佐久間艇長の真実1~事故~
1905年5月15日、旅順港を閉鎖中の我が戦艦「富士」と「八島」があいついで触雷・沈没。
連合艦隊は主力戦艦6隻のうち2隻を一日にして失う惨事にみまわれる事となりました。
新兵器・潜水艦
聨合艦隊司令長官・東郷平八郎はこの事態にも慌てず騒がず部下をまとめ、名指揮官たるの片鱗を魅せますが、戦力不足は否めません。
コレを契機に、帝国海軍は当時世界でも注目を集めつつあった新兵器「潜水艇」の導入を決めたのであります。
このときに導入した5隻の「ホランド型潜水艇」は日露戦争には間に合いませんでしたが、開発と実用化は続行されます。
ご存じのように、「第六潜水艇」は1910年4月15日の午前10時ごろから訓練を開始。
10時45分ごろ潜水したものの、浮上せず乗員全員が殉職。
この頃の潜水艇としては異例中の異例の「単独訓練中」の事故でした。
引揚げ後の調査から佐久間艇長以下乗員の沈着な行動が明らかとなり、全世界の感動を呼ぶことになります。
事故の真相をきちんと公表しなかった大日本帝国海軍は、潜水艦の発達(の方向)を歪めてしまったのではないか?というお話になる予定でありますので、是非ご批判を願います。
排水量 :76トン(水中95トン)、全長 26.47m、全幅2.48m、吃水 2.27m
機関 :ガソリン機関1基1軸・水上250馬力、水中:32馬力、速力 水上:8.5kt、水中:4.0kt
乗員 16名、兵装 45cm魚雷発射管 艦首1門(魚雷1本)、安全潜航深度:30.5m
ダメ潜水艇だった?
明治43(1910)年当時の潜水艇は、兵器としては実験段階であり、とくに航洋性能に問題がありました。
対米戦に向けて整備された後の「潜水艦隊」が、航続力や居住性・搭載不器量の不足を潜水母艦で補おうとしていたのとは、やや趣が異なる所です。
これは何故なんでしょうか?
謎は簡単に解けるのですが、ここに大日本帝国海軍の抱える負の体質が内在しています。
ココに気づく人は少ないのが現状です。
いや、日本人の”軍事オンチ”がここにでているのかも知れません。
失礼しました、先走ってしまいました。
第一潜水艇隊と第二潜水艇隊は平岡大佐に率いられて訓練に出るんですが、第六潜水艇だけは残留を命じられてしまいます。
その理由は「ついてこれないから」でした。
「第六潜水艇」の事故後の調査から、そのときの命令が判ります。
第六潜水艇ノ行動計画
四月十一日小官(吉川第一潜水艇隊司令)自ラ第一潜水艇隊(六号艇欠)ヲ率イ母艦豊橋艦長ノ指揮下ニ瀬戸内海西部巡航ノ途ニ上ルニ當リ第六潜水艇ハ耐波力小ニシテ之レヲ律フノ不便ナルヲ思ヒ、母艇歴山丸ヲ附シ同艇長佐久間大尉ヲシテ左(ここでは下)ノ訓令ニ従ヒ単独行動ヲ採リ訓練作業ヲ実施セシメタリ佐久間第六潜水艇長ニ訓令
一、貴官ハ第六潜水艇及母艇歴山丸ヲ率ヒ別紙作業豫定表ニ従ヒ宮島、新湊海面ニ於テ諸訓練施行スベシ
二、出動中ハ天候ノ変異ニ注意シ其状況ニ依リテハ新湊碇泊ヲ避クルヲ要ス
三、碇泊地ノ健康状態ニ特ニ留意スベシ
四、正規ノ発着電報ノ外特ニ本職ノ所在地ニ発信スルニ及ハズ但シ異変ヲ生シタル場合ニハ本職並ニ在韓崎(「豊橋」と同じ潜水艇隊母艦)ノ先任艇長ニ発電スベシ
五、本職ノ所在地ハ別紙巡航豫定表ノ通リ
明治四十三年四月十日吉川第一潜水艇隊司令
これは明治43(1910)年4月24日付の第一潜水艇隊司令(吉川安平中佐)から呉鎮守府司令長官(加藤友三郎中将)あての遭難報告書にある文章です。
バラした状態で輸入し、1905 (明治38)年10月に組み立てを完了。
続いて基本設計はホランド型のまま、 細部の設計を日本人の手でおこなった2隻が第六・第七潜水艇として、川崎造船所の神戸工場で1906(明治39)年4月に完成しました。
通常のフネの57トンではありません。
まだ誰も見たことのない「海中に潜るフネ」を手探りで建造したのです。
通常の航海でさえ心許ない状態だったのも当然でしょう。
こんな理由から長期間にわたる訓練行動に居残りを命じられたわけですね。
代わりに母艇・歴山丸を伴っての短期間の単独訓練行動が指示されたわけです。
しかも、です。この佐久間艇長に対する「訓令」の二から四をご覧頂くと、小学生にでも言って聞かせてるように思えませんか?
