「機帆船」の戦い1
世界3位の規模と、ほぼトップに近い「質」を誇った大日本帝国の商船隊は、大東亜戦争で壊滅してしまいました。
外航航路の船ばかりではなく、内航船も例外ではありませんでした。
機帆船と焼玉エンジン
大東亜戦争における「機帆船の徴用」のお話を書いていきたいのですが、例によってその機帆船とか、機帆船を特徴付ける焼玉エンジンの説明から始めます。
大日本帝国は「機力航走」する黒いフネに圧力を掛けられて、国際社会にデビューしたワケでありますが、その後しばらくの間「民間船」は「帆走」が中心でありました。
帆走の漁船に付ける補助機関として、焼玉機関が使われ始めたのがようやく1900年代のはじめ。
焼玉機関(焼玉エンジン)って言いますのは、大雑把に言いますと「簡易型ディーゼル・エンジン」みたいなモノであります。
シリンダーヘッドの構造が、かなり私どもの常識とはかけ離れていまして、「焼玉」という球状の燃焼室が付いてます。
この燃焼室は点火装置と燃料気化装置も兼ねていますので、エンジンの構造がすごく簡便になってるんですね。
焼玉とシリンダーの上部はくびれた通路で繋がっています。
簡易型みたいなモンとはいえ、焼玉エンジンには2ストも4ストもちゃんとあるんですけれど、判りやすいんで4ストローク型のサイクルの各行程を説明しておきます。
「吸気行程」ではピストンが下降する間、焼玉の中に霧状の燃料が噴射され続けます。
噴射された燃料は、熱くなった焼玉の内側表面に触れると瞬間的に気化し、ガス状の燃料ができます。
吸入した空気と、このガス状になった燃料が混合・撹拌されて混合気が形成されます。
「圧縮行程」では、ピストンが上がってくることで混合気が圧縮され、圧力と温度が上昇。
混合気の圧力と温度の上昇により、混合気は着火しやすくなりまして、焼玉の内表面の温度によって着火しちゃいます。
焼玉の内部で着火した高圧かつ高温の燃焼ガスは、焼玉に熱エネルギーを「お返し」するとともに、「くびれた通路」を経由することで高速になってシリンダー内に噴出、ピストンを押し下げます。
混合気の燃焼圧力によって押し下げられたピストンは、コネクティングロッドを介してクランクシャフトに回転エネルギーを与えます。
ココまで来ちゃうと他の4ストロークエンジンと変わりありません。
その後の排気行程も他のエンジンと同様ですね。
このように焼玉エンジンには、点火プラグなどの電装系もありませんし、キャブレターのような燃料供給装置も必要ありません。
ディーゼルエンジンみたいに複雑な噴射装置も要りません。
非常に簡便な構造であり、製造が容易だったんです。
国内輸送の中心
漁船用に使われ始めた「焼玉エンジン」は、このように構造が簡単・単純だったために、小さな港町の小さな造船所でも生産されるようになりました。
20世紀初め頃まで、わが国の沿岸用貨物船は江戸時代の遺物みたいな「弁才船」のごとき木造帆船が主力でした。
この帆船に補助的な焼玉機関の搭載が始まったのは、漁船の少しあと。
1920年代には、純帆船に代わって多くの「焼玉機関搭載船」が使われるようになりました。
大日本帝国には鉄道が普及していましたが、まだまだ「全国津々浦々」とまでは行きません。
加えてコストの問題もあって、国内輸送の(特に長距離の)主力は「海運」でありました。
焼玉機関はこのわが国の「国内輸送の主力」に大きな力を与えることになりました。
初めは帆走の補助として焼玉機関を搭載していたのですが、昭和5(1930)年頃を境に「機走主体」に変わっていきます。
同時に自動車や鉄道に「国内輸送の中心」の座を譲っちゃうんですけれど、まだまだ小さな船は重要な輸送手段であり続けています。
その船体構造は弁才船いらいの木造のままで、おおむね150総トン以下。瀬戸内海や本土沿岸を航行し、石炭や雑貨や食料の輸送の中心的な地位を占めることになります。
このフネが狭義の「機帆船」であります。狭義の、って言いますのは「日本の」って意味と思っていただいて構いません。
木造であることが注目ポイントで、大東亜戦争で徴用されたほぼすべての機帆船が木造であったと推定されます。
推定でしかないのは、ハッキリ申しまして政府も海軍も把握しきれないくらい大量の機帆船を徴用したからです。
