第四一師団第二三九連隊第二大隊の粘りと降伏
昭和14年6月30日、日支事変の拡大を受けて「歩兵第四一師団」が新設されました。歩兵3個連隊編成のいわゆる警備師団で、この年の10月から第一軍の指揮下で山西省の警備や治安作戦に参加しています。
ニューギニアへ
昭和17年11月、支那戦線にあった多くの警備師団(第三二~四一師団)は、連合軍の反攻を迎え撃つために南方戦線へ投入されることになりました。
第四一師団は昭和18年2月(先発の二三九連隊のみ)と5月に東部ニューギニアのウェワクに進出したのです。師団の所属は第八方面軍・第一八軍(安達二十三中将)で、主力は第二十師団・第五一師団。
ところが、この時点で第五一師団はラエ・サラモアでオーストラリア軍と激戦中。間もなくサラワケット山脈を越える苦難の撤退を敢行しようという時期でありました。
第五一師団の下士官(官・姓名不詳)が作詞した歌が伝えられています(涙)。
「サラワケット越え」
一、
任務(つとめ)はすでに果たせども
再び降る大命に
サラワケットを越えゆけば
ラエ、サラモアは雲低し
二、
底なき谷を這いすべり
道なき峰をよじ登り
今日も続くぞ明日もまた
峰の頂程遠し
三、
傷める戦友(とも)の手をとりて
頼む命のつたかずら
しばしたじろぐ岩角に
名もなき花の乱れ咲く
四、
すでに乏しきわが糧(かて)に
木の芽草の根補いつ
友にすすむる一夜さは
サラワケットの月寒し
五、
遥けき御空(みそら)宮城を
伏し拝みつつ勇士等が
誓えることの真心に
応うるがごと山崩る
もう一方の第二十師団も、フィンシュハーフェンに於ける攻防戦で連合軍に叩き潰され、補給もなく大きな損害を被っていたのでありました。
第一八軍、ほぼ消滅へ
こうして、増援に送られた第四一師団はなんと第一八軍の残存兵力中の主たる部隊となってしまいました。
もともと警備師団ですから、第五一師団や第二十師団ほどの戦闘力は、当然ながらありません。
さいわい?昭和19年4月に連合軍は、ウェワクの西約350Kmのホーランジアに上陸。
ホーランジアとウェワクの中間のアイタペ(ウェワクの西約200Km)にも上陸して西へと向かいました。
第一八軍は連合軍の後方に置き捨てにされ、戦略的な存在価値を無くしてしまったのです。「遊兵化」というヤツですね。
それでも(連合軍に相手にされなくても)第一八軍は、生き延びられるかどうかの瀬戸際にありました。
第一八軍の居たウェワクには、元々現地の人15000人ほどが暮らしていたのですが、50000人を超える大日本帝国の陸軍将兵が増えていました。
人口が激増した上に本国からの補給が途絶え、備蓄の食糧も不足がちとなってしまったのです。
第一八軍司令官の安達中将は飢えて自滅するよりは、とアイタペを攻撃して連合軍のさらに西への進撃を妨害する作戦を計画しました。
しかし、大本営はこれに反対して
「東部ニューギニア方面の要域に於いて持久を策し、以って全般の作戦遂行を容易ならしむべし」
と命じて、積極行動の停止を求めたのでありました。
補給がマトモに機能していれば、大本営の判断はもっともでしょう。せめて糧食だけでも届けば、海軍で言う「フリート・ビーイング」戦略が機能したはずです。
ところが、補給は全く途絶え、備蓄食料は定量の1/4支給でも2ヶ月も持たないと判断されていました。
読者諸兄姉、ちょっとご想像願いたいと存じます。毎日の御食事を1/4量にして日ごろのトレーニングはそのまま続けたら何日持つか?