この点も後ほど触れてまいるつもりです。
『抑モ此六潜水艇ガ歴山丸ニ護衛サレテ新湊沖ニ行動スルト云フコトハ、元来自分ノ意志ニハナイコトデアリマス故ニ自分ハ出動サセヌ積リデアリマシタガ、第一、第二潜水艇隊ガ別府徳山ニ出動スルト其後デ第六潜水艇ガ全ク用無シニナルヲ以テ、頻リニ新湊沖ニテ夜間航行ヲ許可サレタシト願ヒ出デタリシモ其不可ナルヲ説キテ拒ミタリ。
(中略)丁度十一日ヨリ十四日迄第一潜水艇隊ハ六隻、第二ハ二隻出テ行クコトニナリ呉ニアルノハ六潜水艇一隻ノミニテ、艇長ノ考ニテハ自分一隻ノミ残サレテ甚タ不愉快ニ堪ヘス新湊行ヲ願ヒ、吉川司令ヲ介シテ自分ニ新湊行ヲ願ヒ出テタルヲ以テ、 其時自分ハ吉川司令ニ君ハドー思フカ知ランガ(中略)良ク考ヘラレタシト申置ケリ
然ルニ司令ヨリ尚再三願出タルヲ以テ、充分注意ニ注意ヲ加ヘテ出動スルコトヲ初メテ許可セリ此許可コソ即チ私ノ意志薄弱ナル点ニシテ何処迄モ最初ヨリノ所信通リ許可セサリシナラ今回ノ事件ハ免カレタリシナラン』
佐久間艇長は直属上長の吉川中佐だけでなく、直接平岡大佐にもしつこく単独訓練を願っていたようです。
あんまり煩いから、つい許可しちゃいました、私の意志が弱かったことを反省してます、という事です。
当時の潜水艇としては異例の単独訓練は、このような背景で実施されたわけです。
事故の発生
事故調査報告書である「査定書」や佐久間艇長の遺書その他を参考に、第六潜水艇の事故を追ってみます。
第六潜水艇は明治43(1910)年4月15日の午前9時38分に山口県岩国新湊沖で母船歴山丸を離れ、10時10分から潜航作業(訓練) を開始しました。
浮力が大き過ぎて思うように潜航できないので、順次浮力を減少、10時45分に潜航出来ました。
この直後でした。
乗員は慌てて急速閉鎖用バルブを閉鎖しようとしたのですが、このバルブのチェーンが外れてしまいます。
急遽手動での閉鎖に切り替えたのですが、予備浮力を上回る海水が流入してしまいました。
因みに佐久間艇長の遺書では、「チェーンが切断した」と記述されているのですが、切断ではなく、脱落だったことが後に確認されています。
沈しただけなら、潜水艦だけにまだ希望はありました。
船体が破損したわけではないのですから。
被害はさらに
動力を喪失したため、乗員たちは手動ポンプでの排水を試みたのですが、艇内は暗黒状態で作業は進捗しません。
さらに浮力を回復するため、空気圧でガソリンを排出したのですが、パイプが破損して艇内にガソリンが揮発して充満。
有毒ガス・ガソリン・高過ぎる気圧。
狭く暗黒の艇内で、3重に苦しめられながらも、大日本帝国のサブマリナーは佐久間艇長の統率のもと、終始冷静かつ献身的に行動しました。
酸素が無くなったのではなく、有毒ガスの発生や逆流が艇員の生命に決定的なダメージを与えてしまいました。
ここまで事故を見て如何ですか
如何でしょう?