大手シー・ラインの貨物船や客船なら、会社の記録も残りましょうが、機帆船は後述しますが、零細・個人企業の経営が多く、此方からの記録は残っていないことが多い。
残っていても、私たちの眼に触れることは至難ですし、親方や乗組員がフネとともに戦没していれば「そのフネがあった」事すら忘れられてしまっている可能性も高いのです。
そして乗員もろともに沈んだ機帆船のいかに多いことか。
大東亜戦争では、多くの機帆船が乗員ごと徴用を受け、国内専用であったにもかかわらず、東南アジアなどの占領地で局地輸送などに従事しています。
前述のごとく、木造でありますから鉄資源が不足しがちの帝国では、「戦時標準船」(フネとしての最低限度の安全構造すら持たない、工期短縮建造船)計画の一部に機帆船型もあったのです。
戦時標準「機帆船」
機帆船(要は木造・簡易エンジン搭載ってことです)タイプの戦時標準船には70噸・100噸・150噸・200噸・250噸・300噸の各型があったと思われます。
エンジンが焼玉で馬力が出ないこともあって、航海速力は激遅で、良く出て5~6ノットが限度。
帆を持たない、普通のタイプの戦時標準船(コチラにもいろんな型がありますが)と比べてもはるかに鈍足です。
戦時標準機帆船の設計がされたのは大東亜戦争の開戦前ですから、設計者も想定できなかったのかもしれませんが、鈍足は敵の制空海権下に「我が身」を長時間さらし続けることを意味します。
戦時の輸送にとっては、致命的な弱点となってしまいました。
大東亜戦争でのわが帝国船舶の損害は、「商船」については戦後の調査によって全容が明らかになっています。
しかし、小さな漁船や機帆船については、調査が困難を極め(力を入れてやってないこともありまして)推測で見当を付けていくしかないのです。
しかし、わずか数十トンの簡易エンジンを積んだフネであっても、「国のため」に航海したことは間違いありません。
そしてその多くが、有効な護衛も無いまま敵の制圧海面に進出し、皇軍兵士への補給や警戒の任務に就き、沈んでいったのです。
この乗り組みの人たちも、ご英霊であることは間違いないところでありましょう。
ご英霊方のおかげで、今の生活を享受する我々は、もっと機帆船とその船員さんたちを顕彰しなければいけません。
話を戻します。
大東亜戦争が始まる前の段階で、大日本帝国は約600万総トンの商船を保有していました。
前述のように、この数字は世界第3位の巨大なモノでしたが、さらに戦争中に約400万総トンを建造しています。
この1000万トン強(質の問題は置いときます)の商船ですが、昭和16年12月の初め~昭和20年8月までの間に(資料によって若干の差がありますが)、800万総トン(2500隻ほど)が沈められてしまったのです。
この800万総トンの商船には、ほぼすべての「優秀船」が含まれていまして、逆に残ったのは戦時標準船が多くありました。
戦標船は船体の想定耐用年数が3年、機関は1年という、とんでもないって言いますか、いたし方ない設計思想で作られたフネであります。
それ故に、戦後の復員に使えず(安全基準を満たさないので、相手国が入港を拒否した)、世界に冠たる「海運国」として、大変悔しい思いをしちゃうのであります。
まあ、それでもちゃんと記録には残りますわね。
すでにブツクサ書きましたように、小さな漁船とか機帆船はこの記録にも残ってないんです。
漁船・機帆船の損害については、元になる資料(って言っても推測の手がかり、程度ですが)が厚生省の「戦没船員原簿」しかありません。
この「原簿」に戦没船舶名が記載されてるんですが、その総数は7200隻にも達しています(所属の記載はありません)。
ですから、この7200隻から商船の損害隻数2500隻あまりを差っ引くと、4000隻以上の漁船・機帆船などの小さなフネが太平洋に消えたと推定できるのです。
小さなフネとその船員さんたちを顕彰するために、大いに活動されている「戦没船を記録する会」さんの資料をご覧ください。
地域別戦時船舶と徴用船・戦没船隻数(20~299総トン) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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20~299総トンの小さなフネ(機帆船とは限定されていません)の損害が集計されていますが、合計4654隻が徴用を受けて、1424隻が戦没。
