お町は日本の女でございます~亡国の満洲に咲いたなでしこたち~

戦争は始める前に「勝ち方」と「負け方」を考えておくべきであります。
それをやっておかないと、「守るべき対象」の国民が国のケツを拭かねばなりません。

敗戦後の満洲で

大日本帝国の敗戦は帝国の中央でも周縁部でも、様々な悲劇を引き起こしました。

第一線の部隊は国民の被害を最小限に止めるため、能力以上の奮戦を繰り広げましたが、政府・軍中枢の無能無策をカバーしきれませんでした。

 

敗戦後の混乱する満洲をとぼとぼと歩き続けた三上中尉以下108名の傷病兵は、やっとのことで鴨緑江のほとりの安東の町までやってきました。

昭和2年頃の奉天市街

昭和2年頃の奉天市街

 

三上中尉たちは、入院していた「奉天陸軍病院五龍背分院」を支那共産党の八路軍に接収され、情け容赦なく追い出されてしまったのでした。関東軍からの援助も指示もあろうはずもありません。

日本に帰りたい、帰れないのなら、少しでも故国に近いところで死にたい、との思いだけで飲まず喰わずの放浪をここまで続けて来たのでした。

途中で沢山の日本人が逃げて行くのに出会いましたが、全ての人が同情してくれた訳でも助けてくれた訳でもありません。

日本人はみんな自分だけが生き延びるのに必死の時、そして場所だったのですから。

安東市全景

安東市全景

 

朝鮮との国境で

辿りついた安東市は朝鮮との国境の町であった故でしょうか、いままで行きすぎて来た土地よりは落ち着いていました。そして、日本への脱出を待つ市民たちが、くちぐちに三上中尉へ「安寧飯店へ行け」と勧めたのです。
「きっと助けてくれるから」と。

安寧飯店は日本人出入り禁止の高級キャバレーでした。経営者は女給あがりの「お町さん」という女性だそうです。

この町はソ連軍に占領されていましたので、お町さんは上手くソ連軍の上層部に取り入っていたのでしょう。

三上中尉は覚悟を決めていました。

部隊は様々でしたが、自分について来てくれた108名の兵隊たち。傷つき、病に倒れて国を護る任務は果たせませんでしたが、国を再び興す戦いには加わる事が出来るのです。

卑しい女給であっても、ソ連軍にカラダを売って取り入る女たちの元締めであろうとも、いま助けてくれるなら頭も下げよう、土下座でもしよう…なんとしても日本に帰るのだ、と。

しかし、三上中尉に降りかかってきたのは意外な言葉でした。

「お町は日本の女でございます。」

お町さんは安東市の料亭で仲居頭をしていた女性でした。

敗戦にあたって、街の有力者たちは市内の女性がソ連・中共の常識も軍律も無い兵隊どもに乱暴される事を恐れました。

そこで姉御肌と評判のお町さんに、言わば「性の防波堤」ともいうべき「部隊」を組織するように頼み込んだのです。

お町さんは随分悩んだに違いありません。
しかし、同じ日本女性のために、自分と仲間の女性が犠牲になる事を決断するのです。

お町さんは志願者を募り、「安寧飯店」を借り受けて拠点とし、進駐してきたソ連軍に売り込みをかけたのです。

ソ連軍としても、この話は渡りに船だったようで、短期間で「安寧飯店のお町さん」はソ連軍兵士御用達になって行ったのです。

客はソ連兵が圧倒的に多く、ソ連軍の司令官からも篤く信頼され、電話一本でソ連の憲兵を呼びつける事も出来る様になったそうです。

その売上は莫大で利益も大きなモノでしたが、自分たちの生活を支える以外は全て避難民や引き揚げの軍人を援護する事に使っていたそうです。

身を外国の兵士に売って得た利益を提供するだけにとどまらず、大日本帝国の軍人に与える包帯を作るため、街頭に出て布切れの寄付を集めていたこともあったようです。

「安寧飯店」を訪ねて援助を乞う三上中尉は、予想もしなかった言葉を聞くことになりました。

お町さん

お町さん

 

「お町は日本の女でございます。お町の眼が黒いうちは、日本の兵隊さんを餓えさせるものではございません。」

お町さんは仲間の女性たちとともに、やむなくソ連兵に身体を売りましたが、心は決して売ったりしていなかったのです。

言葉通り、三上中尉一行はお町さんからの援助で無事に故国への道をたどる事が出来ました。

暗転

安東市の市民たちの引き揚げもおおかた目処がついた頃、ソ連軍が支那共産党に後を託して引き揚げてしまいました。

贔屓筋だったソ連軍が消えると、安寧飯店の繁栄は暗転してしまいました。
お町さんは国民党のスパイと言う無実の罪で鴨緑江の河原で銃殺されてしまったのです。

娘さんに残した財産は「商売道具」の着物だけだったと言われています。仲間の女性たちの消息も不明です。
敗戦時のほんの僅かな混乱期、少しの時間に大きな犠牲を出した満・朝国境の地。

お町さんの碑

お町さんの碑

 

安東の町を経由して無事に日本へ逃れた人たちも沢山いたのですが、だれもお町さん達に助けられた事をしゃべりませんでした。
三上中尉の一行も、長くこのことは外部にはしゃべることは無かったのです。しかしこの部隊は受けた恩を忘れたわけではありませんでした。

報恩の気持ちに、彼らの経済力が追いついたのはようやく昭和55年。

三河湾を望む名勝・三ヶ根山に、お町さんを讃える碑が、彼らによって建立されたのです。

お町さんの碑

以下、碑文を引きます。

『お町さんは佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、後、旧満洲国安東市に渡って湯池子温泉の女中頭となりこの地に終戦を迎えた。

