小型巡洋艦ケーニヒスブルクのねばり強き戦いその2
前回は小型ながら、よく動き回って通商破壊を続けた「ケーニヒスブルク」が、敵巡洋艦を撃沈する殊勲を上げた所まででした。
殊勲と不幸が
しかしザンジバル港から脱出して外洋へ出た直後、大きな不幸が小型巡洋艦ケーニヒスブルクを襲います。
主エンジンのピストンロッドが破損してしまったのです。
速度の出なくなったケーニヒスブルクは、外洋で戦う計画を放棄してルフィジ・デルタに隠れることにしました。
ケーニヒスブルクは軍艦旗を降ろし、迷彩を施しました。
小火器は取り外して陸揚げし、上陸部隊を編成して哨戒線を張ります。
動けなくなっても、ルーフ艦長は「戦争」を諦めてはいなかったのです。
一方の英国はザンジバル港が襲撃された事でインド・極東とヨーロッパをつなぐ交通線が脅かされていることに気がつきました。
「ペガサス」をやられた直後、5400トン級の巡洋艦「チャザム」「ウェイマス」「ダートマス」の3隻を派遣してケーニヒスブルクを退治することにしました。
しかし、デルタに潜り込んだケーニヒスブルクを容易には発見できません。
英国側はケーニヒスブルクがインド洋を徘徊していると思っていましたから、これも当たり前のことでした。
見つかる
しかし、ケーニヒスブルクにとってまたしても不幸な事件が起こります。
ケーニヒスブルクとしては対処のしようも無いところで。
巡洋艦3隻による捜索が続く10月20日、イギリス軍はドイツの汽船「プラシデント」を拿捕してその船内から石炭の発注書を発見したのです。
ルフィジ・デルタから注文されたものでした。
直ちに「チャザム」はルフィジ・デルタに向かい、偵察部隊を上陸させました。
チャザムから偵察に出たイギリス水兵は木に登り、ケーニヒスブルクを発見します。
「チャザム 」は「ダートマス」と「ウェイマス」を急ぎ呼び寄せてルフィジ川河口の封鎖作戦をはじめました。
11月2日からイギリスの3艦は遠距離射撃を開始します。
ケーニヒスベルグに命中弾はありませんでしたが、石炭船ソマリに数弾が命中、撃沈されてしまいました。11月9日のことです。
ソマリを喪失したことでケーニヒスブルクが石炭を得ることは不可能になり、外洋へ出る望みは絶たれました。
さらに英軍は河口に廃船を沈め、封鎖にダメを押します。
にらみ合い
この時点から8ヶ月に及ぶ長いにらみ合いが始まりました。
英艦は水路が判らずデルタに突入することが出来ません。
ケーニヒスブルクに石炭が無いことも判りませんから、封鎖を解くワケにもいきません。
翌1915年1月1日、英艦は
「謹賀新年。すぐお目にかかれることを楽しみにしています。」
と新年の嫌味な挨拶を送りました。
ケーニヒスブルクも負けていません。ルーフ艦長は
「ありがとう。こちらも新年の挨拶を贈ります。もし我等と面会をご希望なら、いつも此処におります。」
と挑発を返したそうです。
1915年4月、ドイツは「ルーベンス」という汽船をデンマーク船に偽装させてルフィジ・デルタに派遣しました。
ルーベンスは武器・弾薬、石炭、被服などを満載していましたが、英防護巡ヒヤシンスに捕捉され、ケーニヒスブルク救援は失敗してしまいました。
そろそろ焦れてきたイギリス海軍は6月、モニター(河用砲艦)の派遣を決定します。
モニターは喫水が極端に浅くて外洋の航海など出来ないのが常識ですが、さすがロイヤル・ネービー。砲艦「マーシー」と「セバーン」を本国から回航、ついにルフィジ・デルタに現れました。
最後
事前に新兵器の飛行機でケーニヒスブルクの位置を偵察した上で、7月6日マーシーとセバーンはルフィジ・デルタに突入。
距離10600ヤード(約1万メートル)から砲撃を開始します。
ケーニヒスブルクも応戦します。
英艦は2隻で合計635発撃ち、3発を命中させましたが被害も大きく、セバーンだけで6発の命中弾を貰って引き上げざるを得ませんでした。
5日後の7月11日、英艦は攻撃を再開しました。
ケーニヒスブルクも応戦したのですが、今回は位置も既に確認されて英艦の照準が正確でした。
その上ケーニヒスブルクには残弾が乏しく、十分な応射が出来ません。
砲撃数時間、ついにケーニヒスブルクは火災を起こし、総員退去の指示が出されました。
その後ドイツ人たちはケーニヒスブルクから使用可能な砲を回収し、大口径砲はダルエスサラームの沿岸砲として活用しました。
小口径砲は移動用の車輪が付けられ、独領東アフリカの戦いで重砲として使われました。
ケーニヒスブルクの乗組員はドイツを出発したとき350人でしたが、そのうち生きてドイツに帰れたのは15人に過ぎませんでした。
そのなかにルーフ艦長が含まれていました。
ケーニヒスブルクのドイツ海軍旗は今もルーフ家に残されているそうです。
通商破壊とフリート・ビーイング
ケーニヒスブルクの戦果はお読みいただいたように大きなものではありません。
しかし、動けなくなってから8ヶ月もの間、少なくとも3隻の巡洋艦を主戦場の大西洋や地中海から引き剥がした功績は評価しなければいけないと思います。
諦めず、粘り強く戦うことこそ、通商破壊ばかりでは無く、フリート・ビーイング策をも成功に導きます。また、通商破壊が島国にとって、どれほどイヤな事かも、知っておくべきでしょう。
独逸海軍はヴェルサイユ条約下の厳しい軍備の制限の中で、「K級巡洋艦」を整備し、ネームシップを「ケーニヒスブルク(3代目)」と名付けて先代の奮戦に報いました。
ただ、この3代目ケーニヒスブルク級がちょっとした「変態艦」になってしまった、と言うオチはまた別のお話といたしましょう。
ケーニヒスブルクを知っていただき、一人でもドイツ巡洋艦のファンが増えますように。