4000隻、っていう「戦没船員原簿」とは整合しないんですが、小さいフネの記録なんてこんなモンなのであります。
宮崎県日向市幸脇
ココからは機帆船で太平洋の輸送にあたって下さり、生き延びた方のお話を中心に。
昭和12年7月から支那事変が始まるのですが、大東亜戦争が始まるまでは(主として)、陸軍が「機帆船」を徴用していました。
もちろん揚子江などの水域や沿岸の輸送に使ったんですが、このこともあまり多くは知られていません。
ただその頃は、帝国が追い詰められていたワケじゃありません。機帆船の損害もほとんど無く、契約期間が終われば徴用解除になって、船も乗組員も無事帰還していたんです。
徴用で「出征」していた機帆船が故郷へ帰れば、凱旋将軍でも迎えるようなお祭り騒ぎでお祝いをしていたそうです。
それでも、揚子江で輸送に従事していた「徳宝丸」という機帆船の甲板長・中河原今朝次郎さんが、九江付近で迫撃砲弾に当たって戦死された、という証言もありまして。
危険が無かったワケではありません。
以下、宮崎県日向市の「幸脇」という在所から徴用を受けた、「河山丸」という機帆船に乗っていた方の手記を中心にお話を進めていきたいと存じます。
幸脇には同じ日向市の美々津とともに、100トン前後の機帆船が沢山あったそうです。
昭和19年になると、この全ての機帆船と船員さんが徴用を受け、一隻も帰ってこなかったといいます。
船員さんの中には高等小学校を出たばかりの14歳の少年から、63歳の高齢者まで含まれていたそうです。
当時の「何でも徴用」体制下でも、60歳以上の人は(申告が必要でしたが)徴用免除の筈。
「お国のため…」とフネとともに戦場に出られたのでしょうね(涙)。
このたくさんの機帆船はほとんどのフネが「自主運航」だったそうです。
たとえば、昭和5年に建造された「第2金毘羅丸」は85総トンの焼玉2機筒60馬力の木造機付帆船でした。
船主は水沼勝太郎氏、 船長が水沼勝巳さんですから、親子でしょうか?
5名の乗組員で運航していたと言います。
お仕事は、細島港(宮崎県)の回漕問屋「伊藤忠治商店」が集荷した木材・木炭や農産物等を積載して大阪まで行きます。
帰りは大阪の「丹羽清吉商店」の雑貨を満載して細島に帰ってくる、いわゆる「上方通い」でありました。
機帆船は戦前の国内輸送の主力(の一つ)だった、と書きましたのは、こういうことなんです。
と言っても、細島港から大阪(の何処か?までは判明しません)まで45~46時間の航海を月2回か3回だったそうですから、ワリとのんびりした、古き良き海運業者の感がありますね。
水沼勝太郎さんは、ほかにも九州木材の杜長藤本弥一さん・細島の繁栄丸の船主今泉仲音さんとの「共有船」として、「金栄丸」という優秀機帆船を持っておられたそうです。
「金栄丸」は、120総トンで3機筒の120馬力焼玉エンジンを搭載していました。
俗に云う「トン馬力の船」、昔のクルマの言い方だとパワー・ウエイトレシオに秀でていたんだな(笑)
しかし優秀だと言ったところで、たかが機帆船。
たかが焼玉エンジンですから細島~大阪の45時間が37時間で走破できる程度なんですが、幸脇のあたりでは大スターだったんでしょう。
その外観は白塗りで、操舵室や船員室の入口は格好の良い木製でニス塗りのドアが付いていたんですと。
「金栄丸」は、支那事変の勃発と同時に陸軍に徴用され、揚子江で軍の物資輸送にあたりました。
1年程で徴用解除となり、元の細島~大阪の航路に復帰したのですが、細島港入り口で座礁・大破。
船主は種々協議を重ねたんだそうですが、結局引揚げてもペイ出来なかったようで、全損破棄として処分されてしまいました。
幸脇・美々津に浮かぶ十数隻の機帆船の中でもひときわ優雅な姿の「金栄丸」は美人薄命に終わったのでした。
船舶運営会
まだ大東亜戦争が始まる前の昭和16年の初め頃から、幸脇の機帆船にも統制の網がかかります。
現在の(特におパヨの)感覚だと、
「なんで国のために個人事業主が統制受けなきゃいけねえんだよ。」
ってな事になりそうですが、当時の国民は「国あってこその、豊かな生活」が良く解ってたんでしょうね。
大戦争が始まって半年たった17年の中頃には、水沼勝太郎さんみたいな「個人船主」には燃料油の配給もなくなってしまいました。
