明治初期の横浜浮世絵に描かれた蒸気戦列艦に関する若干の考察-6

-三代広重「横浜海岸鉄道蒸気車図」とフランス軍艦「ブルターニュ」-

6.三代広重の情報入手経路と欧州軍事情勢

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三代広重は外国船を比較的詳細に描いた作品を1870年代に4つ制作しているが、そのうち3つまでもが10年以上遡る1858年8月のILN紙のイラストを援用したものである。
(残る1つは貞秀の作品からの剽窃 本稿3節参照)
このことは、原画の入手経路を考察する上で非常に重要であるため、一作品ずつ確認しておきたい。

本稿の主題である「横浜海岸鉄道蒸気車図」(1874年)では、既に述べたように画面左側の蒸気戦列艦が8月21日付のILN紙のイラストから描き写されたものであるのに加え、中央の緑の船は8月8日付(原画を見るとこれも戦列艦である)、その右の黒い蒸気船は8月14日付の同紙のイラストを写したものである。

 

続いて、「横浜海岸鉄道蒸気車図」と同年の作である「横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図」については、画面左側の英国旗を掲げた後ろ向きの戦列艦と、右端の小型外輪船の双方を、8月14日付のILN紙のイラストに見出すことが出来る。

 

 

また、1872年に制作された「横浜海岸通り之真景」においては、8月21日付の紙面に掲載されたイラストが援用されている。

 

 

以上の事実より、三代広重は1858年8月8日付、14日付および21日付のILN紙をある程度まとまった形で入手し、活用していたことが明らかとなった。

これは、非常に示唆に富む結果であると言えよう。もしこれらが単なる古新聞としか見做されない代物であったならば、10年以上も残り続ける筈もないからである。
唯一考えられるのは、第三者が資料として保管し、何らかの理由で放出したものを手にした、という状況であろう。

そこで重要になるのが記事の内容である。
当時、ILN紙は毎週土曜に発行されていた。つまり、1858年8月8日付から21日付の新聞は連続しているのだが、いずれも目玉記事は英国のヴィクトリア女王を招いてフランス皇帝ナポレオン三世がシェルブール軍港で行った大規模な観艦式なのだ。
広重三代が用いたイラストは、全てがその式典に関するものに他ならない。

ここで、当該の観艦式について若干の補足説明を試みたい。
本稿2節で触れたように、1850年代の英仏は蒸気戦列艦の建造において、激しい角逐を繰り広げていた。そして他ならぬ1858年、フランスの保有数は対英8割(英国50隻、フランス40隻)に達し、海上覇権国家である英国は危機感を募らせていたのである。この年、英国海軍本部は、両国間の軍事バランスが脅かされているとの見解を得るに至った。加えて、新兵器である装甲艦「グロワール」の建造や、ブリテン島の対岸に位置する軍港シェルブールの拡張は、英国の世論を大いに刺激したのである。
しかしながらフランスは、英国を凌ぐ大艦隊を建設しグローバルな海洋覇権を手にしようという思惑など、初めから持ち合わせてはいなかった。同国は、英国を過度に刺激しない範囲でその海軍に対し抑止力となりうる戦力を欲していたのであり、その結果、規模より質を重視する方針を採っていた。蒸気戦列艦や航洋型装甲艦の建造においてライバルに先行したのはその顕著な表れであるが、そのような海軍近代化の努力も英国への配慮のため常に全力が傾注されていた訳ではない。海軍の工業的・技術的側面を重視し、その近代化に熱心であった皇帝ナポレオン三世でさえ、1856年に提出された所謂「アムラン報告」-現有の英国海軍の約5割の規模の艦隊を1859年末までに整備しようとしたもの-に対し、これが英国を刺激するものでないかをまず心配した程である。

*フランス皇帝ナポレオン三世

フランスは、従って現下の軍備増強がパクス・ブリタニカの打破を意図するものではないことを示す必要があり、そのための具体策として観艦式を実施し、ヴィクトリア女王と英国政府および軍の高官を招いて自国の艦隊と軍港を直に見せることで、英国側の懸念を払拭しようとしたのであるが、これは却って裏目に出た。新造艦と拡張されたシェルブール港を目の当たりにした英国側は、不信感を一層募らせたのである。英国が海洋覇権を失いつつあると感じたヴィクトリア女王は、フランスから戻ると直ちに海軍本部へ軍備が十分であるかを問うたが、これに対する回答は艦隊の飛躍的な増強が必要というものであった。装甲艦を擁するフランス海軍が木造の英国艦隊を粉砕するのではないかという不安が広まり、結果としてこの観艦式は英仏間の装甲艦建造競争の端緒となったのである。

*英女王ヴィクトリア

ILN紙の記事は式典の様子などが中心で、英仏両国間に存在した潜在的な緊張について表立った記述は見られないが、掲載されたイラストの数々はフランス海軍の威容を雄弁に物語っている。
例えば広重三代が「横浜海岸鉄道蒸気車図」に援用したそれは、世界最大級の巨艦であるフランス艦隊旗艦ブルターニュに座乗するナポレオン三世に会見すべく、ヴィクトリア女王が同艦に乗艦するシーンを描いたものであった。

*シェルブールに集結したフランス艦隊

*ヴィクトリア女王を迎える仏戦列艦ブルターニュ

また、「横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図」右側に描き写された小型船は、英国の女王をフランスまで乗せた王室ヨット、「ヴィクトリア・アンド・アルバート」号に他ならない。もとになったイラストは、同船がまさにシェルブール港に入港しようとする一幕を鮮やかに切り取ったものである。

*英国王室ヨット ヴィクトリア・アンド・アルバート

以上から筆者は、三代広重が浮世絵制作に用いた新聞は、英国の海軍軍人や外交官、或いはそれと密接に結びついていた貿易商によって保管されていたのではないかと推測する。
なんとなれば、強力なフランス海軍は英国の海上覇権に対する最大の脅威であり、植民地経営や海外との貿易へも大きな影響を与えるため、これらの人々がその一挙手一投足を注視していたと考えるのは全く不自然ではないからである。
観艦式を行ったフランスの意図を英国が正しく汲み取れず、これを自国の海軍力に対する挑戦の表明と受け取ったのならば、彼らにとってILN紙の記事は長期間保存するに足る資料的な価値を持つであろう。

だが、そのまま死蔵されれば、広重は件の浮世絵群を制作することはできなかったであろう。ある段階で、ILN紙は本来の持ち主の手を離れたのである。
それはいつか?
おそらく、1870年代初頭であろう。この時期、欧州情勢は大きな転換点を迎えていた。西欧最強の陸軍国を自任していたフランスは、1870年に勃発した普仏戦争でドイツ諸邦連合軍に惨敗、その国力は大きく削ぎ落とされたのである。

*パリを包囲するプロイセン兵

海軍力の整備に積極的であったナポレオン三世は敗戦により失脚し、新たに成立した共和政府はドイツに奪われた領土回復ため、陸軍の再建を優先事項とした。かくて、フランスの海軍予算は大幅に減額され、加えて青年学派の台頭により海軍軍備の主眼は航洋型の大型装甲艦から沿岸防備用の水雷艇に転換される。以後、仏海軍は恒久的に英国海軍の脅威とはなり得なくなった。
ここに至って、保存されたILN紙の記事はその役割を終えたのではないか。
三代広重が1872年に「横浜海岸通り之真景」を制作しているのは、そのことを強く示唆しているように思われる。
但し、この仮説に立つ場合、三代広重が如何にして放出された新聞を手にしたかは、未だ定かでない。

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