健康に害があろうかと思いますので、実験はなさらぬように願います。コレが安達中将以下第一八軍将兵の将兵が置かれた状況であります。
第一八軍は3個師団を主力としていたのですが、前述のように実戦力は大きく損耗していて、作戦は当初から成功困難とされていました。
ある程度の戦闘能力を保持しているのは第四一師団の一部だけ。他の師団の兵士たちは骨と皮が辛うじて動いているような栄養失調患者で、加えてマラリアや赤痢の既往症者が多数いたのです。
この絶望的な状況で第一八軍が少しでも帝国の戦局に貢献するためには、食料が枯渇する前に敢えてアイタペ攻撃を実行するしか残された道はありませんでした。
安達中将は大本営の反対にもめげず、自らの指揮下の兵士たちを戦局に活かす道を選択しました。
連合軍、通信を傍受して待ち構える
一方、攻撃される側の連合軍(アメリカ第6軍司令官のウォルター・クルーガー中将指揮)は、第二十師団から暗号書や乱数表を鹵獲していました。
そのためにアメリカ軍は、日本側のアイタペに対する攻撃計画を事前に察知していたのです。
第一八軍は、ドリニュモール川畔での主戦闘を予定して昭和19年6月に進撃を開始しました。
参加兵力35000名のうち20000名が安達中将に直卒され、15000名は物資輸送に専念する輸送重視の進撃です。
前進に当たっては自動車道路を構築し、大発をはじめとする各種舟艇による海上輸送も計画しています。
しかし、自動車輸送は雨期のために使用できず、海上輸送も航空機や魚雷艇の妨害にあってしまいます。
この結果、前線への物資輸送は全く進捗しませんでした。
連合国軍は、オーストラリア海軍の重巡と軽巡2隻を投入して6月14日から24日にかけて日本軍の兵站線に艦砲射撃を敢行。
日本軍の物資前送や、後続部隊の前進は困難をきわめました。
それでも、日本軍は第二十師団を先頭に前進し、アメリカ軍の前哨拠点を撃破しつつドリニュモール川まで10kmに迫ったのでした。
7月10日、物資集積はなお不十分なままでしたが、日本軍はドリニュモール川の渡河攻撃を開始。
わずかに10分間の準備射撃のあと、第二十師団と第四一師団の歩兵第二三七連隊が前進を開始。
渡河地点を守備していたアメリカ軍は3個大隊だけでしたので、この渡河作戦は成功し、ついでに食糧などを鹵獲出来ました。
歩兵第二三七連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫し、第二十師団は上流側に旋回して川沿いの陣地を包囲。緒戦は順調に進み、第十八軍司令部の安達中将は上手くいくかも?と期待したようです。
しかし、上手い事行ったのはここまででした。
日本軍の攻撃を知った米第6軍は、第32歩兵師団・第31歩兵師団より抽出した第124連隊戦闘団・第43歩兵師団を急遽増援。
アイタペ周辺のアメリカ軍は合計で3個師団弱に増強され、第十八軍の攻勢は頓挫してしまいました。
ここからがこの記事の本題であります。
豪軍は敗残の第十八軍を追い詰める
攻勢を止められた第十八軍は内陸部へ逃げ込み、トリセリー山脈の南側で持久抗戦を続けました。
一方のアメリカ軍は西へ、つまりフィリピンの方へと進撃して、第十八軍を放置、昭和19年秋には東部ニューギニアをオーストラリア軍に任せてしまったのです。
オーストラリア軍は、一度は日本軍に本国まで脅かされたせいでしょうか?東部ニューギニアの完全制圧に異様な執念を燃やしていました。
要衝アイタぺの内陸部で、辛うじて抗戦を続ける第十八軍を徹底的に叩き潰すことにしたのです。
戦争全体で見れば全くやる必要のない戦闘ですが、よほど勝利に飢えていたのでしょうか。
喰うのに精いっぱいの日本軍を「苛める」ことに一生懸命になるのでありました。
逃げ惑う
昭和19年の7月には攻勢挫折で山の中に逃げ込んだ第一八軍。
米軍なら監視兵を置くだけでフィリピン奪還へと動くのでしょうが、それを引き継いだオーストラリア軍は山狩りを断行しました。
部隊はバラバラとなり、恐ろしいほどのペースで減少して行きます。
第四一師団の歩兵第二三九連隊もアイタペの南東内陸のトリセリー山脈の南側(山南地区と呼んでいました)で、追撃してくるオーストラリア軍と交戦を続けていました。
昭和20年3月、竹永正治中佐の率いる第二三九連隊第二大隊約50名は、24日から東方へ後退しつつある連隊主力とは離れて、独断で西方へと移動を始めました(『第四十一師団ニューギニヤ作戦史』の記述)。
