します。
レイテ島西岸の、日本軍占領地域内の何処かでありましょう

焼玉エンジンを停めて、陸のほうを見やれば赤い屋根や青いの屋根の建物が立ち並ぶ平和な村のたたずまいでした。

しかし何かおかしい、と思われました。
人影が見えず、不気味に静まりかえっているのです。
建物の陰にカーキ色の服が動くのが見えました。

戦場慣れした誰かが、ピンときたようです。
「危険だ」
「機関長、すぐにエンジンをかけろ」

危機を告げる叫び声が響くか響かぬかのうちに、敵の発砲が始まりました。

攻撃を受ける機帆船150トン程度か

攻撃を受ける機帆船
(150トン程度かと思います)

 

反日ゲリラでした。
ゲリラの射撃は当初機関室に集中します。
弾丸は焼玉エンジンの機筒に当たって跳ね返ります。
その跳弾の一発が重油タンクを貫通してしまいました。
流れ出る油を止めるために、タンクの穴にウエスを巻いた木栓を打ち込んで応急修理。

エンジンを始動するためには、焼玉を焼かなきゃいけません。
甲板では奇襲を受けた混乱が続いているのでしょう。
命令も何もありませんが、エンジンが掛ると、すぐに「フルアヘッド」。
ようやく船が動き始めると、敵の攻撃目標は操舵室に向かいます。
その一弾が舵輪を握っていた船長の胸を貫き、船長は即死。 そばに付いていた衛生上等兵がとっさに舵交替し、上等兵は仰向けに寝そべり、両足で舵輪を回して操舵。

このアクロバティックな操舵で陸岸から遠ざかり、漸く敵の銃撃圏から逃れます。

陸上からの攻撃は損害を出しつつも乗り切った「河山丸」でしたが、昭和19年11月19日の未明でありました。

米軍撮影の機帆船損害状況1944

上の写真の「攻撃後」

 

突如「ドドーン」という轟音が響きました。フネは大きく揺れ、きしみます。
フネの後方50メートルほどで水柱が立ちのぼっています。
敵機の空襲であります。

5発目の爆弾が「河山丸」の左舷に命中、「河山丸」は真二つに割れてしまいました。

記録に残っていなくても

「河山丸」は撃沈されたものの、生き残った船員さんがおられて、その方たちの回想によって帝国に対する貢献が判ります。

しかし、何度も書きましたように小さな機帆船や漁船は、その犠牲や最後すらはっきりしないものが多いのです。

そもそも、大東亜戦争に徴用されて戦地を疾駆なさった船員さんたちの「損耗率」は、軍人をはるかに上回っています。

軍人の損耗率は、陸軍20%・海軍16%とされていますが、船員さんは推計43%にもおよんでいるのです。

船員さんだけ推計なのは、漁船や機帆船の犠牲について、正確な数字が把握困難であるためです。

さて、「機帆船」が圧倒的な敵の攻撃を受ける、って言う事態は我が海軍が圧倒的な戦力を持ってるときもありまして…

時を戻そう(笑)昭和16(1941)年12月8日、大日本帝国は英米蘭に宣戦を布告致しました。

布哇真珠湾のアメリカ太平洋艦隊への攻撃を含めて、ココから数ヶ月の間、帝国海軍は米英蘭を押しまくるのでありますが、開戦わずか10時間。
我が極小の民間船をオランダ海軍機が攻撃しやがった事例があるのです。

それを最後に紹介申し上げて、機帆船賛歌を終わりたいと思います。

オランダ軍の史料
《VERKENNEN en BEWAKEN Uitgave afdeling maritieme historic Ministerie van defensie ‘s-Gravenhage. 1979》
によりますと…

蘭印(インドネシア)にあったオランダ植民地軍は、現地時間12月8日の午前6時30分にオランダ政府の対日宣戦布告を受信すると、直ちに戦闘態勢を取りました。

ドルニエワール(植民地軍が使用

オランダ植民地軍が使ってたドルニエワール飛行艇

 

それから暫く、オランダ軍は飛行艇による哨戒飛行を実施するのですが、ハルマヘラ島の東160キロの海上で、航行している帝国漁船の「船団」を発見して爆撃しやがったのであります。

何故、こんなところに我が漁船群がいたか?と申しますと、「白蝶貝」という貝を採っていたんですね。

白蝶貝ってのは、ヨーロッパやアメリカの上級国民のオシャレさんのあいだで、もてはやされていた高級釦の材料だったんです。

オーストラリア北側のアラフラ海に浮かぶ「木曜島」がこの白蝶貝採取のメッカなんですが、この当時のオーストラリアは「白豪主義」バリバリであります。

やむなく、日本人ダイバー(白蝶貝は潜水して採るんです)はパラオ諸島から機帆船を母船とし、小さなダイバー船数隻で船団を組んで、出稼ぎに行ってたんです。

爆撃

オランダ軍史料によりますと、爆撃の詳細は以下の様なモノでした。

『12月8日。X-12(飛行艇のシリアルナンバーかと思います)が午後の偵察飛行でブーゲンビル海峡のサヤン島沖5マイルの海域で日本船団を発見した。
船団は200トン以上の母船と4隻の小さな漁船で編成されていた。彼らはスパイ活動をしていると考えられた。

X-11が母船に50キロ爆弾4発投下したが、損害を与えられなかった。
次の日(12月9日)、X-11が再度日本船団を発見、無線でX-25に協力を依頼した。
X-25が母船を爆撃し、そのうち1発が母船の中央に命中。母船には大きな穴があき、煙が立ち込め云々』

攻撃されたわが国の船団は「皇国丸」という161トンの機帆船を母船とし、5隻のダイバー船(採貝船)で構成されていたそうです。

オランダ軍が疑っていたように、「皇国丸」は海軍の徴用を受けていて、白蝶貝採取の本業の傍らで気象観測などの任務に就いていたようです。

確かにスパイ活動と言われても、仕方のないところではありますが、武装もない民間船をいきなり爆撃するオランダ軍に、戦後に戦犯を裁く権利があろうとは思われませんがね。

さらに言えば、こんな「敵の庭先」にいる民間船を、事前に避難させないわが帝国海軍。

なんだかなぁ、と思ってしまうところであります。

 

 

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