この話の主人公の「河山丸」も燃料がありません。
仕方ないので、「日産近海汽船」という海運会社に定期傭船。
更に昭和18年の6月には、機帆船も国家の一元管理対象となりました。
つまり「河山丸」は船舶運営会の所属船となったのです。ただし、 運航実務管理は元の日産近海汽船のままで、主として糞半島と内地間の輸送に従事、 細島にもめったに帰らなくなっていきます。
そして昭和19年4月初め頃でありました。
大阪までの輸送後、船舶運営会から
『弁天浜に艫着けにして待機し別命を待て』
との指示が出て、弁天浜に行ってみると、100トン前後の標準的な機帆船が「艫着けの3段」ほどでひしめいています。
その数ざっと3~40隻。
艫(とも)着け、と言いますのは船尾を接岸させますので「急速出港」向きの、ちょっと特殊な舫い方であります。
が、この場合はたくさんのフネを集中させる為でしょうね。
そうして仲間の機帆船の集合を待つこと2~3日。
陸軍の下士官が二人、突然「河山丸」に乗船してきたのです。
「本船を陸軍暁部隊に徴用するために検船する。」
とのことで、下士官たちはザクっと「河山丸」を点検。そのあと船員を集めると「何か具合の悪い所があるか?」
船長さんは
「マスト上部が腐食しているので、荷役が出来ない。マストを取り替えないと…」
機関長さんは
「焼玉機関が古いので、南方の暖かい海水では冷却不足で亀裂が入っちゃいまっせ」
お二人は決して徴用が嫌でこんなことを言ったワケではないと思われます。
「南方へ行って、お役に立てなかったら?」
という心配から、正直に問題点を申告したのでしょう。
しかし下士官の返答は、
「今までこの状態で運航して来たのであるから問題なし」
うーん、下士官さんたちは出来るだけ多くの機帆船を南方に送り込むのがお仕事だろうから、こうなるわな。
短絡的に「軍の横暴」だとか「なんでも徴用」だとか言いきれる問題ではないと思うぞ。
けっきょく、この30分ほどの質疑応答だけで船と乗員ともともども徴用船検にめでたく合格。
下士官は「明日朝8時に、船長以下全員暁部隊に出頭せよ」と言い渡してお帰り。
船長は必要書類を持ち、「河山丸」の船員全員(って言っても5人だけど)うち揃って暁部隊に出頭。
「河山丸」は陸軍徴用船として、船員さんたちは徴用船員としての手続き。
南方へ行く
事務手続きを進めていると、担当の女性が
「機関長の三谷輝男さん!貴方は徴兵検査に合格していらっしゃいますので、 徴兵の方が優先されます。」
徴用船の乗員は基本的に「そのまま徴用」の筈なんですが…。
小なりとは言えフネの「機関長」になってるなら、ソコソコの年齢でしょうしね。
*上のイラストのキャプションが全く間違っておりました。謹んでお詫び申し上げるとともに、貴重なご指摘をいただいたY.N氏に、深く感謝申し上げます。
ご指摘内容は次の通りです
「これは陸軍マークではなくて「戦車第七連隊 第一中隊」の“中隊マーク”です。
陸軍マーク(”星章” これは五芒星とは異なる)は通常、車体の前面に付けられています。」(令和3年3月19日追記)
「河山丸」を徴用したのが海軍だったら、おそらくそのまま知らん顔で使ってたんでしょうけれど、同じ陸軍ではそうもいきません。
担当の下士官は船長に
「機関長を適任者と交替させるように」
と命じるんですが。
精緻を極める海軍艦艇の機関科だってさ、機関長は思いっきり「偉い人」だからコロコロ転勤するけど、実際に罐を焚いて機械(タービン)回すのは「ほぼそのフネ固有」の掌機関長さんだからな。
そんなに簡単に、古い簡易機関を積んだフネの「機関長適任者」が見つかるもんじゃないよ。
掌機関長はじめ、海軍各科の「掌長」ってのは身分は基本的に下士官(特務士官)だけど、自分の職務の「実務」のエキスパートで、ほとんどの場合は転勤ナシ。
実際に海軍艦艇を動かして、大砲撃って魚雷を発射してたのはこういう人たちなんだ。
まあ、ココはいいや。陸軍の徴用担当下士官にソコが理解できなくても致し方ありませんわね。
コレで「徴用手続き」はおしまい。
徴用を受ける人は、軍服と特配のお米・陸軍マーク入りの巻き煙草「ほまれ」・金平糖(この時期スイーツは貴重だったと思うぞ)を貰って「河山丸」に帰ったのでありました。
この記事、「河山丸」が撃沈されるまで続きます。