昭和二十年八月十五日、敗戦国民と化した在満日本人は
家を奪われ財を失い、
悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。奥地より陸続伝え来る無惨な同朋の悲報。
然し此処にして誰に何ができるだろうか。若し出来得るとするならば
機智縦横度胸あり、身を捨てて同朋の愛に死んでくれる、そんな女人でなければならない。
国境、北辺より避難南下の人々を抱えてふくれ上がった安東幾千万の日本人の命運を背負っての責は、余りにも重く、酬いられる保証は全くない。

この時お町さんは人々に請われて「挺身娘子隊」を編成しその総監となりソ連軍駐し来るや慰安慰撫に奮闘司令官の信頼を一身にして日本人の被護活動に挺身した。

奉天陸軍病院五龍背分院の重度傷病兵、三上勝弘中尉以下一〇八名が
八路軍の分院接取により退去を余儀なくされ

「止まるも死進むも死、ならば一歩でも日本に近付いて死ぬべし」

と道を求めて彷徨終に得られず半死半生安東へ辿りついた彼等を迎え

お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は滅多に
餓死させるものではありません。お町は唐人お吉ではございません。お町には国府も八路もございません。日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろうことは覚悟の上でございます。」

お町さんの活躍は満洲電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録「望郷」の随処にかかれているが、彼女が心身困ばく、絶望のどん底にあった三上中尉以下に生きる気力と体力故国帰還の夢と希望を与えた事には全くふれられていない。

あれから三十余年、いよいよかなしくあはれにお言葉が忘れられず、ソ連軍撤退して八路軍により鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんへの、死をかけた平和への祈りと冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。

昭和五十五年九月』

碑文引用以上

国に力が無ければ

お町さんに見るように、祖国に他国と対抗できる軍事力が無ければ、国民は虐げられるだけです。
どれだけ民間人が努力しても、その悲劇を完全に回避することは不可能なのです。

お町さん福井県金津町吉崎にある顕彰碑

福井県金津町吉崎にあるお町さんの顕彰碑

 

ただ、相手によってその程度は大きく違ってきます。

お町さんの場合でも、ソ連軍相手ならまだ「話せば判る」部分がありましたが、支那凶産党相手には話す間も無く銃殺。
「話せば判る」ソ連軍だって、満洲の大部分や北方領土では暴虐の限りを尽くしていますけど。

盟邦ドイツの市民たちは、祖国の敗戦の時にソ連軍占領地域に取り残されるのを恐れて西へ西へと逃げたモノです。

つまりはソ連だってかなりの「ワル」なのですが、それ以上に悪逆非道なのが支那共産党軍、と言うことになります。

三上中尉の一行は無事に朝鮮半島を通過できましたが、この糞の塊のような半島で、糞から出来たような者どもに凌辱された日本婦人も少なくは無いのです。

半島では、共産主義も軍隊も関係なく普通の国民が日本婦人を襲いました。

私たちはこの事を良く覚えておかねばなりません。

支那共産党軍が我が国への侵略を狙って尖閣の領海を犯すことが日常になっている今こそ、大東亜戦争の「敗戦」(終戦などと誤魔化してはなりません)の時の悲劇を思い返し、根本的な原因は軍備とそれを支える国力の不足にあったことを、心に刻まなければならないと思うのであります。

私は、誤解を恐れずに言えば「戦争が大好き」です。

それは、人々の持つ価値観におおきな違いがあって、国家として一塊になった「人々」の間でもその価値観には違いが顕著でありますので、「お話合い」で国同士の摩擦が解消するワケが無い、と考えているからです。

である以上、私たちの国日本もいつかは戦争をしなければなりませんし、戦争をする以上は勝たなければなりません。

「好きこそものの上手なれ」というでしょ?

戦争を上手にやって勝ち抜くためには、戦争を好きになることが早道であります。

ただ、戦争では多くの民間人が犠牲にったことは、常に思い返すべきです。

もちろんご英霊たちに感謝を捧げることも大切ですが、ごく普通の国民が「適切な戦略を立て損なった」とか「軍備が足らなかった」ことの犠牲になった事をも、私たちは思わなければいけません。

お町さんとそのお仲間たちは紛れもなく「日本の女」です。

いま、これほど勇敢に国民とその軍隊を助けてくれた「女性」たちが語られることなどほとんどありません。
それは彼女たちが身体を売っていた事を恥じて、誰も名乗り出なかったからでしょうか?

電脳大本営もある種の躊躇いをもってこの記事を書きました。お町さんは「源氏名」であって、もちろんご本名も判っています。
しかし私はあえて書きたくありません。
この記事をお読みくださったどなた様も、探して下さらぬようにお願いしたいと思います。

翻って、我が国の近隣にあって我が国を「戦犯国」だのと罵る国があります。戦ってもいないくせに。国すらなかったくせに。

その国の「慰安婦」とやらをご覧いただきたい。
自ら「売春婦だった」と名乗り出ているではありませんか。それも小学生でも判る嘘を並べ立てて。

大日本帝国軍向けに商売を始めたのが3歳だとか5歳だとか(笑)、帝国陸軍軍人が軍服のジッパー下して珍宝掴みだしたとか(当時の軍服の珍宝出入れ処はボタン留めであります)。

これほど国民の「価値観」に差があっては(ドチラが良いとか悪いとか、上か下か、などは申しておりませぬ)、ぜったいに相互理解などは望めません。

そんな事も、お町さんは教えてくれている、と私は信じています。

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