なんとなく「第六潜水艇乗員と佐久間艇長ってすごい!」というイメージを抱いておられた方も居られると思います。
しかし、もうお判りのように事故原因は佐久間艇長も含めて、「乗組員のミス」なのです。
しかも緊急操作が出来なかったことは
「暗闇になってしまったから」
などと言う言い訳で許されるモノではないのです。
潜水艇だって軍艦なんですから、当然「闇の中で戦闘」は想定内のはず。
佐久間艇長はその訓練を十分なレベルでやっていないことが判ります。
以下に佐久間艇長の同僚による事故調査報告を引用致します。
一、浮力ヲ得ル為「ガソリンタンク」空気排水ノ際同「空気管」ノ一部ニ損所アリテ 空気送入ト共ニ瓦素林ノ一部ハ之レヨリ艇内ニ漏洩シ次第ニ揮發シテ瓦斯体トナリ 艇内ニ充満シ
二、又喞筒(注:ポンプ)使用ニ際シ「メインタンク」喞筒吸水弁ハ機室前部汚水吸水弁ト同時ニ開放サレシ為メ「メインタンク」排水用ニ供セシ圧搾空気ハ(尚ホ「メインタンク」送気弁開放ノ侭ナリシヲ以テ)前部空気缶内ノ空気ト共ニ「メインタンク」ヨリ艇内ニ噴出漏洩シ
註、「メインタンク」喞筒吸水弁及機室汚水吸水弁ハ次ノ略図ノ如ク同一汚水管ニ連ナルヲ以テ此ノ二弁ヲ同時ニ開放スレバ「メインタンク」内部ハ汚水管ヲ通シテ艇内ト通ズ(注:略図省略)
右(一)(二)ノ原因ハ大ニ艇員ノ疲労昏睡ノ度ヲ速メ排水能力ノ低減ト相俟テ排水功ヲ奏シ浮力ヲ恢復スルニ至ラズシテ早々艇員ヲ斃シ遂ニ沈没ノ儘浮上ノ途ヲ失フニ至リシモノト断定ス
また、査定書にもメインタンク関連弁類の事後調査結果に対するコメントとして
「引揚後ノ調査ニ依レハ各部ノ處理中多少盡ササル点ナキニ非ラサル如キモ當時惨憺タル艇内ノ状況ニ照シ之ヲ艇長其他乗員ノ責ニ帰スル事ヲ得サルモノト認ム」
とあります。
困難な状況を認めてはいるものの、艇員の誤操作を指摘しているのです。
この「沈没ノ原因」は、第九潜水艇・太田原達少佐と第八潜水艇・中城虎意大尉の潜水艇長2名、即ち佐久間艇長の同僚の手になる報告書なのです。
よくよく考えて見ましょう
海軍は世界と世間の反応をみて、この
「佐久間艇長の所為じゃん。」
という事実を隠してしまいました。
佐久間艇長とその部下達を「理想のサブマリナー」へ祭り上げ、より困難な「真実と向き合い、戦訓を次に活かす。」道を避けてしまったのです。
電脳大本営は佐久間艇長を貶めて、嬉しいわけではありません。
第六潜水艇の乗員たちは、ミスを重ねたとは言え、超人的な精神力で艇内秩序を保ち、生還への努力を重ねています。
その乗員を統率していたのは、まだ若く人間が出来上がっているとは言えない年齢の若い士官です。
死を免れる見込みの無い中、冷静沈着に乗員を行動させた佐久間艇長の力量こそ、下級指揮官として最も望まれ、かつその存在が難しいモノでしょう。
この点「だけ」で十分に勲章モノと言えるのではないでしょうか。
真に軍事を考えている人なら、この点だけで佐久間艇長を十分に評価すべきだとご理解いただけるでしょう。
サブマリナーも、兵士達も人間ですから、聖人君子ではおられません。
「人間的に欠点は山ほどあるけれど、敵を効率よく殺すことは上手」
で良いではありませんか、国を護るためなら。
これは現在の日本軍(自衛隊と仮称中)と私たち国民の間にも言えることです。
日本軍に犠牲を出さず、超汚染や支那の軍隊を倒してくれるなら、それは「正義」であり「功績」です。
出撃前に酔っ払ってたっていいじゃないですか。
どっちも公表すればよろしい。
軍功は軍功、ダメな点はダメでどっちもちゃんと評価することこそ、英雄に対して私たち凡人が捧げられる敬意だと思います。
ところが、海軍はこの悲劇的な事件を海軍への支持集めに利用すべく、例によって臭い物に蓋をしてしまったのです。
今回はあまり画像もなく、文章も判り難くて申しわけありません。
しかし、佐久間艇長はこの程度の「ワル」ではおさまりが付かぬヒーローだったのです。
まるで、帝国海軍の未来を見透かし、悲劇を避けるための有効な提案をするかのような…
付録:佐久間艇長の遺書(艇内から発見されたモノ)
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス
誠ニ申訳無シ
サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ、以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ
希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ
サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ
沈没原因
瓦素林潜航ノ際、過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ、途中「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ
沈拒後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ。十四日午前十時頃沈没ス
此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ
燈消エ、ゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水終レルモノト認ム
電流ハ全ク使用スル能ハズ。電液ハ溢ルモ、少々。海水ハ入ラズ
「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅位ナリ
唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ
「ツリム」ハ安全ノ為メ、ヨビ浮量六00(モーターノトキハ二00位)トセリ
(右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)
溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ
余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ
世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン、サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ、排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ。此ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス。カカルトキニ困ル故。
幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ、満足ニ思フ。
我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス。サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)公遺言
謹ンデ陛下ニ白ス。我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ。我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ。左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中將 一、藤井中將 一、名和中將 一、山下少將 一、成田少將 一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ) 一、小栗大佐 一、井手大佐 一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(龍) 一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ) 一、船越大佐 一、成田綱太郎先生 一、生田小金次先生 一、中野大佐十二時三十分呼吸非常ニクルシイ瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ、ガソリンニヨウタ
十二時四十分ナリ。