第二大隊の小隊長(曹長)だった人の手記によれば、連隊主力の方が連絡なしで移動してしまったため、大隊は見捨てられたと判断した、となっています。
西方への移動はその判断に基づいた延命策だった、と。
4月12日、約45人の竹永隊は地元の人々が暮らすタウ村(民家数軒)に侵入し、食糧を探し始めました。
投げ槍や手榴弾で武装した村人も「防衛」のために日本軍を攻撃して戦闘となってしまいました。「腐っても鯛」でして、第二大隊は村人を追い払うのですが、戦死2名。村人側にも二人の死者が出たようです。
第二大隊は翌朝にはタウ村を後にしたものの、なお付近に野営していました。
村人はこれをオーストラリア軍に通報しました。
竹永隊の存在を知ったオーストラリア陸軍は、4月16日にC・H・マイルズ中尉の率いる1個小隊を掃討に向かわせ、4月24日に第二大隊を発見して銃撃戦となったのです。
第二大隊はここでも2名の戦死者を出したのですが、一旦はマイルズ小隊を振り切ることに成功しました。
降伏
ひとまず追跡を振り切りジャングルに逃げ込んだ竹永中佐は、ついにここで「降伏」を決断します。
秦郁彦等の研究によると、降伏決定は次のような経緯を辿りました。
竹永中佐らの幹部は、オーストラリア軍に降伏することで合意。
兵員がすべて集められて意思確認が行われました。
「降伏は大隊長の命令である」と告げた上で、降伏に賛成の者は挙手するように求められたそうです。半分ほどの兵員は挙手しましたが、残り半数は不同意。
不同意者に対して竹永大隊長は、手榴弾を支給するから直ちに自決するように指示します。
この命令によって、最終的には全員が降伏賛成に変わったといいます。
これに対し「全員の意思確認はされなかった」とする生き残り隊員もおられます。
秦郁彦が論拠とする証言者たちは、秦などからの聞き取り調査を受けたこと自体を否定していると言うのです。
士官と准士官だけの「幹部会」で意思決定がされ、下士官兵には命令伝達されただけだったと言うのです。
私は決定参加者が少なく、力で押さえつけた感のある秦郁彦説を取りたいですが、今となっては検証の仕様がありません。
ともあれ、竹永中佐は兵隊さんが以前から所持していた「勧降ビラ」に、英文で降伏条件などを書き加え、棒に結びつけて残しておきました。
マイルズ小隊の斥候がこのビラを発見していますので、マイルズ中尉は「虐めてる相手が、国際法に則った降伏の意志を持っている」ことを認知した、と思われます。
5月2日、捜索中のマイルズ小隊はついに竹永隊を見つけ、現地の人を立てて接触を図りました。
ニューギニア人と話が出来た第二大隊側からは2名が軍使としてマイルズ小隊を訪れ、翌5月3日にウォムグラー集落で降伏して武装解除されたのです。
このとき記録されている第二大隊の兵力は、竹永中佐以下、士官5人・准士官4人・下士官+兵33人の42名。所持していた武器・弾薬は軽機関銃5丁・小銃17丁・拳銃5丁・弾薬750発。
捕虜になった竹永中佐以下42名は、飛行場までの3日間を整然と行軍し、アイタペまで空輸されたのでした。
日本の他の部隊、特に歩兵第二三九連隊では第二大隊が道に迷って行方不明になったと思っていましたが、オーストラリア軍のプロパガンダビラによって、竹永隊が降伏したことを知ったようです。
安達司令官、嘆く
竹永隊が降伏した後も、第一八軍は東部ニューギニアでの持久戦闘を続けました。歩兵第二三九連隊第二大隊も新たな人員で再編成されています。
竹永隊の降伏を知らされた安達二十三第一八軍司令官は、第四一師団長たちを強く叱責し、また降伏は自分の不徳であるとして涙を流し、天皇陛下へのお詫びを口にしていたとされます。
当時、皆さん良くご存じのように、大日本帝国の海上補給路はほぼ完全に遮断されていました。
第一八軍も第四一師団も、アイタペの戦いで貴重な物資を多く喪失しており、戦力は著しく低下した状態でした。1個師団の兵力は2万人近く(戦時編制)ですが、竹永大隊降伏の頃にはわずか1千人ほど。
竹永大隊だって大隊とは名ばかりで、兵隊さんの数は小隊規模になっています。
しかも本来の歩兵はそのうち半分だけ、海軍兵やアイタペで全ての火砲を失って解隊された山砲兵第41連隊の隊員が混じっていました。
と言いますか、竹永中佐はもともと砲兵で、歩兵第二大隊長の前は第四一連隊山砲兵第三大隊長だったんです。
第一八軍の食糧と医薬品は昭和20年9月末まで、兵器も年末までには弾薬が尽きると見込まれていました。
しかし、これほど絶望的な状況でも、大日本帝国の軍人にとっては敵軍の捕虜になることは甚だしい不名誉な事でした。
法的拘束力のない「戦陣訓」ばかりでなく、陸軍刑法でも「司令官が部下を率いて降伏すること」は犯罪とみなされていました。
陸軍刑法第3章 辱職の罪
第40条 司令官その尽くすべき所を尽くさずして敵に降り又は要塞を敵に委ねたるときは死刑に処す
第41条 司令官野戦の時に在りて隊兵を率い敵に降りたるときはその尽くすべき所を尽くしたる場合といえども6月以下の禁固に処す
第42条 司令官敵前に於いてその尽くすべき所を尽くさずして隊兵を率い逃避したるときは死刑に処す
第43条 司令官軍隊を率い故なく守地もしくは配置の地に就かず又はその地を離れたるときは左の区別に従って処断す
1 敵前なるときは死刑に処す
2 戦時、軍中又は戒厳地境なるときは5年以上の有期禁固に処す
3 その他の場合なるときは3年以下の禁固に処す
(片仮名→ひらがな変換は電脳大本営)
実際、日本軍の部隊が組織的に投降した、という事例はまったく珍しいモノでありました。
ただ、第一八軍の隷下部隊では「竹永降伏」の後に再建された第二大隊の中隊が2個も隊ごと降伏しています。
オーストラリア側の記録だと、8月10日に大尉以下の13名、翌8月11日にも大尉以下17名(この人数が中隊ですよ)が投降したとされているのです。
一方の安達二十三中将は、昭和20年3月18日に部下には「絶対に捕虜になるな」と命じていますが、敗戦の詔勅のあと(第八方面軍の命令に基づいて)連合国に堂々と降伏しました。
安達中将の責任の取り方
安達二十三(はたぞう)中将は降伏後に戦犯として扱われ、オーストラリア・ムシュ島で終身刑を宣告されて服役しました。
中将はその地で、一緒に拘留された部下8名の判決が下るのを見極め、昭和22年9月17日に自決して果てました。
その遺書はWikiから引用しますと、
「…少官は、皇国興廃の関頭に立ちて、(中略)人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致し候。之に対し、黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むるとき、君国の為とは申しながら、其断腸の思いは、唯神のみぞ知ると存候。当時、小官の心中、堅く誓いし処は、必ず之等若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、縦令、凱陣の場合と雖も渝らじとのことに有之候…」
決して怯懦・無責任な指揮官では無い事がお判りいただけると思います。
この遺書を受け取ったのは、収容所で同室だった今村均大将です。
どうすべきだったのか?
竹永正治中佐の降伏は、日本軍内では非常に不名誉な行為とみなされたようです。
戦後になってさえ「不名誉」との評価です。
防衛庁編纂の「戦史叢書」でも指揮官名を伏せて『第四十一師団ニューギニア作戦史』(第四一師団関係者の記録した部隊史)から引用されています。
「不名誉」の生還を果たした竹永中佐は、現場作業員として民間企業に勤務し、昭和42年に病死されました。
私にはこの事件をどう評価してよいモノか、どうにも判断しかねているのです。
ただ、戦後も竹永中佐に好意的な評価が殆ど無いのが気に喰いません。
彼の指揮下にあった第二大隊50名の生還率は84%にもなります。
第一八軍全体では20%程度の生還率が、です。
竹永中佐が42名の部下を「復興の戦士」として荒廃した帝国本土に連れ帰った事は、もっと評価してあげるべきではないでしょうか。
しかし、「戦史叢書」でもこの件を取り上げているものの、指揮官の名前は伏せてあります。いまだに我が皇軍は「合理的な降伏」を認めないんでしょうか?
ただ、一つの救いは連合国側からの宣伝でこの事実を確認した大日本帝国は、国内ではこれを報道していない、ということです。
一般国民に知らせないだけでなく、降伏した竹永少佐の留守家族にも不利な取り扱いをした形跡がありません(私が知らないだけかも知れませんが)。
日露戦争では、ロシアに捕虜となった兵士の家族に、連絡方法のレクチャーをしたほどの大日本帝国です。
本来は人道的で合理性の高い軍隊だったはずだ、と思っています。
日露戦争の捕虜についてはこちらの記事で。この記事、私的には良く調べて書いた、と自信があるんですが、人気は今一つ(笑)。